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Miroir du Cyclisme 1982年4月号 No315
「パリ−ルーベ叙事詩 1896年からこれまで」
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1896〜1914年 パイオニア
これまでのあらすじ
19世紀末のフランス。
近代化が進むパリを追うように
地方都市の人々にもスポーツを楽しむ余裕が生まれはじめていた。
パリから北へ200km、ベルギーとの国境にほど近い街ルーベ。
その街で成功を収めた実業家セオ・ヴィエンヌとモーリス・ペレは、
自転車競技場を作るだけでは飽き足らず、
もっと世界へ自分たちの街を知ってもらいたいと、
パリからルーベへ走り抜ける自転車ロードレースを発案し、
1896年4月19日ついに開催にこぎつけた。
という話でした。
セオ・ヴィエンヌの正式名は、
セオフィーユともセオドールとも言われているようです。
ここから続きです。
(茶色の文字は解読を試みた結果です)
初回のパリ―ルーベがどのように受け止められたか、
そして出場選手たちがどのように奮闘したか。
当時の新聞の報道がその様子を伝えている。
主催紙以外の多くは、数行を伝えただけだった。
パリールーベは、ボルドー―パリの2週間前に開催される。
ダービーとも呼ばれるボルドー―パリのためのちょうど良い練習大会になる。
という論調であった。
他紙の冷ややかな扱いをよそに、
パリ―ヴェロ紙は主催紙らしく多くの紙面を割いてレースの準備状況を伝えた。
モーリス・ガラン、
アーサー・リントンとその兄弟
ヨセフ・フィッシャー
ポール・ギニャール
シャルル・メイヤー
ルシアン・ステイン
ガストン・リヴィエール
マリウス・ティ
あるいはジョルジェ・アイマールといった
多くの有名選手の出場の約束をとりつけたと。
いずれも長距離ロードレースのスターだ。
一方、ライバル紙のル・ヴェロ・イリュストレ紙は、
彼らのことを皮肉たっぷりに
« 本格シーズンに向けて、金をもらってウォーミングアップをする連中 »
とこき下ろし、さらにこう付け加えた。
« ルーベの競技場だけでレースは十分できるのに、
そこへわざわざ何百kmも手前から公道を走るなんて
そんな必要があるのか? »
レースが終わってしまうと、
他紙の扱いはさらに小さくなった。
6行伝えたのは
当時の豪華スポーツ週刊誌ラ・ヴィー・オー・グラン・デール誌、
4行がパリ・ジャーナル紙、
フランス北部の2紙が3行ずつ。
その内容は、
勝ったのはドイツ人ヨセフ・フィッシャーだ
という事だけだった。
つづく
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