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名古屋在住の管理人が書き綴る日記、読書・映画・岩崎宏美等に関するメモです。

読書メモ

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 新ガイドラインといえば、「邦人保護のために」自衛隊の海外派遣を拡大するための自衛隊法改正案が含まれているけれど、「邦人保護」なんて、日本政府にだけは、言ってもらいたくなかった。
 かつて関東軍は、国策で満州に移民した開拓団の邦人をものの見事にうっちゃって過酷な運命に放り出したのだし、沖縄戦では、軍は現地の住民を弾よけにしたではないか。そういう公優先、棄民の立派な伝統が、日本の軍隊には脈々と受け継がれているのではなかったのか。
 湾岸戦争の時も、ペルー大使館人質事件の時も、ついこのあいだのインドネシアのスハルト大統領退陣前後の暴動の時も、思い知らされたのは、世界各国の在外公館の中で、日本の公館ほど邦人保護に鈍感なところはないということだった。
(米原万里著『真夜中の太陽』中公文庫、2004年初版、p.131)


 本書は2001年に中央公論新社から発刊された単行本の文庫化。

 筆者は、文豪・トルストイが晩年、禁欲を訴えたけれども、若いころには「女漁り」がヒドかったことをあがて「似合わない台詞」つまり”あなたにだけは言われたくない”という台詞があることを指摘する。
 そして、 

 人間とは面白い生き物だ。後ろめたいことを抱えている人ほど、まさにその後ろめたい問題について恐ろしく説教臭くなる。自己の最大の欠点を他者に見いだすや、とたんに正義漢面して容赦なく過激な非難を繰り返したりする。こいつだけは、そのことで偉そうに指図したり、非難したりする権利はない、こいつにだけは言われたくない、と万人に思われている当人ほど、そうなのだ。
 人間の集団でもある国も、同じようなところがある。(p.130)

 と綴った後、例えばアメリカは、人類に対して初めて核兵器を用いた国だが、当時、性懲りもなく核兵器の未臨界実験を繰り返していることを指摘する。
 しかも、他国の核開発に対する懲罰には異常に熱心で、国際法も無視してイラクにミサイルすら打ち込むから、何をかいわんや、だ。。
 そして我が国・ニッポンでは当時、国会で成立した新ガイドラインで日米安保体制や自衛隊の性格・意味が大きく変わった。
 その時の大義の一つが「邦人保護」だった。

 筆者はこのエッセーの締めくくりに書いている。

 在外公館だけではない。阪神大震災の被害者に対する日本政府の、手厚い銀行支援とはあまりに対照的な冷酷無比な仕打ちを見ればよく分かる。だから、日本政府にだけは「邦人保護のために」なんて台詞、はいてもらいたくないのだ。(p.132)

 東日本大震災に対する民主党政権の対応から、彼女だったら何を感じたか。
 市場原理にからめとられると、やはり英語がいちばん効率的になっちゃうんですね。いちばん多くの人が話すし、辞書にしても本にしても、英語であればいちばん売れます。ところが、市場原理を離れると、実はどの民族にも価値がある。どの民族にも面白い歴史と文化があるわけで、それを知るためには、それぞれの言語をやらなくちゃいけないんですね。市場経済はこれを省略しているんですよ、効率一辺倒ですから。
 ところがソビエト時代のロシアは、世界中のあらゆる言語を、それこそ計画経済で、国民に学習させたんです。
(米原万里著『ガセネッタ&シモネッタ』文春文庫、2006年10月第9刷<2003年6月初版>、p.133)


 本書は、2000年12月に文藝春秋から刊行された単行本の文庫化。

 語学教育に限った話ではなく、ソ連のエリート教育ってホントにすごかったんだな、と感心する。 
 筆者は上の引用部分員続けて、書いている。

 東京外語大にいたときのことですが、ヒンドゥー科の学生で、ヒンドゥー語よりもさらに少数民族の言語を勉強しようと思って、その教科書を探したらぜんぜんない。英語圏にもなくて、ロシア語をあたったら初めて、その少数民族の教科書と辞書があったそうです。それで、その言語を勉強するためにロシア語をやったっていう学生がいたんですね。日本というのは、英語経由で発信し英語経由で世界の情報を入れているわけですが、ロシアというのはそういうやり方をやった。
 ですから、ロシアに行って「外国文学」という雑誌を読むと、もうほんとに名前も知らないような、アフリカの小国やアジアの小国の文学作品が読めるんです。わたしの知っている文学とはぜんぜん違う感受性とか、もののとらえ方に新鮮な衝撃を受けることがあるんですが、そういう言語からでもロシア語に翻訳する人がいるっていうことなんです。ロシア語をやっていると、そういう情報地図が出来てくるんですよね。(p.133)

