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「つまり、神になりうる」 平安の巨人空海の思想と生涯、その時代の風景を照射して、日本が生んだ最初の人類普遍の天才の実像に迫る。構想十年余、著者積年のテーマに挑む司馬文学の記念碑的大作。
<那ノ津の情景> 大宰府、那ノ津。 遣唐使は行きも帰りも大宰府に立ち寄るのが慣例になっている。 砂浜の向こうにぱらぱらとちいさな影が散っていた。 船団の正使である藤原葛野麻呂(ふじわらのくずのまろ)はそのなかのより濃いひとつのちいさな影に近寄った。浜の松原に陽炎が立ち、目のくらむように熱い日だった。正使は丁寧な挨拶をしている。 まるで師父にたいするような手厚い礼であった。影の頭が大きかった。足はほそく痩せていた。影は正使に媚びるようすがなかった。―――意外であった。影は清潔であった。 (あれが、最澄か。・・・・) と、空海は、遠目ながらも最澄のすべてを見ぬいてしまいたいような衝動をもって見つめたはずである。 おなじく入唐の一群にいた儒者・橘逸勢(たちばなのはやなり)が空海に耳打ちする。 「くだらぬ男だろうよ」 うるさい男だとおもった。コバエのようだ。 「そうではあるまい」 うんざりとした。貴様ごときがどうこういえた境涯かと舌打ちしたい気もちになった。 すみやかに逸勢を意識から消し去り、じっと影を見詰めた。ひょっとしてこちらを見返しはせぬか、とおもった。 「もし最澄が自分に話しかけてくれば、空海は本気で相手にならなければならぬという心のたかぶりがあった。というより、入唐にさきだち、最澄が志している天台教学が思想としていかに死物であるかということを説いてやりたかった。最澄の硬直の志を砕き、真理に対してもっと虚心な構えをもたせてやりたい、それが親切というものではないかとさえ空海は思っていたはずである。空海にすれば最澄についての評価は、似た志をもつ自分以外にできるはずかないと思っている。自分のみがそれをすべきで、橘逸勢ごとき儒生が横から口を出すべきものでないと思っていたにちがいない。」 ・・・・・・・ GWに高野山に行くことになったので予習のつもりで手に取った本。上下巻です。 平安時代の宗教人というあまりに遠い人間を書いたものなので、退屈してしまうかな?と心配でしたが杞憂でした。 もう空海が最澄をいじめるいじめる^^; これでもか!という程の悪意のこもった意地悪をするもので目が離せません。 学校の日本史や学習漫画などで空海と最澄についてはちょろっと勉強すると思うのですが。 ふたりとも平安時代の初めのころの人です。桓武天皇の時代。遣唐使として中国に渡ってそれぞれ新しい宗教を持ち帰ってきます。 最澄が天台宗で比叡山の人。 空海が真言宗で高野山の人。 最澄の方が7歳年長さんです。 (ちなみに遣唐使は最澄が手厚い国費、空海は私費をかきあつめて行きます。) ふたりの仲違いというのはわりと有名で、最澄の弟子が空海に心酔してしまい高野山から帰ってこなくなってしまったり、最澄が「経典(理趣経)貸してー」と空海にお願いしたところ「やだ!」と断られてしまったり、となんやかんやモメたらしい。このあたりが子供心にも面白いなあ、とのんきに思っていました。 「風信帖」という空海が最澄に宛てたお手紙は国宝になっていますよね。 なぜそうしたのか?なぜそうなったのか?という部分を司馬先生が独特の想像力でもって小説にしています。 乱暴な言い方をすると空海が「天才だったから」みたいです。 こんな感じ。 ・・・・・・・・・ 「筆者は、空海において、ごくばく然と天才の成立ということを考えている。」 讃岐の国(いまの香川県)に生まれた空海は、神童として一族からたいへん可愛がられました。 「わたしは両親から宝物と呼ばれていたよ」 (父母、偏(ヒトエ)に悲(イツクシ)み、字(アザナ)して、貴物(タフトモノ)と号す) と弟子たちにあっけらかんと語ったように、空海は筋目のいい大人たちから見守られ期待をかけられれていました。大人たちは彼に官僚になって欲しいようでした。 18歳で都の大学に入り、仏教を学ぶ機会を得た空海は官僚になるばかばかしさを痛感します。 そして翌年さっさと大学を辞めてしまいます。私度僧(しどそう)として山林に分け入るのです。 大人たちはそれでも彼を庇護し、なにやかやと援助をし続けました。 「かれの少年期は幸福でありすぎるようであり、むろん幸福すぎることはすこしもわるくはない。」 彼は都では大安寺の首座・勤操(ごんぞう)の付き人として諸寺を歩き回り経典を読み漁ります。 学ぶにつれ、従来の仏教がどことなく不足で不満に感じるようになってきました。 「解脱」には死と苦のにおいがしてあまり好きにはなれません。 生命というのはもっと暢気で明るいものなのではないだろうか? 空海は、生命や煩悩をありのまま肯定し、なおかつ「悟り」というものから現世的な福利をひきだして当然ではないかという、あくどいばかりの願望をもっていました。 そんなかれが「密教」と出会います。肉体と生命を肯定する密教はかれにぴったりの思想でした。 ただ日本にあるそれはバラバラの破片でしかありませんでした。インドで生まれた密教は中国を経由してごく一部の破片が日本に届いていました。いわるゆ「雑密」です。 空海は遣唐使として唐にゆき、師である恵果上人から密教のすべての教えを譲り受けました。 彼は密教を系統だて論理立て「真言宗」というまったく新しい密教(純密)をほぼ独力でつくりあげてゆきます。すべてが緻密に計算され尽くし論理化された濃厚できらびやかな、世界中のどこにもない宗教にするつもりでした。 空海は、日本に帰ってきます。そして密教を日本に伝えようと意気込みます。が、日本にはすでに密教が伝わっていました。都はちょっとした密教ブームになっていました。 伝えたのは最澄でした。 ・・・・・・・・・・ 最澄の学んでいたのは「天台宗」です。ですが、遣唐使の帰り道、船待ちのあいだ越州(えっしゅう)の順暁(じゅんぎょう)阿闍梨から密教の教えを受けていました。ただし順暁は傍流の人で、最澄が持ち帰った密教はほんのさわりでしかありませんでした。 (のちに最澄はそのことに気付き、たいへん恥じいり狼狽し改めて空海に密教の教えを乞いにきます) 日本に帰ると、新しもの好きの桓武帝は最澄の専門の天台宗よりも密教に興味を示しました。 国家単位でそれを保護し広めさせました。最澄はとまどいつつも布教の先鞭をつけてしまうのでありました。 (天皇の寵愛をかさにきて雑な教えを得意になってふれまわっている。) ―――最澄とはそういう男だ。 ひとつの最澄像が空海のなかに結ばれつつありました。 ・・・・・・・・・・・ 「最澄は、天子に取り入ったわけではない。」 むしろ天子のほうから最澄に関心をもったようでした。 最澄は篤実な人でありました。弟子に対しても決して威張らず、空海のひらめくような天才性はありませんでしたが、ひたむきで真面目な知性を持つ人であったようです。 「宮廷に多くの庇護者をつくったのは最澄の誠実な人柄が好まれたためで、最澄の政治力ではなかった。最澄はむしろ政治力がなさすぎたかもしれない。」 「無私な志になにやら偏執するようにして熱中している姿が、一面、印象としてすずやかであってもどこか脆げであるということが、長者たちの庇護の思いをそそるのかもしれない。」 最澄の政治力の無さは、古い宗教(奈良六宗)との応酬の仕方に現れました。 かれは、妥協なく、まっすぐ厳しく古い仏教を排撃しました。その結果、六宗の古老たちは最澄を敵視し団結してゆきます。自分たちの宗教に新風を吹き込めさえすれば、こんな若造なぞに威張らせてはおかないのに、とくやしさを噛みしめていました。 そんなときに最澄の最大の庇護者であった桓武帝が崩御しました。 最澄は苦しい思いをしていました。自分が不用意にもたらしてしまった密教は粗雑なものだ、ということは、後から帰ってきた空海が朝廷に提出した「目録」を見れば一目瞭然でした。 かれ自身が専門としている「天台宗」を国家仏教の一派として認めさせはしましたが、密教に関しては自らの手落ちを悔やむ事しきりでありました。 さて、奈良六宗の古老たちは、自分たちの宗教に新風を入れたいという気持ちがあります。 そこに現れたのが空海でした。空海は政治感覚のすぐれた人でありました。まっこうから六宗を排撃するなどというおろかな事はしません。ただ、ほんのすこうし足りないようだ、と助言をしました。 (密教の要素を入れれば、あなたたちの宗教はよりよいものになるだろう。) そうして空海は両腕で抱きいだかれるようにして、37歳の若さで東大寺の別当に任じられるのです。 時代も空海を味方しました。 時の天皇は嵯峨帝です。サロン的雰囲気を好むこの帝は、唐帰りの空海に異常な興味を示しました。 唐の都の長安で人々を熱狂させた空海の文才と詩才。「五筆博士」という称号を天帝から授けられ、王羲之(おうぎし)と伍するとまで称えられたその筆跡。異国の言語を自由自在にあやつり、密教というきらびやかな新思想を持ち帰った男。 「嵯峨は空海において、友人を見出してしまっているのである。」 空海の方といえば、真言という宇宙の普遍をしってしまったかれにとっては、国家も天皇もほんの些細なものにしか見えませんでした。 「空海はそれ以前の僧とはちがい、国家を超越した世界を気付いてその方の王になろうという志望をひとすじに持っており、志望は宮廷になかった。ただ、宮廷のもつ権力と財力を追い使わねば、巨大な経費を要する真言密教の伽藍や、密教仏、あるいはおびただしい量の金属を必要とする法具類の調整ができなかった。空海には、その国の王の心を摂(と)ってしまう必要があり、さらに露骨にいえば、王をその必要の対象としてしか見ていなかったかもしれない。」 相手に恩のみを売り、恩を着せられることを巧みに避けつつ、空海は嵯峨からの接近を避けませんでした。目をみはるほどあざやかな政治感覚でありました。 ・・・・・・・・・・・・・ 「経典を貸してほしい」 手紙の日付は大同4年(809)8月24日。 最澄からの手紙を持って、最澄の弟子経珍が空海のもとにやってきました。 「最澄は、自分の思想の敵である奈良六宗に対しては戦闘的であったが、空海対してはふしぎなほどに態度がやわらかく、むしろ齢下の空海に対し、新仏教の同志として敬愛しているだけでなく、空海がもたらした密教を、―――あとの空海の言動でわかることだが―――自分が越州でひろった密教よりもはるかに正統ですぐれたものとして讃仰しているほどであった。」 「筆授(ひつじゅ)」という言葉があります。 これは、書物を通して物事を会得することです。古来より日本の仏教はこのやり方で学ばれ、取り入れられてきました。 ただ、密教はこの筆授をきらいました。 「密教の伝達は師承によらねばならず書物に拠ってはいけない。」 という厳しい教えがありました。密教の教えは師から弟子にじかに行わなければならないのです。 これを「付植(ふしょく)」と言いました。 付植はなまみの人間の骨髄を切りさくようにしてそれを植える以外になく、師は弟子にのしかかるようにそれを教え、弟子は師を絶対的・全的なものとして受け入れるという煮溶けような激しさをもつ伝授でした。 空海はこの論理を守ることに関しては何物にも妥協しませんでした。 (この男は、文字で密教を知ろうと企てているのか) 最澄からの手紙を受け取った空海の胸にはにはひえびえとした思いが広がってゆきました。 ・・・・・・・・・・・・・・ 「下僧最澄」 手紙を繰る空海の手が止まった。その末尾。 ふむ?とおもった。意外であった。最澄というのは、あぶらぎった風貌の、自己を顕揚する欲望だけで世間をたぶらかしている男ではなかったのか。その男が、「下僧」としてへりくだるのは、尋常なことではない。 「最澄はそういう男でもあった。」 「かれは自分の弟子に対しても虚勢を張るところがまったくなく、まして法のために空海の援助を乞いたい場合、心から自分を蹲(つくば)わせる男」であった。 実際に最澄は痛ましいほどの謙虚さで空海に教えを乞うた。 空海は最澄に経典を貸した。必要なものがあれば言ってくれ、と返事を書いた。 「この後も最澄はしきりに空海に手紙をだし、経典などの借用方を乞うた。これに対し、空海は密教において筆授はありえないという立場をとっている。」 ただ、空海ははっきりとは言わなかった。ここに最澄に対しての空海の感情があった。 最澄なら気付くであろう、と。 ふたりの文通と経典のやり取りは数年続いた。 ・・・・・・・・・・・・ 弘仁3年10月27日。 最澄は突如空海をおとずれる。 「信じがたいことだが、両人が地上で相合ったのは、これが最初であった。」 「和尚、モシ無限ノ恩ヲ垂レナバ、明日、必ズ参奉セン。伏シテ乞フ、指南ヲ垂レ、進止セヨ」 最澄は切実であった。自分に足りない密教の教えを、空海自らに伝授してほしかった。 「伏シテ乞フ」 掴まえた。とおもった。とうとうきた。あの男がやってきたのだ。密教者として。 ・・・・・・・・・・・・ <星を飲む話> 「つまり、神になりうる」 空海は私度僧としての修業時代に四国の室戸岬(むろとみさき)で星を飲んだことがある。 まったくの奇跡がその身に起き、真言という神仏たちの言語を突如理解した。 「これが、自然の本質がおのれの本質を物語るときの言語か」 室戸岬(むろとみさき)の突端、ほらあなをみつけ、そこに端坐した。「虚空蔵求聞持法」をとなえることひゃくまんべん。星が口に飛びこんできた。 「土佐ノ室生門崎ニ寂留ス。心ニ観ズルニ、明星口ニ入リ、虚空蔵光明照(テラ)シ来ツテ、菩薩ノ威ヲ顕(アラハ)ス」 「ただ空海を空海たらしめるために重大であるのは、明星であった。天にあって明星がたしかに動いた。みるみる洞窟へ近づき、洞内にとびこみ、やがてすさまじい衝撃とともに空海の口中に入ってしまった。」 「この一大衝撃とともに空海の儒教的事実主義はこなごなにくだかれ、その肉体を地上に残したまま、その精神は抽象的世界に棲むようになるのである。」 真魚という俗名を持つ男は死に、空海という天才が誕生する。 そして空海は確信した。 (自分は宇宙の意志によって格別に手厚くもてなされているのではないか) ―――目を開けた。最澄がいた。この年長の男にもわからせてやりたい。この言語を。この真言を。 「オ前ハ俺ニ成レ」 そうすれば。 「ツマリ、神ニナリウル」 ・・・・・・・・・・・・・・ 「最澄は、密教は知的に把握できるものと、いわばすずやかともいえるほどの心組みでそう信じていた。」 空海と最澄の絶交はこの数年後に決定的になる。 ************** このあとすごい意地悪パートに入るのですが割愛^^; 読む前は最澄がかわいそうなのかな?と考えていたのですが。 なんだか最澄も最澄でひとつの結晶体というか、完成されていて。 簡単に空海の思うようにはならないならない。どっちもどっ・・(ゴホゴホ) 最澄はどちらかというと空海に心酔して帰って来なくなってしまった愛弟子に対するこだわりがつよくて、(どうせ私は見捨てられた老人ですよーだ)とか弟子への手紙の中で拗ねてみせたり、けっこう空海そっちのけな感じが端々に見受けられて、こりゃちょっと空海も浮かばれないよなー、と思ったりもしました。 長安に留学時の空海の天才エピソードもすごくて、文人・詩人は寄ってたかって空海と交流を持ちたがるし、唐の帝は日本に帰らないで私の師になってくれ、と口説いてくるし、お師匠さんの恵果上人は空海が訪れるのをいまかいまかと待ち焦がれようやく逢えたら「大好(タアハオ)大好(タアハオ)」だし、すさまじいです。容赦のない伝説です。 司馬先生も 「空海の生涯の行蔵からみて謙虚という、都会の美徳はもっていなかったとおもわれる。」 とか 「空海はうそをいう人ではなかったが、ただ謙虚な人ではなく、むしろ自讃する人であった。」 とか、れいの褒めているのだかけなしているのだかわからない人物評をしています。 ・・・・・・・・・・・ GWの高野山はすごい人出でした。私のような観光客のほかに「同行二人」のお遍路さんも多かったです。 山の上にぽっかり現れた盆地にある宗教都市なのですが、学校も病院も役場も警察もあって、あ、白バイに乗っていたのが婦警さんでした。かっこいい!根本大塔の立体曼荼羅は燦々ときらびやかでした。宗派問わずの奥ノ院の墓地には偉人・凡人・法人(トヨタとかUCCとか)の工夫を凝らしたお墓がずらーっと並んでいて、「UCCはコーヒーカップ型のお墓で中の石は茶色なんですよー。凝ってますねー」とガイドさんが説明していました。講談と和太鼓のコラボ法話を聞きながら、お坊さんが「ぼくらなんかはお大師さんはすごいなあ、お大師さんはえらいなあ、といつも思ってますねえ」というお話が妙に印象的でした。ううん、おおらかだなあ。 尻切れトンボですが、読書記録と旅行記はこれで幕。最後までお付き合いありがとうございます。チョン。 ☆☆☆ 『空海の風景』司馬遼太郎 著 (文春文庫 上360円、下380円:税抜)
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時代もの・歴史小説
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「寂心は大(おおい)に感激した随喜した。そして堪り兼ねて流涕(りゅうてい)し、すすり泣いた。」 「連環記」 幸田露伴 「おもしろいおもしろい」と巷で噂の幸田露伴の史伝「連環記」を読みました。 本当におもしろかったよ。いやすごい。ロハンぱねえ。(←当世風)忘れぬうちメモメモ。 慶滋保胤(かものやすたね)/寂心(じゃくしん) 平安中期の人。 陰陽博士の賀茂氏の傍系。主家の陰陽博士ではなく、文章博士の道をゆく。大内記(だいないき)として、朝廷に出仕。仏心甚だしく、俗世中に「日本往生極楽記」を記す。子の成人を待ち、出家。寂心と名乗る。諸国遍歴後、如意輪寺で没す。弟子に寂照(じゃくしょう)がいる。 大江定基(おおえのさだもと)/寂照(じゃくしょう) 文章・和歌に秀でたキレ者。三河守として赴任の際、妻を去り若き女・力寿(りきじゅ)を得る。女病を得、死すにおよび悲しみのあまり、埋葬もせず遺骸の傍らに侍る。数日後、生けるがごとき女の死骸の口を吸うと、そこよりあさましい死臭がした。ついに女を弔う事を決める。その後ふっつりと俗世を思い切り発心。寂心の元に身をよせる。寂照を名乗る。 保胤(やすたね)往来の牛に泣き、門の女に涙を流すのこと ある時、保胤が都の大路(おおじ)を歩いていた。たまたま非常に重げな嵩高な荷を負うて喘ぎ喘ぎ大車を牽(ひ)き、よだれを垂らして脚をふんばっている牛を見かけた。 「牛は力の限りを尽して歩いている。しかも牛使いは力むることなお足らずとして、これを笞(むち)うっている。」 