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『花は散り・星は流れ・想いは風に、 とけていく』

【徒然草】

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徒然草〔第二十段〕

徒然草〔第二十段〕
 
 
 
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某(なにがし)とかやいひし世すて人の、「この世のほだしもたらぬ身に、ただ空のなごりのみぞ惜しき。」といひしこそ、まことにさも覺えぬべけれ。
 
 
(訳)
何のなにがしと云った世捨て人が「この世に執着する“物”を持たぬ身だが、ただ、四季の移りかわる風情だけは、心残りだ。」と、言っていたが、誠にその様に思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
「一から勉強!?」(;一_)!?
 
近頃「仏教」と云う物を、一から勉強し直してみようと思い、あれこれ思い当たる資料を引っ張り出したり、本を買って来たり、NET検索したりと、しています。
 
我々の知る「仏教」と云うものは、釈迦生誕のインドで何百年も創作され、それが一緒くたに成って、その何百年モノ「仏教」が中国へと渡り、中国の方達は・その「仏教」を分類・分析・精査し、一つの学問として完成されたモノが日本へと輸入され、日本に入って来てからでさへ、さらに日本らしく発展(?)分派(?)して行ったモノ、の一端を現代人である我々は学んでいる事に成ります。
 
「仏教」の歴史・2500年もの歴史を、全て学んでいる訳ではないのに、その枝葉の様なものから学んでなんとなく分かっている様な・気に成っている物なのではないのか?
 
・・・と云う・疑問が湧いて来ました
 
そんな「疑問」を抱えたまま、暫く過ごしていましたが、やはりこのままでは駄目だと思い、本気で近頃・調べ始めました。
 
 
 
そんな折、いつもの「清盛(大河ドラマ)」を見ていると「佐藤義清」と云う人物が出て来ましたが・・・
 
実はこの「佐藤義清」後の「西行」は、現代でもファンが多く、あの「新古今和歌集」でも93~94首も入選し・その数第一位と云う方です。
 
「清盛(大河ドラマ)」の通り、元エリート武士でありながら、“出家”して「西行」と名乗り、諸国を行脚しながら、数々の和歌を残した人物です。
 
「新古今和歌集」に、あれだけの数の和歌が載せられて居る程の方で、その当時からも・もちろん有名な人で、兼好の生きた、少し後の時代であっても・とても名の知れた方であった筈です。
 
それなのに、僕の知る限り「徒然草」の中においては、「西行」の事について評価している部分は無い様に思います。
 
 
 
現代の我々からすれば、同じ「僧侶」「出家者」「世捨て人」である「西行」の事について、まるで評価していない「兼好法師」は、どこかおかしな気がします。
 
 
「その事は、ずっと引っ掛かっていました。」(;一_)
 
 
 
吉田兼好と云う人にとって「一番の時代」
 
それは「小野小町」「古今集」
 
「清少納言」「枕草子」
 
「紫式部」「源氏物語」の時代を「最高の時代」としていたようです。
 
そこから考えれば、その後の時代など「さしていい時代ではない。」と、思っていたようですが、それにしても同じ出家者として、触れていても良いのでは・と云う気がします。
 
処が「西行」に対して、その歌人らしさに触れていないと云うのは“これは別な意図あり”と捉える方が、自然であると考えます。
 
 
 
そこで「西行」について、調べてみると・・・
 
この方・もちろん仏道修行の為・四国(空海の生まれた地)等を巡ったりしていますが、「西行」自身と縁のある奥州へも赴きながら、その中で数々の「歌」を詠み・その後の「歌壇」にも影響を与え、「芭蕉」自身も「師」と仰いでいたと云う事です。
 
 
こうした事から踏まえると、「僧侶」と云うよりも、「歌人」としての印象の方が遥かに強い様に思えます。
 
そうした「僧侶」の姿をした「歌人・西行」を、吉田兼好と云う「徒然草」の作者は、どう捉えていたのでしょうか?
 
