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「つまり、神になりうる」 平安の巨人空海の思想と生涯、その時代の風景を照射して、日本が生んだ最初の人類普遍の天才の実像に迫る。構想十年余、著者積年のテーマに挑む司馬文学の記念碑的大作。
<那ノ津の情景> 大宰府、那ノ津。 遣唐使は行きも帰りも大宰府に立ち寄るのが慣例になっている。 砂浜の向こうにぱらぱらとちいさな影が散っていた。 船団の正使である藤原葛野麻呂(ふじわらのくずのまろ)はそのなかのより濃いひとつのちいさな影に近寄った。浜の松原に陽炎が立ち、目のくらむように熱い日だった。正使は丁寧な挨拶をしている。 まるで師父にたいするような手厚い礼であった。影の頭が大きかった。足はほそく痩せていた。影は正使に媚びるようすがなかった。―――意外であった。影は清潔であった。 (あれが、最澄か。・・・・) と、空海は、遠目ながらも最澄のすべてを見ぬいてしまいたいような衝動をもって見つめたはずである。 おなじく入唐の一群にいた儒者・橘逸勢(たちばなのはやなり)が空海に耳打ちする。 「くだらぬ男だろうよ」 うるさい男だとおもった。コバエのようだ。 「そうではあるまい」 うんざりとした。貴様ごときがどうこういえた境涯かと舌打ちしたい気もちになった。 すみやかに逸勢を意識から消し去り、じっと影を見詰めた。ひょっとしてこちらを見返しはせぬか、とおもった。 「もし最澄が自分に話しかけてくれば、空海は本気で相手にならなければならぬという心のたかぶりがあった。というより、入唐にさきだち、最澄が志している天台教学が思想としていかに死物であるかということを説いてやりたかった。最澄の硬直の志を砕き、真理に対してもっと虚心な構えをもたせてやりたい、それが親切というものではないかとさえ空海は思っていたはずである。空海にすれば最澄についての評価は、似た志をもつ自分以外にできるはずかないと思っている。自分のみがそれをすべきで、橘逸勢ごとき儒生が横から口を出すべきものでないと思っていたにちがいない。」 ・・・・・・・ GWに高野山に行くことになったので予習のつもりで手に取った本。上下巻です。 平安時代の宗教人というあまりに遠い人間を書いたものなので、退屈してしまうかな?と心配でしたが杞憂でした。 もう空海が最澄をいじめるいじめる^^; これでもか!という程の悪意のこもった意地悪をするもので目が離せません。 学校の日本史や学習漫画などで空海と最澄についてはちょろっと勉強すると思うのですが。 ふたりとも平安時代の初めのころの人です。桓武天皇の時代。遣唐使として中国に渡ってそれぞれ新しい宗教を持ち帰ってきます。 最澄が天台宗で比叡山の人。 空海が真言宗で高野山の人。 最澄の方が7歳年長さんです。 (ちなみに遣唐使は最澄が手厚い国費、空海は私費をかきあつめて行きます。) ふたりの仲違いというのはわりと有名で、最澄の弟子が空海に心酔してしまい高野山から帰ってこなくなってしまったり、最澄が「経典(理趣経)貸してー」と空海にお願いしたところ「やだ!」と断られてしまったり、となんやかんやモメたらしい。このあたりが子供心にも面白いなあ、とのんきに思っていました。 「風信帖」という空海が最澄に宛てたお手紙は国宝になっていますよね。 なぜそうしたのか?なぜそうなったのか?という部分を司馬先生が独特の想像力でもって小説にしています。 乱暴な言い方をすると空海が「天才だったから」みたいです。 こんな感じ。 ・・・・・・・・・ 「筆者は、空海において、ごくばく然と天才の成立ということを考えている。」 讃岐の国(いまの香川県)に生まれた空海は、神童として一族からたいへん可愛がられました。 「わたしは両親から宝物と呼ばれていたよ」 (父母、偏(ヒトエ)に悲(イツクシ)み、字(アザナ)して、貴物(タフトモノ)と号す) と弟子たちにあっけらかんと語ったように、空海は筋目のいい大人たちから見守られ期待をかけられれていました。大人たちは彼に官僚になって欲しいようでした。 18歳で都の大学に入り、仏教を学ぶ機会を得た空海は官僚になるばかばかしさを痛感します。 そして翌年さっさと大学を辞めてしまいます。