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「つまり、神になりうる」 平安の巨人空海の思想と生涯、その時代の風景を照射して、日本が生んだ最初の人類普遍の天才の実像に迫る。構想十年余、著者積年のテーマに挑む司馬文学の記念碑的大作。
<那ノ津の情景> 大宰府、那ノ津。 遣唐使は行きも帰りも大宰府に立ち寄るのが慣例になっている。 砂浜の向こうにぱらぱらとちいさな影が散っていた。 船団の正使である藤原葛野麻呂(ふじわらのくずのまろ)はそのなかのより濃いひとつのちいさな影に近寄った。浜の松原に陽炎が立ち、目のくらむように熱い日だった。正使は丁寧な挨拶をしている。 まるで師父にたいするような手厚い礼であった。影の頭が大きかった。足はほそく痩せていた。影は正使に媚びるようすがなかった。―――意外であった。影は清潔であった。 (あれが、最澄か。・・・・) と、空海は、遠目ながらも最澄のすべてを見ぬいてしまいたいような衝動をもって見つめたはずである。 おなじく入唐の一群にいた儒者・橘逸勢(たちばなのはやなり)が空海に耳打ちする。 「くだらぬ男だろうよ」 うるさい男だとおもった。コバエのようだ。 「そうではあるまい」 うんざりとした。貴様ごときがどうこういえた境涯かと舌打ちしたい気もちになった。 すみやかに逸勢を意識から消し去り、じっと影を見詰めた。ひょっとしてこちらを見返しはせぬか、とおもった。 「もし最澄が自分に話しかけてくれば、空海は本気で相手にならなければならぬという心のたかぶりがあった。というより、入唐にさきだち、最澄が志している天台教学が思想としていかに死物であるかということを説いてやりたかった。最澄の硬直の志を砕き、真理に対してもっと虚心な構えをもたせてやりたい、それが親切というものではないかとさえ空海は思っていたはずである。空海にすれば最澄についての評価は、似た志をもつ自分以外にできるはずかないと思っている。自分のみがそれをすべきで、橘逸勢ごとき儒生が横から口を出すべきものでないと思っていたにちがいない。」 ・・・・・・・ GWに高野山に行くことになったので予習のつもりで手に取った本。上下巻です。 平安時代の宗教人というあまりに遠い人間を書いたものなので、退屈してしまうかな?と心配でしたが杞憂でした。 もう空海が最澄をいじめるいじめる^^; これでもか!という程の悪意のこもった意地悪をするもので目が離せません。 学校の日本史や学習漫画などで空海と最澄についてはちょろっと勉強すると思うのですが。 ふたりとも平安時代の初めのころの人です。桓武天皇の時代。遣唐使として中国に渡ってそれぞれ新しい宗教を持ち帰ってきます。 最澄が天台宗で比叡山の人。 空海が真言宗で高野山の人。 最澄の方が7歳年長さんです。 (ちなみに遣唐使は最澄が手厚い国費、空海は私費をかきあつめて行きます。) ふたりの仲違いというのはわりと有名で、最澄の弟子が空海に心酔してしまい高野山から帰ってこなくなってしまったり、最澄が「経典(理趣経)貸してー」と空海にお願いしたところ「やだ!」と断られてしまったり、となんやかんやモメたらしい。このあたりが子供心にも面白いなあ、とのんきに思っていました。 「風信帖」という空海が最澄に宛てたお手紙は国宝になっていますよね。 なぜそうしたのか?なぜそうなったのか?という部分を司馬先生が独特の想像力でもって小説にしています。 乱暴な言い方をすると空海が「天才だったから」みたいです。 こんな感じ。 ・・・・・・・・・ 「筆者は、空海において、ごくばく然と天才の成立ということを考えている。」 讃岐の国(いまの香川県)に生まれた空海は、神童として一族からたいへん可愛がられました。 「わたしは両親から宝物と呼ばれていたよ」 (父母、偏(ヒトエ)に悲(イツクシ)み、字(アザナ)して、貴物(タフトモノ)と号す) と弟子たちにあっけらかんと語ったように、空海は筋目のいい大人たちから見守られ期待をかけられれていました。大人たちは彼に官僚になって欲しいようでした。 18歳で都の大学に入り、仏教を学ぶ機会を得た空海は官僚になるばかばかしさを痛感します。 そして翌年さっさと大学を辞めてしまいます。私度僧(しどそう)として山林に分け入るのです。 大人たちはそれでも彼を庇護し、なにやかやと援助をし続けました。 