窓から名古屋城が見える

名古屋在住の管理人が書き綴る日記、読書・映画・岩崎宏美等に関するメモです。

読書メモ

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 「問題は生命(いのち)が燃えているかどうかだ」
 ちょっと酔った頭で繁はそう思った。
 哀愁の家は素晴らしい。お母さんが浮気して、お父さんが相手の男を刺しちまうなんて素晴らしい。相手の男が、瘠せちゃったのも素晴らしいし、お母さんが戻ってこないのも素晴らしいし、家がめちゃくちゃになったのも、兄さんが相手の娘さんと恋愛しちゃったのも素晴らしい。そのかけらさえ、わが家にはないじゃないか。
 わが家は一体なんだ? なにがあったってなんにもないのと同じじゃないか!
 (山田太一著『岸辺のアルバム』角川文庫、平成2年20版<昭和57年初版>、p.308)


 久方ぶりの更新。
 先週から東京出張で、同じ新宿区内でありながら、ホテルをハシゴするという悲しい数日間。
 一昨日、名古屋にも戻って、すぐに溜まった仕事に着手。。
 疲れが溜まったのか、昨日は頭痛に苛まれ、のたうち回っていた。
 
 さて、本書はその昔、TBSでドラマ化されたことでも有名な小説だ。
 最後にあれが流され、あれが残った光景は感動的。
 いわゆるそれまでの「ホームドラマ」の在り方を一変させた、エポックメーキングとも呼べるものでした。

 何でも話し合い、隠し事もない家族なんてあるわけない。
 だけど、「岸辺」以前のホームドラマは、何となく家族の問題が家族の中で解決でき、丸く収まった。
 それは、ドラマのお約束でもあったわけだ。
 それを山田太一は「岸辺」で家族皆が秘密を持ち、互いに欺き合い、隠し合う様子を見事に描いた。
 身も蓋もない、と言ってしまえばその通りだ。
 しかも、父の仕事、姉の心の傷、長男の仕事など、決して希望にあふれる行く末が明確になっているわけではない。
 それを救ってるのが「アルバム」の存在だ。
 それでも、家族の未来は明るい、語り掛けるように、すべてを失ってもアルバムは残った。
 そこから新たな家族の歴史が始まる。

 この小説の時代設定は、昭和50年代。
 オイルショックを経て、バブル経済を迎える前だ。
 この時代には、まだ「エコノミック・アニマル」という言葉は流布されていなかったと思う。
 だけど、既に学校の教科書には「核家族化」という言葉が太字のゴチック体で書かれていた。
 家族の在り方は既に大きく変わっていた。
 でも時代は変われども、 家庭とは喜怒哀楽が交錯し、きれい事だけでは済まされない、汚さやずるさや狡猾さや誤魔化しなどが入り混じってこその家族関係、という実相は普遍である。
 だから「問題は生命(いのち)が燃えているかどうかだ」との繁の問い掛けは現在の僕の心にも届く。
 歌謡曲といおうか、流行歌といおうか、とにかく歌の詞はくだらないという人がいっぱいいる。
 何がくだらないかたずねてみると、こういう答えが返ってくるのだ。
 低劣。支離滅裂。非論理性。無益。そして、彼らが、必ず例題として迫ってくるのが、
  パイプくわえて
  口笛吹いて
 という歌詞なのである。パイプをくわえながら、どうして口笛が吹けるのだ。こういうことを平気で書くのが歌謡曲なのだ。実にくだらん、と、こうなるのである。
 そして、その人たちは、いまだに歌詞というものは、そういうものだと思いこんでいるのである。逆にいえば、数万曲だか数十万曲の中で、テキがつっこみ得る材料は、それしかないということもできるのだ。実に立派なものではないか。
 (阿久悠著『作詞入門』岩波現代文庫、2009年初版、p.34)


 同書は1972年に産報から刊行された内容に「僕の歌謡曲論」(岩波新書『書き下ろし歌謡曲』所収)を収録したもの。

 僕は、「パイプくわえて…」の歌謡曲批判を聞いたことがない。
 当時、よく聞かれたものなのだろうか。
 それにしても、この引用個所は、言論の技法としても興味深い。

 昔からあるもので、今なお継続され、発展・拡大を成し遂げているもの。
 そうしたものに対して、昔から相も変わらぬ切り口の批判がなされるというのは、それだけで結局、そこしか攻める場所がないことの証明であり、逆に相手にはほぼ非の打ちどころのないことを証明するようなものなのである。
 そして、こういう場合、大抵はその攻め口も、ホントは攻め口になっていない。
 実際、これに続く阿久の舌鋒はいや増して鋭い。

 日本人のつまらなさ、余裕のなさはというのは、実は、この“パイプくわえて”を許さない精神ではないかと思っている。
 低劣。支離滅裂。非論理性。無益。ということも、心の持ち方次第では、
 大衆性。飛躍。超論理性。無害、こうも書けるのである。楽しむことの苦手な人々に、ショックを与えてやるのも、これからも作詞家の任務ではないかと思う。(p.35)

 論理的にいえば、無益=無害ではないのだが……ま、それはさておこう。
 来週は師走に突入する。
 紅白歌合戦、レコード大賞……力在る歌に恵まれなくなってから久しいですねえ。
 星野哲朗氏も亡くなっちゃったし。

 私が兩手をひろげても、
 お空はちつとも飛べないが、
 飛べる小鳥は私のやうに、
 地面(ぢべた)を速くは走れない。
  
 私がからだをゆすつても、
 きれいな音は出ないけど、
 あの鳴る鈴は私のやうに
 たくさんな唄は知らないよ。
  
 鈴と、小鳥と、それから私、
 みんなちがつて、みんないい。
(「私と小鳥と鈴と」、金子みすゞ『さみしい王女 新装版 金子みすゞ全集・掘JULA出版局、2003年第44刷<1984年初版>、p.145)

