阿蒙のつぶやき

精神満腹 。器量を広げたいと願うなら、目の前のことをとことん命がけでやることだ(鉄舟山岡鉄太郎)

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425(木)
読んだ本:今野敏著『男たちのワイングラス』(実業之日本文庫,2018.6.15
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  本書のジャンルはなんというのでしょう? とにかく1話完結の連作短編です。原著は1989年に刊行されていますから、今野敏ファンならとっくに読んでいるでしょうね。わたしは今野作品をTVドラマ『隠蔽捜査』で知ってから、面白いなと今野作品を読むようになりました。一服の清涼剤として、時に手に取るようにしています。
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  主人公の<私>は30歳代そこそこで、茶道相山流の若師匠。しかし実は知る人ぞ知る武道の達人という設定です。実家はもともと剣術の道場。曽祖父が大陸に従軍した際に中国拳法と出会い、中国武術の奥義を体得して帰国した。帰国後は元からの剣術に加えて、大東流合気柔術、沖縄空手も学び、ついには独自の拳法を練り上げ、一子相伝の秘技として代々これを伝えてきた。  
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  祖父は天才的な達人、父も達人だったが、武術家の嗜みとして茶の湯にも親しんでいた。ある時鎌倉にある相山流の門を叩いてから、この武人の茶の流派にすっかり心酔し、相山流茶道の道場として看板を掛け換えてしまった。だが、一子相伝の秘技は、四代目の<私>にもしっかりと伝わっている、という設定である。

  今野作品は「警察小説」の面白さに加え、『奏者水滸伝』や『聖拳伝説』『秘拳水滸伝』など、ユニークなテーマ設定が面白い。さらに、彼の描く主人公にはすべて、「筋目」とか「義」を通す清々しさが備わっているようです。
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  じつは、本作を読もうと図書館で予約をしたのが昨年の11月。なんと300人ほどが先約で待っていたので、驚きました。思い立ったらすぐ読みたいものですが、ブックオフなどで買うと、すぐ溜まってしまうので、とにかく気にしないようにして放っておきました。きょうは4回目の抗癌剤治療で9日間の入院から出てきたところですが、昼前、図書館からメールで「貸し出しの用意ができています」との連絡が。なんと5か月かかったわけです。早速取りに行って、午後は一気に読み終えてしまいました。

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豚はなぜ嫌われるのか

4月6日()
  全ての家畜の中で、豚は、植物を肉に換える速度と効率で、最も大きい潜在能力を持っている。豚は、餌に含まれるエネルギーの35%を肉に換えることができる。これに比べて、羊は13%、牛にいたってはわずか6.5%に過ぎない。雌豚は、受胎後4か月以下で8匹以上の子豚を産め、子豚もその後6か月で400ポンド(約181.4kg)を超える。(ハリス『食と文化の謎』)
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  では、なぜ、古代イスラエルの神は、ひとびとに豚肉を賞味すること、いやそれどころか、豚に触れることさえ禁じたのだろうか(旧約聖書レビ記)。

  12世紀に、エジプトのイスラム王朝サラディン王に仕えた宮廷医マイモニデスは、「律法が豚肉を禁じている第一の理由は、その習性と食べ物がきわめて汚く不潔であるという豚の生態にある」と、豚とそれを食べるキリスト教徒に対して、激しい嫌悪感を抱いていた。「もし律法がエジプト人とユダヤ人に豚を飼うのを許したら、カイロの街と家はヨーロッパのように不潔になってしまうだろう、豚の口はその糞と同じくらい汚いから」というのである。(ハリス『食と文化の謎』)

  しかしそれは物事の一面でしかない。実際のところ、それは飼い方の問題である。豚は塊根、堅果、穀物を最も好み、またその場合によく育つのであって排泄物を食べるのは、他に最もよいものがないときだけである。(同

  それから700年後、1859年に豚肉忌避に関するマイモニデスの公衆衛生理論が科学的正当性らしきものを獲得する事由が起こった。寄生虫の繊毛虫と生の豚肉の関係が医学的に初めて立証された。そしてそれ以来、そのことが、ユダヤ教とイスラム教の豚肉タブーに関するもっともポピュラーな説明となった。(同)

  結局、豚肉忌避の寄生虫説は、19世紀になされた医学的な発見が数千年の昔に知られていた筈がないという理由で、ほとんど顧みられなくなった。(同)

  先に引用したように、豚は、転げまわることによって、皮膚からの蒸発作用と冷たい地面からの伝導作用で、熱を発散する。実験によると、泥の冷却効果は水よりまさっているという。横腹に泥を塗りたくった豚は、横腹をただ水で濡らしただけの豚に比べて、熱を発散する蒸発作用のピークが2倍以上の時間続く。体温が摂氏30度以上にあがると、きれいな泥たまりを取り上げられた豚は熱にやられるのを回避しようと、自分の糞便や尿の中で転げまわり始める。(同)