 
 
「吉田兼好」と云う方は、「徒然草」を読んでみると、いろいろな物事の「真髄」の様なものを素早く読み取る事の出来る「達人」である思います。
 
「馬乗りなら馬乗り」
 
「木のぼりなら木のぼり」
 
「双六なら双六」
 
「弓引きなら弓引き」と、
 
その道の達人を訪ね、見て、話して、達人たる所以を、素早く見取る事が出来たのは、兼好自身が達人であったからではないでしょうか。
 
 
 
ならば、そんな兼好にとって「出家」とは、「僧侶」とは、「世を捨てる」とは
 
「如何なる事であったのか?」(;一_)
 
 
 
「仏教」と云う物を見て行くと、その奥には「釈迦仏教(原始仏教)」と云う物があります。
 
釈迦が本来云いたかった、本当に釈迦が「悟った」仏教、それが「原始仏教(初期仏教)」なのだと思います。
 
その釈迦にとって、一番初めに考えた事、それが「四苦」であり有名な「生・老・病・死」です。
 
その「四苦」の中でも、一番初めに出て来る「生」
 
つまり「生きる」と云う事その物を、釈迦は「苦」の一番初めと捉えているところが、何よりも釈迦仏教の真髄であると、兼好は考えたのではないでしょうか?
 
 
「生きる」と云う事、それは生き物にとって・ごく当たり前の事ですが、この世を「無常(常ならぬ物)」と捉える仏教において、その無常の「世」に囚われている「人」その物が「苦」なのだ、と云う事なのでしょう。
 
ですから「釈迦仏教」において、「仏道修行」とは、輪廻の現世を離れて、「仏」に成る事を目指します
 
それを「成仏」と捉えているようです。
 
 
その修業において「出家」とは、「悟り」の為、仏に成る為の行いであり
 
それは「生きる」と云う事を「やめる事」だと考えていいのではないでしょうか。
 
 
言い方を変えれば「出家」=「死(生きて居ながらの“死”)」と云う事であったと、考えます。
 
 
 
その事を踏まえてみると「西行」と云う人は、「生」「死」と云うモノからは、ずっと離れられない人であったと、兼好は捉えていたのではないかと、思いました。
 
兼好にとって西行は
 
「出家者では無い!」
 
「僧侶でも無い!」
 
「私達とは違う!」と捉えていたのではないか・・・
 
ですから同じ僧侶としての立場では、なんの評価も出来なかったのでは、と思いました。
 
 
 
 
そんなことを考えながら、新ためて、「西行」と云う人を見てみると、
 
「僧侶の姿をした“自由人”」の様に思えます。
 
 
 
各地を漂泊しながら歩き
 
和歌を詠み、詩を描く
 
とても先進的で
 
僕には、
 
とても羨ましい生き方を
 
された方ではなかったか、と想像します。(^.^)/
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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願はくは・花の下(もと)にて・春死なむ
 
その如月(きさらぎ)の・望月の頃(新古今・1993?)
 
 
(訳)
私の願いは、桜の花散る・春、死ぬ事です。
 
如月(二月)の満月(十五夜)の頃に・(釈迦入滅の頃)
 
 
 
 
 
そんな僕の願いは
 
釈迦生誕の頃(僕の生まれた頃)
 
「桜の花弁舞う中で、逝(ゆ)く事です。」(^_^)/
 
 
 
 
 
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徒然草〔第二十段〕・・・まとめです。
「この世は、とっても・うつくしい・・・。」
              (^−^)
 
 
 
 
以上(*^_^*)
 
 
 
 
 
 
 
 (写真は、NETからお借りしました。)
徒然草〔第百八十六段〕
 
 
 
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吉田と申す馬乘(うまのり)の申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力争ふべからずと知るべし。乘るべき馬をばまづよく見て、強き所弱き所を知るべし。次に轡(くつわ)鞍(くら)の具に危きことやあると見て、心にかかる事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乘とは申すなり、これ秘藏(ひざう)のことなり。」と申しき。
 
 
(訳)
吉田と云う馬乗りが言う事には、「馬は皆、手強(ごわ)き物だ。人の力では、馬を制する事成らず。乗るべき馬を、先ず良く見て、強き所・弱き所を知るべきだ。次に轡(くつわ)鞍(くら)等の馬具に危ういと見・思い、心にかかる事あれば、その馬・乗る事成らず。その用意・心を、忘れざるを“良い馬乗り”と云う、これこそ秘訣である。」と、言った。
 
 
 
 
 
「新春」
 
・・・と呼ばれる「春」に成りました。
 
「春」と云われると、何処かワクワクそわそわ、してしまいます。
 
あれこれ勝手な妄想だけが膨らんで、ふわふわした風船の様な“おもい”が、頭の上に漂っています。
 
「春」と呼ばれる様に、少しピンクがかった、淡い桜色の“それ”は、
 
どんどんドンドン、大きく成って、部屋から溢れ出しそうなほどです。
 
 
そんな時、
 
少し・にやけた顔で窓の外に目をやれば・・・
 
・・・木枯らし吹き、薄暗く曇る・冬の空。
 
「はぁ~~。」(-“-)
 
