阿蒙のつぶやき

精神満腹 。器量を広げたいと願うなら、目の前のことをとことん命がけでやることだ(鉄舟山岡鉄太郎)

阿蒙のミカタ

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皇后美智子様?

430()番外編
  ところで、多摩六都館から帰ってTVを点けると、平成の終わりを告げる今上陛下の退位礼前後のご様子をやっていました。NHKをはじめ、各局をザッピングしてみると、どのTV局も判で押したように、お二人を「天皇陛下、皇后美智子さま」と言っています。
 
  本来は、呼びかけたり、ご紹介する場合は、「天皇、皇后、両陛下」あるいは、「天皇陛下、皇后陛下」とするのが正式だと思うのですが、なぜ、皇后だけ「陛下」をつけず「皇后美智子様」なのだろう。「退位礼」という正式な式典のときぐらい、きちんと正式な呼称で呼びかけてほしいと思うのです。
 
  わたしはとくに右翼でも、旧弊な「皇室様様」の人物でもありませんが、正式の言葉を教える機会は残しておく方がよいと考える規範派なんです。正式な言葉を知っていて略式にすることはいつでもできますが、失われた知識は戻ってきませんよね。
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  言霊(ことだま)の国日本を大切にしようと思う阿蒙です。

タルムード

412()
  豚を食べることを禁じられ、触ることも嫌悪するように訓えられてきたユダヤ人。キリスト教社会にあっては、彼ら自身がその豚同様に蔑まれ、揶揄われ、差別を受けてきました。しかし彼らは、携帯する故郷(すなわち聖書)のみを拠り所に、タルムード(talmud:ユダヤ教の口伝律法などの聖典)をベースにして子弟の教育を重視する勤勉な人々でした。
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  ユダヤ教の教えである「神に選ばれた」とする選民思想にたいする反感やら、キリスト教と違って、逆に布教を重視していないユダヤ教が、簡単には信者になれなかったこともあり、比較的裕福なユダヤ人にたいする、羨ましさも含んでいたであろう反感とで、貧民たちの多い地域住民のユダヤ人迫害は収まるところを知らなかった。ユニークな割礼の習慣なども生活習慣の違いとしてあげつらう材料になったはず。「ユダヤ人と豚の腹は彼らが死んだ時にしか大事にされない」ということわざもあったといいます。
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  先般来、南フランスの農山村地帯の民話、口誦、伝説、神話が満載の著作(クロディーヌ・ファーブル=ヴァサス著『豚の文化誌』)を読んでみて、キリスト教徒が豚を食しながら、なぜ豚を侮辱の対象とし、なぜ豚肉をタブーとするユダヤ人を豚呼ばわりして軽蔑するのか、当時の一般のヨーロッパ人とユダヤ人の知性の比較、キリスト教の教会の際立つ不寛容さといったことが目に付いて仕方がありませんでした。

  ネットを検索していると、いろいろな背景を持った日本人のブログや投稿が目に入りました。概してユダヤ人に好意的です。なかにはひろい知見を備えたと思しき方もお見えでした。最後に、こうした方々が必ず触れている、教育熱心なユダヤ人の格言を引用させてもらい、ご紹介して本稿を閉じることにします。勉強になりました。
===
タルムード(Talmudユダヤの格言
タルムード(「研究」)は、モーセが伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群。6部構成、63編から成り、ラビ(rabbi:導師)の教えを中心とした現代のユダヤ教の主要教派の多くが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活・信仰の基となっている。

             =ユダヤの格言より=     
1  自分より賢い人がいるときは沈黙。
人の話の腰を折らない。 
答えるときにあわてない.
常に的を射た質問をし、筋道だった答えをする。
まずしなければならないことから手を付け、後回しにできるものは最後にする。 
自分が知らないときはそれを認める。
真実を認める。 

