窓から名古屋城が見える

名古屋在住の管理人が書き綴る日記、読書・映画・岩崎宏美等に関するメモです。

読書メモ

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 会見場は、テレビや新聞など報道陣が待ち受けていた。予想外の盛況に驚き、同時にマスコミが自分に何を期待しているのだろうかと戸惑った。
 記者会見で最初に飛び出した質問は、「いまも体罰は教育だと思いますか」だった。
 戸塚校長は、この時、考えた。もし、「いえ、思いません」と答えれば、「あの戸塚が刑務所で反省した」という報道になるだろう。逆に、「思います」と答えれば、「全然、反省していない」と叩くはずだ。結局、どう答えても、論調は自分の思うようにはならない。戸塚校長は「体罰は教育です」と答えた。結果は、予想通りだった。多くのメディアは、「戸塚校長は反省していない」と報道したのである。
(東海テレビ取材班著『戸塚ヨットスクールは、いま 現代若者漂流』岩波書店、2011年初版、p.42)


 先日、仕事帰りに100円ローソンで買ったんだけど、ドリトスとマイク・ポップコーンとチートスの3種類のお菓子がワンパックになった「スナックミックス(ピザ味)」(ジャパンフリトレー)は、いいですねえ。
 パリッ、フワッ、カリッと3種類の歯ごたえが楽しめます。
 
 さて、ここのところ昨年末に目を通した本を書きなぐってきたが、本書は先週発刊された新刊を紹介する。
 既に今月に入って幾度もこのブログでアップしたが映画「平成ジレンマ」を手がけた東海テレビの取材班(と言っても、ほとんどディレクター一人で書いたようだ)が、映像に盛り込めなかった内容も織り交ぜながらまとめ上げたドキュメンタリーブックだ。
 映画「平成ジレンマ」については既にこのブログで幾度か紹介しているので、ここでは割愛する。
 本書を読んで改めて感じたのは、今回の映画は「光と影」に続いて、東海テレビ取材班による痛烈なメディア批判になっている、ということだ。
 例えば、スクールの屋上から訓練生が飛び降り自殺する、という出来事があった。
 マスコミが押しかけ、戸塚校を囲んで次々と質問する。
 その一つ一つに丁寧に応える戸塚校長だが、次の質問には顔色を変える。

 「屋上に高いフェンスを設置していなかった。飛び降りやすい状態になっていたのではないですか?」
 戸塚校長は声を荒らげた。 
 「あなたね、昔、マスコミはなんと言いましたか? 監禁するから、そういう事が起きると言ったのだよ。今度は監禁しなかったから悪いというの? みんなマスコミのせいだよ。自分たちは正義のつもりでいるけど、諸君が日本の教育をダメにしたんだよ。よく、考えてごらん、なぜ、あんな子が出来たのか。一八歳にもなって、普通の子だったらキャッキャッと遊んでいるだろ。それもできずに落ち込んでしまって。ああいう風にした人がいるんじゃない。その元の責任をしっかり追及してくれよ。いつも、マスコミは末端の現場にだけ文句を言う。悪い癖だよ。事の本質が分かっていない。もういい加減にして欲しい。マスコミがちゃんとしていれば、あんな子は出来ないのだから」
 戸塚ヨットスクール事件から三〇年。その事件の中身も、経緯も、把握している記者はいないかもしれない。ただ、体罰=暴力。暴力=悪という図式が、こびりついているだけなのかもしれない。校長の怒りに圧倒され、記者たちはそれ以上、突っ込むことができなかった。(p.84)