他愛ない日常の姿である。が、保胤はハラハラと涙を流す。 「ああ、疲れたる牛、厳しき笞(むち)、荷は重く途は遠くして、日は熾(さか)りに土は焦がる、飲まんとすれど滴水(しずく)も得ぬその苦しさはそも如何ばかりぞや、嗚呼、牛、汝(なんじ)何ぞ拙(つたな)くも牛とは生まれしぞ、汝今そもそも何の罪ありてその苦を受くるや」 そう思っているうちに、はっし、とムチの音が響く。 保胤はたまらない。 「南無、救わせたまえ、諸菩薩(しょぼさつ)、南無仏(なむぶつ)、々々々」そう念じた。 保胤にとっては、この世は即ち悲(ひ)であり、哀(あい)であった。 娑婆は苦に満ちており、それをいわたしいとして泣き、とめどもなく泣き、さらにまた泣くのがこの人であった。 さて、こんなこともあった。 ある日、保胤が宮中に参内しようと道をいそいでいた。 ふと、門のところで女が実に苦しげに泣いて立っているのをみかけた。牛馬にさえ悲憐(ひれん)の涙を惜しまぬ保胤であったので、どうかしたのか?と問いかけた。女は答えた。「主人の使いで帯を人に借りて帰ってきた途上でそれを落としてしまった。どれだけ探しても出てこない。主人の用をこなさず、人さまの物を無くすなどとは、もはや生きていても死んでいても身のたつ瀬のないものだ」と泣きながら申し上げた。聞けばそれは衣冠束帯、朝服の石帯(いしおび)であり、その帯がなければ、宮中に参内できぬという。保胤はあわれを催して、さてどうしようと思いかねた。参内の時間はせまっている。主人はさぞや気をもんでいる事だろう。したがって女は搾り上げられるような焦燥のなかで嘆いているわけだ、と思うと、もうたまらず、スルスルと自分の帯を解き、女に与え「疾く、疾く、主人が方にもて行け」とせかした。女は手を合わせ喜び勇んでたちまち消えた。さて、と保胤もホッと一ト安心―――。ア、今度は自分が帯なし、帯なしでは出るところへ出られぬ、と困惑するにいたる。 帯なしのあさましい姿では往来にいることもできず、恥ずかしがって片隅に隠れていた。 「さて片隅に帯もなくて隠れいたりけるほどに」と「今鏡(いまかがみ)」にも伝がある。 公事、いままさに始まらんとしている。大内記(だいないき)の保胤が出てこないでは仕方がない、同僚は遅い遅いと待ちかね待ちこがれ、ついには門の外まで探索の手を伸ばす。あわれ、帯なしの保胤は顔を赤くして隠れている。人々はそれを見て呆れもしたし、「なんたる厄介千万」と舌打ちもしたであろう。が、兎にも角にも公事である。面目なさに弱りかえって度を失った保胤をひきずりだし、抱えるようにして「疾く、疾く」とせかし、余所より帯を借り、またもやクルクルと保胤をまわして帯を締め直させ、辛くも内に滑り込み、公事はとどおこおりなく行われた。 これが保胤である。保胤とはこういう人である。 「これでは如何に才学があって、善良な人であっても、世間を危気(あぶなげ)なしには渡っていかれなかったろう」 保胤、寂心となるのこと 保胤は寛和2年をもって、落髪出家の身となった。なるべくしてなったというが正しかろう。 名は寂心(じゃくしん)。世間には「内記の聖(ないきのひじり)」と呼ばれた。 増賀、根負けするのこと さて、この寂心、ますます仏道に邁進するために、師を求めた。 横川に増賀の聖(ぞうがのひじり)という摩訶止観(まかしかん)を説く僧があった。その元に馳せ参じた。 この増賀、俗気が微塵もなく、深く名利(みょうり)を憎んで、断崖絶壁の如くに身の取り置きをした。断崖絶壁の君であるからして、世間の常識は通じない。時には、学僧仲間からも煙たがられるほどの断崖絶壁ぶりである。こうと決めたら、必ずそうする。理屈も会話も通じたものではない。随分厄介といえば厄介な、つまり、すなわち、そういう人であった。 さて、摩訶止観の講義である。 寂心はおとなしやかに講義に耳を傾けている。他にも数人の学僧がいる。とある部分で寂心が感極まって泣いた。 「寂心は大(おおい)に感激した随喜した。そして堪り兼ねて流涕(りゅうてい)し、すすり泣いた。」 すると、増賀はたちまち座を降りて、つかつかと寂心の前へ立つなり 「しゃ、何泣くぞ」と拳を固めて、したたかに寂心が面を張りゆがめた。 「我の話を声などたてて妨げるとは何ごとか」と怒ったのである。 周りの学僧は(感涙を流して謹み聞けるものを打つとは何ごとぞ)としらけきっている。 寂心のみ心をいれかえ、声をあげませぬ、泣きはしませぬと詫び詫びして、ふたたび講義に聞き入った。 それでも泣いてしまうのが寂心である。かれは感動すると泣いてしまうひとなのである。 増賀は再び、座を馳せ下りて寂心をしたたか打った。寂心は詫びて泣きやみ、周りは必死にとりなし、みたび講義が再開する。さて間もなく寂心が泣きはじめた。増賀は降りてその横面をしたたか殴りつけた。 三度の涙と三度の殴打をもってして、増賀が負けた。さすがに負けた。 根負けである。寂心の誠心誠意に断崖絶壁の人はついに兜をぬいだ。 こうして増賀・寂心の師弟は結縁した。 「寂心という人は事業などは出来ぬ人である。道理で寂心が建立したという堂寺などのあることは聞かぬ。」と、露伴も呆れつつ「寂心は寂心であった。」とヘンな褒め方をしています。 さて、寂心の弟子、寂照のエピソードはこんな感じ。 この人は、割と豪傑肌で、寂心とは違って浮世でも相当な出世の出来るキレ者だったが、30歳手前で女に躓いた。三河守として赴任した先で、力寿(りきじゅ)という若い女に入れあげ、古女房を棄ててしまう。 力寿はやさしいいい女だったが、病を得、定基の必死の介抱もむなしく、亡くなってしまう。 定基(さだもと)死せる女の口を吸うのこと 一日すぎ、二日すぎても、美しい力寿は美しいままだった。まるで生きているようだった。目を閉じているだけかと思われた。 定基はその傍らで昼も夜も過ごした。わが心がわがものでない気がした。 古い文にいう。 「悲しさの余りに、とかくもせで、かたらひ伏して、口をすひたりけるに、あさましき香の口より出来(いでき)たりけるにぞ、うとむ心いできて、なくなく葬(はふ)りてける」 「どうも致しかたのない人の終りは、そうするかそうされるのが自然なのである。生相憐(あわれ)み、死相捐(す)つるのである。