窓から名古屋城が見える

名古屋在住の管理人が書き綴る日記、読書・映画・岩崎宏美等に関するメモです。

読書メモ

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 角栄はこの問題は本質的に、外交の問題ではなく、国内政治の問題だと考えたんです。そのようなコペルニクス的転回をすることによって、問題のとらえ方を、百八十度転換してしまったんです。要するに、これ以上アメリカと交渉をつづけてもどうにもなるものではないのだから、アメリカの要求は理不尽ではあるが、やむをえないものとして受け入れてしまおう。日本外交の基本である良好な日米関係を堅持するという立場を貫くかぎり、それしか選択はない。問題は、それによって日本の業界が困ったことになり、損失が相当出るということだ。その損失補塡を十分すぎるほど十分に行い、民間企業が困らないようにしてやればいいではないか。基本はそういうことなんです。
 (立花隆著『政治と情念 権力・カネ・女』文春文庫、2005年8月初版、p.164)


 単行本『「田中真紀子」研究』(2002年)の文庫化。
 タイトルは文庫版の方がよいと思う。
 田中角栄を語らせた立花隆の言説は、ホントに鋭くて勢いがある。

 1971年、沖縄返還の年。
 それまで二代にわたる実力派大臣(大平正芳、宮沢喜一)が取り組んできた日米繊維交渉は、暗礁に暗礁に乗り上げたままだった。
 それを、田中角栄通産大臣が、この年の就任わずか3カ月で解決してしまった。
 角栄が、にわかにポスト佐藤の有力候補に浮かび上がってきたのは、この成功が内外で高く評価されたからだった。
 では、角栄がどうやって解決したのか。
 アメリカに譲歩する一方で、国内の繊維業界に対しては、規制による被害額を算出し、これを補償する救済策を打ち出すことで解決を図るという、いわゆる「田中式」よ呼ばれる解決方法だった。
 要するに、貿易摩擦という外交問題を、相手を喜ばせる、国内の業者を泣かせる形でまとめる。
 ただし、泣いてもらった業者には財政を出動させ、十分面倒をみる。
 その後、アメリカとの牛肉・オレンジ問題、イギリスとの焼酎・ウィスキー問題など、摩擦事件などで多用される事になる方式だ。
 今では普通に思いつく方法だが、当時としては画期的だった。
 でも、現代では困難だろう。
 財源をどうするのかという問題がつきまとう。
 カネで解決なんて、という考えもあろうが、今や日本はカネで解決することもおぼつかなくなっているのかもしれない。

 他にも、田原総一朗論文に端を発した「ロッキード事件=アメリカの謀略」説を論破する「ロッキード事件はアメリカの謀略?」、二階堂擁立騒動を自民党一党支配の終焉・連立時代の幕開けの淵源と見る「佐藤昭は連絡係」の章などは、「なるほどそんなことがあったのか」「そう見るべきなのか」と、うなりながら読んだ。
 リベラル・アーツとは何かというと、いわゆる一般教養です。日本では専門教育のほうが格が上の本当の学問で、一般教養などというものは格下の学問以前のものと考えられがちですが、大学の歴史においては、リベラル・アーツこそが大学の本流で、専門教育は一種の職業教育に過ぎないと考えられています。
 アメリカなどでは、大学の学部四年間は。リベラル・アーツしかやりません。いまでもそうです。つまり日本のかつての教養学部が四年間あるようなものです。専門教育は、大学を卒業したものが、それぞれの専門学校に入って行われます。
 (立花隆著『東大生はバカになったか』文春文庫、2004年3月初版、p.45)


 東京大学は、すべての学部で、入学を春から秋に全面的に変更すべきとの中間報告をまとめた。
 5年後の実施を目指すという。
 そんな東大ネタにちなんで、大学問題について書いた同書を紹介。
 副題に「知的亡国論+現代教養論」とあるように、同書は「東大」を俎上に挙げつつ、広く大学教育論、教養論を展開しているので、僕のような東大と無縁な読者にも資する内容となっている。 

 国立大学の教養学部の解体という事態は、日本におけるリベラル・アーツ教育の壊滅を意味する。
 13世紀にさかのぼる西欧の大学の歴史を紐解けば、リベラル・アーツを身に付けることで人格を陶冶する、という思想に行き着く。
 しかし、日本の場合は、近代国家が必要とする官製教育機関として大学を創設した。
 東京大学だ。
 だから、そもそも大学というものが出来上がった淵源からまったく異なるものなのだ。

 同書は他にも興味深い指摘や提言がなされている。
 例えば、理数教育の不足について。

 理数教育の減退によって社会一般のサイエンスに対する知識がなくなり、関心が低下している。そうするとマスメディアのアウトプットの中にサイエンスものが入る余地がどんどん減っていく。テレビの時間枠だって、新聞のページだって、雑誌のページだってみんなそうです。
 するとこんどはメディアの側で人をとるときも大学で理科のトレーニングを受けた人は必ずしも必要ないということになる。サイエンス系の大学教育を受けたテレビ・ディレクター、新聞記者、編集者はいらないってことになっちゃう。
 その結果として、サイエンスものの時間枠やページ数が減ること以上に重要なのは、一般の記事や番組の知的水準が低下することです。ミニマムのサイエンスの常識があればありえない発想やオピニオンがメディアに平気であふれるようになってくる。(p.228)

