窓から名古屋城が見える

名古屋在住の管理人が書き綴る日記、読書・映画・岩崎宏美等に関するメモです。

読書メモ

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 ある日、父が珍しく電話に出ているので、何が起こったのかと傍に座って聞いていると、「そんな無茶なこと、君、いわんでくれよ」と、静かな調子なのに緊迫感だけは伝わってきた。
 「はつかり二号に、爆弾を仕掛けた。鞄に現金を入れて持ってこないと、何が起こるか判りませんよ」という、今度こそは本物の脅迫電話だ。
 (黒澤和子著『パパ、黒澤明』文藝春秋、2000年初版、p.32)


 昨日発売の「週刊ポスト」の表紙は吉瀬美智子。
 同誌の中に、吉瀬の2011年カレンダーのカラー広告がまるっと1ページあったので、広告料とモデル出演料で相殺させた“抱き合わせ”の仕事だと思った。
 でも、吉瀬美智子のカレンダーだったら、やっぱり、欲しくなる。 
 ちなみに、カラーグラビアは三浦理恵子。
 テレビ朝日のドラマ「霊能力者 小田霧響子の嘘」でも出演中。
 頑張っておられて嬉しいです。

 さて、黒澤明生誕100周年記念の読書メモも、何とか週をまたいで続行中です。
 結構、続けられるものですねえ。

 本書は、黒澤の長女による書き下ろしエッセー。
 家庭内の黒澤の素顔が垣間見えて、黒澤ファンとしては『蝦蟇の油』同様、押さえておきたい一書だろう。
 ちなみに同じ筆者による『黒澤明の食卓』(小学館)『回想 黒澤明』(中公新書)は読んでおりません。
 機会があればと思いつつ、ズルズルと読まずじまい。
 これを機に読んでみようかとも思うのだけど。

 今回引用したくだりは、「天国と地獄」(昭和38年)が封切りされてから黒澤家の周辺で起きた、一連の出来事だ。
 例えば、

 封切りされてすぐ、脅迫まがいのいたずらが相次いで、その中には娘を誘拐するぞというものもあったらしい。
 小学校への行き帰りも、運転手さんの送り迎えになってしまい、遊びたい盛りの私は、放課後友だちとドッジボールをすることさえもできずに車に乗せられ、帰宅させられる。学校以外は、外出禁止状態になってしまった。(p.30)

 そこへ、今度は冒頭に書いたような電話が自宅にかかってきた。
 結局、黒澤は警察に通報して……

 警察が来て、「もしまた電話があったら、なるべく長引かせて下さい。逆探知しますから」と、テレビの刑事物でよく聞く科白から始まって、一日中、刑事さんが我が家の居間に座っている。
 指定された列車に、父自ら乗れということだったが、刑事さんに止められた。警察の人がはつかり二号に乗ったそうだが、それらしい人は現れなかった。「その列車が出発してから終点に到着するまで、生きた心地がしなかった」と、父は大人になってから私に話してくれた。
 誘拐ほど卑劣な犯罪はないのだから、もっと刑を重くしてほしいという思いで作った映画だったが、逆に世間から、あんな映画を作るから誘拐が増えたと非難されて、なんとなく我が家の、ムードは沈んでいた。(p.32)

 黒澤の家庭ならば、そりゃ、一般家庭と違って話題には事欠かないだろうなあ、と思ってしまう。
 ちなみに、「第三章 黒澤明が愛した女たち」に綴られる夫人の“武勇伝”も、腹を抱えて笑いながら読める話題が多い。
 税務署に赴いて啖呵をきったり、ヤクザの家に押し込みにいったりと、「ゲゲゲの女房」ならぬ「巨匠の女房」で、1冊書けたんじゃないかと思えてならない。 
 勇退は、役人の世界の美徳である。早い時期に後輩に道を譲ることが、役所人事の習慣である。民間会社であれこれ理由をつけ、長期に社長の席にしがみつく男をよく見かけるが、醜態という以前、その男の人格に関する問題である、と山野は思う。余人に代え難い人間など、そうざらにいるものではないのだ。多くの場合、私利私欲で権力の座にしがみついているから、会社は腐爛し、衰退するのだ。
(本所次郎著『転覆』社会思想社<現代教養文庫>、1995年初版、p.425)


 先週金曜日のNHK「ゲゲゲの女房」で、久しぶりに松阪慶子が登場。
 もしかして「蒲田行進曲」で共演した風間杜夫との絡みが観られるかもと期待したが、なかった。
 残念。
 「小夏!」
 「銀ちゃん!」
 ・・・・・・「蒲田行進曲」は、つかこうへいの偉大な仕事の一つですねえ。
 最終週の回の台本を泣きながら書き上げたという、脚本家の山本むつみ氏。
 9月25日の最終回まで、しっかり堪能したい。

