黒猫ぶっちゃ〜のブログ

『花は散り・星は流れ・想いは風に、 とけていく』

【イーハトーブ】

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「南部せんべい大好き!」(^^)/(毛越寺を後にして・・・。)
 
 
 
 
毛越寺を後にして、昼を食べ、時間を見ると3時頃。
 
この時間からだと、帰るのも夜遅くなってしまいます。
 
帰り道で、宿をとると成ると・・・
 
「仙台」「福島」もしくは・いつも行く「米沢」あたりです。
 
「う〜〜〜ん、どうしよう?」( ;)
 
・・・と、悩んでみても・結局慣れてる「米沢」に決定!
 
 
早速予約の電話を入れると、平日と云う事もあり、全然余裕で泊れます。
 
「ちょっと遠周りでも、落ち着ける場所が一番です。」(^_^)/
 
何故か米沢へ来ると、「帰って来た。」様な安心感があります。
 
いつもの様に、上杉城史苑でコーヒーを飲んで、
 
いつもの宿に泊って、朝一番で、帰りました。
 
 
 
 
 
 
・・・・・カチャ・・・・・(扉を開ける音)
 
 
 
「ただいまぁ〜、はい・これ、お土産〜〜〜。」(^_^)/
 
「何これ?」(o)
 
「本場の南部せんべいだよ、みんなで食べよう。」(^−^)/
 
 
 
 
「・・・バリ・バリ・バリ・・・。」(_)!!
 
 
「・・・バリ・バリ・バリ・・・。」( ;)
 
 
「・・・バリ・バリ・バリ・・・。」( 一一)
 
 
 
「う〜〜〜ん!・・・。」(_)!!
 
「あのさぁ〜〜。」( ;)
 
「なに?」(_)!!
 
「これさぁ〜〜。」( 一一)
 
「いつものC●●Pの南部せんべいの方が、美味しくない?」( ;)?
 
「う〜〜〜ん。」(・。・;
 
「ピーナッツほとんど入って無くって、
茶色の皮ばっかり入ってるよ。」( 一一)
 
「え〜〜〜、“本場”の南部せんべいだぞ!」(・。・;
 
「C●●Pの方が、ピーナッツも多いし、香ばしいよね。」( ;)
 
 
「・・・・・。」(・。・;
 
 
 
 
「ウニャ・ニャ・・(ねぇ・ねぇ、私には・お土産無いの?)」(=^^=)
 
 
イメージ 1
 
「あっ、みぃ〜ちゃん・ただいま〜〜。」(^O^)/
 
「・・・・・。」( ;)
 
「・・・・・。」( 一一)
 
「相変わらず可愛いねぇ〜〜〜。」(^^)/
 
「・・・・・。」( ;)
 
「・・・・・。」( 一一)
 
 
 
「ウニャ・ニャ・ニャ・ニャ・・・。」(=^^=)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「イーハトーブへの旅」これにて、終了とさせて・いただきます。(^_^)/
 
 
あとがき「光太郎と賢治、そして芭蕉。」(^^)/その2)
 
 
 
 
 
      夏草(なつくさ)
 
         兵(つはもの)どもが
 
            夢(ゆめ)の跡(あと)
 
 
 
 
 
「夏草」と聞くと、蝉の盛りの「うだるような暑さ」を想像しますが、芭蕉が平泉を訪れた時は、まだ梅雨時・今の暦で考えれば5月の終わりから7月にかけての頃だと思われます。
 
それでも平泉の少し後には、あの山寺(立石寺)の蝉の句がありますから「真夏」の少し前なのでしょう。(山寺は、夏の初めの頃と云われています。)
 
ですから、この「夏草」は、文字通り「夏の草」では無く「新緑の頃」と云う事に成ります。
 
「新緑」と云えば、一年で一番「若葉の緑」の映える頃
 
まして梅雨の雨が降れば、
 
一層・色鮮やかに・その緑を輝かせる時期です。
 
 
 
春の雪解けの頃
 
冬枯れの下草から、
 
若い木の枝から、
 
淡い緑の新芽や双葉が出て、いのち溢れる時・・・ですが
 
 
 