 アメリカはどこの国へ行っても英語で通すけれど、ロシアは世界を征服するために、あらゆる国の言語を勉強させたんですね。国家計画に従って毎年一定の学生を選んで、世界中の言語を学習させてしまうんです。日本にもタイにも、アフリカ諸国にも、その国の言語のできる外交官と特派員を送る。これは大変なことです。だいたい、一人の同時通訳者を育てるためには、背後に二〇〇〇人くらい学習者がいるわけです。(p.147)

 たとえばチベット語の辞書となると日本ではまず出ませんよね。ところが、市場原理が働かなかったソ連ではちゃんと出したわけです。もう、われわれが名前を知らない国の言語をやっている人が必ずいるんですよ。
 日本語についていえば、『源氏物語』や『平家物語』は当然のことながら、『大宝律令』の訳まで出ています。日本人だって読まないのに、ロシア語訳があるんですよ。
 こういう、ある国について知るという情熱というか、エネルギーというか、それを背景に同時通訳者が生まれるわけです。(p.147)

 筆者は、当時、話題になっていた「英語を第二公用語に」との風潮に警鐘を鳴らしている。
 
 日本語に翻訳される映画、書籍の九割強が英語からの、あるいは英語経由である。圧倒的多数の日本人の情報地図は、アメリカを中心とする大国から成っている。実に単純明快。今回の第二公用語化への動きは、この流れの一環であろう。始末の悪いことに、それこそが「国際化」だと錯覚している。
 要するに、出入国を長崎の出島に限定し、オランダ語のみを経由して世界を知ろうとしていた鎖国時代と少しも国際交流のパターンは変わっていないのだ。
 しかし、どの言語においても、他言語に訳される情報は、その言語によって担われている情報の数百分の、いや数千分の一にも満たない。つまり、ひとつの言語を知るか知らないかによって、その人の情報地図はまったく異なる様相を呈する。その上、どの言語も、その言語特有の発想法とか、世界観を内包しているものだ。だから、たった一つの言語経由ではなく、日本語と世界中のさまざまな言語との直接的な交流こそが、日本人と日本語をより豊かにするものであるし、日本が特定の超大国経由ではなく、直接世界の国々と対等な関係を築くことこそが、本物の国際化なのだ。英語第二公用語化は、その豊かな可能性を閉じる鎖国政策に他ならない。(p.198)

 今はビジネスの世界で「社内の公用語を英語に」との動きがよく見られる。
 もっとも、企業は資本の論理に則って活動しているので、この場合はまだ理解できる。
 しかし、少なくとも教育や文化の戦略上、学ぶ言語の裾野を限定したり、狭めたりすることは、国益を損なうものである。
 筆者は、そう主張したいのではないか。
 自分を、あるいは自国民をカリチュアライズできる国民、自分と自国民を突き放して第三者の目で見据え、自己の欠点を笑うことのできるほどに成熟した国民は、余裕がある。しなやかで強い。その方面に優れた素質を示した民族と言えば、愚見では、ユダヤ人(試みにユダヤ・ジョーク集を一読されるとよい)、それに、イタリア人とロシア人ではないだろうか。
 ところで、笑い飛ばすための方法としてだけではなく、ものをしっかりと見定めるためには、相対立する両当事者の二つの視点に加えて第三の眼が不可欠であることを、人類はずいぶん昔から気づいていたようだ。
 たとえば、国家権力のような、多数の人々の運命を左右し、弱者の権利を侵害しがちなやっかいな必要悪ともいうべき代物については、複数の相互に独立した機関に分けて分担させるべきだとする権力分立論が、古代ギリシャのアリストテレスの複合政体論あたりから主張されてきたことは、よく知られている。
(米原万里著『魔女の1ダース〜正義と常識に冷や水を浴びせる13章〜』新潮文庫、平成15年1月4刷<同12年1月初版>、p.190)


 日曜日に三重・津市まで仕事。
 先方から天津甘栗をもらった。
 今も皮をむきながらこのブログを書いているんだけど、栗によって綺麗に実が取り出せたり、薄い皮が実にへばり付いていたり、ムラがあるんだよねえ。
 味には関係ないけど。