  中東で豚を飼うのは、反芻動物を飼うよりもずっとコストがかかる。人工的に影を作ってやり、泥だまり用の水を別に用意してやらなければならず、餌は人間自身が食べられる穀物その他の食物をやらなければならない。豚は、肉以外にほとんど役に立たない唯一の大型家畜である。(同)

  乾燥地帯の牧畜民はどれも豚を飼わないが、それは、豚を熱や太陽にさらされないよう守ってやるのが難しく、長距離のキャンプ間移動の間水が不足するからだ。
(同)
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  ハリスは、北アメリカとレヴァント地域で長年調査した人類学者のカールトン・クーンの説明を紹介する。すなわち、中東で豚が姿を消したのは森林破壊と人口増加のためだという。人口密度が増え、農耕地が増大し、カシとブナの森は作物のために伐採された。その結果、反芻動物の飼育には有利を、豚飼育には不利をもたらしていった。

  イスラエル人の豚の禁忌が、清浄な動物に関する信仰上の固定観念というよりは、むしろ、日常的な実際の環境条件に対する一つの反応であるという、環境生態学的見方を裏付けるというのが、ハリスの主張である。もちろん、ユダヤ人が豚を食べるキリスト教諸国内に広く分散したあとは、豚嫌忌は彼らの民族の「しるし」になった。先祖から受け継いだ豚を卑しむ考えを捨てなければならない理由などなかったのである。
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  土地を持てなかった彼らのヨーロッパにおける生活基盤は、農業ではなく手工業か商業にならざるを得なかった。それに、動物性食物はほかにたくさんあったから、豚肉を拒否しても、生態的あるいは経済的に何の害も受けなかった。                                                                                                                          (ここまで)

出典:
・マーヴィン・ハリス著,板橋作美訳『食と文化の謎』(岩波書店刊,20178刷)
参考:
・堀米庸三編『生活の世界史6―中世の森の中で』(河出書房新社,19812刷)
・クロディーヌ・ファーブル=ヴァサス著,宇京頼三訳『豚の文化誌』(柏書房刊,20013刷)
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43()
  前稿に続き、今回も『豚の文化誌』に関連した阿蒙のお勉強(ヨーロッパ篇)です。
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<ヨーロッパ人はどのように自然と向き合ってきたか?>
・中世ヨーロッパの気候風土を簡略に言うと、夏は乾燥し雨に乏しく、比較的気温が高くても雨が少ないので、植物はそれほど育たない。一方で、寒い冬には冷たい雨が降る。全体に、今日よりも暗くひんやりとし、ひっそりと静まり返っていた。気候のせいではない。巨大な原生林の樹海が、ヨーロッパを覆いつくしていたからである。

森は、長い間人間の生活集団と生活集団、村と村を分断してきた。緑の向こうは別の国であり、法と慣習が違い、言葉が違う別の世界であった。村も町も、その一つ一つが緑の海に浮かぶ島であった。17世紀末ですらこのような有様であった。

    このため元々「穀物栽培に不適な地域」で、同じ麦畑で毎年麦を連作できない。今でも牧場・牧草地としてしか利用できない農地が4080%を占める農牧社会であった。

<食事はどのようだったか?>
・昼時になると町の人たちは1日のうちでもっとも楽しい、そして重い食事をとった。ディナーが昼から夜に代わったのは、 電灯が家庭に入った20世紀初頭以来のことである。それ以前の高価な、そして暗いローソクの火の下では、調理もろくにできなかった。人々は日没前に早々と軽い夕食を済ませ、床に就くより仕方がなかった。
  こうした歴史的社会環境を背景に、今日でも日曜や祝祭日には昼に正餐をとり、あるいは一家親族うち揃い着飾って、レストランでご馳走を楽しむ家庭は多い。

中世ヨーロッパで人々がふだん食べていたのは、土地土地の肉、パン、葡萄酒、豌豆(エンドウマメ)と空豆(ソラマメ)であった。のちに豆類にとって代わったジャガイモがヨーロッパに入ってきたのは、1534年頃のスペインで、基本食料としてヨーロッパ諸地方に定着したのは、18世紀末のことだった。

・われわれはふつうヨーロッパを肉食の国と思い込んでおり、ことに中世ヨーロッパのように小麦の生産高が少なかった時代には、肉類が食物のうち最も大きな部分を占めていたと考えがちである。しかし人々が第一にたくさん食べたのはやはり穀類であり、小麦のパンこそが少なくとも1213世紀以来は「主食」だったようである。