    <知識について>
1 知識は水に似ている。高いところから低いところへ流れる。
人が生きている限り、奪うことが出来ないものがある。それは知識である。 
3  耳と耳の間に、最大の資産がある。 
4  あなたが知識を増やさないということは、実は知識を減らしていることになる。
知識は浅いとすぐ失われる。 

    <勉強について>
1  一日勉強しなければ、それを取り戻すのに二日かかる。 
恥ずかしがる人は、よい生徒にはなれない。人はどん欲に学ばなければならな
  い 
学んだことを復習するのは、覚えるためではない。何回も復習するうちに、新し
  い発見があるからだ。
1つの庭を手入れするほうが、多くの庭を持ってほったらかしにするよりはよい。
  1つの庭を持つ人は鳥を食べることができるが、多くの庭を持つ人は鳥に食べら
  れてしまう。
5 最も大切な事は、学習ではなく、実行である。 
出逢った人すべてから、何かを学べる人が最も賢い。 
偉人を過大に評価してはならない。同じように、小人を過小に評価してはならない。 
8  私たちは権威ある先人たちの教えから多くのことを学ぶべきだが、といって背に 
    大量の本を積んだロバになってはならない。 
9  自分の肩書きを人に教えようとする人間は、すでに自分の人格を傷つけている。
10 知者が間違うときは、恐ろしいほど根本的に間違う。 
11 善と悪を区別できるだけでは、まだ賢者とは言えない。二つの悪の中から小さ
  い方の悪を選ぶことができる者が賢者である。 
12 人間は、20年かかって覚えたことを、 2年で忘れることができる。 

    <教育について>
子供は幼いときは厳しく叱り、大きくなったら叱るな。
幼い子供は厳しく躾けるべきだが、子供が怯えるようなことがあってはならない。 
子供は、両親が家で話すことを街でしゃべる。 
子供は、両親の話し方をまねる。性格はその話し方で解る。 
自分のことだけ考えている人間は、自分である資格すらない。
6  豊かな人とは自分の持っているもので、満足できる人のことである。 
人を賞賛できる人こそ、本当に誉れ高き人である。   
真に貧しい者としてとどまっているのは、知性のない者だけ。 
自分が相手と同じ立場に立ったことがないのなら、その相手を批判する資格
  あなたにはない。 
10 どんな質問でも、必ずしも答える価値があるとは限らない。 
11 ヤギには前から近づかない。馬には後から近づかない。愚か者にはどの角度
  からも近づかない事だ。 

    <勇気>
何も打つ手がないときにも、ひとつだけ必ず打つ手がある。それは、勇気を持
  ことである。 
失敗を恐れる方が、失敗を犯すよりも悪い。 
自分より賢い者に負ける方が、自分より愚かな者に勝つよりも得だ。 
相手の立場に立たないで、人を判断するな。 
もしあなたの周囲に傑出した人がいないなら、あなたがならなければならない。 
自分の力ではどうにもならないことは、心配するな。 神は超えられない試練を
  人には与えない。

復活祭が近づいてきた

326()
  まもなくキリスト教の年間の大行事、イースター(復活祭)がやってきます。2019年の今年は、4/21の日曜日が復活祭の日に当たるようです。

  今まで考えたこともなかったのですが、最近ヨーロッパの民俗学に関心が出てきて、復活祭とはどういうものか、一応気になったので、ネットで検索してみました。
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  イエスが十字架上で処刑されて3日目に復活を遂げたことを祝って、設けられたのが復活祭。春分の日が動くために、教会としては決めておきたかったんでしょうね。

  古代キリスト教の時代、“A.D.325年”に開かれたニカイア公会議で、教会暦としての決め方が決まったと言います。「イースター(復活祭)は、春分の日を過ぎて、最初の満月の次の日曜日とする」というものです。