言葉だけの「春」に、ため息一つ
 
日本は、これから
 
一年の内
 
一番寒い時を迎えます。
 
 
 
 
 
「達人」
 
達人を見て、達人の技を、素早く“見つめる”事に長けた、「兼好」さん。
 
いろんな達人達が、長年かけて到達した事の、一番の“肝心”を見抜く事に関して
 
この方の、右に出る人はいなかったかも知れません。
 
 
つまり「達人を見抜く“達人”」
 
それが「兼好」さん・だったようです。
 
 
そんな兼好さんが、あえて書き遺した今回の「達人の一言」
 
「人の及ばぬ力持つ“馬”には、気を付けて乗れ!」
 
 
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その当時の、日本の馬は
 
今のサラブレッドと比べ・遥かに小さく、
 
今でいえば「ロバ」程しかなかったと云われています。
 
日本馬(ウィキペディアより)
 
体高(地面から肩まで)で云えば、120~130cm程(サラブレッドは160~170cm)
 
その当時の日本人も、今の日本人に比べ・小さく
 
男でもせいぜい155cm程しかなかったと云われていますが、
 
それでも、低く・小さく・ずんぐりした「日本馬(野馬)」は、とても乗りやすかっただろうと想像します。
 
そんな小さな馬でも、体重にしてみれば・300~400kg
 
人に比べれば何倍も重い事に成ります。
 
力比べなど出来よう筈も無く、馬に人が相撲で勝つ事は、なかっただろうと思います。
 
元来従順でおとなしい「日本馬」は、慣れれば慣れる程
 
当たり前に、気にせず、乗っていた事でしょう。
 
 
処が、事故と云うのは、少し慣れた時が“一番危ない”と、云われます。
 
これ「当たり前」
 
あれも「当たり前」
 
自分の都合のいい事は、「全て当然!」として
 
馬に対峙し、乗れば
 
思わぬところで、事故にあってしまうと云う事なのでしょう。
 
「当たり前」と思わず
 
乗る度毎に、「はじめて・・・。」と云うつもりで、
 
点検して乗れば
 
「事故など起こる物ではない。」と・・・。
 
 
「これこそ、秘訣である。」と、云う事の様です。
 
 
 
 
 
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《世界一美しいバイク!?》
 
 
 
そう云えば、僕も
 
「鉄の馬」に乗り始めて30年程
 
「当たり前」と思う事が沢山あります。
 
「春」を前にして、あれこれ点検し
 
「当たり前」とは思わず
 
 
 
 
気を引き締めて、
 
「春を待ちたいと思います。」(^_^)/
 
 
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徒然草〔第百八十六段〕・・・まとめです。
「馬は、強い・・・。」(;一_)
 
以上(*^_^*
 
 
徒然草〔第百八十四段〕
 
 
 
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相模守時頼の母は、松下禪尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。守を入れ申さるることありけるに、煤けたるあかり障子の破ればかりを、禪尼手づから、小刀して切りまはしつつ張られければ、兄(せうと)の城介義景、その日の經營(けいめい)して候(さぶら)ひけるが、「たまはりて、なにがし男に張らせ候はむ。さやうの事に心得たるものに候。」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ。」とて、なほ一間づつ張られけるを、義景、「皆を張りかへ候はむは、遙かにたやすく候べし。斑に候も見苦しくや。」と、重ねて申されければ、「尼も後はさわさわと張りかへむと思へども、今日ばかりはわざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理(すり)して用ゐることぞと、若き人に見ならはせて、心づけむ為なり。」と申されける、いと有り難かりけり。世を治むる道、倹約を本とす。女性(にょしゃう)なれども聖人の心に通へり。天下をたもつほどの人を子にて持たれける、誠にただ人にはあらざりけるとぞ。
 