概してフランスとイタリアでは昔から穀類を多くとり、これに対しドイツ、イギリスでは豆類(のちにはジャガイモ)に重点が置かれてきたようである。

・しかしながら、肉類の消費量も、時と所によっては相当なものであった。最もよく食べたのは、農家が飼育する上でもっとも手間のかからない羊であり、次いで豚であった。牛、仔牛は、農家では犂耕や運搬に必要不可欠な生産手段であったから口にすることはほとんどなかったが、大都市ではかなり食べられていた。小麦のよくできないドイツやイギリスでは、フランス、イタリアよりもさらに大量の肉を食べたようである。

<保存食と主な料理>
・秋11月になると、中世の農民たちは、そして近世、近代の農民たちも、豚を森に連れて行った。そして高いカシの木めがけて棒を放り投げ、バラバラと落ちてくるカシの実を豚にたらふく食べさせ、太らせた。
  そして翌12月、長い5か月の冬に備えてこれを殺し、肉を塩漬けにして、ハム、ベーコン、ソーセージなどを作った、少なくとも17世紀までの農民たちにとって、豚は羊とともに不可欠の食肉用家畜であった。(堀米庸三編『生活の世界歴史6』)

・中世ヨーロッパで人々がどのくらい肉を食べたかは地方と身分によってかなりの差があったようであるが、少なくとも貴族や富裕な市民は大変な肉食家であった。毎年春になると、冬の間の肉食過多のため吹き出物ができるのが彼らの悩みの種で、薬草を煎じて飲んだり放血したりして、その対策に大童という有様であった。

・カトリック教会が2月、3月の四旬節に肉食を慎むきまりを守らせようとしたのは、そのためだという論もある。しかしこれについては一方で、中世の農家が仕込む塩漬け豚の量はせいぜい12頭分だったはずだからクロディーヌ・ファーブル=ヴァサス『豚の文化誌』、四旬節の頃は備蓄食料が底をつき、節食によってじっと春の到来を待たねばならなかったという厳しい現実が、キリスト教と結びついて四旬節のきまりとなって表れたとする見方がある。両方とも真実であったろうと識者は言う。

・生肉を調理するには、塩のほかニンニク、カラシが必需品であった。そして十字軍以降は、富裕層の間ではコショウ、ショウガ、肉桂の皮などの異国の香辛料が珍重された。

・野菜として欠くべからざるものはソラマメとエンドウマメで、そのほかインゲン、キャベツ、ネギ、カブ、玉ネギ、レタス,からし菜などもあった。これらの材料でふだん作っていた料理といえば、農家の場合は豚の脂肉をキャベツその他の野菜と一緒に大鍋で煮込んだパン入りスープであった。パンは時間が経つとすぐ固くなってしまったから、スープに入れて、あるいはスープに浸して食べるのが常識であった。堀米庸三編『生活の世界歴史6』

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                カシの実を食べる豚(『生活の世界歴史6』より引用させていただきました)
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  4月に入ると、いよいよキリスト教の2大年間行事の一つ(と言っていいのか
な?)、イースター(復活祭)が近づいてきました。世界ではどのようなイベントが行われるのか、また日本ではどう騒がれるのか、この際だから改めて注視しておこうと思っています。
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  ところで、ヨーロッパのプロテスタンティズムの諸国は、カトリシズムの国々と比べると、一般に国民の生活意識が質素で禁欲的であるといわれます。例えば「食」についての認識。「食事は味わうものではなく、空腹を満たすためのもの」という認識が、プロテスタンティズムでは確立されているようです。マックス・ヴェーバーを持ち出すまでもなく、禁欲的で節約した余力は資本主義経済活動に向けられてきたわけです。清貧の思想とでもいうのでしょうか。国教の力は偉大なりですね。

  いっぽう東洋の思想、とくに仏教は殺生禁断の思想で、四つ足動物は食べてはいけないことになっていますが、社会通念として確立はしているものの、仏教としては自戒の念に留まっていて、国策として国民に強制することはありませんでした。

  おかげで、好奇心が強く、美食大好きな国民性の日本人は今、和食を始め、世界に冠たる食の多様性の時代を迎え、タブーのない食生活を謳歌できているわけですね。
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  ところで、世界宗教のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教など国教になっている一神教には、「食」に様々なタブーがあります。ヨーロッパ大陸では、旧約聖書の時代から、動物はすべて、食べてもよい「清浄な」ものと食べられない「不浄な」ものに分類されています。

  たとえば、ユダヤ教では、食べてよい食物と食べてはいけない食物を定めている。この律法のことをヘブライ語でカシュルート(適正食品規定、食事規定)というようです。人は食べたいものは何でも食べてよいというのでなく、食べ物に制限を付けて守れることこそ、人間が動物でない所以だとユダヤ教は考えるわけです。

