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3月7日
常盤義伸編,酒井懋訳『鈴木大拙最終講義 禅八講』(角川選書,2013)
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鈴木大拙といえば、禅を欧米に本格的に紹介した人物として知られる。しかも、杉村楚人冠の評伝『七花八裂』などを読むと、大拙と楚人冠とが鎌倉円覚寺の参禅を通じて昵懇であったこともわかっている。ほんとうは基礎知識としても、大拙の全集のいくつかぐらいは、一応は目を通しておくべきだったのだが、つい哲学には腰が引けて敬遠してきた。
本書は大拙の最晩年のアメリカでの講演草稿8編。冒頭本書の「発刊の辞」のなかには、欧米が禅に関心を持つようになったのは「わしが英語で禅のことを書き出したといふ、そいつがまあ端緒になるでせうね」と、大拙の自負が引用されていた。「この際読んでおこうか」と、野次馬根性でやっとその気になって、今回借り出してきた。
本書は二部構成になっている。第一部を開くとタイトルが「最終講義」となっていた。副題は「禅は人々を、不可得という仕方で自証する自己に目覚めさせる
Zen opens our Eyes to the self which is altogether Unattainaly Attainable.」
大拙が聴衆に語りかける。「〜誰しも身体のことは知っていようが、心に関してはそれがある種の中枢分泌のような生理学上の実体でないことは、疑いない。おそらくそれは、・・・脳の働きのある種の随伴現象と定義できる。・・・科学者の間ではこの種の仮説が数多くあるだろう。しかし、これらの分析的・科学的説明では説明できない一事がある。それは、運動や働きなどが客観的には強制によるものだとか、いわゆる自由意思に反するものとみられる時でも、確かな自由の感覚があることである。この確かさの感覚、あるいは意識はどこから来るのであろうか」。(p.15-16)
大拙の講義を聞きなれた学生が多いのかもしれないが、私のような哲学初歩のレベルでは、一読しただけでは問いかけそのものが意味をなさず、十分理解できなかった。
仏教が取り上げる自我について、その意味をまず述べているわけだが、残念ながら当方は問いかけられた「不可得」の意味もわかっていなかったので、いちいち辞書検索が必要だった。(*不可得:仏語。求めようとしても得られないこと。すべての存在は空であって、固定的なものは何も得られないということ。)
じつを言うと、英文を和訳した文章のほうがわかりやすくなる場合もあるので、そんな下心もあって本書を読みだしたのだが、それでも読み通すのになかなか骨が折れた、というのが率直な感想です。
そこで序文や解説の親切なガイダンスに従い、比較的わかりやすい第二部から読み直すことにした。解説者も次のように勧めてくれている。「第一部がわかりにくくて、挫折しそうであれば、第二部から読むのがよい。第二部のほうは、禅を知らないアメリカの聴衆に、心理学と比較したり、俳句から説いたり、倫理との関係や神秘主義という観点を提示するなど、極めて明快に、現代人にわかりやすく説かれている・・・」と。なお、第二部は、当時大拙の講演を直接聴いた人々以外には、全く知られていなかったものだという。
だからというわけではないが、大拙の草稿につける訳者の注釈が具体的で理解しやすく、いちいち内容には触れないが、注釈を読むのがけっこう楽しかった。
なお本書の第二部は、「鈴木大拙、禅の世界を語る」とのタイトルがつけられている。内容は以下の通り。
序 章 仏教とは何か
第1章 禅と心理学
第2章 禅仏教と芸術
第3章 禅仏教の戒に生きる
第4章 仏教と倫理
第5章 仏教の神秘主義
第6章 禅仏教の哲学
*訳注によれば、第二部の序章として「仏教とは何か」についての大拙の考えが29項目あげられている。これらは大拙のアメリカでの講演活動の総括にあたるようだ。今後の参考になった。(p.79-80)
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図書館貸し出し書籍の限界は、繰り返し読み返すということができないこと。今回は少し、古書店巡りをしてもいいかなと考え中。
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ネットでこうしたコメントに出会えること自体が何だかうれしいですね。
2017/12/1(金) 午後 5:50 [ 谷山美生 ]