私度僧(しどそう)として山林に分け入るのです。 大人たちはそれでも彼を庇護し、なにやかやと援助をし続けました。 「かれの少年期は幸福でありすぎるようであり、むろん幸福すぎることはすこしもわるくはない。」 彼は都では大安寺の首座・勤操(ごんぞう)の付き人として諸寺を歩き回り経典を読み漁ります。 学ぶにつれ、従来の仏教がどことなく不足で不満に感じるようになってきました。 「解脱」には死と苦のにおいがしてあまり好きにはなれません。 生命というのはもっと暢気で明るいものなのではないだろうか? 空海は、生命や煩悩をありのまま肯定し、なおかつ「悟り」というものから現世的な福利をひきだして当然ではないかという、あくどいばかりの願望をもっていました。 そんなかれが「密教」と出会います。肉体と生命を肯定する密教はかれにぴったりの思想でした。 ただ日本にあるそれはバラバラの破片でしかありませんでした。インドで生まれた密教は中国を経由してごく一部の破片が日本に届いていました。いわるゆ「雑密」です。 空海は遣唐使として唐にゆき、師である恵果上人から密教のすべての教えを譲り受けました。 彼は密教を系統だて論理立て「真言宗」というまったく新しい密教(純密)をほぼ独力でつくりあげてゆきます。すべてが緻密に計算され尽くし論理化された濃厚できらびやかな、世界中のどこにもない宗教にするつもりでした。 空海は、日本に帰ってきます。そして密教を日本に伝えようと意気込みます。が、日本にはすでに密教が伝わっていました。都はちょっとした密教ブームになっていました。 伝えたのは最澄でした。 ・・・・・・・・・・ 最澄の学んでいたのは「天台宗」です。ですが、遣唐使の帰り道、船待ちのあいだ越州(えっしゅう)の順暁(じゅんぎょう)阿闍梨から密教の教えを受けていました。ただし順暁は傍流の人で、最澄が持ち帰った密教はほんのさわりでしかありませんでした。 (のちに最澄はそのことに気付き、たいへん恥じいり狼狽し改めて空海に密教の教えを乞いにきます) 日本に帰ると、新しもの好きの桓武帝は最澄の専門の天台宗よりも密教に興味を示しました。 国家単位でそれを保護し広めさせました。最澄はとまどいつつも布教の先鞭をつけてしまうのでありました。 (天皇の寵愛をかさにきて雑な教えを得意になってふれまわっている。) ―――最澄とはそういう男だ。 ひとつの最澄像が空海のなかに結ばれつつありました。 ・・・・・・・・・・・ 「最澄は、天子に取り入ったわけではない。」 むしろ天子のほうから最澄に関心をもったようでした。 最澄は篤実な人でありました。弟子に対しても決して威張らず、空海のひらめくような天才性はありませんでしたが、ひたむきで真面目な知性を持つ人であったようです。 「宮廷に多くの庇護者をつくったのは最澄の誠実な人柄が好まれたためで、最澄の政治力ではなかった。最澄はむしろ政治力がなさすぎたかもしれない。」 「無私な志になにやら偏執するようにして熱中している姿が、一面、印象としてすずやかであってもどこか脆げであるということが、長者たちの庇護の思いをそそるのかもしれない。」 最澄の政治力の無さは、古い宗教(奈良六宗)との応酬の仕方に現れました。 かれは、妥協なく、まっすぐ厳しく古い仏教を排撃しました。その結果、六宗の古老たちは最澄を敵視し団結してゆきます。自分たちの宗教に新風を吹き込めさえすれば、こんな若造なぞに威張らせてはおかないのに、とくやしさを噛みしめていました。 そんなときに最澄の最大の庇護者であった桓武帝が崩御しました。 最澄は苦しい思いをしていました。自分が不用意にもたらしてしまった密教は粗雑なものだ、ということは、後から帰ってきた空海が朝廷に提出した「目録」を見れば一目瞭然でした。 かれ自身が専門としている「天台宗」を国家仏教の一派として認めさせはしましたが、密教に関しては自らの手落ちを悔やむ事しきりでありました。 さて、奈良六宗の古老たちは、自分たちの宗教に新風を入れたいという気持ちがあります。 そこに現れたのが空海でした。空海は政治感覚のすぐれた人でありました。まっこうから六宗を排撃するなどというおろかな事はしません。ただ、ほんのすこうし足りないようだ、と助言をしました。 (密教の要素を入れれば、あなたたちの宗教はよりよいものになるだろう。) そうして空海は両腕で抱きいだかれるようにして、37歳の若さで東大寺の別当に任じられるのです。 時代も空海を味方しました。 時の天皇は嵯峨帝です。サロン的雰囲気を好むこの帝は、唐帰りの空海に異常な興味を示しました。 唐の都の長安で人々を熱狂させた空海の文才と詩才。「五筆博士」という称号を天帝から授けられ、王羲之(おうぎし)と伍するとまで称えられたその筆跡。異国の言語を自由自在にあやつり、密教というきらびやかな新思想を持ち帰った男。 「嵯峨は空海において、友人を見出してしまっているのである。」 空海の方といえば、真言という宇宙の普遍をしってしまったかれにとっては、国家も天皇もほんの些細なものにしか見えませんでした。 「空海はそれ以前の僧とはちがい、国家を超越した世界を気付いてその方の王になろうという志望をひとすじに持っており、志望は宮廷になかった。ただ、宮廷のもつ権力と財力を追い使わねば、巨大な経費を要する真言密教の伽藍や、密教仏、あるいはおびただしい量の金属を必要とする法具類の調整ができなかった。空海には、その国の王の心を摂(と)ってしまう必要があり、さらに露骨にいえば、王をその必要の対象としてしか見ていなかったかもしれない。」 相手に恩のみを売り、恩を着せられることを巧みに避けつつ、空海は嵯峨からの接近を避けませんでした。目をみはるほどあざやかな政治感覚でありました。 ・・・・・・・・・・・・・ 「経典を貸してほしい」 手紙の日付は大同4年(809)8月24日。 最澄からの手紙を持って、最澄の弟子経珍が空海のもとにやってきました。 「最澄は、自分の思想の敵である奈良六宗に対しては戦闘的であったが、空海対してはふしぎなほどに態度がやわらかく、むしろ齢下の空海に対し、新仏教の同志として敬愛しているだけでなく、空海がもたらした密教を、―――あとの空海の言動でわかることだが―――自分が越州でひろった密教よりもはるかに正統ですぐれたものとして讃仰しているほどであった。」 「筆授(ひつじゅ)」という言葉があります。 これは、書物を通して物事を会得することです。古来より日本の仏教はこのやり方で学ばれ、取り入れられてきました。 ただ、密教はこの筆授をきらいました。 「密教の伝達は師承によらねばならず書物に拠ってはいけない。」 という厳しい教えがありました。密教の教えは師から弟子にじかに行わなければならないのです。 これを「付植(ふしょく)」と言いました。 付植はなまみの人間の骨髄を切りさくようにしてそれを植える以外になく、師は弟子にのしかかるようにそれを教え、弟子は師を絶対的・全的なものとして受け入れるという煮溶けような激しさをもつ伝授でした。 空海はこの論理を守ることに関しては何物にも妥協しませんでした。 (この男は、文字で密教を知ろうと企てているのか) 最澄からの手紙を受け取った空海の胸にはにはひえびえとした思いが広がってゆきました。 ・・・・・・・・・・・・・・ 「下僧最澄」 手紙を繰る空海の手が止まった。その末尾。 ふむ?とおもった。意外であった。最澄というのは、あぶらぎった風貌の、自己を顕揚する欲望だけで世間をたぶらかしている男ではなかったのか。その男が、「下僧」としてへりくだるのは、尋常なことではない。 「最澄はそういう男でもあった。」 「かれは自分の弟子に対しても虚勢を張るところがまったくなく、まして法のために空海の援助を乞いたい場合、心から自分を蹲(つくば)わせる男」であった。 実際に最澄は痛ましいほどの謙虚さで空海に教えを乞うた。 空海は最澄に経典を貸した。必要なものがあれば言ってくれ、と返事を書いた。 「この後も最澄はしきりに空海に手紙をだし、経典などの借用方を乞うた。これに対し、空海は密教において筆授はありえないという立場をとっている。」 ただ、空海ははっきりとは言わなかった。ここに最澄に対しての空海の感情があった。 最澄なら気付くであろう、と。 ふたりの文通と経典のやり取りは数年続いた。 ・・・・・・・・・・・・ 弘仁3年10月27日。 最澄は突如空海をおとずれる。 「信じがたいことだが、両人が地上で相合ったのは、これが最初であった。」 「和尚、モシ無限ノ恩ヲ垂レナバ、明日、必ズ参奉セン。