  たとえば、豚。豚は大昔から世界中のあちこちに存在し、人間のごく近くにいました。おそらく、豚ほど経済的・象徴的に利用され、社会的・宗教的な事実として人間社会の文化や文明に深くかかわった動物・家畜は少ないでしょう。
  中国、東南アジア、オセアニアでは、重要な家畜とみなされ、地域によっては豊穣多産の印として崇められていました(古代中国、古代エジプト)。
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  しかし、これほど人間の近くにいて、人間社会に貢献しているにもかかわらず、豚は不浄であるとされ、ヨーロッパでは、悪罵・蔑視の代用語となっています。日本人にとっては、豚はいくつかある食肉獣のひとつにすぎないのですが、キリスト教文化圏ではまったく事情が異なっています
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   都市や農村の日常生活、祭礼に欠かせないのが豚肉であり、食事の基礎と言っていい。それでいて豚は、しばしば「けがれ」の象徴として扱われる。逆に、ユダヤ教徒にとっては、豚を食すことが重大なタブーとなる。イスラム教では、キリスト教に対抗する意味で、豚を食することが禁止されたとされます。

  日本には豚食は伝わりませんでしたから、われわれ日本人にはよくわからないというか、わたしはこのことについて特段考えたこともありませんでした。こんな関心を持ったところで、偶々ですが先般1冊の本に出会いました。それが
クロディーヌ・ファーブル=ヴァサスClaudine Fabre-Vassas)著,宇京頼三訳『(邦題) 豚の文化誌―ユダヤ人とキリスト教徒―(原題)異形の動物―ユダヤ人、キリスト教徒と豚』(柏書房刊,2001,3刷)。
  ファーブル=ヴァサスは南フランスからカタルーニア地方をフィールドにしている民俗学者です。
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  巻末の訳者解説からの抜粋ですが、本書はこんな性格を持っています。
「本書『豚の文化誌』は、フランスとスペインの国境に跨るピレネー山脈中にある、フランス側の高原ソー地方の家豚の飼育の慣習の民俗誌的な記述によって始まる。

  ソー地方はわずか35百人有余の山村で、12世紀の教会と16世紀の城の廃墟が残る古くからの土地である。著者は、ここを“ベースキャンプ”にして、フランス、スペインの各地方はもとより、ヨーロッパのあちこちを何年もかけて実地調査し、・・・そして、ヨーロッパにおけるキリスト教の想像世界と反ユダヤ主義において、豚がどのような文化的・社会的・歴史的な役割を果たしてきたかを解き明かそうとする。

  その出発点は、キリストがその訓えのために地上に降り立った時、訪ねた家で母親が偽って子どもを隠したので、キリストがその子どもを豚に変えたが、母親がユダヤ人だったため、豚がユダヤの子どもになったという伝説である。そこからユダヤ人のタブーが生まれ、彼らは、この動物を憎悪する。つまり、豚を食することは自らを食することになるのである。この逆説的な同一化がキリスト教のヨーロッパ世界にもたらした宗教的・文化的・歴史的な意味は、われわれの想像以上に深く、重い」。
ーーー
たしかに、豚は中世都市において、街路にすてられた排泄物や食物の残り滓で飼われていたことから、不潔という負のイメージが強い。

即ち、二つに分かれた蹄(偶蹄)を持ち、反芻する動物は清浄であり、この二つの属性のどちらかを欠くものは不浄で、食べられないとされる。ラクダは反芻するが偶蹄でないため不浄であり、豚は偶蹄であるが反芻しないため不浄なのである。

以後、ユダヤの口伝律法集ミシュナ、さらにこれとその注解を集大成したタルムードはユダヤ社会において豚に対する嫌悪感を強め、豚はユダヤ文化において呪われた存在となる。ただ忘れてならないのは、こうした紀元前のユダヤの教典が、雑食で互いの内臓が似ているという人間と豚の奇妙な類似もすでに指摘していることである。つまり、ユダヤ人にとって、豚を喰うことは単に自食にとどまらず、人間自身を喰うという絶対的な恐怖の幻想への類推があり、カニバリズム(人肉嗜食)の禁忌を冒すことになったのであろう。(以上本文より抜粋引用)
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  なお、本書の理解を促進するために、こんな著作も役に立ちました。
ミシェル・パストゥロー著,松村恵理/松村剛訳『王を殺した豚 王が愛した象―歴史に名高い動物たち』(筑摩書房刊,2003
・聖アントニウスの豚
・王を殺した豚
・ファレーズの雌豚
・ヴォーバンの雌豚
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3月11()
8年前のきょう、未曽有の大災害に遭遇した日本人は、社会の混乱を抑え、不屈の精神力を発揮して、国民性を世界に示しました。

東京では電車が止まり、わたしも国分寺から西荻窪の自宅まで数時間かけて歩いて帰った記憶があります。おかげで、予定されていた全学の卒業式(3/23)は中止。当日は学部学科ごとに分散して、こじんまりと学位授与式が行われました。