 もちろん、東海テレビ取材班は、戸塚校長の言い分に、100%納得していない。
 質問した記者も「監禁すべきだった」とは言っていないし、少なくとも東海テレビの取材班は、自分たちが正義だとか、逆に日本の教育をダメにした、なんて自覚はない。
 また、マスコミがちゃんとしていれば「あんな子」が出来ないなどと、そんな単純化して問題を捉えてはいない。
 ただ、これだけは言える。
 この映画(番組)が扱いたかったテーマや狙いはメディア批判ではないのだけど、必然的にそういう側面を持ってしまう。
 なぜならば「戸塚ヨットスクール事件」そのものが、マスコミによって作り上げあげられた側面が大きいからだ。
 劇場型と言ってもよい。
 だから、この事件、もしくはスクールを取り上げようとしたとき、どうしてもかつての報道の在り方を、改めて吟味する必要に迫られる。
 ここが「光と影」と共通する点だ。

 また、直接のメディア批判にはなっていないが、こういう記述もある。

 戸塚=体罰。体罰=暴力。暴力=悪。悪=戸塚。単純な論理に流し込むことで、この三〇年、私たちは戸塚ヨットスクールを否定し、社会的に葬ってきた。しかし、不登校、引きこもり、家庭内暴力、果ては親子間殺人と沸点に達していく家庭は、社会から孤立を余儀なくされているだけで、その解決の糸口すら提示できていない。…(中略)…暴力か教育か……。熱狂し、硬直し、そして忘却した、あの二元論を越えていく力が私たちの社会に求められている。(p.57)

 「私たち」――報道する側の姿勢にも通じる問題提起だ。
 もし機会があれば、ディレクターのメディアの報道についての問題意識などを聞いてみたいと思った。
 なお本書の最終章では、昨日、このブログで著作を紹介した森達也らが寄稿している。
 限られた予算の中で彼らは番組を作り、その対価としての報酬を得て、家族を養っている。この世紀のスクープの価値がわからないのかと声を荒らげる必然性や正当性は僕にはない。
(森達也著『下山事件(シモヤマ・ケース)』新潮文庫、2006年初版、p.193)


 本書は、2004年に発刊された単行本の文庫版。
 単行本は発刊されて間もなく買って読んだけど、文庫版は昨年、ブックオフで購入した。
 文庫版の末尾には、単行本が発刊されてから起きた幾つかの出来事の顛末が、「文庫版のための付記」として収録されている。
 言ってみれば、この「付記」だけを読みたくて、僕は文庫版を買ったわけだ。
 ま、ブックオフだから、買ったといっても何ら筆者への印税収入に貢献しておらず、そんなに恩着せがましく書ける立場ではないんだけれども。

 さて、本書は基本的には、1949年に起きた「下山事件」を扱ったルポもしくはドキュメンタリと言ってよい。
 本書において、

  もしも下山事件がなかったら、日米関係は大きく変わっていただろう。朝鮮戦争による特需は消え、その後の経済発展もまったく異なる道を辿っていたはずだ。日米安保は締結されなかったかもしれないし、五五体制も自動的に消える。いずれにせよ今ある形とは、まったく違う日本になっていたことだけは間違いない。(p.321)

 とまで言われ戦後史において特筆される出来事である。
 実際、僕もミステリーを読むように引き込まれ、ページをめくった。
 そして、読み進むうちに感じる。
 本書のテーマ、つまり森の書きたかったものは「下山事件」の真相そのものではない。
 では、何が書かれ、何が描かれているか。
 本書の言葉を借用すれば、まず一つは「下山病」に感染した人々によって、それぞれの仕事をめぐり展開される、人間ドラマなのだろう。
 森しかり、「彼」しかり、「週刊朝日」の編集者しかり……。
 森が意図かしたかどうかは分からないけど、少なくとも僕にはそういう読み方ができた。
 そして、もう一つ。
 森は、本書の随所で、「下山事件」の取材を通じて描いた当時の時代風景を、現在の風景と重ね合わせている。
 すなわち、二つ目として、現在のニッポンの社会だ。
 いわく、