伏シテ乞フ、指南ヲ垂レ、進止セヨ」 最澄は切実であった。自分に足りない密教の教えを、空海自らに伝授してほしかった。 「伏シテ乞フ」 掴まえた。とおもった。とうとうきた。あの男がやってきたのだ。密教者として。 ・・・・・・・・・・・・ <星を飲む話> 「つまり、神になりうる」 空海は私度僧としての修業時代に四国の室戸岬(むろとみさき)で星を飲んだことがある。 まったくの奇跡がその身に起き、真言という神仏たちの言語を突如理解した。 「これが、自然の本質がおのれの本質を物語るときの言語か」 室戸岬(むろとみさき)の突端、ほらあなをみつけ、そこに端坐した。「虚空蔵求聞持法」をとなえることひゃくまんべん。星が口に飛びこんできた。 「土佐ノ室生門崎ニ寂留ス。心ニ観ズルニ、明星口ニ入リ、虚空蔵光明照(テラ)シ来ツテ、菩薩ノ威ヲ顕(アラハ)ス」 「ただ空海を空海たらしめるために重大であるのは、明星であった。天にあって明星がたしかに動いた。みるみる洞窟へ近づき、洞内にとびこみ、やがてすさまじい衝撃とともに空海の口中に入ってしまった。」 「この一大衝撃とともに空海の儒教的事実主義はこなごなにくだかれ、その肉体を地上に残したまま、その精神は抽象的世界に棲むようになるのである。」 真魚という俗名を持つ男は死に、空海という天才が誕生する。 そして空海は確信した。 (自分は宇宙の意志によって格別に手厚くもてなされているのではないか) ―――目を開けた。最澄がいた。この年長の男にもわからせてやりたい。この言語を。この真言を。 「オ前ハ俺ニ成レ」 そうすれば。 「ツマリ、神ニナリウル」 ・・・・・・・・・・・・・・ 「最澄は、密教は知的に把握できるものと、いわばすずやかともいえるほどの心組みでそう信じていた。」 空海と最澄の絶交はこの数年後に決定的になる。 ************** このあとすごい意地悪パートに入るのですが割愛^^; 読む前は最澄がかわいそうなのかな?と考えていたのですが。 なんだか最澄も最澄でひとつの結晶体というか、完成されていて。 簡単に空海の思うようにはならないならない。どっちもどっ・・(ゴホゴホ) 最澄はどちらかというと空海に心酔して帰って来なくなってしまった愛弟子に対するこだわりがつよくて、(どうせ私は見捨てられた老人ですよーだ)とか弟子への手紙の中で拗ねてみせたり、けっこう空海そっちのけな感じが端々に見受けられて、こりゃちょっと空海も浮かばれないよなー、と思ったりもしました。 長安に留学時の空海の天才エピソードもすごくて、文人・詩人は寄ってたかって空海と交流を持ちたがるし、唐の帝は日本に帰らないで私の師になってくれ、と口説いてくるし、お師匠さんの恵果上人は空海が訪れるのをいまかいまかと待ち焦がれようやく逢えたら「大好(タアハオ)大好(タアハオ)」だし、すさまじいです。容赦のない伝説です。 司馬先生も 「空海の生涯の行蔵からみて謙虚という、都会の美徳はもっていなかったとおもわれる。」 とか 「空海はうそをいう人ではなかったが、ただ謙虚な人ではなく、むしろ自讃する人であった。」 とか、れいの褒めているのだかけなしているのだかわからない人物評をしています。 ・・・・・・・・・・・ GWの高野山はすごい人出でした。私のような観光客のほかに「同行二人」のお遍路さんも多かったです。 山の上にぽっかり現れた盆地にある宗教都市なのですが、学校も病院も役場も警察もあって、あ、白バイに乗っていたのが婦警さんでした。かっこいい!根本大塔の立体曼荼羅は燦々ときらびやかでした。宗派問わずの奥ノ院の墓地には偉人・凡人・法人(トヨタとかUCCとか)の工夫を凝らしたお墓がずらーっと並んでいて、「UCCはコーヒーカップ型のお墓で中の石は茶色なんですよー。凝ってますねー」とガイドさんが説明していました。講談と和太鼓のコラボ法話を聞きながら、お坊さんが「ぼくらなんかはお大師さんはすごいなあ、お大師さんはえらいなあ、といつも思ってますねえ」というお話が妙に印象的でした。ううん、おおらかだなあ。 尻切れトンボですが、読書記録と旅行記はこれで幕。最後までお付き合いありがとうございます。チョン。 ☆☆☆ 『空海の風景』司馬遼太郎 著 (文春文庫 上360円、下380円:税抜)