力寿定基は終(つい)に死相捐てたのである。」 その後、定基は、周囲の慰留も振り捨てて発心。寂心のもとに走った。 時は永延2年、齢は31。露伴翁曰く「よく思いきったものであった。」 寂照、古女房に会うのこと さて、寂照が仏道の修行に邁進していたころの話。 頭陀行(ずだぎょう)のなかに「常乞食(じょうこつじき)」という行がある。家々の前に立って食を乞う行である。ある日、寂照はりっぱな邸宅に招かれた。庭に畳を敷き、食物がおかれている。「寂照何の心もなく、施されるままに畳に座り、唱えごとして食わんとした。」と、眼前のすだれスルスルと上がり、そなたを見ると、美しい装束を来た女がいた。 「寂照は女を見た。女も寂照を見た。眼と眼とは確かに見合わせた。」 そこにいるのはかつて、寂照いや定基が追い出した古女房であった。 女の目には無量の物があった。怨恨、毒気、勝利、侮蔑、冷気、軽蔑、嘲り、それらのものが一緒くたになり、氷でできた刀のような鋭さで寂照のからだに襲いかかった。 女は極めて鈍くうすわらいをした。凄惨であった。 だが、定基はすでに定基ではなく、ここに居り乞食しているのは、寂照であった。 「寂照は寂照であった。」 女の怨嗟は女から放たれ、寂照におそいかかった。 「我に吹掛ける火焔の大熱は、それだけ彼女の身を去って彼女に清涼を与えるわけになった。 我に射掛くる利箭(りせん)の毒は、それだけ彼女の懐を出でて彼女の胸裏を清浄にすることになった。」 厭離。怨讐。嫉妬。その矢は寂照が引き受けた。その的たるが寂照であった。 因果応報の理はここにおいて断たれたのである。 彼女の苦しみは彼女を離れ、決して彼女に戻ることはなくなったのである。 怨嗟の飛距離は彼女の清浄に比例した。 その後の女のことは知らぬし、ものの本にも書かれておらぬ。ただその業火が女を焼かず清めたという伝えがあるのみという。 寂心、没す。および寂心娑婆帰来(しゃばきらい)のこと 寂心の終りは安らかなものであった。 こころの優しい泣き虫の寂心は、僧としてこれといった事業をするでもなかった。その死も、しずかに、おだやかに、朝日に溶ける露のごとき終りであったという。 さて、こんな言い伝えがある。ある場所のある人がこんな夢をみた。 「寂心上人は衆生を利益(りやく)せんがために、浄土より帰りて、更に娑婆に在(い)ます」 寂心ひとりが娑婆に帰来しようがこの世の哀しみが消滅するわけでもあるまいに、お人よしの彼は、また泣くためにのみ、ノコノコと苦の世界に戻ってきているらしいのだ。 うれしい知らせであった。 「寂心は世を哀(かなし)み、世は寂心の如き人を懐かしんでいた。」 何かにつけては泣き、周囲に面倒をみられ通しであった保胤こと寂心であったが、世の人々はそのような彼をやれやれと思いつつも、ひどくまぶしいものを見るように懐かしんだという。 そういう伝えである。
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「伝記というものは、ほれこんで、好きで好きでたまらない者が書くべきものと、私は信じています。」 (海音寺潮五郎 『史伝 西郷隆盛』 「あとがき」より) 十二月。師走です。 年賀状を購入しました。来年こそは!元旦に…!ハカナイネガイです。 先月から引き続きお仕事の方が忙しく、電車での読書がわずかに心の慰めになっています。 夏の鹿児島旅行の思わぬ収穫が、海音寺潮五郎氏との出会いです。 もともと西郷さんの事を調べるために行った旅行なのですが。 「かごしま近代文学館」で見た展示がとても興味深く自分でもいろいろ調べてみたくなりました。 「私が西郷の伝記を書こうと思い立ったのは、私が西郷が好きだからです。理由を言い立てればいくらもありますが、詮ずるところは、好きだからというに尽きます。好きで好きでたまらないから、その好きであるところを、世間の人々に知ってもらいたいと思い立ったという次第です。」 「伝記というものは、ほれこんで、好きで好きでたまらない者が書くべきものと、私は信じています。」 という文章にどぎもを抜かれたからです。びっくりしましたよ。そりゃ。 (いい大人がこんな事をいうの?)とわが目とわが耳をうたがいました。が。やっぱりそう書いてありました。まちがいなく。 カイオンジチョウゴロウっていったいどんな人なんだろう?と図書館で本を漁ってみました。 ・・・・ 海音寺氏の作品には「小説」と「史伝」とがあるそうで。 「小説」はご存知の通りフィクションですが、「史伝」は物語風に記述にあたってもフィクションの要素を完全に排除してかく文学形態、だそうです。 大辞泉を引くと、 【史伝 (しでん):歴史上の事実に基づいて書かれた伝記。】とあります。 日本の「史伝文学」は大正期の露伴や鷗外いらい、書き手がいなくなって廃れていたそうですが、氏はその復興に情熱をそそいだそうです。 図書館であまり考えずに最初に手に取ったのが『武将列伝』で「史伝」の方の作品でした。 なにやらいかめしい感じでむつかしいのかなー?と思っていましたが、いやいやとてもおもしろいです。 なんでだろう?と思ったら文章がうまいからでした。 書きことば、というよりも話しことば、に近いのかな。 この時代の人は、ぎりぎり漢詩文や古典の素読とかしたのかな?と思わせる文章です。(氏は明治34年産) 文字で記されたものをいったん口にのせて喋っているような闊達さですいすい読めてしまいます。 (ちなみに、氏より4つ年下で明治37年産の幸田文の「こんなこと」を読んでいると、露伴の命令で隣家のじいさんに「論語」の素読を習っていた…という記述があるので、「素読」という学習法はまだまだ生きていた時代だったようです。) 本の感想をざっと。 『西郷と大久保』 (史伝) 西郷配流から江戸城開城〜西南戦争までのふたりの足取りを追っています。 西郷さんが自由人です。 大久保さんがあんだけ苦労して久光公に取り入って妥協点をさがしているのに。 久光公がきらいでたまらない西郷さんは「いやだ!」とテコでも動かない。 (ちょっとはいう事を聞いてあげてもいいんじゃない?)と思わないでもないですが^^; 大島に流される西郷さんに大久保さんが手紙を書くくだりがあるのですが。 今後の政治活動の方針や、さまざまな判断の問答などのまじめな内容。 