なお一層「いのち」を想う時、
 
それは「新緑の頃」だと思います。
 
一年の内で、これ程「いのちの輝く時」は、他に無く
 
まさに「命の時」と、思える季節です。
 
そんな「夏草」の時期の「句」ですが、この句を詠むと、
 
「いのち」「輝き」「瑞々しさ」「初々しさ」「太陽(おひさま)」「笑顔」などのイメージを感じません。
 
「夏草や〜」で始まり「〜〜の跡」と、「と」で終わる言葉の響だけが、この句を寂しげな雰囲気にしている訳では、無いのかもしれません
 
 
関ヶ原やその他の「古戦場の跡」では、必ずと言っていいほど詠まれる・この句
 
一体この句の裏に、何が隠れて居るのか、子供の頃からずっと不思議で成りませんでした。
 
「奥の細道」の前後の文を読んでみても、芭蕉が感じた事を知るのは難しそうです。
 
それは、単に「古戦場跡を歩いた」と云うだけでは説明のつかない、
 
「寂しさ」「哀しさ」「憤り」「恨み」「つらみ」「激情」
 
ヒョーヒョーとした「風の音(悲鳴にも似た声)
 
ささやかな幸せさえも奪い取ってしまった「戦(いくさ)「空しさ」を、この句から受けました。
 
 
 
この句の前には、僅かながら
 
国破れて山河(さんが)あり、城春にして草青(くさあお)みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。
 
 
「・・・と、書かれているだけです。」(;一_)
 
 
 
 
 
「衣川の柵」
 
今回・宿泊したホテルは
 
北に、花巻空港
 
東に、流通センターと田畑
 
南は、高速とIC(インターチェンジ)
 
西側には、低い街並みと幹線道路と
 
広々と見渡せる場所のど真ん中に、ポツンと建っています。
 
その為、太陽を遮るものなど何もなく、
 
春まだ浅く・低く・眩しい朝日は、部屋の・奥深くまで差し込んでいました。
 
 
とっても、さわやかな朝に、
 
窓を少しだけ開け・冷たい空気を入れて、
 
あくびしながら・背伸びして、
 
「さぁ〜〜ってと・・・飯・めし〜〜〜。」\(^o^)/〜〜〜。
 
・・・と云う事で、「朝食バイキング」へ向かいました。
 
向かった先は、夜は居酒屋レストランとして営業している一階の外れの大きな部屋
 
ロビーを仕切っただけの「朝食バイキング」とは、違います。
 
 
その上、料理も・みな温かい物はあたたかく、冷たい物はつめたく
 
「品数も味も、大満足です。」(^−^)/
 
 
 
 
ウエルカムコーヒーは「プロント」並みに美味しく
 
大浴場(中浴場)あり
 
朝食バイキングも、それだけでお金を貰えそうなほどです。
 
 
もちろん夕飯は、通常のホテル同様ありませんが、
 
ここなら、夏休みの家族連れでも十分満足の行く「お宿」だと思います。
 
この日も、一家族・親子5人が来ていました。
 
100%オレンジジュース美味しいコーヒーを飲んで、朝食を終え
 
爽やかな朝日の中、ホテルを後にしました。
 
 
 
近くの花巻空港ICより高速に乗り、
 
 
30分ほどで平泉前沢ICに到着
 
 
降りて直ぐの4号バイパスから
 
 
旧4号線へと左に折れました。
 
 
窓を少し開け、熱くなった空気を表に逃がし、走って行くと・・・。
 
 
「なんだろう・・・この感じは・・・。」(_)
 
 
何処となく、寂しく、悲しく
 
刈られた田んぼと冬枯れの下草さわさわ揺れる中
 
少し異様な雰囲気を感じ
 
辺りを見回しながら走って行くと・・・
 
「赤信号」で停止
 
「中尊寺」入口の交差点です。
 
 
 
見上げると、ぼんやりと明かりが灯った様に見えます。
 
 
当然ながら山の下から「金色堂」は見える訳がないのですが・・・
 
 
「そこだけ明るく・・・目に写りました。」(;一_)・・・。
 
 
 
 
後で考えてみると、そこは「衣川古戦場跡」へと続く場所
 
きっと芭蕉も、“この事”を感じていたのではないでしょうか?
 
