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2011年8月26日 晴れ 朝から鹿児島本港より桜島フェリーに乗り、桜島へ。 フェリーは片道150円とリーズナブルです。15分間の船旅です。 西郷さん尽くしの1日目とは打って変わって、二日目は幸田文(こうだあや)さんと向田邦子(むこうだくにこ)さんの足跡を追いかける旅です。 島内の巡回バスに乗って、「桜島病院バス停」で下車。 昭和52年に幸田さんが訪れた「桜島砂防出張所」は「桜島国際火山砂防センター」として堅固な建物に生まれ変わっていました。土石流や火山活動の集中監視を行い、いざというときの島民の避難所にもなっているそうです。 桜島国際火山砂防センター いつかは、と思っていた念願の場所です。 砂防(さぼう)、という言葉はあまりなじみがないかもしれませんが。 <砂防(さぼう):土砂災害を防止する手段の一つ、あるいはその事業の総称。> 「Sabo」という土砂災害対策を示す用語として国際語にもなっているそうです。 私がこの言葉を知ったのは幸田さんのルポルタージュ『崩れ』からでした。 幸田さんが見た「まぼろしの土石流」のVTRではありませんが、砂防事業のVTRを見せて頂きました。 (※土石流のVTRは砂防センターのHPで見ることができます。) 土石流や降灰と長い年月をかけて闘い、長い年月をかけて付き合い続けてきた地域の人々、砂防事業の方々の記録でした。(他に人がいなかったので、一人で贅沢に見てしまった^^) 「それが突如として、なんともいいがたい音響とともに、川幅いっぱいに濁流が、があっと高く立ち上がって、襲いかかってきた。」 HPで見た土石流の映像はやはりショッキングでした。 「かなしさなどというなまやさしいものではない。」 「つくづく身にしみるのは、桜島のみならず火山国日本の、国土の負うている宿命だった。」 国土の負うている宿命に「砂防」という事業で立ち向かう人々、いつ爆発するかわからない火山の傍で暮らす人々、そして乱暴も狼藉もなしつつ、なおもってその美しさを失わない桜島。 「何も美しいもの、いいものだけが人を惹くのではない。
大自然の演出した情感は、たとえそれが荒涼であれ、寂寞であれ、我々は心惹かれるのだ。」
実際に現地に行ってみると、「崩れ」の一節一節が心にしみます。幸田さんの文学碑。 「崩れ」の一節が刻まれていました。 砂防センターと桜島を背景に、静かに立っています。 職員の方が「観光案内は不得手なのですが」としきりに恐縮して場所を教えて下さいました。 ありがとうございます〜!! カリフラワー・・・なるほど^^ お昼も過ぎて、フェリーで鹿児島に戻ります。 冷たいものた食べたくて、天文館に行き、名物「しろくま」を食べます。 冷たくておいしい〜。 果物がどっさり載った練乳味のかきごおりです。 磯庭園にむかう途中で「じゃんぼ餅」の店を発見。 「「じゃんぼ」は醤油味のたれをからめたやわらかい餅である。」 「鹿児島の磯浜は、錦江湾の内懐にある。(中略) 母がこの「じゃんぼ」を好んだこともあって、鹿児島にいる時分はよく磯浜へ出かけた。」 やわらかくて、あまくて、おいしい。 ひとさら500円でお値段もやさしい^^ 途中でバスを捕まえて、城山へ逆戻りします。 向田さんの旧宅跡に向かうのです。城山のふもとにあるのだそうです。 「社宅は上之平(かみのひら)といって、城山の並びの山の裾にあり、鹿児島市を一望のもとに見下ろせる高台だった。縁側に立つとすぐ前に桜島があった。」 たぶん、向田さんが駆けあがったであろう坂道。 『父の詫び状』に収録されている「薩摩揚」の中には鹿児島で過ごした懐かしい少女時代のことがたくさんかいてあります。 田島先生にクラス全員の前で殴られたこと。 どうしても殴られる理由がわからなかったけれど、それでも田島先生のことは「大好きだった」そうです。 「ただ東京から転校した私は、多少成績もよく、人もチヤホヤした。