 
 金子みすゞの詩から。
 最後は学校の教科書でも紹介されているという「私と小鳥と鈴と」。
 「みんなちがってて、みんないい」で知られるこの詩は、彼女の詩の中でも最も有名だろう。
 松坂屋名古屋店で開催中の「金子みすゞ展」の入場券の裏にも、この詩が刷ってある。

 「みんな個性があってよい」と言えばその通りなんだけど、何となく底の浅い響きが付きまとう。
 宗教改革以降、近代主義の嫡子として広まった「自由」「平等」、ひいては「個性」という名の価値。
 これらに懐疑をぶつける言説は、枚挙に暇がないだろう。
 しかし、例えばこの「個性」信仰に対する急所を突いた鋭き批判を、僕は寡聞にして知らない。
 例えば、昔から絶えることのない「身体障害者にとって『障害』は個性か」という命題など、まさにその典型で、大抵の場合、「それは個性とは違うものだ」「でも個性と認識している人もいる」といった、不毛と言ってもよいほどに非生産的な論議に陥ってしまう。
 先日もこのブログで書いたけど、おそらく、求むべくは「個性」ではなくて、むしろ逆の「普遍」なのであろう。
 差異を超克した普遍的価値。
 そこに根差した言葉を紡がない限り、対極に位置する両者の架橋作業は不可能ではないか。
 宗教的啓示にしても、自然科学の法則の発見にしても、結局は、「普遍性を見出した」「普遍性を垣間見た」ということに尽きよう。
 そして、金子みすゞも、その独特の感性で自身と小鳥と鈴を洞察し、普遍性、そして個性を見出したのだ。

 名は芝草といふけれど、
 その名をよんだことはない。

 それはほんとにつまらない。
 みじかいくせに、そこら中、
 みちの上まではみ出して、
 力いっぱいりきんでも、
 とても抜けない、つよい草。

 げんげは紅い花が咲く、
 すみれは葉までやさしいよ。
 かんざし草はかんざしに、
 京びななんかは笛になる。

 かれどももしか原っぱが、
 そんな草たちばかしなら、
 あそびつかれたわたし等は、
 どこへ腰かけ、どこへ寝よう。

 青い、丈夫な、やはらかな、
 たのしいねどこよ、芝草よ。
(「芝草」、金子みすゞ『空のかあさま 新装版 金子みすゞ全集・供JULA出版局、2003年第44刷<1984年初版>、p.15)


 引き続き、彼女の詩集から。
 彼女の詩には松坂屋の展示名の副題にもあるけど「みんなちがって、みんないい」というメッセージが込められた作品も多い。
 SMAPで言うところの「世界に一つだけの花」だ。

 「無名の庶民」という言い方があるけど、名前はあるんですよねえ。
 そして、無名は無力ではない。
 「だけどやっぱり人は、見てくれの悪い花よりは美しい花を選ぶ」というかもしれない。
 多分、そうだろう。
 でも、それは「他人が注目するか否か」という基準のみによる価値判断に過ぎないとも言える。
 寿命はどちらが長くなるか分からない。
 たくましさも分からない。
 希少価値も分からない。
 商品価値も分からない。
 これは別に「何か一つでも強みがあれば、それを自信にして頑張れる」といった、なぐさめの話ではない。
 花の持つ価値は、多様だ。
 その上で、皆、同じ花という平等性も有している。
 平等と言う言葉に近代主義特有の臭みを感じるならば、普遍性と言ってもよい。
 その多様性と普遍性の価値を等しく見抜く眼を持ち合わせ、それを自らが生きる上での価値観にどれだけ引き寄せられるかが、大事なのだろう。
 みすゞには、おそらくそれができていた。
 だからこそ、決して幸福とは言えなかった暮らしの中で、かくのごとく傑出した作品を編み出せたのだろう。
 朝燒(やけ)小燒だ
 大漁だ
 大幤曄覆おばいわし)の
 大漁だ。

 濱(はま)は祭りの
 やうだけど
 海のなかでは
 何萬の
 鰮のとむらひ
 するだろう。
(「大漁」、金子みすゞ『美しい町 新装版 金子みすゞ全集・機JULA出版局、2003年第44刷<1984年初版>、p.101)


 松坂屋名古屋店の本館7階(大催事場)で、今月25日から「没後80年 金子みすゞ展〜みんなちがって、みんないい」が始まる(12月6日まで)。
 彼女の展示はなかなかないので、是非行ってみたいと思っている。
 ということで、彼女の詩集を久方ぶりに手にしてみた。

 みすゞは、16、17歳から童謡詩を書き、西条八十から素質を高く評価されていた。
 しかし、不幸な結婚生活の果て、28歳という若さで自ら、その命を絶った。
 この詩「大漁」は、彼女の詩の中でも特に有名だ。
 今日、彼女の多くの詩を本で知ることができるのも、詩人で作家の矢崎節夫氏の貢献によるものと言い切って良い。
 今回の展示も同氏が監修している。
 同氏は学生時代に、当時無名だっら彼女のこの詩と出会い、その感動のあまり、散逸した彼女の作品の収集を16年かけてやり抜いたという、すごい人だ。
 現在、山口県にある「金子みすゞ記念館」の館長を務めている。

 浜の祭りと弔いというコントラスト。
 一つの風景を目にして、まったく逆の視点から、反対の価値に満たされた情景を想像する。
 言葉で言うほど簡単ではない。
 彼女の詩は、これに限らず、思わずハッとしてしまうような、視点や視座を詠む人に突きつけてくる。
 そこがたまらない魅力の一つなのだ。

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