 
(訳)
相模守(かみ)時頼(ときより)の母は、松下禪尼(まつしたのぜんに)と申しました。守を招待する時があり、煤け・破れかけた障子の部分だけを禪尼は、自ら小刀を手に取り・切り貼りしていました。その日、兄の城介義景が世話役を務めていましたが、「そうした事は、心得たる別な男に張らせましょう。」と、申しましたが、「その男は、私よりも勝っているとは思えません。」と、なほ一間づつお張りに成っていました。それを見て義景は「皆・貼り替えてしまった方が、遥かに・た易い。まだらに成れば・見苦しくもあります。」と、重ねて申し上げた処、「私も、この後には全て貼り替えようと思っておりますが、今日だけはわざとこうして置くのです。物は破れた所ばかりを修理して用いるべき事と、若き人に見習わせ・気付かせる為です。」と、申されました。これはとても有り難い事です。世を治める道は、倹約を旨とす。女性であっても聖人の心に通じる事である。天下を治める人を子に持つ母は、誠に“只の人”ではないと云う証なのでしょう。
 
 
 
 
 
1127・大阪では、W選挙と云う事で、とても注目されました。
 
なんと云っても今回の橋下さんが注目されている事は、W選挙と云う以前に「大阪府」「大阪都」にしようと云う「大阪・都構想」だと思います。
 
「都」と云うと、やはり「東京都」ですが、東京の「都」と云う事と「大阪」「都」と呼ぶのは“如何なものか”と、なんとなくですが、考えてしまいます。
 
うそか誠か、東京が「都」に成ったのは、天皇を東京に迎える為、便宜上「東の京都」という意味合いで「東・京都」としたとも、云われています。
 
もちろん、「都」「府」よりも権限が、強いとか・弱いとか・そうした話ではないと思いますが、東京は「都」で、大阪は「府」と云う事に成っています。
 
そう云えば、本家の京都は「府」ですから、「字」だけで考えて行くと何とも分からなくなって来ますね。
 
 
どちらにせよ、こうした時代に成ると、大切なのは「政治家」さん達である事は、いつの時代も同じ様です。
 
大石内蔵助の様に、景気が良く・何事も心配の無い時には「昼行燈」と呼ばれ、ばかにされていたとしても、こうした時代にこそ、目を覚まし、立ち上がり、しっかりと前を見据え、行動してほしいと思います。
 
 
 
 
 
 
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善政を敷いたことで知られる
 
鎌倉時代の執権
 
「北条時頼」
 
 
 
 
 
諸国を行脚している時に、一夜の宿とした泊った場所で、そこの主人が“薪が無いから”と、大切にしていた「鉢の木」で暖をとる為、囲炉裏で燃やしたと云う・有名な話がありますが、その時の話の主人公と成っているのが「時頼」と云う事です。
 
 
完全な創作では無いにしろ、元に成った話はあったのでしょうね。
 
鎌倉時代の権力者としては、いろいろと血生臭い事件は多数あったであろうとは思いますが、そうした話が“残る”と云う事は、周りの武士達にも、庶民達にも慕われたと云う事の証なのだと思います。
 
 
でも、ここで驚きなのは、時頼の母の事だと思います。
 
兼好さんの事です。
 
現実の「時頼」と云う人の事は、兼好さんの生きた時代的に・近い事もあり、いろいろと知っていたのだろうと思いますが、その“母”に関しては、当人の「時頼」以上に評価している様に見えます。
 
例え時頼と云う人物が「善政」の為に「善政」を敷いていなかったとしても、結果「善」として目に映ったと云うのは、「こうした母がいた為ではないのか。」と云う事なのでしょうね。
 
鎌倉時代の最高権力者は、後の徳川時代の将軍や、その母の様な豪華絢爛な、「大奥」に住んでいるのとは全く別だと思いますが、一般の庶民や武士階級に比べれば、良い暮らしが出来て当たり前の身分であったのだろうと思います。
 
その時頼の母「松下禪尼(まつしたのぜんに)」の行いを、兼好さんは
 
「とても、美しい!」と、思ったのでしょう。
 
簡素で、粗末な・あばら家の様な庵(いおり)に住む兼好さんにとって、ある意味当然の様な事を、権力者の母が行う事は、誠に尊く見えたのではないでしょうか。
 
 
 
ただ
 
時頼の事を褒めている様には見えないのも
 
誠に兼好さんらしい事と思い
 
楽しく読ませて・頂きました。(^^)y-.o
 
 
 
 
 
 
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徒然草〔第百八十四段〕・・・まとめです。
 
「倹約するべきは・誰!?」^_^;
 
 
 
以上(*^_^*
 
 

徒然草〔第十八段〕

徒然草〔第十八段〕
 
 
 