その頃からぽつぽつ烈しくなり始めた日支事変の英霊が帰った時など、学校を代表して、女だてらに公会堂で弔辞を読む、というようなこともあり、田島先生は苦々しく思っておられたのではないかと思う。確かに私はうぬぼれの強い生意気な小学生だった。」 戦前のお話ですが、いきいきとしてお転婆な向田さんの姿が目に浮かぶようです^^ かごしま近代文学館に向かいます。 2階の「向田邦子の世界」では、向田さんの肉声テープが聞けます。向田さんの青山のマンションにあったソファや、彼女の愛した身の回りの品々が品よく展示されていました。 ハイヒールを好んで履いていたという説明板を読んで、楽ちんな恰好ばかりしてぐだぐだな自分に「喝!」を入れました。おしゃれというのは、なかなかに根性を要するものなのです。 お気に入りのカーディガン。スカーフ。指輪。向田さんの身に着けていたものは、妥協がなくて女の自分が見てもほれぼれとするほどの「女性らしさ」を感じました。 残念ながら写真撮影はアウトでした〜!!でも目にしっかりと焼きつけておきましたよ^^ 鹿児島出身の有名な作家さんの展示も楽しかったです。 個人的ツボは海音寺潮五郎(かいおんじ・ちょうごろう)氏の展示。 中国歴史書やトルストイのぎっしり詰まった書架の復元は迫力がありました。 この方は西郷さんが大好きで大好きでたまらなかったのだそうです。 『史伝 西郷隆盛』の「あとがき」の一節がとても印象的でした。 「伝記というものは、ほれこんで、好きで好きでたまらない者が書くべきものと、私は信じています。」 いい言葉だなあと思います。やっぱり愛がなくちゃね。 作者逝去のため未完の作だそうですが、いつか読んでみたい作品です。 ・・・そんなこんなで、楽しい鹿児島旅行もお終いです。 まわりをかえりみない超個人的な旅行記ですが(砂防センターなんて誰が楽しむんだか^^;)
こんなのを最後まで読んで下さった方がいらっしゃたら、ありがとうございます。多謝。 |
旅行記
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2011年8月25日(木) 東京発のJALに乗って一路鹿児島へ。 飛行機はひさしぶりです。 今回は西郷さんを巡る旅です。 shoさんにそそのかされて司馬先生の『翔ぶが如く』を読んだところ。 読めば読むほど西郷さんがわけわからんことになってしまったので、いっそ生誕地を訪ねてみるか、ということに相成りました。 天候の都合で約一時間遅れで鹿児島へ。空港から高速バスで鹿児島中央駅へむかいます。 甲突川(こうつきがわ)へ。 西郷さんたちが生まれ育った加治屋町はあるいてすぐです。 高校の敷地に、村田新八と篠原国幹の誕生地の碑がありました。 薩軍幹部です。ふたりとも西南戦争で戦死しました。 村田新八(むらた しんぱち)。大久保に次ぐ人材として新政府で期待されていた人物だったそうです。 篠原国幹(しのはら くにもと)。とても無口な人で、勇敢だったそうです。得意技。最前線で無言の発砲(立ち撃ち) 川沿いにある「ふるさと維新館」(←気合の入りまくった施設だった。)の傍に西郷さんの生誕地があります。 西郷隆盛(さいごう たかもり)生誕地。 「存在としての西郷は、悪である」(川路利良) 「仲間と西郷翁のところへ押しかけてゆくと、翁はいつもよろこんで相手になってくれた。 接していてあたかも春風に触れるがような長閑(のどか)な気持ちになる。 辞して門を出るときは、もう胸中名状しがたい愉快が湧いてくるのである」(山本権兵衛) ギャグかと思う程ご近所に大久保さんの生い立ちの地がありました。 (※本当は大久保さんは川向うの高麗町(これまち)の生まれだそうです) 大久保利通(おおくぼ としみち)生い立ちの地。 「言葉はすくなく、ただわれわれはその威厳にうたれて、こちらから言いたいことも言われず、 小さくなって帰るのが常であった」 (山本権兵衛) 「めずらしいほどの広量な人物で、公平無私であり、人というものがそれが何者であっても重んずる 風があった。」