「かれの少年期は幸福でありすぎるようであり、むろん幸福すぎることはすこしもわるくはない。」 彼は都では大安寺の首座・勤操(ごんぞう)の付き人として諸寺を歩き回り経典を読み漁ります。 学ぶにつれ、従来の仏教がどことなく不足で不満に感じるようになってきました。 「解脱」には死と苦のにおいがしてあまり好きにはなれません。 生命というのはもっと暢気で明るいものなのではないだろうか? 空海は、生命や煩悩をありのまま肯定し、なおかつ「悟り」というものから現世的な福利をひきだして当然ではないかという、あくどいばかりの願望をもっていました。 そんなかれが「密教」と出会います。肉体と生命を肯定する密教はかれにぴったりの思想でした。 ただ日本にあるそれはバラバラの破片でしかありませんでした。インドで生まれた密教は中国を経由してごく一部の破片が日本に届いていました。いわるゆ「雑密」です。 空海は遣唐使として唐にゆき、師である恵果上人から密教のすべての教えを譲り受けました。 彼は密教を系統だて論理立て「真言宗」というまったく新しい密教(純密)をほぼ独力でつくりあげてゆきます。すべてが緻密に計算され尽くし論理化された濃厚できらびやかな、世界中のどこにもない宗教にするつもりでした。 空海は、日本に帰ってきます。そして密教を日本に伝えようと意気込みます。が、日本にはすでに密教が伝わっていました。都はちょっとした密教ブームになっていました。 伝えたのは最澄でした。 ・・・・・・・・・・ 最澄の学んでいたのは「天台宗」です。ですが、遣唐使の帰り道、船待ちのあいだ越州(えっしゅう)の順暁(じゅんぎょう)阿闍梨から密教の教えを受けていました。ただし順暁は傍流の人で、最澄が持ち帰った密教はほんのさわりでしかありませんでした。 (のちに最澄はそのことに気付き、たいへん恥じいり狼狽し改めて空海に密教の教えを乞いにきます) 日本に帰ると、新しもの好きの桓武帝は最澄の専門の天台宗よりも密教に興味を示しました。 国家単位でそれを保護し広めさせました。最澄はとまどいつつも布教の先鞭をつけてしまうのでありました。 (天皇の寵愛をかさにきて雑な教えを得意になってふれまわっている。) ―――最澄とはそういう男だ。 ひとつの最澄像が空海のなかに結ばれつつありました。 ・・・・・・・・・・・ 「最澄は、天子に取り入ったわけではない。」 むしろ天子のほうから最澄に関心をもったようでした。 最澄は篤実な人でありました。弟子に対しても決して威張らず、空海のひらめくような天才性はありませんでしたが、ひたむきで真面目な知性を持つ人であったようです。 「宮廷に多くの庇護者をつくったのは最澄の誠実な人柄が好まれたためで、最澄の政治力ではなかった。最澄はむしろ政治力がなさすぎたかもしれない。」 「無私な志になにやら偏執するようにして熱中している姿が、一面、印象としてすずやかであってもどこか脆げであるということが、長者たちの庇護の思いをそそるのかもしれない。」 最澄の政治力の無さは、古い宗教(奈良六宗)との応酬の仕方に現れました。 かれは、妥協なく、まっすぐ厳しく古い仏教を排撃しました。その結果、六宗の古老たちは最澄を敵視し団結してゆきます。自分たちの宗教に新風を吹き込めさえすれば、こんな若造なぞに威張らせてはおかないのに、とくやしさを噛みしめていました。 そんなときに最澄の最大の庇護者であった桓武帝が崩御しました。 最澄は苦しい思いをしていました。自分が不用意にもたらしてしまった密教は粗雑なものだ、ということは、後から帰ってきた空海が朝廷に提出した「目録」を見れば一目瞭然でした。 かれ自身が専門としている「天台宗」を国家仏教の一派として認めさせはしましたが、密教に関しては自らの手落ちを悔やむ事しきりでありました。 さて、奈良六宗の古老たちは、自分たちの宗教に新風を入れたいという気持ちがあります。 そこに現れたのが空海でした。空海は政治感覚のすぐれた人でありました。まっこうから六宗を排撃するなどというおろかな事はしません。ただ、ほんのすこうし足りないようだ、と助言をしました。 (密教の要素を入れれば、あなたたちの宗教はよりよいものになるだろう。) そうして空海は両腕で抱きいだかれるようにして、37歳の若さで東大寺の別当に任じられるのです。 時代も空海を味方しました。 時の天皇は嵯峨帝です。サロン的雰囲気を好むこの帝は、唐帰りの空海に異常な興味を示しました。 唐の都の長安で人々を熱狂させた空海の文才と詩才。