 さて、そんな今年の夏は、日航機JAL123便の墜落事故から25年を迎えた。
 事故が起きたのは、8月12日だった。
 そして、その翌日に報道されたのが、三光汽船の会社更生法申請という、史上最大規模の大型倒産だった。
 ネットで調べてみると、グループ全体で負債総額1兆円(!)。
 世界屈指のタンカー運航会社の経営破綻、そしてその事実上のオーナーが自民党の大物・河本敏夫氏ということで、当時、大きな衝撃となった。

 本書はこの三光汽船によるジャパンライン社の乗っ取り劇を描いた企業小説であり、経済小説だ。

 「わが国の経済界がニクソン・ショックに揺れ混乱と暗中模索に明け暮れていた一九七一年十一月、エースラインの株価が突然火をふいた―戦後最大の乗っ取り事件といわれた、三光汽船によるジャパンラインの株買占め事件をモデルに、海運再編や政・官・財の動向をからめて描く男たちの闘い」(本書カバーより)。

 小説に登場する「エースライン」はジャパンライン社、「三星海運」は「三光汽船」がそれぞれモデルになっている。
 三星を率いる国会議員の「龍勇介」が「河本敏夫」ということになる。
 他にも若狭得治、田中角栄、中曽根康弘、笹川良一、児玉誉士夫など、個性的なキャラクターが別名で登場する。
 特に運輸省事務次官まで務めた若狭得治は「山野良一」で登場し、この小説の主人公になる。
 しかし、この若狭が後に全日空に天下って、ロッキード事件の「全日空」ルートが問題になって…という流れを思うに付け、小説の中での描き方は、やや実態と言うか、その後の若狭氏の人生とやや乖離しているのでは、と鼻白んでしまう。
 ま、あくまで小説ということですねえ。

 本書は文章が特に冴えているとは思わないけど、一般には知られない海運業界や闇社会などを描いたノンフィクション小説の力作という意味で、一読してもよいのではないか。
 差別はなくせない。未来永劫なくすことはできない、と私は思っている。
 だが、いま・ここで、行為としての差別をさせないことはできる。
 我々ができるのは、そこまでだ。そして、それはすごいことだ、と私は考えている。
 部落解放運動という運動を考えてみても、運動の最終目標があって、それに運動が従属しているのではない。(運動がすべて)である。最終目標のようなものがあるとすれば、それは運動そのものの内に在る。
 「社会が変われば差別がなくなるのだから、差別をなくすためには理想社会の実現を最終目標にして、その最終目標実現のための運動をしよう」というのではダメだ、と私は考える。
 具体的な差別に対して具体的に闘う。その闘いのなかで目の前にある差別をつぶす。そのなかで、差別を許さない力をつける。
 差別をなくす運動とは、それ以外のものではありえないのではないか。
(宮崎学著『近代の奈落』解放出版社、2002年初版、p.458、括弧内には傍点)


 随分前に購入した本だ。
 確か、発刊直後に名古屋・栄の(今は亡き)書店「マナハウス」で、宮崎学氏のトークライブがあって、そこに足を運んだ際に買ったものと記憶している。
 買った直後に一気に大半を読み終えたが、一部、未読の章があって、8年が経過してしまった。
 そんな折、最近の宮崎親分の状況をメールで知らせてくれた方がいらっしゃって、ふと本棚に並んでいた同書に手を付けてみた次第だ。

 冒頭の引用個所は、「序章としての終章」の一節。
 宮崎親分の差別運動に対する考え方が端的に表現されていると思う。
 この個所に関連して、本書にはこういう記述もある。

 きわめておおざっぱにいうと、徳川時代の部落が差別と表裏一体になった特権・独占に依拠して皮革業をはじめとする生業を維持できなのに対し、近代になって、その特権・独占が破られ、旧来の部落産業が没落する一方、依然として残る差別ゆえに他の生業につくこともできないという状況が生まれたところに、部落における自主的な運動が発生する根拠があったといえるのではないか。
 とするならば、部落解放運動の底には生業確立の生活要求がある。そのためにも差別をなくさなければならないという関係である。だからこそ、水平社はその短い綱領の中に「経済の自由」と「職業の自由」をとくに掲げたのであったろう。つまり、差別撤廃要求の底には部落特有の生活要求があった。そして、水平社以前にそれに長く粘り強く取り組んできたのが自主的改善運動だったのだ。(p.139)