(伊藤博文) 城山に登ります。薩軍300余。政府軍7万で対決した西南戦争最後の地です。 城山から桜島をのぞむ。西郷さんもここから桜島を見たのかなあ。 城山を降りてお約束通り迷っていたら見かねた地元の方に助けられました。 (以後ずうずうしくも2時間ちかく案内していただく。) 「西郷洞窟を探しているのですが」と問うたら、ご案内しましょうと言って頂きました。 「薩軍の本営地は見ましたか?」と問われたので「あるんですか!?」と城山へ逆戻り。 ありました。 薩軍本営地跡。 「あそこに竹が茂っているところが夏蔭城跡ですよ」と指差されました。小丘があります。 おおっと眺めていたら、たぶん物欲しげなのが伝わったのでしょう。 「行ってみますか?」 「はい」 夏蔭城です。城山陥落の発端はこの夏蔭口からでした。 「まず夏蔭口がやぶられた」 地元の方とおしゃべりしながら歩きます。 「定年で引退しましてね、女房の生まれ故郷に引っ込んだのです」 「越して5、6年ですかねぇ。せっかくだから西郷さんのことを調べてみたくなりましてね。 どうせ閑ですから、こうやっておせっかいしているのです」 そう仰います。 いえいえ。おせっかいだなんて。大歓迎です。 西郷洞窟に向かいます。 西郷洞窟。 西郷さんと薩軍幹部が過ごした洞窟。 土質がやわらかいのでどんどん崩れてきているそうです。 「ここもじきにふさがってしまうかもしれませんね」とおっしゃっていました。 少しさびしいような。家族連れの方と一緒に説明を聞きます。 「どうせなら私学校跡も見に行きましょう」ということで。 私学校砲弾跡。 私学校の石塀には政府軍の砲弾の跡がたくさん残っています。 弾痕跡には草が生えていました。つわものどもがゆめのあと。 現在は病院になっています。 鶴丸城のお堀の亀を見物しながらしばし談笑。 「あれは【ナニコレ珍百景】に出演した<お金の持ちの亀>です。甲羅にお金が貼り付いています。 なかなか見れません。縁起がいいですよ」との事。 この後はどこへ行かれるのですか? 近代文学館へ、というと「方向が同じですのでご案内しましょう」と言って下さいました。 自動販売機の前でお礼をいって別れました。 本当にありがとうございました。贅沢な時間を過ごさせて頂きました。 …鹿児島人やさしい。 西郷さんの終焉の地へ向かいます。 西郷隆盛終焉の地。 「かれは天地のなににもまして西郷が好きだった」 ここで別府晋介(べっぷ しんすけ)に介錯されたそうです。 切腹はしなかったそうです。襟を正して、跪座しました。東拝ののち、首が落ちたそうです。 南洲墓地に向かいます。(※南洲(なんしゅう)は西郷さんの号。) 真ん中の大きな墓石が西郷さん。向かって左隣の明るい石が桐野利秋。右隣が篠原国幹。 桐野だけが石質が違います。京都の愛人さんが送ったとか送らないとか。 伊達男らしいエピソードです。 桐野といえば香水ですが、香水は武人の死装束のようなものだったそうです。 「桐野の体からフランス製の香水がにおった。」 戦場で死んだ場合、遺体がすぐに回収されればいいのですがそれが叶わない場合もあるので。 遺体からたちのぼる死臭を消すために香水をはたくそうです。 単なるおしゃれだと思っていました。知らなんだー。 そんなこんなで、足を棒にした一日目がお終いです。 次は桜島に幸田文をおっかけにゆき、向田さんが食べたという「ぢゃんぼ餅」を食すのだ…^^