 また、メディア論についても。

 これからの大学の教養課程ではメディアを学び、メディア・リテラシーを得ることが必要になってくるでしょう。メディアがどういう組織で、ニュース報道というものが、どういうプロセスを経てなされるのか。メディアがどういう行動原理を持ち、どういう性格を持っているのか(どういう場合に怒りをぶつけ、どういう場合にもてはやすかなど)といったことを学ぶとともに、メディアが伝える情報はどのように評価されるべきなのか(メディア情報の中に、どのような虚偽がどの程度もぐり込む可能性があるのか、そして事実問題として、どれほどほど虚偽が入り込んでいるか)といったことを学ぶことが必要です。万人がいやでも応でもメディア情報の受け手として生活を続けていかざるを得ない現代社会においては、これは最大の必須学習事項のはずです。欧米では、高等教育以前に、中等教育の段階でメディア・リテラシーを相当学ぶようになっていますが、日本ではそれが大幅に立ち遅れています。(p.311)

 他にもダークサイドに関する知識を身に付けていくことの必要性も訴えている。
 虚偽や詭弁を学び、メディア・リテラシーによって、ウソ・デタラメに対する拮抗力を養うことが現代社会に存在する悪の存在から身を護ることになるという。
 少し旧聞に属する内容もあるけど、大学教育の在り方について考えたい人には一読の価値があろう。
 庭野の陳情に、池内はたしかに「わかった」といってくれた。少ししわがれたその声は、はっきり庭野の耳に残っている。池内をときに父のように感じたりする庭野は、その「わかった」に一安心する気持になったのだが、池内もまた他の政治家と異ならなかった。どの大臣にも共通する口ぐせが、「よし、わかった」である。「わかった」といってみるのは、いかにも大臣らしいし、そして大物らしくていい。一見、肯定的な返事である。<了解>という意味にとれば、その実行を約束してくれることになる。事実、実現に努力してくれる「わかった」もある。だが、同じ「わかった」でも<趣旨はわかった>とか、<気持ちはわかった>というニュアンスのことも多い。この場合は、もっともな話だと、ききおく程度で、実行に結びつかない。さらに、せっかくの官僚たちの提案や進言を真向から否定したのでは、角が立つので、その点、反対なのだが、「わかった」といって、きき流しておく。
 その意味で、「わかった」とは、いちばん油断のならない返事であった。
(城山三郎著『官僚たちの夏』新潮文庫、昭和58年第?刷<昭和55年初版>、p.223)


 昨日の流れでこの小説も目についたので紹介しておく。

 巻末の解説で、神崎倫一が、

 官僚たちの夏、とくに通産官僚たちの夏、彼等が最も燃え、仕事に生き甲斐を感じたのがこの高度経済背長期の十年だった。この作品は、その頃、キャリアと呼ばれる通産高級官僚が、どのような哲学、思想を持って仕事をすすめていたか、を鮮やかに描き出している

 と書いているように、この小説は当時の省内人事、また指定産業振興法などをめぐって起きた省内闘争、また官僚対政治家の攻防戦を面白く描いている。

 政治家の独特の言葉の使い方(裏の意味)については、外務官僚だった佐藤優が、幾度か著書の中で紹介している。「精力的にやっているな」=「あまりウロチョロと変な動きをするんじゃないぞ」とか。

 ちなみに、TBSのドラマ「官僚たちの夏」(2009年)では主人公を佐藤浩市が演じていたけど、僕はNHK版(1996年)の中村敦夫の方がハマっていたと思いますけどね。
 佐藤じゃ、格好良過ぎちゃうんだナ。
 牧順三役もTBSでは杉本哲太だったけど、やっぱりNHK版の益岡徹が病弱なインテリのイメージがうまく醸し出されていて、うってつけだった気がする。
 冒頭の庭野はTBS版では堺雅人、NHK版では神田正輝だったけど、こちらも神田に軍配をあげたい。
 やっぱり、堺では高度経済成長期の時代を引っ張るって感じが薄いのだ。
 TBS版の出演者も、一人一人を観ると結構、好きなんですけどね。
 「藤堂さんには、今期限りで社長をやめて頂きたい。その理由は、御自分でおわかりと思いますが」
 島は一気に言い、血走った眼に力をこめて、東堂を見つめた。
 藤堂は、啞然とした。
 <何を言うんだ。きみは……>
 その言葉が咽喉まで来て、声にならない。島の声がさらに、遠くの世界からの声のように聞えてきた。
 「藤堂さんには会長になって頂き、ダイヤモンド計画の方に専念してもらおうと思います」
 藤堂は、目尻も裂けよとばかり見開いた。迷い言にちがいないが、たとえ迷い言にしても、議長である自分の許可を得て発言すべきではないか。きみは、たいへんな心得ちがいをしている……。
 そう言いたいのだが、やはり、ひとつも声にならない。
 藤堂は、列席の重役たちの顔を見渡した。いつもと反応がちがっていた。視線をそらす者もあったが、多くは、まっすぐ東堂を見返してくる。いままでにないことである。
 東堂は狼狽した。見馴れたはずの重役たちの顔が、見る見る見知らぬ他人の顔となって遠のいて行く。
(城山三郎著『役員室午後三時』新潮文庫、平成4年37刷<昭和50年初版>、p.55)