 「人権」や「平等」といった抽象的な言葉よりも「仕事よこせ」の方がスローガンとしては効果的で、普遍的であるという逆説…とでも言おうか。
 「運動がすべて」「運動そのものの内にある」というのは言い得て妙だ。
 宮崎親分の考え方でいくと、精神というものがあるとすれば抽象的な言葉にあるのではなく、血の通った人間の怒りや悲しみにこそ脈打つものだし、そこに軸足を置かない運動は、すべて似非であり、まがいのと言えるのかもしれない。

 本書は僕に部落問題の奥深さや知られざる歴史を教えてくれたと同時に、部落問題に限らず、広く「民衆運動」そのものの在り方を考える際の有効な視座を与えくれた。
 私たちが「やめなさい」と言った瞬間、小渕さんはいきなりその場に立ち上がった。そして、
 「だめだっ。小渕恵三、あの激しい福田、中曾根の谷間で対抗してきて、政治家を目指して三十何年。ここで下がるんなら政治家をやめるっ。下がらないっ」
 と言い切ったのだ。
 その激しい気迫に、私たちは息をのんだ。
 首相の座に対する、この執念。
 私は小渕さんの隠された一面を見た思いがした。
 (野中広務著『老兵は死なず』文春文庫、2005年初版、p.63)


 先ほど、昨夜放映された「第42回・思い出のメロディー」(NHK総合)の録画を観終えたばかり。
 山本リンダの「どうにもとまらない」、渡辺真知子の「迷い道」、西口久美子の「太陽がくれた季節」、八代亜紀の「舟唄」あたりは、何度も聴いている歌なのに、ついつい聴き入ってしまう。
 宏美さんの「シンデレラ・ハネムーン」もよかった。
 最近、テレビ番組で聴く歌声が本調子ではないことが多かったけど、今回は絶好調ではないものの不調ではない、といった感じだった。
 
 さてさて。
 故・小渕元首相といえば、温厚なイメージがつきまとう。
 しかし、激しい気性を持ち合わせ、怒らせたら結構コワイという同氏のエピソードは、いぜん佐藤優氏の著作からこのブログでも紹介した。
 そんな小渕像を形成する上での更なる傍証となろうか。
 冒頭の引用個所は、自民党総裁選に小渕後継でほぼ決まったところで突如、梶山六氏が出馬を表明し、野中氏が綿貫氏らと小渕氏のもとへ行き、次期を待とうと出馬取りやめをを持ちかけたときの情景だ。
 野中氏が息を呑むような気迫って、どんなものだったんだろうか。

 本書は、1996年の橋本政権から小泉政権に至るまでの政界の推移を、野中氏の視点から書いたもの。
 大手メディアの報道からは描けない、例えば小渕、梶山、亀井、古賀、加藤など諸氏の動きや関連するエピソードは読んでいて非常に面白い。
 特に梶山氏について、僕は同人についての情報をあまり持ち合わせていなかったけど、本書を読んで、竹下登氏が「平時の羽田孜、乱世の小沢一郎、大乱世の梶山静六」と評した理由が少しわかった気がした。

 単行本は2003年12月発刊。
 文庫版発刊にあたり、小泉批判を中心に加筆している。
 なぜ、自民党と社会党が連立政権を組めたのか。その起源は経世会の分裂まで遡る。これまでジャーナリズムで語られてきた歴史はいわば「小沢史観」とでもいうべきものである。日本の戦後史が「東京裁判史観」で語られてきたのと同様に、そこには多くの誤解と偏見がある。小沢一郎氏と対峙する側から明かりを照らすと、歴史はまったく違う顔を見せる。
(野中広務著『私は戦う』文春文庫、1999年初版、p.79)


 サークルKの「おむすび道」の中でも「ねぎとろわさび」は、他の種類のものと少し風味が違うんだよねえ。
 同社のHPを見たら「焼津港水揚げまぐろを生引きたまり醤油とかつおだしで風味付けした具材を入れ、アオサを混ぜた風味のよい海苔で巻きました」とある。
 なるほど…アオサだったのか、と合点がいった今日の午後。

 さて、8月になるとしばしば思い出すのは18年前の政権交代だ。
 自民党一党支配の崩壊→細川内閣→自社さ政権…と戦後の日本政治史の中で特筆すべきであろうこの時期、僕は東京に住んでいて、おそらく名古屋とは違った政治の世界が動く“空気”を感じていた。
 そのころの僕は今よりも18年ほど若く(当然だ)、今よりも(更に)乏しい政治に対する観察眼を駆使していた。
 当時の状況を筆者は以下のように述べている。