「夏草や・・・。」で芭蕉が感じた事の一端を・・・
 
 
 「この場所に来る事で、
       感じる事が出来た様に思います。」(_)
 
 
 
 
 
 
それでも、山門脇の駐車場に車を停め、降りて
 
一息付く頃には、先ほどまでの「重たい空気」
 
 
   「どこ吹く風〜〜〜。」(^^)/〜〜〜。
 
    元気に、登って行きました。
 
 
 
 
あとがき「光太郎と賢治、そして芭蕉。」(*^^*)(その1)
 
 
 
 
余り本(小説や詩)を読まない僕が・読んだ事のある、数少ない中の「二人」が、何故か・この「花巻」に縁があります。
 
光太郎の「詩」と呼ばれる物は、まだ小学生の子供の頃(5年生頃)、初めて読んだ時から、すんなり自分の中へと入って来ました。
 
何故、そうなのかは「口語文」と云うだけは、いまだに自分をうまく分析出来てはいません。
 
モノの「理解度」と云うのは、「知識」そして何よりも「経験」だと思いますが、知識も経験も無い筈の小学生の僕が、光太郎と云う人が歩んだ道の「それまでとそれから」が、目に見えた様に感じました。
 
それは東山魁夷」と云う人の「道」と云う絵が「道程の挿絵(?)」か、他の教科書に出て居たのを、覚えて居た為でしょうか?
 
 
 
鮮やかな緑色が印象的なその絵は、真ん中に真っ直ぐ「道」が通っています。
 イメージ 1
人が歩いて
 
踏み固められた様な
 
未舗装の乾いた土色の道は
 
只・真っ直ぐに
 
前へと向かっているようでいて、
 
よく見ると・遠く、山の稜線を避ける様に、「右」へと緩やかにカーブしています。
 
 
「君達、この絵はね、
ここの・右に曲がって居る所がポイントなんだよ!」(o)/
 
・・・と、年配の先生が(少し偉そうに)“おっしゃって”いました。
 
 
「どうして、右へカーブして居るんだろう・・・?」(_)・・・?
 
・・・と、その頃の僕は、よく理解出来ませんでしたが・・・
 
 
もし、この絵が、真っ直ぐだったなら・機械的でおもしろくは無かっただろうと感じます。
 
「人間なんて、真っ直ぐばかり、進める訳ではないしね。」(・。・;
 
・・・と、現在の僕は(少し偉そうに)“つぶやいて”みました。
 
 
 
そんな東山魁夷」の絵とシンクロする様な「道程」と云う詩は、
 
小さな頃から「過去や未来」と云う物を・漠然と考えて居た自分の頭の中へ
 
「絵と言葉」の両方とで、しっかりと刻みつけられたようです。
 
 
 
 
対して「宮澤賢治」と云う人は、周りの大人達の評価とは別に「よく分らない。」と云うのが正直な所でした。
 
それでも、少しずつ大人に成るにつれ、理解度が増して行くことから考えてみると
 
賢治と云う人の書く事は、全て何かしらの「根拠(科学的?)」のある事柄から書かれて居るのだと気付きました。
 
それは「芸術家」として生きる事を「宿命」とされた光太郎にとって「感覚が全てである。」と、刷り込まれていたのとは対照的です。
 
本来「感性」「感覚」で書く詩と云う物を、あえてその当時の最先端科学からアプローチして見ると云う事が、「童話」「詩」と云った、絵空事の非現実的な物を・独特な「賢治の世界」にしてしまったようです。
 
おまけに「その当時の最先端科学」は、今となっては「科学」と呼べないモノに成ってしまいました。
 
その為、尚の事「宮澤賢治」と云う人を、理解しがたい人にしてしまったようです。
 
その時代としては、どちらも裕福な家庭に、生まれ、育ち、教育を受け、後はひかれたレールの上を真っ直ぐと進めば、良かった筈の人達でしたが、何故か道を曲げてしまいました。
 
二人とも・自分のやるべき事を最後まで探し歩き、迷い続けた人生だった様に思えます。
 
そんな二人が、東京の地で出会い、花巻の地へ帰って行ったと云うのは・・・
 
「とても不思議な出来事の様に思えました。」(・。・;
 
 
イメージ 2
 
(注:高村光太郎は乙女の像の制作の為・帰京
  その完成と共に東京で亡くなったそうです。)
 
 
 
 
 
 
 
ただ、今回・花巻と云う地を訪れて、他の場所とは違う独特な物を感じました。
 
こんなに厳しく辛い自然でありながら、何処かあたたかい物が、この平原に吹いている様に思います。
 
「民話の里」と呼ばれる遠野へと続く花巻こそが、宮澤賢治と云う人を「産み・育てたのだ。」
 
 
イメージ 3
 
「はっきりと自覚しました!」(_)
 