 職場で残業していたら携帯メールに受信が。
 メアドは、risa_fuku.19930721@docomo.ne.jp。
 「ごめんなさい。とまるところがないので助けてほしいです」とのこと。
 いたずらメールでっせ、これは。
 あやうく、「いつでもどうぞ! で、誰ですか?」と返信するところだった。
 皆さん、この種のメールにはお気をつけあれ。

 さて、今回取り上げた本書は、企業内の謀略を描いた小説だ。
 これまでこのブログで紹介した城山作品に『落日燃ゆ』があるけど、有名な『官僚たちの夏』や今回の『役員室午後三時』もそうであるように、タイトルのつけ方が非常にうまい。
 いわゆる、週刊誌や新聞の見出し、テレビのワイドショーのコピーなんかに使えそうなものばかりだ。
 すなわち、巷間でパロディやシャレとして使われやすい(使いやすい)。
 つまりこのタイトルだけが一人歩きして、小説の宣伝をしてくれるようなものなのだ。
 同じくタイトルのつけ方で言えば、松本清張なんかもうまい。
 「点と線」「ゼロの焦点」「けものみち」「わるいやつら」「日本の黒い霧」……今でも時々、コピーとして使われている。

 参考までに、小説に登場する紡績会社・華王紡は、言うまでもなく「鐘紡」がモデル。
 東堂のモデルは、武藤絲治社長だ。
 彼の後任の伊藤淳二社長は、後に会長となって「院政」を敷き、やがて中曽根首相(当時)の一声で日本航空の副会長、会長を歴任するに至り、123便墜落事故の後始末に負われる。
 山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」とカブるところだ。
 大手企業の役員同士で繰り広げられる暗闘は滑稽かつ悲哀あふれるものだ。 

 なお、僕が「役員室午後三時」という言葉を初めて耳にしたのは、CBCラジオの番組だった。
 当時、同局で放送しておた「冨田和音株式会社」に、この名前のコーナーがあったのだ。
 覚えている人、いますか?
 古典的な論理学の中には、正しい推論規則について述べたものがあります。たとえば、虚議論、誤謬論、詭弁論などと呼ばれているものです。その辺を一応勉強しておくといいですね。アリストテレスの「トピカ」とか、「詭弁論駁論」なんかもいいですね。基本的には推論規則を頭に入れておかないと、普通の人はついつい善意の誤謬を犯してしまいがちです。新しいところでは、セマンティクス(意味論)、シンタックス(統辞論)について学んでおくことも必要ですね。古典的論理学が気づかなかった虚偽、誤謬がいろいろあるものだということがわかります。
(立花隆著『ぼくはこんな本を読んできた』文春文庫、1999年3月初版、p.160)


 いまさら、この本です。
 この「いまさら」には2つの意味があって、1つ目の「いまさら」は、1995年12月に単行本、1999年3月に文庫化された同書をこの時期に紹介している「いまさら」。
 ま、この点について理由が簡単で、「たまたま書棚を整理していたらポロっとでてきた」からであって、他に他意はない(殴)。
 2つ目の「いまさら」は本書の副題に「立花式読書論、読書術、書斎論」あるけど、そういう狙いであれば、立花自身が1984年に『知のソフトウェア』(講談社現代新書)を発刊しており、こちらのほうがより実践的だと思う「いまさら」だ。しかも後者の方が情報収集の仕方や取材方法などについて、今なお参考になると思う。
 立花ファンの方にとってはどうだろうか。

 その上で、立花ファンを中心に「立花隆ってすごいなあ。大学教授などその分野の専門家と議論して勝っちゃうんだもんなあ」という素朴な驚きと敬意の念があると思う。
 これについて、立花は、

 専門家には専門家の陥りやすい間違いというのがやはりあるんですね。……(中略)……人間にはたとえば錯視という現象があるでしょう。あるパターンで配置されると、まっすぐな線がまっすぐに見えなかったり、同じ長さのものが片方長く見えたりね。それと同じで、人間が物事を考えていく上でも、間違えやすい論理のパターンというのがやはりあって、それはかなり共通している面があるんです。(p.160)

 そんな語りの後に、冒頭の引用カ所につながる。
 「論理学」の必要については、いぜん佐藤優も訴えていた(佐藤優 in名古屋境ァ疎りないのは数学・哲学・論理学)。

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