 私は今でも、平成四年(一九九二年)八月の金丸副総裁辞任会見から細川政権の樹立まで、マスコミと世論がなぜあんなに簡単に騙されてしまったのか不思議でならない。
 テレビ朝日を始めとする民放、政治評論家、雑誌メディアのほとんど、新聞のほとんどは、「政治改革派」VS「守旧派」という小沢さんたちがつくった枠組みをそのまま使った。そのまま使うどころか煽りたてた。
 細川さんが首相に選ばれると、この「政治改革派」の「勝利」を新聞・テレビは手放しで祝った。「新しい時代が来る」「政治は改革される」「守旧派は敗れた」等々。(p.97)

 筆者が本当に「不思議でならない」と思っているのかどうかは不明だ。
 ポスト冷戦における保革対立の終焉、38年に及ぶ一党独裁の限界、度重なるスキャンダルによる政治不信、こうした時流をうまくとらえた政治のワイドショー化(テレビの影響力の拡大)…数えれば切りがないくらいではないか。
 それはさておき、本書の中でも小沢一郎氏に関する記述は特に「読みどころ」だ。
 筆者は続けて綴る。

 「政治改革」というのはもともと全く不純な動機から始まったのである。私は金丸問題の本質は前にも指摘したように金丸さん一人を陥れて逃げようとしたシナリオだったと見ている。それを書いたのは小沢さんではなく別の側近だったのかもしれないが、小沢さんがそれに乗ったことは間違いないだろう。
 しかし、それだけではうまく行かず、包囲網が狭まり、絶体絶命のピンチに陥ったため、「窮鼠猫を噛む」で「政治改革」というマッチで、自民という城に火を付け、炎上する城を脱出、国を支配しようとしたというのが私の・史観・だ。しかもこの「政治改革」というマッチ、ブランド名は「政治改革」だが、実際は、選挙制度を悪い方にいじるだけというものだった。
 しかし、国民世論が「五億円をもらって二十万円の罰金。そんなのはおかしい」「政治は汚い」と怒り狂っていた時だったので、この「政治改革」というブランド名にコロッと騙されたのである。マスコミもこのブランド名だけを煽ったので、国民は中味を確かめる方法がなかった。こうして「政治改革をやらなきゃだめだ」という流れに飲み込まれてしまった。
 日本には恐ろしい風がある。マスコミもそうだ。政治改革イコール選挙制度改革といつのまにかすりかえられ、おかしな状況になっているにもかかわらず、違う風は吹かなかったのである。(p.101)

 確かに大方のメディアは細川内閣を歓迎した。
 ただ、僕の記憶に限れば、当時、月刊雑誌「世界」で朝日新聞の故・石川真澄氏が新生党を斬る論文を書いていたと思う。
 肝心の内容は失念してしまったが、「なにが新生党やねん。小沢が政治改革だと? 笑わせるな。コイツこそ自民党を腐らせた元凶のような男じゃないか」とのメッセージはムンムンと伝わってきた。

 なお、『私は戦う』は老練な政治家が「回顧録」のような形式(一人称)で書かれたものである以上、その文面を額面通りに受け取るのは早計であることを確認しておきたい。
 読者はその背景と行間から文字になっていない内容を「読み取る」ことが重要だ。
 例えば、本書でこそ書かれていなかったが、巻末の「解説」で後藤謙次が野中が得意な権謀術数について、一つのエピソードを紹介している。

 平成八年(一九九六年)の衆院選後、自民党幹事長代理だった野中は「釣り堀屋のオヤジ」と自称していた。総選挙で二百三十九議席と過半数に達せず、自民党にとって過半数までのあと十二議席は喉から手が出るほど欲しいものだった。そこで働いていたのが野中である。
 小沢一郎が率いていた新進党からの議員の引き抜き工作を密かに開始した。当初は小沢も「議員個人の見識の問題」と高をくくっていたが、野中は新進党議員一人一人と面談を繰り返し、わずか九カ月で十人を超える新進党議員を引き抜き、目標の過半数を達成したのである。
 入党者を冷遇せずにポストを与えて優遇したことも自民党入党者を加速させた大きな要素となった。一方の新進党は櫛の歯がこぼれるように議員が一人また一人と離党を繰り返したことで結局、平成九年暮れ、解党に追い込まれた(p.252)

 こういう類のことは、あまり書かれていない。
 しかし、必ずあったはずだ。
 だって、野中広務氏だもん(=トートロジー)。
 読んでみたいですけどねえ。

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