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「アーアあきまへん」
『浄瑠璃素人講釈(じょうるりしろうとこうしゃく)』 杉山其日庵
ご無沙汰しております。あんごです。なんだか色々ご挨拶しなくてはいけないこともあるのですが、忘れないうちにこの本のことだけは書いておかなくては〜、と無礼を承知で筆を急がせます。貸出延滞してます。ごめんなさい…。 池波正太郎先生のエッセイに「私の一冊」という短い文章があるのですが。 「年に何度か、気力がおとろえて仕事がすすまぬとき、私は書庫から、杉山其日庵著 『浄瑠璃素人講釈』一巻を出してきて読む。」 池波先生は、むかしこの本を読んで非常に感銘を受けて、復刊されるや「飛びつくように買いもとめ」た、そうで。 (杉山っていったら夢野久作の親父さんって杉山茂丸だったヨナァ…)とぼんやり思いながら読み進めていたら、なんとマーご本人でした。其日庵(そのひあん)っていうのは号だそうです。 「著者の其日庵・杉山茂丸は、明治・大正の政界の「黒幕」として知られた無欲の人物であるが、義太夫節の造詣が深く、みずから稽古にはげむばかりでなく、義太夫界のパトロンでもあった。この一巻には杉山茂丸が八十余の浄瑠璃に独自の解釈をおこない、親しかった名人たちの聞き書きをも合わせてあつめたものだ。」 池波先生は、この本を読むと「何か目に見えないところから太い棍棒が出て来て、自分の脳天をなぐりつけられたような」おもいがする、と書かれています。 「読んでいるうち、われ知らず目の中が熱くなり、気力がわいてくるのだ」 とてもみじかい文章ですが、えもいわれぬ情熱を感じて、(こりゃあ読んでみなくちゃナー)と調べてみたら2004年に岩波文庫が注釈付きで出版していました!GJ。岩波。 とはいえ、浄瑠璃って見たことがないし、そもそもどういうものかも知らないズブの素人です。予習のつもりで調べてみました。 ■浄瑠璃とは? 浄瑠璃(じょうるり)とは、三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る劇場音楽、音曲である。 (※太夫(たゆう)、浄瑠璃語りのこと。) ■よく義太夫って聞くけどそれはなに? 義太夫節(ぎだゆうぶし)とは、江戸時代の前期、大阪の竹本義太夫(たけもと・ぎだゆう)が始めた浄瑠璃の一種。略して義太夫ともいう。国の重要無形文化財。 ■あれ?でも「文楽」ってのあるじゃない。どう違うの? 文楽(ぶんらく)とは、人形浄瑠璃のこと。 太夫、三味線、人形遣いの「三業(さんぎょう)」で成り立つ三位一体の演芸である。(※つまりは浄瑠璃に人形がプラスされたもの?) ■そもそも杉山茂丸(すぎやま・しげまる)って誰? 杉山茂丸(元治元年(1864)−昭和10年(1935))福岡県生まれ。 日本の実業家。政治運動家。生涯在野の人。なんだか不思議な人。 明治・大正を股にかけた「政界の黒幕」と呼ばれたりしています。伊藤博文を暗殺しに行って逆に説き伏せられて共闘したり、本人は無欲だけれどお金を回すのがバツグンにうまかったために、政財界やら芸術やらのパトロンをしたり。頭山満の懐刀と云われたり、夢野久作のオトーチャンだったりと、まあとにかく面白い人のようです。すみません、興味はあるけれど詳しくない^^; 人となりや交友関係などは息子の夢野久作の「近世怪人伝」なんかを読んでいるとナニコレーとなります。オススメです。 (Wikipedia参照) さて、そんな杉山茂丸が特に熱心にパトロンしていたのが、浄瑠璃です。才能のある太夫を贔屓にして自身も稽古に励み、文献を漁り、古老の話や贔屓の太夫たちの話を聞き書きしたのがこの本です。 浄瑠璃というものを愛して、「芸を調べ整理し伝えなおさら高めたい」という情熱にあふれた本でした。 あふれすぎた情熱の結果、贔屓の太夫とのやりとりも熱っぽく、時には子供じみていて、ぷっと吹き出してしまうくらいに人間クサいです。書かれたのは大正期。自由闊達な独特の文体のおかげか、とても読みやすいです。