われわれ修了生も専攻ごとに集合、各自証書を受け取りました。生まれて初めて式典で総代で証書を受け取るはずだったのになあ(苦笑)
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  阿蒙のお勉強シリーズ篇第3回目。最終回です。以下、引き続きキーンさんの著述から阿蒙が関心を持った点について、抜粋引用を続けます。

 ドナルド・キーン著『足利義政―日本美の発見』(中央公論新社,2003
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8章 花道と築庭と
*義政が蒐集し展示した美術品のほとんどは中国から輸入した絵画や陶磁器だった。東山山荘の部屋から受ける印象は、これまでの御殿建築のそれとはまったく異なったものであったに違いない。
*平安時代の典型的な美術は、絵巻物と障子絵だった。絵巻物はふだんは展示してあるわけではなかった。収納されているところから取り出し、所有者がそれを両手で何か平らな表面の上に拡げてみせるのだった。
*障子絵は部屋を仕切る建具、すなわち襖、屏風、衝立などに描かれていたから、部屋の常設の装飾の一部をなしていた。この種のものはいつも見ることができる反面、季節の変化や何か特別な機会に合わせて簡単に替えるというわけにはいかなかった。
*鎌倉中期から、たくさんの掛物が中国から輸入された。これらの掛物は、伝統的日本建築の部屋には飾りにくかった。壁に掛けるにしても、壁面の空間はあまりにも狭すぎた。
*掛物には絵と周囲の壁との間を仕切るヨーロッパの絵画の額縁のようなものがなくて、壁に対して剥き出しのように見えた。結局、掛物の下に机を置くことが習慣となり、机の上には香炉や花瓶、燭台などの美術品が飾られるようになった。これらの美術品は、絵が掛けられている空間の輪郭をはっきりさせるのに役立った。
*次に取られた措置は、掛物をかける壁の下に机を据え付けるような形で、一種の棚を作ることだった。押板と呼ばれるこの棚は、幅が2〜6メートル、奥行きは約40センチメートルあった。浅い奥行きに対して不釣り合いに広い横幅は、一般に三幅対の掛物を横に並べて飾る中国の一般の慣習に従うことから来たものだった。        *床の間は押板とはかなり異なる構成を持ち、絵画や美術品を飾る空間の枠組みとしてさらに効果を発揮する垂直の柱が配されていた。これには、ほっそりとした樹幹がよく使われた。床の間は、およそ客をもてなす日本のあらゆる部屋に欠かせない要素となった。
  *中国美術を数多く収蔵していた義政は、さまざまな収蔵品の美を客とともに楽しむために、折に触れて展示する美術品を取り換えたのではないかと思われる。
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陶磁器(花瓶)
*押板の上によく飾られた中国の陶磁器の中に、花瓶があった。すでに7世紀の奈良朝の頃から人々は神仏に花を供えていて、その花は容器のようなものに入れられていた。
*平安時代、花の美は歌人たちによってよく詠われていた。しかし歌人たちが詠んだのは主に庭の花々で、花瓶に挿された花ではなかった。
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花道(華道)芸術
*東山時代になるまでは、花を飾る最も効果的で美しい方法について、だれも工夫を凝らすということはなかったようだった。花瓶の中の花が芸術の一形式になりうるということに最初に気づいたのは、足利義政の時代だった。この発見が、花道(華道)芸術を誕生させた。
*東山殿の部屋を飾ったのは、絵と調和するように考えられた生け花だった。花の色と大きさは、絵にそぐわないということのないように慎重に選ばれた。
*義政は献上された花をただ無造作に挿すだけでは満足しなかった。義政は、花を立てる技術が花の自然の美しさを高めると考えていた。無造作に束ねられた花々よりも、立花様式の簡潔な風情を好んだ。
*立花様式を発明したのは、一般には立阿弥ではなく、池坊流の流祖といわれる池坊専慶とされている。
*専慶は自分の立花を七本の「枝」のそれぞれに象徴される仏教的解釈によって説明した。立花に一つの規範を与えることで、立花を『道』にまで高めたのであった。もともと単なる遊びに過ぎなかった連歌を始めとする室町時代の芸術が、そこに規範を創り出すことで気品と重要性を備えたのと同じことだった。
*いかにも自然に見えると同時に抽象的な美の世界を思わせる日本人の生け花の技術は、要求の厳しい、時に独断的でさえある原理を懸命に学ぶことによってはじめて達成されるものである。『日本人のこころ』と呼ばれる他の多くのものと同じように、それ(生け花)が始まったのは、15世紀後半の義政の時代だった。
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築庭
    *著者キーンさんが参考にした先行研究(芳賀幸四郎『東山文化の研究』)
によれば、「義政の全生涯を通じて一貫し、その趣味生活の枢軸たる位置をしめたのは、実に庭園であった」。
*庭園の創案者として義政が最高の出来栄えを見せたのは、東山山荘の
庭だった。義政は自分の屋敷の築庭を指図したばかりでなく、外出の際によその庭園を訪れた時など進んで改良のための助言を与えた。」
*庭園は、すでに日本では長い歴史を持っていた。・・庭は美的な喜びを与えてくれると同時に、宗教的な悟りをあたえてくれるものと信じられていた。平安朝の庭の宗教的背景となっていたのは、一般浄土教的世界観だった。それは特に、花々を始めとしてこの世のありとあらゆる美のはかなさに体現される『もののあはれ』を基調としていた。