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人は己(おのれ)をつづまやかにし、奢(おご)りを退けて財(たから)をもたず、世を貪(むさぼ)らざらむぞいみじかるべき。昔より賢き人の富めるは稀なり。
唐土に許由(きょいう)と言ひつる人は、更に身にしたがへる貯(たくは)へもなくて、水をも手してささげて飮みけるを見て、なりひさご〔瓢〕といふ物を、人の得させたりければ、ある時木の枝にかけたりければ、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手にむすびてぞ水も飮みける。いかばかり心のうち涼(すず)しかりけむ。
孫晨(そんしん)は冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束(ひとつかね)ありけるを、夕(ゆうべ)にはこれにふし、朝(あした)にはをさめけり。
唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、しるしとどめて世にも伝へけめ。これらの人は語りも伝ふべからず。
 
 
(訳)
人は、質素に生き、贅沢を避け、財を持たず、世の名誉や利益に縛られぬ事こそ、立派だと云える。
昔より賢き人の富めるは、稀な事である。
古の中国の許由(きょいう)と言う人は、身に持つ物などなく、水さえ手ですくって飲んでいたのを見て、瓢箪(ひょうたん)と云うものを、人が与えたのだが、ある時・木の枝にかけ置いていると、風に吹かれて鳴っていたのを見て、「やかましい」と、捨ててしまった。また、それまでと同じように手ですくい飲んでいた。
どれ程心の内は、晴れやかであっただろう。
孫晨(そんしん)は、冬・冴える月の日に寝具・無く、藁束一つあったのを見て、夜にはこれを使い、朝には片づけた。
古の中国の人は、これを素晴らしい生き方だと思えばこそ、記しとどめて後の世に伝えたのだろう。
しかし、残念ながらわが国では、このような人がいたとしても語り伝えはしなかっただろう。
 
 
 
 
 
 
仏法者としての兼好さんならではの視点ですね。
 
ここに出て来る、許由と孫晨と云う方達の目指す事は、原始仏教や初期仏教などの戒律に厳しい仏道修行での“悟り”に極めて近かったのでしょう。
ある意味、兼好さんには、とても馴染みやすい生き方や生活態度なのかもしれません。
許由(きょいう)と云う方は、中国の伝説上の人物だそうです。
仏教の影響を全く受けていないとは言えないかも知れませんが、少なくとも中国と云う国では「許由」と云う方の生き方は、「素晴らしい」と、されていたのだと思います。
対して日本では、その時代であっても、あまり認められていない事を嘆いています。
 
 
 
寒い庵の中
 
兼好法師一人
 
つれづれなるままに
 
思い・書き綴っていたのでしょう
 
 
 
 
 
 
「人は己をつづまやかにし」
 
あの頃の贅沢、あの頃の質素と云うものが、現代のそれと比較出来る物であるのかと、考えて見ると、現代人の僕自身が、兼好さんの言っていることを完全に理解する事はとても難しい事であると思います。
 
現代の生活をざっと考えて見れば、
 
 
朝起きて、「お湯」で、顔を洗い。
 
「電気」、「ガス」を使いあっという間に朝食を作り。
 
「明るい部屋」で、「テレビ」を見ながら食事をし。
 
「車」や「電車」で出勤し。
 
「エアコン」の付いた「明るい社内」で、仕事をし、帰り。
 
「たっぷりのお湯」で、「風呂」に浸かり。
 
「洗濯機」に、洗濯してもらい。
 
「電子レンジ」を使い「電気釜」を使い
「ガスコンロ」を使い「何品もの料理」を作り、食べ。
 
「明るいランプ」の下で、「好きなだけ本」を読み。
 
「暖かい部屋」で、「暖かい布団」で寝る。
 
 
現代人にとって、極あたりまえの、この生活。
もし、兼好さんの時代で同じことをやろうとすれば、時の最高権力者でさえ、難しいかも知れません。
食事を作る事も、明るく暖かい部屋も、何人も何十人もの働く人がいて初めて実現出来た事でしょう。
それでも、現代の快適さに比べれば、一人暮らしの部屋の方が、過ごしやすいかも知れません。
 
たった一人の現代人の生活は、昔の王族の生活よりも快適と云うのは、いったいどういう事でしょう。
 
別な言い方をすれば、たった一人で、それだけ沢山のエネルギーを使っていると云う事なのかもしれません。
 
また、同じように質素に生きているように見える、現代の「修行僧」の方達でさえ、あの時代の人達よりも、遥かに快適な生活をしています。
 
物のない生活など考えられない現代ですが
 
もしも、なにものにも縛られる事無く、生きる事が出来たなら
 
「心・涼(すず)しく」生きる事が出来るのでしょうか?
 