(ただ、専門用語はさっぱりわかりません^^;) 名人の芸とはなんぞや、というくだりでは 名人の芸には、一段に一ヵ所二ヵ所くらい「大身の槍で突抜」いたようなような「恐ろしい処」があるものだが、いま持て囃される浄瑠璃は小粒というか「飯粒細工」になってしまっている、と或る老師が辛辣な評をするのですが、その言いようが凄い。 「アンナ浄瑠璃を語るのなら、一層の事、『誉めてくれ、誉めてくれ、誉めてくれ、誉めてくれ。銭をくれ、銭をくれ、銭をくれ、銭をくれ』と大声で怒鳴った方が宜(よ)いと思ます。」 「鎌倉三代記 三浦別れの段」 あと、贔屓にしている太夫と、しょっちゅう絶交しては仲直りしています。 余談ですが、昔の人って三食食べるのと同じ頻度で絶交していませんか? 芸術家とか文士っていうのは呼吸する頻度で絶交する人種なんでしょうか? (安吾とか、文士の手紙の内容って、たいてい金の無心か絶交状かですよね^^;) 閑話休題。 以下は、「増補 源平布引滝 四段目切 松浪検校琵琶の段」より。 庵主(茂丸)と、贔屓の芸人・大隅太夫(おおすみだゆう)のやりとりです。 本人たちはとてもまじめで、はた目にはちょっと馬鹿馬鹿しいようなかわいらしいようなすさまじいような旦那と芸人の絶交顛末です。 「庵主は師匠大隅生涯の中(うち)に、前後六度ほど出入止めの勘当をした事がある。それは贔屓上の厚意とて、たとえ庵主がこれほど好きの浄瑠璃を止めても、大隅師のために良くないと思った事を意見して用いない時に、固き決心の上に発表した事件である。」 「それほど庵主の固き決心が、何時でもまた芸道の上で、一人の仲人(ちゅうにん)なしで和解してしまった。」 ご贔屓の大隅太夫と、生涯6回も絶交しているんですね。 おまえのためを思って忠告したのに、受け入れないなんてもう絶交だ!と旦那が怒っています。もう口もきかない、と固く決心しているようです。 「或時今度こそはドンナ事があっても、生涯大隅とは絶交であると決心をして、二年ばかりは手紙が来ても封のままで突き戻していたが、大隅も今度は諦めたかして、明治座に来て興行していても、庵主の家には顔出をしなかった。好い塩梅と喜んでいたが、フト或朝新聞を見ると、大隅が今夜は「布引」の四段目を語ると書いてある。庵主の頭は忽ちグラグラと動いた。」 あ、でも、こんど明治座で大隅が「源平布引滝(げんぺいぬのびきだき)」の四段目をやるんだって。うわー、聞きたい、どうしようどうしよう、と旦那はグラグラします。固い決心はどうしたんでしょう。 「アーア大隅と絶交して後、沢山『布引』[松浪琵琶]を聞いたが、皆まるで、目も鼻もない四段目であった。今度大隅の『布引』を聞いて置かねば、モウ一生涯筋のある『布引』は聞けぬかと思うと、絶交はしているが、変装でもして、四段目だけを聞に行うか知ら……、イヤイヤ止めて置こう。イヤイヤ分からぬように行う」 注:けっきょく変装していきます。 「トウトウ頭巾付きの雨外套を着」て、大雨の日でした。「自働車は久松町の警察署でその門前に置き、ソーッと入場」したそうです。二階席の正面に陣取り、「煙草盆を枕」にして、寝そべります。これなら太夫からは姿が見えないだろうとご満悦です。茂丸は大男でした。さあ大好きな「布引」です。固唾をのんで聴き入ります。 いっぽう太夫も旦那のことが気になって気になって仕方がありません。 旦那の得意茶屋に楽屋入りごとに顔を出しては 「ドウだす。旦那はんは来てやはりませぬか、何とも音沙汰はござりませぬか」 と、興行中は毎日まいにち聞きにきます。 さて、大雨の当日です。客足は悪くザッと六十。この日も太夫は茶屋の出方男(でかたおとこ)に尋ねます。 「ドウダス、今夜も旦那は来ていらはりませぬか」 「今度の奥行には、ドウもお出でにならぬようです。しかし正面の二階に大きな男の人が、一人寝ておりますぜ」 太夫、膝をポンと叩きます。目に光が入りました。 「それじゃ、旦那に違いありませぬぜ」 「と云って、間もなく高座に現われた。庵主は片唾を呑んで聴いていると、タッタ六十人の客を相手に語る大隅の「布四」と云ったら、天地も裂けんばかりの息込みで、庵主は何時の間にか芸魔に魅せられて、生死の界(さかい)も分からぬようになった。またその時の二代目団平(だんぺい)の絃(いと)の冴えと云ったら、庵主長年アノ人がアレだけ三味線の弾けたのを聞いた事がないと思うほどであった。」 