 冷血な男たちは闇に跋扈し、様々な謀略が積み重ねられ、警察や検察は組織的な隠蔽や工作に耽り、冤罪はくりかえされ、そして、不都合な命は、あっさりと消される。何の価値もないかのように。なんのためらいもないかのように。
 今の日本が、そんな状態から脱しているかどうかは僕にはわからない。陽の当たる部分があの時代よりは広がったことは事実だろうけど、影をなくすことはできない。光源が強ければ強いほど、影は薄く、深くなる。そこには今も冷血な男たちが、血と欲に塗れながら動き回っているかもしれない。
 でも人は、あまりに近距離なものには焦点を合わせづらい。だからこそ過去を忘れてはいけない。だからこそ何度も何度も目を擦りながら、僕らは過ぎ去ってきた遠くを、凝視しなくてはいけない。(p.153)

 また、いわく、

 もしも下山、三鷹、松川などの事件が現在のこの日本で発生したとしたら、新聞の見出しを飾るのは、まず間違いなく「テロ」という二字だろう。しかし半世紀前、公にこの言葉を口にしたのは「赤色テロ」などの言葉を使った加賀山副総裁など少数派だった。戦争の傷跡がまだ生々しく残り、米軍の占領下にあったこの時代と、戦後復興や高度経済成長を体験しながら半世紀が過ぎた今とでは、この「テロ」という言葉が与えるイメージは、おそらくは大きく変わったと思う。
 でも、言葉の定義や印象が変わったとしても、事件をきっかけに世論が大きく一方向に動き、その流れを利する組織や人間たちが現れるというこの構造は、たぶん今も昔も変わらない。国際連盟を脱退して第二次世界大戦に枢軸国として参戦する過程にも、鎖国を解いた日本が帝国主義へと大きく軌道を修正する背景にも、この構造は重複する。地下鉄サリン事件を契機に国旗国歌法や有事法制が具体的に決められ、北朝鮮の拉致問題が大きくクローズアップされると同時に国交正常化が棚上げにされて最悪の日朝関係に閉塞したように、日本という国は常々、事件が起き、世相が沸騰し、行政やメディアがこれに便乗や従属をするというダイナミズムがくりかえされてきた。(p.208)

 最後に。
 本書で描かれている三つ目は(二つ目に関連するが)リアルなメディア批評だ。
 活字メディア(雑誌)と映像メディア(テレビ)の違い、ライターとしての自負・こだわり、限られた予算と時間の中で仕事をこなさなくていけないマスコミという企業の現実……こうしたものが浮き彫りになる中で記された冒頭の引用文は、森の文字通り、掛け値なしのホンネの一言なのだ。
 それまで母は、そういうことを言う人間ではなかった。父を立て、父に任せていればよかった。それで、父がいなくなった後はどうしたかというと、今度は子供を立てた。
 でも、子供を立てるとは、正直いって、邦子に御者の役をやってもらうことだった。兄が暴走したり、私が落ち込んでも、それを上手に修正していけるのが邦子だと信じて、邦子に任せていたのだ。
 その邦子がいなくなったとき、母は本来の強さを発揮してたのだと思う。私たちきょうだいは「うちの母は、父に対して本心では従順ではないけど、ハイ、ハイと言っている人だ」というぐらいの認識しか持っていなかった。
 ところが、姉は亡くなって確信したのは、いざとなったら母が一番強かった、ということだった。母を甘くみていたのだ。
(向田和子著『向田邦子の遺言』文春文庫、2003年初版、p.101)


 世間は今日まで3連休だったが、僕は結局、毎日、仕事で出社してしまった。
 厳密に言えば、12日(土)は少し家でゆっくりできたけど、そういう時に限って頭痛におそわれた。
 さほど体力に自信のない僕だが、意外とハードスケジュールには耐えられる。
 体調を崩すときは大抵、週末の体を休めるとき。
 おそらく平日に保っていた緊張感が緩むからだろう。
 むしろギリギリまで体を酷使して、最後に気を失ったように眠りに付いた方がよいのだ。
 中途半端にダラダラするのは、僕の場合、心身共に良くない。
 こういった体質が損か得かは分からないけれど。