 
 
 
 
 
 
「乙女の像」と「道」の画像はNETよりお借りしました。
 
 
 
「雪間草・礎石(そせき)・ぽつぽつ・毛越寺」(・。・;(その3)
 
 
 
 
 
「世界・文化遺産」
 
平泉の「世界遺産」は、「中尊寺」「毛越寺」「観自在王院跡」「無量光院跡」「金鶏山」の五つで構成されています。
 
その「毛越寺」は、中尊寺から南へほんの少し行った場所にあります。
 イメージ 3
「大泉が池」が中心にある
 
「毛越寺」は、平らな場所に立地し
 
平泉の駅や街中にも近く、
道を挟んだ真向かいには
「町立・平泉小学校」があります。
 
 
「往時には堂塔40僧坊500を数え・・・。」と、観光案内にも出ている通り、昔・この場所は、この辺りの中心地だったのでしょう。
 イメージ 4
寺院は、
当時の最高の文化施設であると同時に、学術・教育の施設でもありました。
 
平泉の周辺や、遠く陸奥の沢山の若い方達が学ぶ為に、この地へ来ていたのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
イメージ 5
 
「僧坊500と云うのは、少しオーバーだとしても、「毛越寺」とその周辺の平らな場所では、そうした沢山の方達で、賑わっていたのではないかと思われます。
 
資金源は、やはり「金」だったのでしょう。
 
良質で純度の高い「金」は、世界中どこででも取引可能な万能通貨です。
 
その金で直接・大陸へと船で漕ぎ着け、交易し、
 
大陸の「文化・芸術・技術」
 
そして莫大な利益を得て居た様です。
 
「都人」「平泉を見て驚いた。」と云うのは、都にもない独自の文化があったからだと云われています。
 
 
 
 
 
 
 
      「秋・夕暮れ」
 
     平泉へと向かう「金色の一里塚」
 
 
     低く赤い光に照らされた「金色の稲穂」
 
 
 
     道すがら目にする、茅葺屋根、枯葉や紅葉、
 
     池に写る夕日の紅さへ「金色」に見えた事でしょう。
 
 
 
 
     そして、辿り着いた先に見えて来るのは、
 
     西日に輝く・七宝の・・・・・「金色堂」」
 
 
 
イメージ 1
 
 
           「この世の
 
 
            “極楽!”
 
 
            “浄土!”
 
 
            “天国!”
 
 
            “常世の国!”
 
 
            “ユートピア!”
 
 
            “パラダイス!”・・・。」
 
      
              (_;)・・・。
 
 
 
 
 
 
  暗く・鬱蒼とした針葉樹の黒い森ばかり続く奥州の道を、
 
  遠く「都」から
 
  遠く「海の向こう」から
 
  永く輿に乗せられ、又・歩いて
 
  疲れた体と目で、その光景を目の当たりにしたなら、
 
  人は誰でも
 
         「そう感じたかもしれません。」(^−^)
 
 
 
 
 
 
 
 
「礎石(そせき)・ぽつぽつ・毛越寺」
 
 
しかし残念ながら、それを偲ぶ物は現在の平泉には僅かしか残されていません。
 
   一つは中尊寺・金色堂
 
   そして、
 
 イメージ 2
 
「もう一つは“毛越寺・浄土庭園”です。」(^_^)/
 
 
 
それでも「往時には・・・。」と云う位です。
 
今は、再建された本堂と一部の建物しか残されていませんでした。
 
そこは、まさしく・遺跡の様な境内でした。
 
まるで三内丸山の様に、
 
「かっては・・・。」( 一一)・・・。
 
・・・と云う様に、“かつて”は栄え、賑わっていたのでしょうね。
 
「季節がら」と云う事もあるのでしょうが、少し寂しい「毛越寺」でした。
 
 
 
 
        この後は・・・・、
 
        この時間では、「どうしようか?」と云う感じです。
 
 
 
 
 
注:金色堂は、写真撮影禁止ですのでNETより映像をお借りしました。
 
 
 
「風光り・静々・ひっそり・覆堂」(o)/(その2)
 
 
 
 
 
 
金色堂を後にして、案内ルートの示すとおりに歩いて行くと、
 
イメージ 1
 
「ありました!・・・芭蕉句碑!」(^^)/
 
 
 