*しかし鎌倉時代末期から、禅宗の文化的影響力が築庭に顕著に見られるようになった。夢窓疎石のような高名な禅僧は、庭園が座禅のための着想に役立つと信じていた。
*当時の禅寺に造られた枯山水の庭は、まさにそうだった。これらの庭には花がほとんどないか、まったくなかった。おそらく、見る者が束の間の美に気を散らされないように配慮されていたのではないかと思われる。このような庭の形で表現された象徴的な幽玄の美は、それを眺める者の精神をより高い理解の領域へと引き上げることが意図されていた。
*銀閣寺の建物については、恐らく義政にとっては、その(庭と建物の)両方が等しく重要だった。二階建ての銀閣は、もともと何か特に宗教的な使用を意図したものではなかった。その主たる機能は、そこから庭を見下ろした時に格好の眺望を与えてくれることにあった。そのこと自体が、宗教的体験だったと言っていい。
*室町時代は、日本庭園の黄金期だった。しかし、16世紀の戦国時代を生き延びた庭園は、ごくわずかしかない。龍安寺と大徳寺大仙院の庭である。いずれも砂と石の枯山水で、おそらく石の周りについた苔以外は植物がないこの二つの庭は、他の日本庭園に一般に見られる自然への愛着と矛盾しているように見える。
*これらの庭の着想が中国のもので、禅僧たちによって日本に取り入れられたものであることはほぼ間違いない。水のない庭を意味する『枯山水』という言葉が、もともとは中国の庭を意味する『唐山水』であったことを示唆している。
*水のない庭園に中国の影響は明らかだが、おそらく日本の庭園に対する中国の最大の影響は水墨山水画からきたのではないかと思われる。
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茶の湯の誕生 
*喫茶の習慣は雲南から四川へ、そしてついには中国全土に拡がった。七世紀までに喫茶の習慣は中国人の生活の一部となり、八世紀には専ら茶のことー茶の起源、作り方、飲み方、使われる道具、等々―だけを書いた最初の書物が現れた。この『茶経』という書物は陸羽によって書かれ、陸羽の生没年は727年から804年と推測されている。
(参考:岡倉天心の有名な『茶の本』の原題”The Book of Tea”は、陸羽の『茶経』から取ったもの。)
*日本の史料に茶のことが最初にはっきりと書かれているのは、六国史(りっこくし)の一つである『日本後紀』の弘仁6815)年四月22日の項である。「(嵯峨)天皇が近江国琵琶湖畔の滋賀韓埼(からさき)に行幸した折、大僧都永忠が茶を献じた」との記載がある。・・永忠が淹れた茶を飲んで2か月後、嵯峨天皇は、畿内及び近国に茶樹を植えさせた。それ以来毎年、天皇は茶を献上するよう命じている。
*やがて中国文化に対する反感が起き、遣唐使が菅原道真の勧告で廃止された頃から、茶に対する関心も薄れていった。
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茶に対する関心の復活
*僧栄西が茶を再び導入するまで、数世紀待たなければならなかった。栄西が日本に持ち帰った茶は、それ以前に持ち込まれた発酵茶と異なり、新鮮な香りを保っていた。   〇「建久21191)年、栄西、茶樹の苗木を日本に送る。
〇 承元51211)年、『喫茶養生記』第1稿。
〇 承元81214)年、第2稿を、源実朝に献上。
*茶樹の栽培は栄西が実朝に『喫茶養生記』を献上して以後、着実に広まっていった。・・茶は奈良興福寺周辺に植えられ、特に西大寺では非常に大きな茶碗を使った「大茶盛」と呼ばれる独特な茶会が行われるようになり、それは今日まで続いている。
*次第に茶の人気の性格は、医薬としての価値よりむしろ飲み物としてそれが与える喜びの方へと移っていった。上等な茶の味がわかる能力は、日本のあらゆる芸術に共通する鑑定眼を特徴づける特殊な知識のようなものになっていった。 
*茶の湯の生まれる発展段階の一つとして、次のような変化があった。これまでは贅を尽くして飾り立てた部屋で、茶の味を飲み当てる闘茶や他の遊びの合間に酒肴の饗宴が行われた。それが一転して、今度はほとんど飾り気のない地味で小さな部屋を使うようになった。そこでは主人と数名の友人がともに茶を飲むことを楽しみ、静かに語らい合うのだった。 
*典型的な茶室は、書院造の建物の中にあった。部屋の内装としては、美術品が飾られる押板があり、書物が置かれる違い棚があった。
*地味だが上品な部屋は、茶を飲むものに一種威厳ある振る舞いを強要した。これが、おそらく侘茶で重要となる茶礼の始まりだった。茶の準備をする主人の身のこなしは、もともとは当意即妙の気楽な感じのものであったかもしれない。それが次第に様式化され、いわば技巧を隠した技巧として美化されたのだった。  
*主人の言葉や動作に対する客の応答にも、敬意と親密さの両方を伝えるための型が生まれた。
*茶道を創り出した功績は、能阿弥に帰されることが多い。能阿弥は第一に中国絵画の専門家で、また(宗祇の弟子の「七賢」の一人として)練達な連歌師でもあり、絵師であり、書家であり、香の調合の名手でもあった。これらの腕前に加えて、能阿弥はおそらく専門の鑑定家として欠くことのできない中国美術の個人収蔵品を持っていた。
*千利休の茶の高弟である山上宗二(やまのうえそうじ,1544-90)に、利休の茶道を伝える最も信憑性の高い史料とされる『山上宗二記』がある。その中で宗二は、能阿弥が最初に義政に茶の湯の興味を抱かせた時のことを語っている。