ありとあらゆる物と情報があふれた現代
 
ありとあらゆる選択をする事が出来ます。
 
しかし、「選択をしない。」と云う“選択”も、
 
一つの生き方なのかもしれません。
 
 
 
ただ、現代の日本に於いて、
何物にも縛られない生き方は、“財”が無ければ叶いません。
 
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徒然草〔第十八段〕・・・まとめです。
「孤独なればこそ、心涼し。」(;一_)
 
 
以上(*^_^*
徒然草〔第十九段〕・・・春
 
 
 
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折節の移りかわるこそ、ものごとにあはれなれ。もののあはれは秋こそまされと、人ごとにいふめれど、それもさるものにて、今一きは心もうきたつものは、春の景色にこそあめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やや春ふかく霞みわたりて、花もやうやう気色だつほどこそあれ、折りしも雨風うち続きて、心あわただしく散りすぎぬ。青葉になりゆくまで、萬に唯心をのみぞなやます。花橘は名にこそおへれ、なほ梅のにほひにぞ、いにしへの事も立ちかへり恋しう思ひ出でらるる。山吹のきよげに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて思ひすて難きことおほし。
 
 
(訳)
季節の移り変わりこそ、趣(おもむき)深いものだ。“もののあはれ”は、「秋こそ一番」と・人は云うけれど、それも・もちろんもっともであるが、今・一つ“心”浮き立つもの、それは春の景色だ。鳥の声なども・春を喜ぶ様に歌い、のどかなる日陰に、垣根の薄緑の芽・萌え出ずる頃より、ようやく春・深く、霞・渡りて、桜の花も・ぼんやりと咲きはじめる頃、折りからの雨や風は・うち続き、“こころ”騒がすように・いずれ散り行く。青葉に成り行くまでは、いくつもの・人の心を悩ませる。“花橘(はなたちばな)”の香りは「昔を偲ぶ。」と、云われているが、やはり梅の香りの方が、昔へも立ち返り・恋しく想い出されるものだ。山吹(やまぶき)は・清く咲き、藤のなよなよと・頼りなく揺れるさま、その全てに・思いすて難き・趣が多い。
 
 
 
名文と、云われる“徒然草〔第十九段〕”です。
後々の、評価とは別に作者である吉田兼好自身の、思い入れも強かったのではないかと思います。
 
春・夏・秋・冬と、各季節の事を書かれています。
「枕草子」の「春は、あけぼの・・・」と同じように、季節のごとの事を吉田兼好風に書かれています。
 
名文と云われているものですので、何時だすべきか、ずっと迷ってしまいました。
 
迷っているうちに、とうとう一年過ぎ、これでは・いけないと思い「枕草子」の序段の様に各季節一つずつ、出す事としました。
 
 
 
 
 
 
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・・・・やまぶきのはな・・・・
 
 
 
 
 
徒然草〔第十九段〕・・・春
 
 
目に見えぬ冬枯れの下草の中から、春の若草色が顔を出すように
 
垂れていた頭(こうべ)を、少しずつもたげ
 
ゆっくりと視線を、上へ・と持ち上げた先
 
そこには、春の“花達”が、微笑む様に迎えてくれます。
 
古(いにしえ)の歌人たちが、
 
「霞立つように、山・白く桜が覆う。」と詠った“春”です。
 
そんな喜び溢れる、春が来ています。
 
 
 
 
季節の移り行く様を、“詠った”ようなこの〔段〕は、
 
季節の移り行く様を、“あはれ”と云いました。
 
 
常住で無い・この世界にあって、
 
季節の花の美しさより、花の散るさま
 
季節の花の匂いよりも、その想い出
 
 
“あはれ”と云いし・言の葉を連ねた・この〔段〕
 
花の咲く喜びよりも、散る哀しみ
 
流れる時の哀しみを、詠います。
 
 
 
 
そして、その哀しみと云う“あはれ”を、楽しむこと
 
それが、「吉田兼好」であり、われわれ日本人なのではないでしょうか。
 
しみじみとした季節の移り変わりを楽しむ日本人
 
この日本の、大地あってこその様な気がします。(ー_ー)
 
 
 
 
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徒然草〔十九段〕・・・春、まとめです。
「もののあはれは、春こそまされ。」(^_-)-
 
 
以上(*^_^*

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