  実暦では春分の日は3/20の年と3/21の年があり、複雑になりますので、教会の定める暦として春分の日は3/21と決めました。これが教会暦です。今年2019年の春分の日は3/21(木)。しかも、たまたま今年は3/21が満月でしたので、それを過ぎて次の最初の満月に相当する日は4/20(土)。したがってその後の最初の日曜日が4/21(日)というわけです。合ってたかな?
===
  すでに、街中のお菓子屋さんや玩具屋さん、コンビニやスーパーの店頭などには、生命の誕生と復活を象徴するイースターの卵などのシンボルのお菓子商材がずらりと並び、イースター商戦真っ盛り。商魂逞しいというか、話題起こしの賑やかさがお祭り騒ぎにでもなってくれれば、もっけの幸いといったところです。

  ただ、一神教であるキリスト教やユダヤ教の、まじめな信仰の対象であるべきイベントを、日本人のようにお遊びや商戦の素材としてだけ利用されるのは、信仰心の篤い信者にとって納得いかないでしょうね。

  一神教の信仰者にとっては、自分たちの信仰が唯一絶対だとしているわけですから、日本人は無信心で信仰心を持たない民族であると、勘違いされてしまう。じつは唯一絶対の神にではなく、森羅万象すべてに神威を感じ、手を合わせることのできる倫理観をもつ日本人は、ドナルド・キーンさんやトレヴァー・レゲットさんらが見抜いたように、信仰心が薄いのではなく、どの宗教に対しても敬意を持って宥和的にふるまうことのできる、実利的な徳性をもった民族であって、特定宗教にのみ肩入れすることがないだけなのだと考えることができます。

  それらは、儒教によって培われた倫理・道徳、そして感謝の念を以て相手と対峙する武道の「残心」の心がけ、また舞踊・華道・茶道などの稽古事では、しぐさや手順の隅々に気を配ることをも「残心」と称する、日本人特有のこまやかな心遣いの有り様がそうさせるのだと思います。

  世代が代わっても、日本が民主主義国家でいるかぎりは、前提として国民一人ひとりの資質の向上は常に求められるものです。
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 最近、政治家を始め社会の各方面に顕れてくる日本人の心性・品性が、多少劣化してきたような気がしてなりません。阿蒙の僻目だけならいいのですが、どうなんでしょう。
1225()  
  近年は1年がやたら早く過ぎ去ってしまうように感じられてならない。後期高齢者ともなると、保険制度や運転免許証など、自らのライフステージを意識させる仕組みが嫌というほど世の中に存在し、自分に残された日々が限りあることを意識せざるを得ない。
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  ことし日本漢字能力検定協会が発表した漢字は「災」だった。たしかに、大阪の地震や西日本各地の豪雨災害はひどかった。2位は平等・平和の「平」だそうだ。

  わたしにとって、ことし思いを深くした漢字は、一字ではないが「残心」という漢字だった。「残心」とは、武道および芸道で用いられる言葉で、心が途切れないということを意味する。

  武道では、技を決めた後も心身ともに油断をしないことである。油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得る。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心である。武道全般において強調される心がけといえる。

  とくに剣道においては、残心がなければ技が正確に決まっても有効打突にならない。試合において一本取った事を喜ぶ様(ガッツポーズなど)が見受けられれば、奢り高ぶっていて残心が無いとみなされ、一本を取り消される事がある。

    先日TVを観ていたら、実際に試合において打突後小さくガッツポーズをしたとたん、判定を取り消された選手がいた。残心の心がけを知らなかったその選手は理由がわからず、狼狽えていた。スポーツと武道とは違うという好例だろう。いま海外で日本の武道が高い評価を受けるポイントでもある。
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  生活の中での残心としては、襖や障子を閉め忘れたり乱暴に扱ったり、また技術職の徒弟で後片付けなどを怠ると「残心がない」や「残心が出来ていない」といって躾けとして用いられる。