僕にとって「平泉」と云うと、「芭蕉」を置いて他にはありません。
 
「芭蕉が詠んだ句」の一つに「平泉がある」と思えるほどです。
 
もし、芭蕉が・この地を訪れる事無く・素通りして「衣川」の句だけを残して、次の山寺へと向かったならば、こうして「平泉」へは来ていなかったかも知れません。
 
 
 
 
 
 
イメージ 2
 
 
       五月雨(さみだれ)
 
           降(ふり)のこしてや
 
               光堂(ひかりだう)
 
 
 
「山寺」の頃は「初夏」だと云われていますので、「平泉」を訪れた時は、季節代わりの「夏の雨」が、静かに・音も無く降っていたのでしょう。
 
 
 
そんな五月雨の中
 
 
「降り残す」と云うほど
 
 
「ぼ〜〜〜〜。」っと、ひっそり・・・。
 
 
「金色堂は佇んでいたのでしょうね。」(^^)y-.o
 
 
 
 
「・・・・ん・・・たたずむ???」(・。・)・・・???
 
 
この句を読んだ時、いつも不思議に思っていた事があります。
 
「降り残す」と云う事は、「雨」が、金色堂にはあたらずに「避けて」降っているように「見えた」と云う事に成ります。
 
今現在「金色堂」は、立派なコンクリートの建物に覆われています。
 
当然ながら、芭蕉の頃(300年前)にあった訳がありません。
 
 
「もしかしたら・・・金色堂は
そのまま“野ざらし”に成って居たのか?」(・。・;
 
 
そう云えば、ついさっき見た金色堂の屋根、赤い瓦が葺かれていましたが、その「瓦(?)」
 
表面の部分が、何年も何十年もの長い時間・風雪に耐えた様に腐食していました。
 
もちろん「瓦」は焼き物(?)ですので、腐る事はありませんが、上薬はとうに剥がれ落ち、表面は泡を吹いた様にポツポツと成っています。
 
 
「まさか・・・1000年もこのまま・・・。」(・。・;・・・。
 
 
雨にも風にも耐え、東北の白い雪にも耐え抜き、
 
千年と云う時間をも超える程の「モノ」が・・・
 
 
「この金色堂にはあるのか・・・?」(_;)
 
 
でも例え・自然の力に打ち勝ったとしても、盗掘などの「人災」にあわずに、これだけの時間が過ぎて来たとは思えません。
 
 
「う〜〜〜〜〜ん。」(;一_)
 
 
 
 
 
 
 
・・・と、そんな事を考えながら歩いて行くと・・・
 
 
 
 
 
 
 
 「静々(しずしず)・ひっそり・覆堂」
 
 
イメージ 3
 
中尊寺境内の中、一際・朽ちた様にたたずむ木造の建築物
 
何の装飾も無く、漆や朱色に塗られる事も無く、
 
白木のまま・苔むした「御堂(?)」
 
もし、表札や立て看板等の説明書きがなかったなら、
 
単に「汚い建物」として、素通りして居た事でしょう。
 
イメージ 4考えてみれば
 
この建物が
 
境内の中で
 
一番古い建築物です。
 
 
建てられてから
 
何度も改修を重ねては居ても
 
およそ800年も立ち続けた「覆堂」
 
 
「この建物が、金色堂を守っていたのか・・・。」(・。・;・・・。
 
 
但し書きを見ると「芭蕉」もこの中に入ったという事です。
 
あの有名な句は、この「覆堂」の中で半ば雨宿りしながら造った句だと云われています。
 
現在の様に板で周りを覆われる事無く、外の光が差し込む中で怪しく光る「金色堂」を目にしたなら、
 
ここだけ「降り残した」様に、見えたのかもしれません。
 
芭蕉ほか、名だたる方達が訪れたであろう、この場所
 
あまたの人々が、この中で「金色堂」を目にした時の感動が、
 
未だに「覆堂」の中に残されている様に感じます。
 
 
 
 
金ぴかの「金色堂」とは対照的な、
 
      がらんどう(伽藍堂)の「覆堂」こそ・・・
 
 
イメージ 5
 
 
「永い中尊寺の、歴史・そのものなのだ。」( 一一)
 
           ・・・と、思えました。
 
 
 
 
(その3へと続く)
 
 
 
 
 
 
注:後で調べてみると金色堂の瓦は、「焼き物」ではなく「木」で瓦の形に造られた物だと知りました。
 
 

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