「五筆博士」という称号を天帝から授けられ、王羲之(おうぎし)と伍するとまで称えられたその筆跡。異国の言語を自由自在にあやつり、密教というきらびやかな新思想を持ち帰った男。 「嵯峨は空海において、友人を見出してしまっているのである。」 空海の方といえば、真言という宇宙の普遍をしってしまったかれにとっては、国家も天皇もほんの些細なものにしか見えませんでした。 「空海はそれ以前の僧とはちがい、国家を超越した世界を気付いてその方の王になろうという志望をひとすじに持っており、志望は宮廷になかった。ただ、宮廷のもつ権力と財力を追い使わねば、巨大な経費を要する真言密教の伽藍や、密教仏、あるいはおびただしい量の金属を必要とする法具類の調整ができなかった。空海には、その国の王の心を摂(と)ってしまう必要があり、さらに露骨にいえば、王をその必要の対象としてしか見ていなかったかもしれない。」 相手に恩のみを売り、恩を着せられることを巧みに避けつつ、空海は嵯峨からの接近を避けませんでした。目をみはるほどあざやかな政治感覚でありました。 ・・・・・・・・・・・・・ 「経典を貸してほしい」 手紙の日付は大同4年(809)8月24日。 最澄からの手紙を持って、最澄の弟子経珍が空海のもとにやってきました。 「最澄は、自分の思想の敵である奈良六宗に対しては戦闘的であったが、空海対してはふしぎなほどに態度がやわらかく、むしろ齢下の空海に対し、新仏教の同志として敬愛しているだけでなく、空海がもたらした密教を、―――あとの空海の言動でわかることだが―――自分が越州でひろった密教よりもはるかに正統ですぐれたものとして讃仰しているほどであった。」 「筆授(ひつじゅ)」という言葉があります。 これは、書物を通して物事を会得することです。古来より日本の仏教はこのやり方で学ばれ、取り入れられてきました。 ただ、密教はこの筆授をきらいました。 「密教の伝達は師承によらねばならず書物に拠ってはいけない。」 という厳しい教えがありました。密教の教えは師から弟子にじかに行わなければならないのです。 これを「付植(ふしょく)」と言いました。 付植はなまみの人間の骨髄を切りさくようにしてそれを植える以外になく、師は弟子にのしかかるようにそれを教え、弟子は師を絶対的・全的なものとして受け入れるという煮溶けような激しさをもつ伝授でした。 空海はこの論理を守ることに関しては何物にも妥協しませんでした。 (この男は、文字で密教を知ろうと企てているのか) 最澄からの手紙を受け取った空海の胸にはにはひえびえとした思いが広がってゆきました。 ・・・・・・・・・・・・・・ 「下僧最澄」 手紙を繰る空海の手が止まった。その末尾。 ふむ?とおもった。意外であった。最澄というのは、あぶらぎった風貌の、自己を顕揚する欲望だけで世間をたぶらかしている男ではなかったのか。その男が、「下僧」としてへりくだるのは、尋常なことではない。 「最澄はそういう男でもあった。」 「かれは自分の弟子に対しても虚勢を張るところがまったくなく、まして法のために空海の援助を乞いたい場合、心から自分を蹲(つくば)わせる男」であった。 実際に最澄は痛ましいほどの謙虚さで空海に教えを乞うた。 空海は最澄に経典を貸した。必要なものがあれば言ってくれ、と返事を書いた。 「この後も最澄はしきりに空海に手紙をだし、経典などの借用方を乞うた。これに対し、空海は密教において筆授はありえないという立場をとっている。」 ただ、空海ははっきりとは言わなかった。ここに最澄に対しての空海の感情があった。 最澄なら気付くであろう、と。 ふたりの文通と経典のやり取りは数年続いた。 ・・・・・・・・・・・・ 弘仁3年10月27日。 最澄は突如空海をおとずれる。 「信じがたいことだが、両人が地上で相合ったのは、これが最初であった。」 「和尚、モシ無限ノ恩ヲ垂レナバ、明日、必ズ参奉セン。伏シテ乞フ、指南ヲ垂レ、進止セヨ」 最澄は切実であった。自分に足りない密教の教えを、空海自らに伝授してほしかった。 「伏シテ乞フ」 掴まえた。とおもった。とうとうきた。あの男がやってきたのだ。密教者として。 ・・・・・・・・・・・・ <星を飲む話> 「つまり、神になりうる」 空海は私度僧としての修業時代に四国の室戸岬(むろとみさき)で星を飲んだことがある。 まったくの奇跡がその身に起き、真言という神仏たちの言語を突如理解した。 