 さて、家族の役回りというのは、時に奥深い。
 誰が決定権を持ち、主導権を握っているか、表面的に見ていては分からないことが多い。
 マンガ「天才柳沢教授の生活」のある話で、いつもやかましい妻とそれをなだめる大人しい夫が登場した。
 一見、この夫婦は妻の言い分が常に通っているように思いがちだが、柳沢は、その妻はいつもなだめている夫の言うとおりに従っていることに気付いた。
 また、これはジョークだが、ある夫いわく「わが家では大事な判断はすべて私が決定を下す。ただし、どんな判断が大事かを判断するのは妻だ」。
 これなんかは、「一番強いのはルールを決める人(側)」という、TPPなどグローバル化が進む中、国際競争にも通じる教訓にも通じるものではないか。

 ついでにもう少し国際関係に絡めて言えば、今回のエジプトの政変も、ははり中東におけるアメリカのプレゼンスが低下したという背景があるわけだ。
 表層はあくまで相手や環境によって、刻一刻と変わっていく。
 しかしそこに内在した、いわば潜在的なパワーは、そう簡単に変わるものではない。
 向田邦子の母も、表向きはどうであれ、昔から一番強かったのだ。
 個人的な体験に照らして、母が強いという点は円満な家庭の大事な条件だ。
 石川は神戸芸能社の直属支社として名古屋市中村区に名神プロダクションを設立し、その責任者として地元興行界で名を馳せるようになるまで、そう時間はかからなかった。
 クラブやキャバレーへの歌手や映画俳優の斡旋は、名神プロが一手に担当するようになるのだ。
 そのうち、大阪に置いてきた若い衆を呼び寄せたほか、名古屋で石川を慕って門を叩いてくる者も増え、所帯も少しずつ大きくなっていった。
 そして、その年月、名古屋へ進出して1年にも満たない秋、石川は名古屋公会堂で大きな興行を行った。『歌う東映祭り』と銘打った歌謡ショーで、里見浩太朗、山城新伍、品川隆二、北条きく子ら東映勢に加え、人気歌手の田端義夫が競演する豪華版だった。
 神戸芸能社名古屋支社である名神プロの旗揚げ興行であり、山口組の記念すべき名古屋進出の披露興行ともいうべき性格のものであった。
(山平重樹著『実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界』双葉社、2009年初版、p.248)


 昨年末に向けて読んだ本を今更のように整理しながら、この読書メモを書いている。
 毎年、年末から年始にかけて、戦後間もないころの社会を描いた本を手にすることが多いようだ。
 新年を迎えるにあたって、温故知新というわけではなく、戦後からの社会の流れを再確認しておきたい、という欲求の表れだろうか。
 少なくとも新刊を読むことは少ないと思う。
 ただ、現在に至るまでのニッポンの歴史を振り返ろうと思ったら、戦後ではなく、明治維新前からの方が妥当なわけだ。
 大学の恩師いわく「明治維新を経て変わったのは社会の制度だけ。社会そのものは変わっていない」。
 なるほどねえ、確かにそうだよあな。

 さて、三代目山口組直系の平松組舎弟・石川尚が、神戸から鈍行列車で名古屋駅に着いたのは昭和37年2月のある夜だった。
 石川にとって来名は初めてのことだったという。
 この前年、石川は三代目山口組若頭・山本健一に呼び出され、「名古屋で死んでこい。立派な葬儀を出してやる」と言われている。
 当時、全国制覇を目指していた山口組は、名古屋進出の鉄砲玉として、この石川を送り込もうとしたのだ。