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夏休みを使って鹿児島に行ってまいりました〜^^ アホかと思う程の好天でした。干からびました。 いいかげん歳を考えろって感じですが。 司馬先生の『翔ぶが如く』を読んで、もう少し西郷さんの事を知りたくなり、ちらちらと鹿児島関係の資料を漁っておりましたら。 西郷さんも向田さんも幸田さんも安吾(←安吾は無理やりねじこんだ)もイチイチ鹿児島に関係してくるではありませんか。 気づいたら飛行機のチケットが手元にありましたよ。不思議ですね。 とりいそぎの忘備録としてガイド代わりに使った本から抜き書き。 1、城山に登って、西郷さんのお墓にお参りをしたり。 「日本国は西郷によって不幸である」 「西郷はまるで神だな」 司馬遼太郎 『翔ぶが如く』より「東京」 2、桜島にいって幸田さんの足跡を追ってみたり。(念願の砂防センターに行けた。) 「いわば暴れの現役というか、暴れ続行中というか、暴れの先端というか、とにかく、 以前あばれたとか、かつて暴れたとかいう過去のことではなくて、現在いま暴れているのだという。」 幸田文 『崩れ』より「桜島」 3、向田さんは今年で没後30年なんですね。鹿児島は彼女の「故郷もどき」だったそうです。 「社宅は上之平といって、城山の並びの山の裾にあり、鹿児島市を一望のもとに見下ろせる高台であった。 縁台に立つとすぐ前に桜島があった。」 「うれしい、かなしい、の本当の意味が、うすぼんやりと見え始めたのだろう。 この十歳から十三歳の、さまざまな思い出に、薩摩揚の匂いが、あの味がダブってくるのである。」 向田邦子 『父の詫び状』より「薩摩揚」 4、安吾は無理やりですが、西郷さん経由でねじこんだり。 (ネットでみつけた尾崎咢堂の西郷論が個人的にツボだった) 「あの人は、徹頭徹尾、同情といふことを以て満たされた人であつた。」
尾崎咢堂(おざき・がくどう) 「大正3年2月15日の講演会の演説記録」より
※尾崎咢堂=尾崎行雄。憲政の神様。…らしいです。すみません。政治まわりは不勉強で^^;そういえば安吾って尾崎咢堂について何か書いてなかった?書いてたよね!と無理な外角責めです。 「彼が政治家として残した業績の最大なものは彼の反骨で、彼は常に政府の敵で、常により高い真実と道義と理想に燃えてゐた。之は又、政治家の魂であるよりも、むしろ文学者の魂であつたと僕は思ふ。」 坂口安吾 「咢堂小論」 政治家は政治家らしく政治してろよ、人間のことは文学者に任せとけっての、的な。 例によって例のごとくの安吾節で、いったい対象を愛しているのがコケにしているのかよくわからないブッタ切リぶりですが。全体としては、割と気に入っていたような感じです。 ※画像はおみやげの西郷さんと大久保さんのキューピー人形。 大久保さんは軍師(姉)にあげました。(「いらないんだけど」という顔をされましたが^^;) とりいそぎ。メモメモ。
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黄金週間。皆さまいかがお過ごしですか? 私は旅に出ました^^ 以前より行きたいと願っていた「明治村」にとうとう行けました〜♪ 「明治村」は愛知県犬山市にある野外展示型の博物館です。 1960年代の高度成長期の都市開発により壊されてゆく歴史的建造物を惜しみ、それらの保持・伝承の為、 当時の名鉄社長・土屋元夫(つちや・もとお)氏が級友の建築家・谷口吉郎(たにぐち・よしろう)氏とともに作った博物館だそうで。 社長グッジョブ! …けっこう経営苦しいみたいですけど^^;頑張って維持して下さい〜。 予算の都合で、会社を終えたあと高速バスで名古屋へ。車中泊。 夜の11時半に東京を出て、名古屋には翌朝8時半に到着。 あとは電車とバスを乗り継いで、往路9時間。「明治村」到着。 体はきついですが、楽しい旅です。 一番見たかったのが「向島蝸牛庵(むこうじま・かぎゅうあん)」 蝸牛とはかたつむりのこと。かたつむりハウスです。 「蝸牛庵というのはね、あれは家がないということさ。 身一つでどこへでも行ってしまうということだ。」 幸田露伴(こうだろはん)の家ですね。というか私の場合は娘の幸田文(こうだあや)さんのファンなもので。 彼女が生まれた家、というのを一度でいいから見たかったのでした^^ 元々は東京都・墨田区東向島にありました。 