  海外事情紹介番組によると、先日は日本の学校教育、とくに授業後の清掃を自分たちで行うしつけが高く評価され、エジプトの学校教育に広く取り入れられつつあるという現状が報告されていた。いま関心を持つ国も多いという。これなども、まさしく典型的な「残心」にほかならない。
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  わたしが従事する学校施設管理の現場でも、クラブ活動で使用した什器備品のかたづけなどの不備や、どうせだれかがすぐ利用するだろうと、利用した門扉を開けたままにして出て行ってしまうといった現場を目撃することがよくあり、そんなとき思わず「残心がないよなー」とつぶやいてしまう。自分にとっては、遠い昔、少年時代に稽古を通じて自然に身についた感覚だった。

  「誠」と「真鋭」は、古来からの武士道精神の原点だという。「真鋭(しんえい)」とは、正々堂々と道に則った正しさを追求するということ。たたかいというのは、ただ勝てばいいのではない、ズルして勝つのではなく、正々堂々と戦うべきであるとする心の持ちようを言う。
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  これからは土台がしっかりしているかが問われる時代だと言います。向上心に富んだ剛毅な精神が大切にされる時代です。高度経済成長期には、何よりもフローに勢いがありましたが、これからはストック重視の時代ということですかね。いまはこういったことを説いても、以前のように反発を受けることが少なくなったような気がしています。
参考:家村和幸著『闘戦経』(並木書房,第3版,2016年)
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  フランスのマクロン大統領は大戦終結の式典スピーチで、「古い悪魔が再び目覚めつつある」と近年のナショナリズム台頭への強い警告を紹介している。

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日経11月13日朝刊1面「春秋」

  かつてド・ゴールはこう言ったという。「愛国者は自国民への愛を優先するのに対し、民族主義者は他国の人への憎しみを優先する」、と。
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  「国を愛すること」と、いわゆる「ナショナリズム」との違いは曖昧だ。E.ゲルナーによれば、ナショナリズムとは、「政治的な単位と文化的、あるいは民族的な単位を一致させようとする、思想や運動」であるという。

  これには、自国の国益を保護するために他国に対し高圧的・強圧的態度を採り、脅迫や武力行使を行なうこと(=戦争)も厭わない、とする不穏で排外的な考え方は除外されている。
 
  ましてや、ド・ゴールが言うような、他国の人への憎しみを優先するなどという考え方は、戦争当事国同士の感情であって、ナショナリズムとは似て非なるショーヴィニズムとかジンゴイズムともいうべき範疇であろうと思う。
 
  19世紀末葉から20世紀初頭にかけて、世界は大国の帝国主義に加え、反ユダヤ、黄禍論、白人至上の白豪主義など、人種差別が激しい時代であった。
 
  現代のナショナリズムの諸現象は、宗教紛争や経済格差に絡む国際紛争に加え、それらが引き起こす難民や新たな移民問題などで、どうやらまた当時と同じような、きな臭い様相を呈してきているように見える、と識者は言う。
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  日本人は明治以後、国際的に一人前であると認知されたい、世界から愛されたいと念願しつづけてきた。

  国際連盟発足当時、日本は移民問題などで米国の排日移民法などの激しい人種差別に苦しみながらも、国際連盟の憲章に人種差別撤廃を入れようと働きかけ、多くの発展途上国から感謝された実績もある。
 
  国際的に日本がどう評価されているかが気になる、その国民性は、今日でも変わっていないようだ。

  たとえばTVなどでは、「無名ではあっても、世界の各地に有用な日本出身の人材がどれだけ活躍しているか、そして日本人がどのように評価されているか見てこよう」といった類の取材番組が満ち溢れている。
 
  そんな日本がいままさに遭遇しつつあるのが、労働力不足に悩む現状であり、このため大量移民の受け入れは、避けては通れない現状のようだ。第2次大戦後の日本としては初めての経験領域である。

  どのようにうまくそれに対処すればよいか、が喫緊の課題となっている。欧米などのように、大量移民を受け入れた結果、多民族国家となって様々な苦労を背負いこんだ悪夢の先例もあり、これらを他山の石として、異文化に対する包容力に富みながらも、日本固有の文化を維持し、かつ国益を守るという、まさに良質のナショナリズムを考える時代がやってきた、といえるのではなかろうか。

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