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徒然草〔第二十段〕
某(なにがし)とかやいひし世すて人の、「この世のほだしもたらぬ身に、ただ空のなごりのみぞ惜しき。」といひしこそ、まことにさも覺えぬべけれ。
(訳)
何のなにがしと云った世捨て人が「この世に執着する“物”を持たぬ身だが、ただ、四季の移りかわる風情だけは、心残りだ。」と、言っていたが、誠にその様に思う。
「一から勉強!?」(;一_一)!?
近頃「仏教」と云う物を、一から勉強し直してみようと思い、あれこれ思い当たる資料を引っ張り出したり、本を買って来たり、NET検索したりと、しています。
我々の知る「仏教」と云うものは、釈迦生誕のインドで何百年も創作され、それが一緒くたに成って、その何百年モノ「仏教」が中国へと渡り、中国の方達は・その「仏教」を分類・分析・精査し、一つの学問として完成されたモノが日本へと輸入され、日本に入って来てからでさへ、さらに日本らしく発展(?)分派(?)して行ったモノ、の一端を現代人である我々は学んでいる事に成ります。
「仏教」の歴史・2500年もの歴史を、全て学んでいる訳ではないのに、その枝葉の様なものから学んでなんとなく分かっている様な・気に成っている物なのではないのか?
・・・と云う・疑問が湧いて来ました
そんな「疑問」を抱えたまま、暫く過ごしていましたが、やはりこのままでは駄目だと思い、本気で近頃・調べ始めました。
そんな折、いつもの「清盛(大河ドラマ)」を見ていると「佐藤義清」と云う人物が出て来ましたが・・・
実はこの「佐藤義清」後の「西行」は、現代でもファンが多く、あの「新古今和歌集」でも93~94首も入選し・その数第一位と云う方です。
「清盛(大河ドラマ)」の通り、元エリート武士でありながら、“出家”して「西行」と名乗り、諸国を行脚しながら、数々の和歌を残した人物です。
「新古今和歌集」に、あれだけの数の和歌が載せられて居る程の方で、その当時からも・もちろん有名な人で、兼好の生きた、少し後の時代であっても・とても名の知れた方であった筈です。
それなのに、僕の知る限り「徒然草」の中においては、「西行」の事について評価している部分は無い様に思います。
現代の我々からすれば、同じ「僧侶」「出家者」「世捨て人」である「西行」の事について、まるで評価していない「兼好法師」は、どこかおかしな気がします。
「その事は、ずっと引っ掛かっていました。」(;一_一)
吉田兼好と云う人にとって「一番の時代」
それは「小野小町」の「古今集」
「清少納言」の「枕草子」
「紫式部」の「源氏物語」の時代を「最高の時代」としていたようです。
そこから考えれば、その後の時代など「さしていい時代ではない。」と、思っていたようですが、それにしても同じ出家者として、触れていても良いのでは・と云う気がします。
処が「西行」に対して、その歌人らしさに触れていないと云うのは“これは別な意図あり”と捉える方が、自然であると考えます。
そこで「西行」について、調べてみると・・・
この方・もちろん仏道修行の為・四国(空海の生まれた地)等を巡ったりしていますが、「西行」自身と縁のある奥州へも赴きながら、その中で数々の「歌」を詠み・その後の「歌壇」にも影響を与え、「芭蕉」自身も「師」と仰いでいたと云う事です。
こうした事から踏まえると、「僧侶」と云うよりも、「歌人」としての印象の方が遥かに強い様に思えます。
そうした「僧侶」の姿をした「歌人・西行」を、吉田兼好と云う「徒然草」の作者は、どう捉えていたのでしょうか?
「吉田兼好」と云う方は、「徒然草」を読んでみると、いろいろな物事の「真髄」の様なものを素早く読み取る事の出来る「達人」である思います。
「馬乗りなら馬乗り」
「木のぼりなら木のぼり」
「双六なら双六」
「弓引きなら弓引き」と、
その道の達人を訪ね、見て、話して、達人たる所以を、素早く見取る事が出来たのは、兼好自身が達人であったからではないでしょうか。
ならば、そんな兼好にとって「出家」とは、「僧侶」とは、「世を捨てる」とは
「如何なる事であったのか?」(;一_一)?
「仏教」と云う物を見て行くと、その奥には「釈迦仏教(原始仏教)」と云う物があります。
釈迦が本来云いたかった、本当に釈迦が「悟った」仏教、それが「原始仏教(初期仏教)」なのだと思います。
その釈迦にとって、一番初めに考えた事、それが「四苦」であり有名な「生・老・病・死」です。
その「四苦」の中でも、一番初めに出て来る「生」
つまり「生きる」と云う事その物を、釈迦は「苦」の一番初めと捉えているところが、何よりも釈迦仏教の真髄であると、兼好は考えたのではないでしょうか?
「生きる」と云う事、それは生き物にとって・ごく当たり前の事ですが、この世を「無常(常ならぬ物)」と捉える仏教において、その無常の「世」に囚われている「人」その物が「苦」なのだ、と云う事なのでしょう。
ですから「釈迦仏教」において、「仏道修行」とは、輪廻の現世を離れて、「仏」に成る事を目指します
それを「成仏」と捉えているようです。
その修業において「出家」とは、「悟り」の為、仏に成る為の行いであり
それは「生きる」と云う事を「やめる事」だと考えていいのではないでしょうか。
言い方を変えれば「出家」=「死(生きて居ながらの“死”)」と云う事であったと、考えます。
その事を踏まえてみると「西行」と云う人は、「生」や「死」と云うモノからは、ずっと離れられない人であったと、兼好は捉えていたのではないかと、思いました。
兼好にとって西行は
「出家者では無い!」
「僧侶でも無い!」
「私達とは違う!」と捉えていたのではないか・・・
ですから同じ僧侶としての立場では、なんの評価も出来なかったのでは、と思いました。
そんなことを考えながら、新ためて、「西行」と云う人を見てみると、
「僧侶の姿をした“自由人”」の様に思えます。
各地を漂泊しながら歩き
和歌を詠み、詩を描く
とても先進的で
僕には、
とても羨ましい生き方を
された方ではなかったか、と想像します。(^.^)/
願はくは・花の下(もと)にて・春死なむ
その如月(きさらぎ)の・望月の頃(新古今・1993?)
(訳)
私の願いは、桜の花散る・春、死ぬ事です。
如月(二月)の満月(十五夜)の頃に・(釈迦入滅の頃)
そんな僕の願いは
釈迦生誕の頃(僕の生まれた頃)
「桜の花弁舞う中で、逝(ゆ)く事です。」(^_^)/
徒然草〔第二十段〕・・・まとめです。
「この世は、とっても・うつくしい・・・。」
(^−^)
以上(*^_^*)
(写真は、NETからお借りしました。)
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