「いらないやつが生まれて来た」 この家で露伴がこう云い、文さんがこう云われたのだなあ。 しみじみです。 「愛さるるも愛されざるも、ああ致しかたもないことだ。」 『みそっかす』をよむと、かなしいやらおかしいやらで胸がうずきます。 家族というのは不思議ですね。 「蝸牛庵」は小さいけれど神経をこめて作られた家でした。 室内に入るとなんと露伴の文机の前に座れるのです。 ガイドの方に(文机に)触ってもいいのですか?と聞いたら軽く「いいですよー」と言われたので、指いっぽんだけ置いてきました。(おそれおおい真似を^^;) 直後にデジカメの露出がイカレてしまいましたが。 ・・・罰!? 露伴の文机。感慨深いです。 お隣が西園寺公望(さいおんじきんもち)の別邸。 明治の元老で二度首相を務めています。 西園寺公望別邸「坐漁荘(ざぎょうそう)」 大きかったです。 NHKドラマ「坂の上の雲」のロケでは陸奥宗光の大磯別邸(伊藤と陸奥の会話のシーン)として使われたそうです。 サンルームが気持ちよい♪ もとは静岡県清水市にありました。 2・26事件の際、事前に危険を察知した西園寺はこの坐漁荘から静岡県庁の地下室に避難したとか。 「西園寺というひとは利口で、自分の身体をかばうのに急な人で、困ったものだ」 小林勇『蝸牛庵訪問記』 昭和11年2月27日記録より 翌日露伴はこんなことを言っているようです。 ありゃりゃ。ばっさり^^;明治の元老・西園寺さんも露伴にかかっては形無し? (でも命を狙われたら逃げるのは仕方ないですねー) そんな、西園寺公望さんの別邸を露伴の文机の窓から覗いた図がこちら。 まさか後世でお隣さんになるとはお互い思ってもみなかったでしょうね。 つづいてこちらは 夏目漱石・森鷗外住居 文京区千駄木にあった借家。 別にふたりが同居していたわけではなく、明治26年に鷗外が住み、10年後の明治36年に漱石が住んだそうです。 有名な「吾輩は猫である」はここで執筆されたそう^^ 漱石が改築したのでしょうか?猫用のくぐり戸がありました。 同居といえば、四国松山で歌人正岡子規と漱石は同居していたのですが。(ふたりは仲良し) 愚陀佛庵(ぐだぶつあん)←漱石の下宿先でここに子規が転がり込んだ。 松山に復元した建物があります。 こんなの。 この建物はおととし、土砂崩れで倒壊してしまったんですってね(;;)残念。 子規つながりでもういっこ。 子規が亡くなる1年前にロンドン留学中の漱石に送った手紙があるのですが。 「僕ハモーダメニナツテシマツタ。」から始まる子規の手紙は堅苦しくなく、素直で無邪気です。 「僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ殘念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ氣ニナツテ愉快デタマラヌ。」 ロンドンの焼き芋はどんな味がするだろう?パリにいる不折が君にカツオブシを送るといってたけれど、きっともう食っちゃってると思うぜ、などと食べ物の話が多くて、たいそう愛らしい手紙です。 本当はこの時期の子規はもう死を目の前にしているのですが。 それを押し隠して、というわけではなく。 「實ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。」 ぶっちゃけてます。 こういう所も子規は大変すなおな人だなあ、と。いとおしいです。 手紙を読みながらふたりの友情の深さをしみじみ思いました。 続いてこちらの立派な洋館は、 西郷従道邸。(さいごうつぐみちてい)西郷どんの弟さんの家です。 もとは東京都・目黒にありました。 ここの兄弟もそろってとても人格者だったようです。 (自分はお兄ちゃん贔屓なので弟さんにも点が甘いようです) 首相にも幾度となく推されましたが、お兄ちゃんが「逆賊」の汚名をうけたため、ひたすら固辞したそうです。 いい加減『翔ぶが如く』読まねばー。 うすい水色とグリーンの入った瀟洒な洋館です。立派ですね^^ 「明治村」は大変広いので、丸一日かかってもとても見尽くせるものではありません。 でもお目当ての建物が見られて満足^^ 今回は一人旅だったので時間を気にせず満喫できました。