 石川が進出する以前の名古屋の山口組勢は、昭和30年代初めに山菱の代紋を掲げた中森光義組長率いる鈴木組しかなかった。
 鈴木組長の中森は、名古屋港の作業を受け持つ港湾荷役会社の社長であった。全国港湾荷役振興協会副会長で同神戸支部長だった田岡一雄とは、まず事業関係で結びつき、やがて舎弟盃を受けたのだ。
 その後、三代目山口組の直系組長になったわけだが、当時の山口組には港湾荷役業を営む“三代目舎弟”が多かった。中森もそのひとりで、いわゆる企業舎弟だった。
 山口組直系となった鈴木組は、田岡三代目の港湾荷役業の独占体制が確立されるに従って、名古屋港の荷役業務を一手に収めるようになり、名古屋港で勢力を伸ばした。
 だが、名古屋には江戸時代以来の歴史を持つ地元の名門組織が根を下ろし、確固たる基盤を築いていた。加えて、よそ者を受け入れない排他的な伝統の色濃い土地柄であった。石川が進出した時分の名古屋では、山口組の認知度はいまだ極めて低かった。(p.242)

 だからこそ、石川に抗争を引き起こさせ、それを突破口に山口組は名古屋に進出しようとしていたのだ。
 ちなみに、この鈴木光義組長は引退と同時に鈴木組を解散させ、鈴木組若頭だった弘田武志が組織を引き継いでいる。
 弘田は後に弘田組を結成し、弘田は山口組直参となった。
 その後、弘田は司忍を弘田組若頭に据え、1984年になって弘田が引退し、司忍が、弘田組を引き継ぐ形で弘道会を設立し、現在に至っている。

 しかし、結局、石川は命を落とすどころが興行師として成功し、結果的に山口組の名古屋進出の道筋を付ける結果となる。
 しかも、「鉄砲玉方式」よりも、よほど成功する形で。
 歴史というのは面白いものなのだ。
 ホームドラマにも二通りあります。
 シリアスなものと、私がやっております「寺内貫太郎一家」のようなコミカルなものです。
 どちらがお好きかは皆様のお好みですが、コミカルなものは、どうもマジメ派に比べて一段下に見られているように思われます。
 喜劇より悲劇が上等。
 ナンセンスな笑いより身の引きしまる感動のほうが高級ということになっているのでしょう。
 「真実一路」は「嘘も方便」より上等なんでしょうか。
 マジメに語られるとすぐ、真実と信じてしまう。
 ふざけながら演ずると、他愛のない低いものだと決めつけてしまう。どうもそんな気がします。 
 (向田邦子著『女の人差し指』文春文庫、1997年第20刷<1985年第1刷>、p.109)


 山田太一と並んで向田邦子の文章って、いいんですよねえ。
 いわゆる「逆立ちしてもマネができない」っていうのを痛感する書き手の一人です。

 ところで、「喜劇より悲劇が上等」というのは、どうだろうか。
 現実にはそう思われ勝ちなのかもしれないが、歴史を振り返るとそうでもない、
 例えば喜劇王・チャップリンの生涯を垣間見れば分かるように、例えばスターリン・ジョークなるものがあるように、喜劇や笑いに対してこそ、時代の為政者の目は光っていたのだ。
 (もっと言えば、この「喜劇」に「エロ」も加わるんだけど、それはさておき)
 それは表面的にはこっけいなドタバタ劇でも実は権力者に対する痛烈な風刺が……というこれまた表面的な解釈ではなく、笑いにこそ人間の根源的な部分が根付いているということだろう。
 笑いの効用、否、笑いのエネルギーとでも呼ぼうか。
 有能な為政者はそれを直観的に知るのものではなかろうか。
 
 随分前に三谷幸喜脚本の芝居「笑の大學」をテレビで観たとき感動を僕は忘れたことがない。
 「笑い」の力を信じ抜いている三谷のメッセージがしっかりと込められている。
 映画の「笑の大學」はいまいちでした。
 名古屋市役所もロケで使われていたんですけどねえ。

 「岸辺のアルバム」とまとめて同書は、出張で上京する際に新幹線で読了。
 高速移動の空間では、小説やエッセーが読みやすくていいですねえ。

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