能阿弥は「義政は東山に移ってから茶の湯に興味を持った」と言う。「そこで、能阿弥は村田珠光を義政に紹介した」と宗二は書いている。しかし、歴史学者桑田忠親は義政が東山山荘に移る以前に茶の湯を知らなかったことなど、ありえないと考えた。実際には少なくとも15年前から茶の湯を実践していたという証拠を発見している。
桑田の確信するところによれば、「能阿弥こそが義政の茶道指南であり、茶道の創設者としての功績に価する」という。だがしかし、「茶道の発展における村田珠光の重要性を否定する理由は何もない。」
(参考)村田珠光:浄土宗僧侶。武家・貴族らの書院茶に対し草庵の侘茶を創始。文亀21502)年没80歳。(出典:wiki)  
===
珠光と心敬
*日本的なものについて話すとき、珠光は「冷えた」「枯れた」「痩せた」
のような言葉を使った。いずれも、最高の連歌の望ましい特徴を示す連歌批評の語彙から借りたものである。これらの言葉は、むしろ好ましくない意味で使われることの方が多かったが、心敬は、自分の連歌で具象的に表現しようとする特徴を説明するために、『冷え氷りたる』とか、『枯かしけて寒かれ』とか、『冷え痩せ』というような表現を使った。」
(参考)心敬:天台宗僧、連歌師。文明71475)年没70歳(出典:wiki
連歌と茶の湯
*連歌と茶の湯の理想の近さは、両者が並行して発展してきたことを暗示している。連歌は当初、茶の湯と同様に機知を問う試験のようなものとして始まった。しかし、心敬によって連歌は異なる次元を得たのだった。心敬は言う、「どのような芸術も、その道を究めていない志の浅い人には理解できない。・・気高く奥の深い句の心が、通り一遍の人に理解できるなど思いもよらないことである」。(このような高尚な(そしてかなり高慢な)意見を持つ人物が、連歌を取り巻く快活な雰囲気や、鮮やかな色彩に対する一般的な好みに迎合しないであろうことは想像がつく。(著者)
*天正161588)年、山上宗二は心敬について、次のように書いている。「心敬法師は連歌について語った中で、『連歌は枯れ衰えて、冷え冷えしているのがよい』と言っている』(そしてまた、)『茶の湯の行き着くところもそうあるべきだ』、と竹野紹鴎も常に言っていた。」
*義政の時代の茶の湯(書院茶)の特徴:義政が使った種類の茶碗=優雅な中国様式の碗。「いわゆる和物が茶席で一般に使われるようになったのは、利久の時代(侘茶)になってからのことだった。」
*連歌と茶の湯の類似性:「いずれも仲間の参加を必要とする芸術『座』の共同制作だった。茶の湯は、一緒に茶を飲む客が必要だった。茶の香りや、両手に持った茶碗の手触りを楽しむばかりではない。簡素だが非常に洗練された造りの茶室。地味な花瓶に差された一輪の花や禅僧の書いた掛け軸のある床の間、そして、これらの楽しみを同じ趣味の仲間と分かち合っていることから生まれる、特別な温かさをも同時に楽しむのだった。」
*連歌と茶の湯は、どちらも果てしない戦乱によって荒廃させられた世界にふさわしい芸術だった。どちらの芸術にとっても大事だったのは、規則があるということだった。しかし、飲酒が決して到達できない作法で、喫茶を特別な儀式の水準にまで高めたことは、直接的、間接的に多くの芸術に影響を与えた。
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俳句
*連歌は、ほとんど姿を消してしまった。しかし連歌の第一句である発句は、やがて独立して俳句となった。俳句の時代すべてに共通して言えることは、暗示への依存である。わずか十七文字では伝えることができないものを伝えるという必要性に迫られてのことだった。
(「俳句」は正岡子規の提唱。キーンさんは「俳諧」とせず、ここは敢えて「俳句」にしたのだろうか。)
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晩年の義政
*義政は経典の研究や、宗教の本質について思い巡らすことには関心がなかった。しかし仏教の悟りは、どんな活動においても経験しうると考えていた。   
*義政は禅の極めて簡素な作法のなかに、自分を最も強く惹きつける芸術―建築、庭園、生け花、茶の湯、そして能―に求めた美と同じようなものを発見した。