できればまた行ってみたい場所です。 |
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9月は遅い夏休みをいただきまして、奈良に行ってきました。 今年は平城京遷都1300年ということで盛り上がっていますね。 私も「せんとくん」をサラリと流せるほどの大人になり、自らの人間的成長に目を見張る思いです。 泊まりは京都で近鉄に乗って奈良に向います。(パックだと京都泊の方が安いのです) 二泊三日の旅ですが、晴天に恵まれました。暑いです。 移動は全て自転車。レンタサイクルを借りてトータルで40キロくらいを走りました。 (1日目) 9月10日(金)晴天 平城京→薬師寺→唐招提寺 1日目は平城京跡。ひろびろとしていていいですねー。京都には無いおおざっ…おおらかさがあります。 お目当ての大極殿は朱色の柱が青空に映えてとてもきれいでした。 (平城京・大極殿) (2日目) 9月11日(土)晴天 大和郡山→斑鳩(法隆寺・中宮寺・法輪寺・発起寺・慈光院)→奈良市内(全工程で約30キロ) 2日目は「ツール・ド・ナラ」と銘打って奈良をサイクリング。 田んぼや古墳や国道や工場がメインです。 (ニトリとかセキスイとかダイワハウスとか…) 連日の猛暑でこの日も35℃。 水は飲んでも飲んでも全て汗として流れてしまいます。 真っ黒に日焼けしました。(肌を焼いていい年齢ではないのですが〜^^;) (斑鳩・法輪寺) 連れに頼み込んで大好きな斑鳩(いかるが)に寄ってもらいました。 法輪寺、法隆寺は私にとっては幸田文と西岡常一なのです。 幸田さんの「斑鳩の記」と西岡さんの「木のいのち、木のこころ」はいつか読みたいです。 (斑鳩・法隆寺) (中宮寺の「 菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう)」) ためいきがでる程の美人さんです。清楚で静かでやさしげです。 「世界の三つの微笑像」と呼ばれているそうです。 ななめ前にいた男性はみいられたのか正座しようとしたままの中腰で、ため息をつくことも忘れて凝固したままでした。気持ちがわかるような^^ とうぜん国宝です。古来より人はうつくしいものに弱いのです。 宿に戻ってマッサージ。へとへとです。 以下、連れと担当のオバチャンの会話。 連れ 「今日1日で30キロ走ったんですよー」 オバチャン 「えっ?1日で30キロも太ったの!?」 ないないない。それはない。 天然なのか関西人の遺伝子レベルのボケなのかがよくわかりません。 (3日目) 9月12日(日)晴天 興福寺→東大寺→二月堂・三月堂→春日大社 3日目は普通に観光です。 (東大寺・大仏殿) 東大寺!大仏殿はなんて大きな建物。何て大きな大仏さま。この大きさはいいですね。 何から何まで余さず救ってくれそうです。選り好みせずガバッといっきに。 堂内は風通しがいいのかとても涼しい風がスーッと入ってきました。 みな口々に「涼しいねー」「あ、ほんとだ」と言い合っていました。 その足で春日大社へ。 春日大社でおみくじを引いたら「凶」!うわあー(;;) はい、おっしゃるとおり俗念が多すぎます。以後身を慎みますです^^; なんだかいろいろありましたが、帰りの新幹線が皇太子殿下と同じだったというのが図らずも遷都1300年の壮大なオチだったような気がします。 リフレッシュしたので明日から元気に働きまーす☆ 私信:奈良在住のMちゃん、会えてうれしかったよ。お仕事大変だと思うけど頑張ってね!!
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