そのなかの大久保さんの私信が良いです。「食べ過ぎないように」って…。 いたってまじめです。 それに対して「承知しました」とまじめにお返事を書く西郷さん。 なにやらユーモラスでほほえましいです。 激動の時代でしたよね?と念押ししたくなるやりとりでした。 小説のようにドラマチックではなく、そっけないような書き方なので逆におもしろいです。 『江戸開城』(史伝) 大政奉還から江戸城無血開城までの歴史と人を追った史伝です。 勝海舟がすごいです。 海音寺氏じしんは「目から鼻にぬけるような頭のよい人」である海舟のことはあんまり好きではないようなのですが、(もうちょっと隙があってぽかっとぬけた人の方が好みらしい。) 彼の活躍はめざましく、読んでいて気持ちがいいです。 『武将列伝(江戸篇)』(史伝) やっぱり大好きな西郷さんの章で「好きすぎて語るに稿が足りなくなりました」的な事を書いていまして、そりゃ素直すぎだろう、とツッコミを入れたくなりました。 かたれどもかたれども、というやつでしょうか。 西郷さんの事を、<賽の河原の子どものように、現実には決して達成できない「理想」の石を積み重ねつきくずされてゆく悲劇的な性格のひと>ととらえているのが印象深かったです。 勝海舟もおもしろかったなあ。 親爺さんの夢酔(むすい)こと勝小吉(かつ・こきち)のお話もあるのですが、(このオヤジさんがたまらなく面白い。詳しくは坂口安吾著「安吾史譚」の「勝夢酔」を参照されたし。) まあ、オヤジさんは置いておくとして…。 海舟貧乏時代のパトロンだった豪商さんとのエピソードが話が良かったです。 この豪商さん、二〇〇両の金をぽんと若い海舟に渡して、 「私がこの金を持っていてもつまらないことに無駄に使ってしまうのがオチです。 ですからあなたが読みたい本をこの金で買って、読み終えたら私に送ってくださいませ」 といともていねいに頭をさげるんですね。まさに金の使い方を知っている金持ちの面目躍如じゃあありませんか。「お金持ちはこうでなくちゃ!」と膝を打ちたくなるような気味のよさです。 『田原坂〜小説集・西南戦争〜』(小説) 短編集です。 西南戦争に従軍した名もなき兵児(へこ)たちの歌、といえばいいのでしょうか。 詠み人知らず、の拾遺集的な短編集。 西郷・桐野など、有名どころの名前はちょろっと出てくるだけで、殆どが無名の人々のお話です。 村の古老や氏のお父さんから聞き及んだ民間伝承がもとになっている話が多いようです。 短編ごとに少年がでてくるのですが、これがまた一途でかわいらしくて…(;;) ちょっと引用。 「少年は一心に飯を攻撃している。ぱくりぱくりと実にうまそうに食っている。なにやらしきりに市来がからかっているが、ふりかえりもしない。心もからだも食欲になりきっている無邪気なすがたである。その上、これまではいつもその周辺にまといついてはなれなかった暗いものが洗われたように消えて、少年らしい明るさがむき出しに出ていて、なにかしら人の微笑をさそうものがあった。」 「休之助は(略)ちょっとなんといっていいかわからない気持ちで、木陰にたたずんだまま見ていた。」 (「戦炮日記」より) 少年らしい一途さで従軍し、まっしぐらに命をうしなってしまうふたりの少年と、彼らをどうしてあげることもできずただ静かに見守るしかないおとなのお話。 自身が従軍した太平洋戦争への思いも重ねているのかもしれません。(注・勝手な想像) 「どんな立派な目的のためにしても、こんなに多数の人が殺されてよいはずがない」 という気持ちがかくされず堂々と書かれていました。 調べてみると海音寺氏の従軍は40代の頃。陸軍報道部班として井伏鱒二らとマレーに行っています。 年齢的に「あの戦争で俺の青春は奪われた」という恨み節よりも、年若い人に向ける愛情の方が強いのかな??かつては学校の先生をしていたそうなのでなおさらでしょうか。 歴史上の「西南戦争」を考えるにしても、年若い人の事を思うと「なぜ彼らは死ななくてはならなかったのか?」という気持ちが自然湧いてくるのかなあ、と思いました。…想像ですが。 『日本歴史を点検する』(対談集)(海音寺潮五郎・司馬遼太郎) 海音寺氏の別荘に司馬先生が訪れて、二泊三日。日本歴史について、語って語って語りつくす、という対談集です。 「まえがき」を読んでいると、ちょうど司馬先生が氏の息子程の年齢ということもあるでしょうが、まさに「かわいくてたまらない」という風な手放しの絶賛っぷりです。 「絶えてなくして、わずかにある人と申しましょうか」 「いく時間語っても飽かず、話せば話すほどおもしろく、興趣の尽きることがありません」 「雲間にきらめく電光のような天才的創見」(の持ち主) (ほめ過ぎじゃね?)と思わなくもないですが^^; 愛情を下地にものごとを考える、というスタンスは、史伝でも小説でも対談でもあまり変わらないようです。 好きだと熱烈に好きで、嫌いだとトコトン嫌いな気性なのかなあ? それに対して司馬先生は「あとがき」で。 「地上にこれだけの人がいるのに、氏とむかいあっているときのみ、私は歴史の実景を歩いている思いがするのである。」 と返しています。ちょっと堅めな表現ですが、楽しかったのでしょうね。 対談のテーマは歴史を通して「日本人とはなにか?」を白熱して語っています。 内容もそうなんですけれど、これだけ歳の違う両者が寝食を忘れてひとつテーマで語り合う、というのがなんだかとても羨ましいです…。 ・・・・ 通勤のひととき、楽しい時間を与えてくれた本たちです。忘れないうちにメモメモ。 海音寺氏は『天と地と』や『蒙古来る』(←これは伝奇小説?らしい)もおもしろい、と噂に聞き及んでいるのでいつか読んでみたいです^^ そんなこんなで、常のことながら纏まらないまま幕であります。さよなら。アバヨ。