 さて、本書は1996年に読売新聞社から刊行された単行本の文庫化。

 はじめに断っておくと、僕は米原万里とは相性が悪い気がする。
 理由は「何となく」なんだけどね。
 あえて言えば、生きる上で依って立つ所の根っこの部分で相反する価値観を抱いている、と言えようか。
 彼女の著作の幾冊かを読むと、そんな気がしてならない。
 多分、彼女が生きていて僕と接したら、彼女も同じことを感じるはずだ。
 だけど、そんなことは世間ではよくあることで、彼女の多くの著作に対して、僕は評価の声を惜しまない。
 確かに数多の著作の中には、明らかな事実誤認(噂や事実無根の“定説”を前提とした評価など)も紛れ込んでいて、時に罪深いという気はする。
 優れたエッセーを多く残した人物だけに、惜しくもあり、残念だ。
 佐藤優さんにまたお会いできたら、ご意見を伺ってみたい。

 本書を挙げた理由は、「サンデー毎日」5/8-15号の特集記事「絶望が希望に変わる本」の中で香山リカがオススメの一書として紹介していたから。
 「ああ、この本ならあったな」と思い出し、引っ張ってきた。
 香山リカいわく、

 言語や文化が違えば常識もそれくらい違う、ということ。たとえば、ある文化の常識は別の国の非常識に、ある言語の上品な言い回しはほかでは下ネタになったりする。
 筆者は「だから異文化は面白い」と高みから解説したいのではなくて、「世界や人生の価値は相対的で流動的。だからあまりこだわりすぎないで」と言いたいのではないかな、と私は思っている。そう、ひとつの国でも悲しみが思いやりに、絶望が希望に転換することだってあるはず。

 とのこと。

 さて、筆者は、冒頭の引用部分の後に、濫用必至の権力の集中を避けるため、人類は三権分立に代表されるように、権力を相互に独立させることによって、抑制・調整するシステムを採用した歴史を確認する。
 そして、綴る。

 社会主義体制崩壊の最大の要因は、この人類が到達し得た権力に関する英知に注意を払わず、自家撞着の見本のような「良き権力」なる幻想に囚われたためである。レーニンの有名な「全権力をソビエト(代議制評議会)へ」という十月革命のスローガンにもあるように、世俗三種を集中したソビエトを完全な下部機関として従えた共産党の書記長は、唯一の公認イデオロギーの最高神官も兼ねていたので、絶対王政の国王を凌駕するスケールの権力者だった。(p.191)

 このように身近なユーモア溢れる話題(下ネタも多いけど)から政治、外交、文化の諸問題に展開していく術は見事なのだ。 
 言葉の重みや深みというのは、それを書いた個人が、その生き方そのものを通じて「債務保証」するものです。
 (内田樹著『街場のメディア論』光文社新書、2010年9月20日初版第5刷<同年8月20日初版第1刷>、p.90)


 『日本辺境論』より、本書の方がよほど面白く、内田樹のテイストが詰まっていると思うのだけど。
 特に著作権の考え方などは、レヴィ=ストロースの理論を援用しながら、ユニークなものとなっている。
 出版文化の衰退の原因の所在についても、筆者ならではの視座を感じる。

 さて、上は言葉の重みについて筆者が述べた箇所だ。
 例えば、週刊誌で誤報や名誉毀損のトラブルが起こる。
 しかし、その責任を取るのは個人ではなく、会社だ。
 名誉毀損の裁判で負けたら、賠償金は会社が支払う。
 会見を開いても、基本的には書いた記者ではなく、役員や弁護士だ。
 謝罪文を掲載することになっても、謝罪の主体は記者ではなく会社だ。
 メディアでは個人は責任を取らない。
 筆者は、これはおかしいと言う。

 「最終的にその責任を引き受ける個人を持たない」ような言葉はそもそも発せられる必要があるのか。
 僕は率直に言って、「ない」と思います。(p.89)

 そこで上記の引用文へと続く。

 さらに筆者は、ある例えば話を語る。
 歌手の高田渡があるラジオ番組で、自身の少年時代のひどい貧乏の話をした後で、「僕は貧乏人には同情しない」と言った。
 貧窮のうちにあったとき、高田少年は向上心を持たなければここから抜け切れないという個人的確信を持った。
 それゆえに「貧乏であることに安住している人には同情しない」という逆説的な言葉が出たわけだ。
 筆者は、

 この言葉は高田さんが語った場合にはある種の重みや深み厚みがあり、ある種の真理性を帯びます。けれども、苦労知らずに育ったお坊ちゃんが同じ言葉を口にした場合には、そうはゆかない。
 (中略)すべての言葉は、それを語った人間の、骨肉を備えた個人の、その生きてきた時間の厚みによって説得力を持ったり、持たなかったりする。正しかったり、正しくなかったりする。(p.90)