「これが、自然の本質がおのれの本質を物語るときの言語か」 室戸岬(むろとみさき)の突端、ほらあなをみつけ、そこに端坐した。「虚空蔵求聞持法」をとなえることひゃくまんべん。星が口に飛びこんできた。 「土佐ノ室生門崎ニ寂留ス。心ニ観ズルニ、明星口ニ入リ、虚空蔵光明照(テラ)シ来ツテ、菩薩ノ威ヲ顕(アラハ)ス」 「ただ空海を空海たらしめるために重大であるのは、明星であった。天にあって明星がたしかに動いた。みるみる洞窟へ近づき、洞内にとびこみ、やがてすさまじい衝撃とともに空海の口中に入ってしまった。」 「この一大衝撃とともに空海の儒教的事実主義はこなごなにくだかれ、その肉体を地上に残したまま、その精神は抽象的世界に棲むようになるのである。」 真魚という俗名を持つ男は死に、空海という天才が誕生する。 そして空海は確信した。 (自分は宇宙の意志によって格別に手厚くもてなされているのではないか) ―――目を開けた。最澄がいた。この年長の男にもわからせてやりたい。この言語を。この真言を。 「オ前ハ俺ニ成レ」 そうすれば。 「ツマリ、神ニナリウル」 ・・・・・・・・・・・・・・ 「最澄は、密教は知的に把握できるものと、いわばすずやかともいえるほどの心組みでそう信じていた。」 空海と最澄の絶交はこの数年後に決定的になる。 ************** このあとすごい意地悪パートに入るのですが割愛^^; 読む前は最澄がかわいそうなのかな?と考えていたのですが。 なんだか最澄も最澄でひとつの結晶体というか、完成されていて。 簡単に空海の思うようにはならないならない。どっちもどっ・・(ゴホゴホ) 最澄はどちらかというと空海に心酔して帰って来なくなってしまった愛弟子に対するこだわりがつよくて、(どうせ私は見捨てられた老人ですよーだ)とか弟子への手紙の中で拗ねてみせたり、けっこう空海そっちのけな感じが端々に見受けられて、こりゃちょっと空海も浮かばれないよなー、と思ったりもしました。 長安に留学時の空海の天才エピソードもすごくて、文人・詩人は寄ってたかって空海と交流を持ちたがるし、唐の帝は日本に帰らないで私の師になってくれ、と口説いてくるし、お師匠さんの恵果上人は空海が訪れるのをいまかいまかと待ち焦がれようやく逢えたら「大好(タアハオ)大好(タアハオ)」だし、すさまじいです。容赦のない伝説です。 司馬先生も 「空海の生涯の行蔵からみて謙虚という、都会の美徳はもっていなかったとおもわれる。」 とか 「空海はうそをいう人ではなかったが、ただ謙虚な人ではなく、むしろ自讃する人であった。」 とか、れいの褒めているのだかけなしているのだかわからない人物評をしています。 ・・・・・・・・・・・ GWの高野山はすごい人出でした。私のような観光客のほかに「同行二人」のお遍路さんも多かったです。 山の上にぽっかり現れた盆地にある宗教都市なのですが、学校も病院も役場も警察もあって、あ、白バイに乗っていたのが婦警さんでした。かっこいい!根本大塔の立体曼荼羅は燦々ときらびやかでした。宗派問わずの奥ノ院の墓地には偉人・凡人・法人(トヨタとかUCCとか)の工夫を凝らしたお墓がずらーっと並んでいて、「UCCはコーヒーカップ型のお墓で中の石は茶色なんですよー。凝ってますねー」とガイドさんが説明していました。講談と和太鼓のコラボ法話を聞きながら、お坊さんが「ぼくらなんかはお大師さんはすごいなあ、お大師さんはえらいなあ、といつも思ってますねえ」というお話が妙に印象的でした。ううん、おおらかだなあ。 尻切れトンボですが、読書記録と旅行記はこれで幕。最後までお付き合いありがとうございます。チョン。 ☆☆☆ 『空海の風景』司馬遼太郎 著 (文春文庫 上360円、下380円:税抜)
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2年ぶりに戻ってきました^^
なんとあんごさんの記事を発見して大喜びです!最澄と空海って同時代人だったんですね(無知)しかし高野山の詳細もしりたいなあ。
私は1月に軍艦島に行ってきましたが、今のこの世界遺産ブームにびっくりです。
2015/5/18(月) 午後 11:53