*義政の宗教的生活は、しかし決して禅だけに向けられていたわけではなかった。義政の強い観音信仰は二十代前半にさかのぼり、生涯の最後まで続いた。銀閣は当初、観世音菩薩を拝む場所として構想された。観音に加えて義政は、阿弥陀仏に特別な敬意を払っていた。阿弥陀仏の慈悲にすがる救済信仰は、貴族階級の多くが共有するものだった。
*禅僧たちは座禅を組み、自分の中にある仏性を養うことによって救いが得られることを信じていた。しかし戦乱の時代には、禅の静かな瞑想を妨げるものが多すぎた。多くの人々が自らの努力(自力)で救いを得ることを諦め、衆生救済を誓った阿弥陀仏の慈悲(他力)にすがることにしたのだった。
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能楽
*東山山荘における非宗教的な活動の中に、能の上演があった。おそらく、宗教的な儀式と連携して演じられたものと思われる。世阿弥が死んだとき、義政はまだ幼少だった。しかし、他の二人の重要な能楽師が義政の成年時代に活躍していた。金春禅竹と音阿弥である。
*金春禅竹は優れた能役者であったばかりでなく能作者、また能芸術の理論家としても世阿弥に次ぐ存在だった。
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世阿弥
*禅竹は、世阿弥から広範囲にわたる個人的指導を受けた。もっとも、二人は異なる流派に属していた(世阿弥は観世流、禅竹は金春流)。禅竹の並外れた才能に気づいた世阿弥は、特に彼のために二つの能楽論『六義(りくぎ)』と『拾玉得花(しゅうぎょくとくか)』を書いた。
*世阿弥の『風姿花伝』は、養嗣子の元重(音阿弥)ではなく、奥義相伝の慣習に従って、実子元雅に伝えられた。世阿弥は実子元雅の尋常でない才能に気づくようになった。・・世阿弥は祖父の観阿弥にも勝ると評価していた。・・世阿弥は自分の父観阿弥のことをあらゆる面で能の最高の芸術家と見なしていただけに、これは驚くべき誉め言葉であった。
*明らかに世阿弥は、元雅が後継者となることを期待していた筈だが、思いがけなくも元雅は夭折してしまった。
*元雅の死で、禅竹は世阿弥の伝統の流れを汲む継承者となった。・・養嗣子元重(観世音阿弥元重)は将軍義教、新将軍義政の庇護を受けた。
*義政は音阿弥に、変わらぬ支持を与え続けた。義政は(音阿弥の)観世座を『将軍家の猿楽』として定着させ、観世を能の四流派の中で最高の地位につけた。  
*能に対する義政の高い評価は、何も観衆に対する有益な効果の為だけではなかった。義政が能の中に発見したのは、幽玄という言葉から連想される神秘と奥深さだった。・・それは、目に見えるものを越えてその向こうに拡がる世界を喚起するのだった。
*東山時代は厳密に言えば、義政が山荘に移った文明151483)年から義政の死の延徳2(1490)年まで続いただけだった。しかしそれは、文化史における輝かしい一時期だった。その影響はこの七年間をはるかに超えて、現在にまで及ぶ。
*「義政以上に日本人の美意識の形成に大きな影響を与えた人物はいない。史上最悪の将軍は全ての日本人に永遠の遺産を残した唯一最高の将軍だった。」(著者)
*延徳2(1490)年正月七日、足利義政死去(享年55、満54歳)     
                                           了
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   これで、「呉下の阿蒙」のお勉強篇を終わります。絵画、茶道、華道、能楽など、本書理解の前提となる素養があまりに不足していたことを、今回痛感しました。
若い頃、飲んだくれて遊んでばかりいないで、もっとチャレンジしておけばよかったと後悔しきり。今後は機会があれば、ぜひいろいろ挑戦してみたい。
   なお、本書で著者が提示した種々の事例の詳細については、本稿では外すと意味が通らない箇所を除き、割愛させていただきました。


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