「トウトウ大隅がこの一段を語り捨てるように語ってしまった時は、庵主もまた投げ捨てられたように、起直(おきなお)ることも出来ぬようであった。」 とはいえ絶交中のことです。演目が終ると旦那逃げるように木戸へ走ります。見つかったら事です。しめしがつきません。みっともない。 あっ、とおもいました。出口に大隅太夫がおります。汗みずくです。 帽子もインバネスも左手に抱えて、駆出して来たものと見えました。 出し抜けでした。 「旦那様、御機嫌ようござりまする。何とも申訳ござりませぬ」 それより後はひとことも口をきかず、だまってノソノソついてきます。 仕方なしに自動車にのせました。 「マア自働車に乗れ」 「と云って、ある料理屋まで連れてきて、二言三言の挨拶で、トウトウ庵主の固き決心も何も、無条件挫折(ぐにゃぐにゃ)で講和締結となってしまった。」 「前後六度の絶交は、一度もこの手に乗らぬ事はなかったのである。」 それから大隅は、 「私は久しぶりに四段目をアンタに聴いて貰うていると思うて、ウツツになって語りました」 と云って、段々講釈してくれた。 「二時間ばかりの後は、庵主はチャント大隅の奴隷となり下ったのである。」 旦那の白旗です。敗北宣言は即座に奴隷宣言と相成りました。 ここからは厳しいお稽古です。 「サアここを云うてみなはれ………ソソそんな詞遣いを誰れが教えました。私はソンナお稽古はしまへんぜ。それはまるで、『躄(いざり)』の乞食と一所でんがナア。これは天子様の御殿の仕丁(じちょう)ダッセ。それも難波の六郎や、越中(えっちゅう)、上総(かずさ)でおますぜ。アーアあきまへん。この段は錦場(にしきば)としておますさかい、官女の這入るも仕丁の這入るも、錦(節の名)に語んなはれと云うといタジャおまへんかいな。アーアあきまへんあきまへん、行綱(ゆきつな)の初めの出には、ドンナ音(おん)を遣いやハッタ。『虫が知らすか松波が』、ソンナ音でヨー語れますなア。『ニジッタ』音で『ハッ』て、ソウソウ、モット、サラサラと運びなハレ。あんたはアレだけ丁寧な稽古をして覚えていて、私(わた)いが少し逢わないと、サッパリどもなりへんなア」 「と、まるで餓鬼人足(がきにんそく)のように、踏まれたり蹴られたりである。」 「モウ書けば書くほど恥の上塗りばかりであるから、この位にして置く」 とはうそいつわりのない旦那が心情の吐露でした。 ほかにも、とても魅力的なエピソードがたくさんあるのですが、書き切れません。 割れるように人気のある太夫にお前の義太夫は「面白いばかりで、恐ろしい所は只の一つもないではないか」とザックリ云い切る旦那です。 「芸と云う芸は何でも聞いて、恐ろしい感じが起らねば、芸ではない、それは修行である。」 ただひたすらに修行修行修行稽古稽古稽古をするのだ、とひつこいくらいに言いきかせます。 ホタエ(客受け重視のふざけた芸)をした名人らを、同業者が批判したときの鮮やかな切り返し。 「コラコラ、ドンナ芸をアノ両人がしても、貴様たちはそれを批評する資格はないぞ。ただアレが好いとか悪るいとか批評する資格は、芸人でない俺だけであると思う。」 金取り目当ての芸をあえてして金をとる力量のある彼らを批判できるのは、客でも芸人でもない、旦那である自分だけだ、と云い切る矜持。 「芸は芸人が悪くし、旦那衆がこれを善くする」 「芸人は芸を商売にして利益収入を欲しがる。ソコデ聴衆に媚びて、前受けに目を眩ます。」 「旦那衆は道楽で遣るのじゃから、折角覚えるなら、正しき道を研究したいと思う。ソコデ本当の事を覚えている。それに芸人がツマらぬ芸をして金取をしていると、旦那衆は腹を立てて贔屓(ひいき)にせぬ事になる。」 「これが苦しいから、芸人は苦しいなりに、また本当の芸に心掛ける事になる。故に『芸人が芸を悪くし、旦那衆がこれを善くする』と云うのである。」 パトロンってただのATMじゃないんだなー。すごいなあー。目からウロコでした。 モチロンこれは浄瑠璃の本です。でも「道楽」とか「金」とか、そういった扱いのむつかしいものの正しい使い方を知っていた、古い時代の「旦那」の本でもあるのかなーとも思いました。 なにはともあれ贅沢な一冊でした^^ ☆☆☆ 『浄瑠璃素人講釈(上)』杉山其日庵 著、内山美樹子・桜井弘 編(岩波文庫 税抜 760円)