 と説明する。
 いわゆる「お前にだけは言われたくない」というものも、この範疇だ。

 もちろん「1+1=2」のような誰が言っても「正しい」という、いわば真理のような言葉もあろう。
 しかし、「真理」は往々にして人の心を動かすことはない。
 人は、「真理」ではなく「価値」にこそ、心を動かす。
 「価値」は主体と客体の関係で成り立つ。
 だからその主体(人間)と客体(言葉)の関係こそが問われる。
 そこから創出された価値(言葉の重み、深み)が、他者の心を揺さぶる。
 非武装を国是として生き延びた国は歴史上存在しない。でも、そういう非現実的な攻略が日本国内には一定の支持を得ている。それはこの「世間の常識を知らない」という無知から現実的な利益を現に引き出しているからです(戦後六十五年間、わが国の軍人が他国の領土で一人の外国人も殺していないという事実は間違いなく日本に有形無形の政治的利益をもたらしています)。「非現実」を技巧した「現実主義」、「無知」を装った「狡知」ともいうものがありうる。それをこれほど無意識的に操作できる国民が日本人の他にあるでしょうか。
 (内田樹著『日本辺境論』新潮新書、2009年初版、p.69)


 内田樹の著作の中でも30万部を超えたベストセラー。
 しかし、僕の中では数ある内田本の中でも特に評価が高くない。
 新潮新書ってショボい本が多いので心配はしていたのだけどねえ。
 本書の「はじめに」で、筆者は“本書はコンテンツにはさほど新味がない。けれども新味がなくても繰り返し確認しなくてはいけない命題もある。だから体系だった論も結論らしい部分もないけど書いた”という意味の一文を書いている。
 実際、本書の内容はその通りのものだった。
 新味はなくて、体系だった論も結論らしきものもなかった。
 だから、こういった点で文句を声だかに言おうとは思わない。
 繰り返し訴えることの大切さも認めるにやぶさかでない。
 だけど、かりにも内田氏がわざわざ新潮新書で書くことではないのでは……とは思ってしまう。
 また、文体で言えば、同氏は、やはりブログでつれづれなるままに書いたり、対談で闊達に語ったりする言葉にこそ、魅力を発揮する。
 そこに加えて、レヴィ=ストロースあたりを援用しながら、ユーモアを織り交ぜた理論武装で読者の膝を打たせる……そうあって欲しかった。
 少なくとも本書は僕の欲する文体の魅力が希薄だった。

 さて、そんな中から一カ所だけ引用するとすれば、上記の一文か。
 これには前振りがある。

 日本は「非核三原則」なんて掲げておきながら、核兵器を搭載した米軍艦が日本国内に入港していることも、ちゃんと知っていた。
 政治家も官僚もメディアも、みんな知っていて、知らない振りをしていた。
 「アメリカに騙されているバカな国」を演じることで、非核三原則と、米軍艦の持ち込みという矛盾を糊塗した。
 普通の国はそんなことは絶対にしない。
 仮にも主権国家が「他国に騙されているのを分かっていながら、騙された振りをして、面倒な問題を先送りする」なんて芸当は、日本人しかできない。
 非武装中立論もこれと同じだ、と筆者は主張する。

 ただし、筆者はその後に、逆のパターンも併記する。

 その逆に、何かの理由で、挙国一致的な努力が要されるときは「世間の常識を知らない田舎者のままでいいのか」「世界標準からこんなに遅れているぞ」という言い方が採用される。必ず採用される。その恫喝が有効なのは、自分たちが世界標準からずれているということをについては(日本国民全員にその認識がある)【カッコ内傍点】からです。
 (中略)わが国では「華夷秩序周辺の辺境だから」という前段から、まったく正反対の結論をそのつどのこちらの事情に従って導くことができる。(p.70)

 このあたりの説明を筆者は少し前の方で、端的に書いている。

 私たちは変化する。けれども、変化の仕方は変化しない。そういう定型に呪縛されている。どうして、そんな呪いを自分にかけたのか。理由はそれほど複雑なものでありません、それは外部から到来して、集団のありようの根本的変革を求める力に対して、集団としての自己同一性を保持するためにはそういう手だてしかなかったからです。もっぱら外来の思想や方法の影響を一方的に受容することしかできなかった集団が、その集団の同一性を保持しようとしたら、アイデンティティの次数を一つ繰り上げるしかない。(p.29)

  だから「日本辺境論」という日本文化論ができあがるというのだ。

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