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久しぶりの読書記事。 ここの所、池波先生ばかり読んでいました。 『我が家の夕めし』 ごたまぜエッセイ。 『青春忘れもの』 少年期から青年期の回想録。 池波先生は海軍所属だったのですね。 最悪な上官も、(この人のためなら死ねる…)と思える上官もいたようです。 中にはちょっと変わった上官も…。 昼間は容赦なくブン殴るくせに、夜になると(頼んでもいないのに)下着にアイロンまでかけてくれる上官というのがツボでした。 「なんだ貴様、海軍のくせに香水も持っておらんのか」と(頼んでもいないのに)香水をふりかけてくれたり。 理屈では説明しきれない人間の魅力、というのをいともあっさり筆に出来るのは、こういう実体験があったからなのかなあ、と思わせられます。 母子家庭だったり、小学校をでたらすぐに社会人だったり、戦争だったり、兵役だったり…。 そりゃまあ大変な環境であり時代でありますが。 本当に良く遊び、よく働き、良く食べること! 自分に与えられた時代の中でせいいっぱい楽しく生きている正太郎少年(青年)の姿は、読んでいてとても気持ちいいのです。 『敗将』短編集。 乃木大将のお話が印象的。戦地で息子ふたりを失った乃木大将への深い同情に満ちた筆致でした。 『西郷隆盛』 さっぱりとした書き方です。池波先生の書く西郷さんは、おおらかでやさしく、頼もしい。 庇の深い屋根のようなイメージです。 司馬先生の西郷が「透明度の高い水晶球」だとしたら、池波先生の西郷は「乳白色のまろやかな石」。 清流に磨かれ太陽に焼かれたあとの河原の石のような「あたたかみ」があります。 「よか、よか・・・」となんでも許してくれそうです。あと、ちょっとオッチョコチョイっぽい。 びっくりしたのが、大久保さんが死の間際に持っていたという「手紙」の解釈が、司馬先生と池波先生では正反対だったこと。 司馬先生は(大久保さんをからかう西郷さんのユーモア(友達同士の軽口))ととらえていますが。 池波先生は(大久保さんの西洋かぶれを不愉快に思う西郷さんが腹をたてて戒めている)という風に解釈しています。 司馬先生の方を先に読んで「ううっ、ええ話や(;;)」と感涙していたので「えええ!?」でした。 ・・・どっちなんだろー?? 『人斬り半次郎』 「ふしぎなもんじゃ。いまこのときになって、おいどんな女子のことしか頭にうかばんのじゃ」 桐野利秋(中村半次郎)が主役のお話。 桐野の周りの人物はほぼオリジナルキャラクターなので史実重視の方が読むと「・・・」かもしれませんが^^; 池波先生が書くとこうなるのか…。読んでいてとても気持ちがいいです^^ 色事あり(←これが主)御馳走あり(←池波先生だし)、陰謀あり、仇討あり、戦争あり、のてんこ盛りです。 そして全編通して「女、女、女」! 女を愛し女に愛され、のこりの時間は犬っころのように西郷にまとわりついています。 頭を悩ますのは女の事だけで、あとは明快な上昇志向と血煙のなかの鬼神のような働きぶりと、生死のいっさいを西郷に預けきって毎日毎日を楽しくすごす無邪気な男の肖像です。 「幸福な男」というのは桐野みたいな男のことをいうのかもしれません。 返事はきまって「はァーい」。 おもしろくないことがあると「なっちょらん。なっちょらん」。 かわいいんですよねえ。 明治維新が成ったあと、桐野は陸軍少将になります。そして西南戦争へ。 「だが、日本に変貌はあっても、中村半次郎に変貌はなかった。」 (いや、変われよ!)と思わないでもないですが…^^; 日本という国がどこへ進もうが、また進みもせずに沈んでいこうが、きっと桐野という男には毛ほどの興味もないのでしょうね。 快男子かくあれかし。 司馬先生の作品を読んでいると「国家」や「時代」という大きなうねりのようなものを強く感じますが。 池波先生の作品からは「食欲」や「性欲」といった鼻でかぎ舌であじわう体臭のようなものを感じます。 同じ題材でも、書く人によってこんなにも違うものなのか・・・。 調べてみたらこのお二人は同い年。 不思議なような、当然なような…。どちらもどちらも^^ ・・・・・ 明日が本当に最期の総行軍という日に、いとこの別府晋介が桐野に笑いかけるシーンがよかったです。 「明日のこと、愉快ごわすなあ」 本当に、うそ偽りなく、愉快でたまらなかったのだろうなあ。 と、思うのです。
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「かれは天地のなににもまして西郷が好きだった」 司馬遼太郎 『翔ぶか如く』 薩軍は各地を転戦の末、鹿児島へ帰った。城山に籠る薩兵は三百余人。包囲する七万の政府軍は明治10年9月24日早朝、総攻撃を開始する。
西郷隆盛に続き、桐野利秋、村田新八、別府晋介ら薩軍幹部はそれぞれの生を閉じた。反乱士族を鎮圧した大久保利通もまた翌年、凶刃に斃れる。激動の時代は終熄したのだった。 これでお終いです。 熊本城陥落に固執した薩軍がそれに失敗し、肥後・日向を転戦し、最後に故郷の鹿児島に帰ってくるまでのお話。半年にも及んだ長い戦いはとうとう終熄をむかえます。 バケツで血を撒くような各地での戦闘により、故郷の城山に籠城した薩軍は300余人にまで減ってしまいました。 政府軍は7万。城山を水も漏らさぬように囲みます。 囲んではいますが、妙な事態が起きています。みな、困っています。 政府軍としては、薩軍を討ちたい。これは当然です。でも西郷個人との直接対峙は避けたいのです。 政府軍の側には西郷を慕う人がありましたし、もっと打算的な考えでいえば、西郷をひどいかたちで討ち取ってしまえば、世間の評判を落とすのは目に見えています。これは嫌です。 「自分から死んでくれないかしら。」という思いが強くありました。 西郷の人望のみをあてにして暴発した薩軍にも、これといった政略や戦略はありません。 桐野の主導で進んだ行軍は、行き場のないエネルギーを各地で爆発させるのみでした。 敗北は当然の結果でありました。 薩軍はつむじ風のようでありました。ただ、風はいつかやみます。その運動のエネルギーはいつか尽きるのです。彼らはそれを知らないようでした。ひたすらいつまでも戦っておりました。時間がきました。風はとまらなくてはなりません。エネルギーは尽きました。 残酷な言い方をしてしまえば、彼らの暴発は戦争ともよべないほどお粗末な「戦闘」の集合体でありました。 士族として戦って死ぬ、ということを唯一の美として自らに刻みつけていた彼らにとっては、その残酷な評もあまり意味のないものでありました。まったくやりたいようにやりとげた生であり死でありました。 そうは言いながら、疑問が浮かびます。 (一万に達する若い薩摩兵児をむざむざと死なせた西郷という人はいったい何者だったのでしょうか?) 西郷の死についてすこし述べます。 「かれは天地のなににもまして西郷が好きだった」 西郷の首は別府晋介が落としました。 別府晋介(べっぷ・しんすけ)は桐野のいとこです。薩摩的美質の結晶体のような若者であり、西郷はことのほか別府を愛しました。いとこである桐野より思想性がつよく思慮の深い青年でありました。 西郷は別府がかわいくてたまらなく、別府は西郷が天にも地にもまして好きでした。