こんばんは、あんごさんお久しぶりです。元気になってなによりですね!。この本は読んだ私の恩師からさんざん話をされてそれで読まなくなったというめずらしい本です(笑)。わたしはどちらかというと最澄のファンです。なぜかというと最澄のもとからはいろんな宗派の開祖がたくさん出ました。変なたとえですがプロデューサーの素質と言いましょうか?。対して空海はただの天才(天然w)です。これはこれですごいのですがこまかい逸話を聞くとどうも好きになれなくて・・・w。
2015/5/19(火) 午後 6:56
しろねこさん、おかえりなさいませ^^しろねこさんと復活のタイミングがあってうれしいです♪ええっ!?軍艦島に行かれたんですか!?いいなーーー。すっごく行ってみたい場所です。旅行記などゼヒゼヒ^^
2015/5/20(水) 午後 11:08
もねさん、お久しぶりです。気まぐれな諸器官のご機嫌をとりながらぼちぼちやっております〜^^もねさんの恩師のお話、聞いてみたいです・・・。「ただの天才」←わあ、すごい表現ですね。小林秀雄が三島に言った「君には才能しかない」みたいな感じなのかしら。私ももともと最澄びいきだったので、彼がどれだけ苛められるかドキドキしながら本作を手に取りました(笑)
2015/5/20(水) 午後 11:30
学生時代から歴史が苦手だったので、日本史で「空海」とか「密教」なんて言葉はあくまで単なる単語でしかなかったのですが、記事を読んで、むわっと奥行きが出てきました。若輩な読み手なのでまだまだ手には取れませんが、いつかは…と思ってしまいました。あんごさんのレビューはやっぱり読んでいて気持ちいいわ〜
2015/5/21(木) 午前 1:15 [ ミツコ ]
ミツコさん、お久しぶりです。もったいないお言葉ありがとうございます!実を言いますと自分は石ノ森章太郎の「マンガ日本の歴史」が歴史の原点で(←年齢がばれる〜)きちんと系統立てた歴史の勉強はしてないのデス^^;卑弥呼も芭蕉もヤマトタケルも、すべて石ノ森御大から伝授されました☆・・・ああ、ばらしちゃった^^
2015/5/23(土) 午前 9:05
ご無沙汰してました!久しぶりのあんご節って感じで、イジメっぷり?を読んでみたいなと思いました(笑)。
それにしても読書と絡み合える旅行っていいですね〜。旅に出たくなりました。
2015/5/24(日) 午後 4:34 [ ちいらば ]
あんごさん〜〜お久しぶりです。。帰ってきましたね待っていました。。良かったお元気で〜〜〜
しかし長文で・・・じっかりと読みますね。
私は山ばかりですが、電車移動に本をザックに入れて山に登っています〜〜(笑)
2015/5/25(月) 午前 11:14
ちいらばさん、ご無沙汰しております。本当にすごいイジメっぷりですのでご興味があれば〜(笑)そうそう、旅と読書が絡み合うと本当に至福ですよね〜^0^
2015/5/25(月) 午後 10:47
miyamaさん、お久しぶりです。留守中はあたたかいコメントありがとうございました。あ、どうぞ長文はうっちゃってやってくださいませ(ほとんど備忘録ですので^^;)わたしもmiyamaさん山登り記事、とても楽しみにしていますよ〜♪
2015/5/25(月) 午後 10:50
あんごさん、久しぶりです。お元気そうでよかった。
記事をゆっくり読みました。最近歴史ものは、司馬遼太郎です。まず安心。これも面白そうですね。読みたくなりました。
2015/5/25(月) 午後 11:12
すてさん、お久しぶりです。留守中はあたたかいコメント本当にありがとうございました。長文にお付き合い頂きありがとうございます^^最近は時代ものばかりで司馬先生の小説は久しぶりでしたが、やっぱり面白いですね〜^^歴史とフィクションのあわいをぞんぶんに楽しみました♪
2015/5/26(火) 午後 11:30
空海と最澄の応酬は、以前何かで読みましたが、僕は密教は仏教ではないんじゃないか(笑)という気がしてます。
それに儒学好きなので、仏教そのものが怪しいものと思っています。その、怪しさの総本山を作ったのがこの二人のような気がします。
とても面白いんですが(笑)。
2015/6/1(月) 午後 3:32 [ bat**yu2*01 ]
バタイユさん、お久しぶりです。留守中はあたたかいコメント本当にありがとうございました。本当に空海と最澄の関係は面白いですね^^小説にしたくなる気持ちがちょっと判るような・・・。バタイユさんは儒学がお好きなんですね。「怪しさの総本山」←ええっ!?ぜひ詳しいお話を伺いたいです。
2015/6/7(日) 午後 4:59