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Ancienne Bicyclette
自転車で幸せになる

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Miroir du Cyclisme 1982年4月号 No315
「パリ−ルーベ叙事詩 1896年からこれまで」





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Yahooブログが終了するんですね。
サービスが始まってからたった13年間しかたっていなかったんですか。20年くらい続いていたように思っていました。

思い返せば10年3か月前、ブログがどんなものかも良く分からずに、ビビりながら手探りで初めた事を思い出します。

それからいろんな人に助けてもらい、暖かく見守っていただいて、ここまで続けることができました。ありがとうございました。(本当にありがとうございました。)

公言はしていなかったのですが、5ツーリング、500記事、5万アクセスを目標とし、全て達成することができました。超低い目標でしたが自分としては大満足しています。

Yahooブログが終了するまで、これまでと同じようにスローペースで続けるつもりです。終了した後はどこかで続けるつもりでおります。あ、Yahooブログサービスのご担当の方々もお疲れさまでした。



イメージ 1
1896〜1914年 パイオニア


ここから続きです。
(茶色の文字は解読を試みた結果です)


第1回パリ―ルーベは、前評判は決して高くはなく、
また開催までには多少の紆余曲折があったが、
ふたを開けてみれば、
全コースで1万人を超える観客を動員し、結果としては大成功だった。


地方紙の「北部スポーツ」や「ル・ジャーナル・デ・ルーベ」までもが
部数を伸ばす盛上りの一方で、
敬虔なカトリック信者と神父達にとっては、
信仰を蔑ろにされるように感じられる出来事も起こった。


それは、
カトリックの選手がパリからルーベへ走ると言い出したものだから、
日曜は大切なミサがあるのでやめなさいと諭したのだが、
選手はレースを優先してしまったというのだ。

逆上した神父は、コース上で一列に並んでレースを邪魔をしてやると
こともあろうに聖書の教えを説く時間に息巻いた。


もし第1回のレースが盛り上がりに欠けていたら、
信仰とこの自転車レースとが対立するものであるかのように
取り沙汰されていたかもしれない。



この事態に慌てた主催者のセオ・ヴィエンヌとモーリス・ペレは、
八方手を尽くして収拾につとめ、
翌年の第2回レースの3か月前にマスコミを通じて感謝の声明を出した。



« ルーベには、お隣のリールと同じく敬虔なカトリック信仰が息づき
慈愛をもって理解してもらった。

またスタートの地ヌイイでも、
オルレアン王子の礼拝堂(※)の神父を通じて、
慈しみあふれる信徒達に譲歩してもらえたと聞いた。

私達のレースに出場する選手たちや観戦したい人々のために、
ミサの時間を5時に遅らせても良いと。 »

(※) ベルサイユからサンドニそしてコンピエーニュへ
パリを避けるように向かう「反乱の道」がヌイイを通り、
その道沿いに、
オルレアン王子がかつてその道で事故死したことを悼む礼拝堂があったとさ。
現在はポルト・ド・テルヌのケーニグ将軍広場へ移転しているそうです。


かつてアンリ4世は、
パリ教会と市民に自分を王として認めてもらうために
« パリは、ミサを捧げるに値する »と言い残しカトリックに改宗した。

スポーツマンであり、
それ以上に地方都市でしたたかに生き抜いてきたビジネスマンでもある二人は、
教会を敵に回さず« パリ―ルーベは、ミサを捧げるに値する »と宣言する道を
選んだのだ。


セオ・ヴィエンヌとモーリス・ペレの努力は、
誠意を示せば受け入れてくれる教会の寛大さと、
もっとこのレースに出たいと思う選手の期待によって、
第2回大会の開催という形で実を結ぶ事になった。


p11の写真です。
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当時のセレブ向け豪華スポーツ週刊誌ラ・ヴィー・オー・グラン・デール誌
1904年4月7日号の表紙です。

有力選手シャペロンが、
ボーヴェを走りながら喉の渇きを癒す。

(※)クロード・シャペロン フランス人
 主にパリールーベで活躍した。
 1903年大会では、ルイ・トゥルスリェと接触し共に落車し、
 互いに自転車を間違えてレースを進めてしまった。
 自転車を元に戻したものの結局イッポリト・オクトゥリエの後塵を拝し2位。
 だそうです。




つづく かな?

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