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ごぶさたしております。 皆さんいかがお過ごしですか? あんごです。 いまさらあけましておめでとうございますでもないのですが、久しぶり過ぎて記事の書き方をわすれています。ごめんなさい。 CTと腫瘍マーカーの結果が順調だったので、この数日の緊張感から解放されていっきにへにゃへにゃスライム状態になっているあんごがお伝えいたします。 一ヶ月くらい右ウエスト部の違和感が消えなくて、「肝臓への転移かなあ」「やだなあ」とずーっと不安だったのですが、検査では特に異常なしとのことで、ほっとしました。 お休み中にゲストブックやコメント欄にコメント頂いていたようで、いまゆっくり拝読しております。 すごくすごくうれしかったです。ありがとうございます!! 病気のことも、できるかぎりですが、書いていこうかと思っています。 現在闘病されている方や近しい方が同じ病気にかかって不安な思いをしている方もいると思うので。 少しでもお役に立つことができれば・・・と思っています。 あと、やっぱり本の話を。 ティプトリーの『愛はさだめ、さだめは死』(早乙女さんオススメの一冊)のなかの SF注短編集です。たしかこれでネビュラ賞とヒューゴー賞を獲ったのかな? 「男たちの知らない女」 こんなに鮮やかに「エイリアン」というものを描いた作品を他に知りません。それも二重の意味で。 とてもクールで知的な物語でした。 心臓の中にひとかけらの溶けない氷を抱え込んでいるようなものです。 心臓は保冷庫。溶けない氷を一欠けら。きれいです。とても。 ばらばらに存在して、永遠に溶け合わない液体、永遠に発芽しない種子のような存在。 「あ、トラウマなんかないのよ。男が嫌いなわけでもないわ。 そんなのはまるで―――まるで、天気を嫌うようなものじゃない」 モーム 「赤毛」 「できるだけさり気ない顔はしているものの、死にたくはなかった。」 本筋とは関係ない一節なのですが、ここまであっさりと自分の状況を描写されてしまうと呆れるというか感心しかできません。 モームを読んでいて、ふとチェーホフの事を思い出したのですが、 こんなに人生が分かってしまうと不幸かもしれませんね、ってやつ。開高健がいってたのかな? チェーホフとモームって対で語られる作家さんなんですね。 人間通というか、他人や自分じしんの人生をながめている感じ。こう、頸をかしげて。よく見ています。 ぞっとするほど。 「人間通の文学というものがある。」という安吾の一文も思い出したな。なんだかいろいろ繋がって面白いです。 あとでまとめるので、メモとして。
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あけましておめでとうございます^^ |
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話題の「アベンジャーズ」観てきました^^ アメコミヒーロ大集合の映画です。 やー面白かった〜。 やっぱりヒーロー物ははいいですね^^観ていて楽しいです。 アメコミヒーローってスーパーマンくらいしか知らないですが^^; (かろうじて「ハルク」と「アイアンマン」は聞いたことがあった) 内容は、ハリウッド版「スーパーロボット大戦」というか「アメコミ無双」というか。 アメリカ版東映漫画祭り? ↑自分はゲームをしないのであくまでイメージですが^^; とりあえず一番強いやつ集めてチーム作っちゃおうぜ、という小学生男子児童的ロマンです。 それで女子から「男子ってバカよねー。」とか言われちゃうんだ。きっと。 アホ程予算を使ってこういう馬鹿馬鹿しい映画を作っちゃうハリウッドすげー。 ヒーロー達の胸筋に惚れ惚れしました。みんなガタイいいなー。うらやましいなー。 *** 社長(アイアンマン)の性格がまんま高田純次です。 「ハンサムで大富豪で天才で慈善家ですけどそれが何か?」 みたいなコト言ってた。(←事実なのでタチ悪い(笑)) ・・・言ってみたいセリフです。
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