「晋ドン、モウココデヨカ。」
と、晋介は応え、介錯をしました。と西郷がゆるしたので、 「ソウジゴワンスカイ」 西郷は痛いのが苦手でしたので、とても早く為遂げたのだと思います。 西郷を介錯したあと、晋介は弾雨のなか自刃したといいます。享年31歳。 西郷の首は隠されましたが、のちに政府軍に見つかり、丁重に葬られました。 桐野は最後まで陽気で勇敢でした。西郷の傍で生き死にが出来ればいいというこの男は、どれだけ人が死んでも、自分自身が死んでも、まったくおかまいなしでした。 「西郷を政府軍に奪われるのが嫌さに、西郷を後ろから射ち殺した」という風説が流れるほどに、戦場における西郷の死を彩ることにすべてを賭けた男でした。 西郷がそれを望むか望まないかは、やはりこの男にはおかまいなしでした。 西郷という人は、孤独な人でありました。 辺見と村田は、西郷を死なすのがあまりに惜しくたまらない気持ちになってしまいました。 彼らは西郷に内緒で政府軍に「西郷の助命嘆願」の使者を送りました。 西郷がそれを望むか望まないかは、やはり考えている余裕がありませんでした。 「西郷ひとりを生かした場合、かれ自身の内面がなお生きつづけることに堪えられるかどうかなどということに、傾倒者たちは思い至る余裕がなかったにちがいない。」 みなが、西郷のことを好きでたまりませんでした。みなが懸命になって西郷のために動きました。 もちろん打算も計算もありました。 でも、誰一人として西郷という人の心をのぞいて見た者はいませんでした。 西郷自身もそれを一切語りませんでした。 たくさんの血が流れました。西郷はばかなのではあるまいか?という疑問も当然起こりました。 台風の目のように、西郷は真空でありました。皆が懸命にその周りで旋回しておりました。 西郷という人は、孤独な人でありました。 「ぬれぎぬを ほさうともせず 子供等が なすがまにまに 果てし君かな」 こう西郷の最期を歌った西郷びいきの勝海舟は、西郷についてこのように語りました。 「とうとう不平党のために死んだ。西郷はああいう時には実に工夫のない男で、智慧がなかったからああなった」 「思えば、西郷という人は、あまり智慧がない人のようであった。」 「誰かが智慧をださなければ西郷が可哀そうだという気分がまわりにあり、人々をしてそういう懸命な気持ちにさせるところが西郷の人柄の何事かであったのであろう。」 「西郷はほうっておけばどういうぶざまなことになるかわからない、という親鳥が卵をその両翼で掻き抱くような親身な情を起こさせるらしい。」 この場合、敵の総帥である山縣有朋までが、西郷のために懸命に智慧を出して「どうぞお死になさい」と迫っていました。 (この人は、自分の死に時すらもわからない、ぶざまな人であったのでしょうか?) 「君、何ゾ早ク自ラ図ラザルヤ」 我々にあなたを討ち取らせないで欲しい、という嘆願書でありました。政府軍も悲痛でした。 ここで時代というものを考てみたいのです。唐突をお許し下さい。 人と時代、というものの関係についてすこしだけ考えさせて下さい。 <人望>というものを外してこの時代を動かしているエネルギーを考えることはできません。 江戸という平時がおわり、藩が消滅し、士族や農民はむき身のやどかりのような心細さと持ちました。かといって突如出現した政府「官」には護民意識はなく、彼らにとっては重圧でしかありませんでした。 そういう自分たちに方向を与えてくれたり、居場所を決めてくれたり、ときに死に場所をつくってくれるのが、<人望家>でありました。 彼等は人望家を求め、それを作り上げました。そうやって創造されたのが「西郷」でした。 西郷という人間は生身でありながら、人々の願望の偶像として祀り上げられた存在でした。 強者に対してはどこまでも強いが、弱者の哀願にさらされると途端にいうなりになる西郷というふしぎな性格の持ち主は人々の願望の生贄としては最適であったと思われます。 (かれは、時代に捧げられた供物であったのでしょうか?) 西郷という人は、孤独な人でありました。 かれは明治10年9月において、最も愛されつつ最も滅んで欲しい人物でありました。 国家というものと一個人というものの比重がここまで等しかったことは、いままでもこれからもきっとありますまい。 ・・・・・ 薩摩人ではない、ふたりの人物の西郷に対する評価があります。 ひとりは豊前(大分県)の人、中津隊・増田宋太郎(ますだ・そうたろう)であります。 彼は共に故郷に帰ろうという仲間に対してそれを断り、薩軍と行動を共にすることを伝えました。 彼はこう云いました。 「諸君は幸いにも西郷を知らない。」 彼だけが、中津隊の首領として、軍議に参加し、西郷という人に触れてしまいました。 彼の不幸というか幸福というかはここから出発します。 「もはやどうにもならぬ」 以下、文語の伝。 「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ。」 (自分は諸君とちがい西郷という人間に接してしまったのだ、ああいう人間に接すればどう仕様もない、善も悪もなく西郷と死生をともにする以外にない。) そういってはらはらと涙を流しました。 故郷に帰る仲間を見送り、この人は米倉で果てました。享年28歳。 もうひとりは、熊本人・民権党の宮崎八郎(みやざき・はちろう)です。 八郎は西郷がきらいでした。なんとなくうさんくさく、実際に言葉を交わしても大した感動が起きませんでした。 彼はもはや一個の独立した革命家でありました。ルソーの民約論を愛読する彼は、人民を座標においた日本で最初の革命家でありました。 萩原堤で薩軍の辺見十太郎をささえ、身代わりに指揮旗を高々と掲げそれをはためかせ、この革命家は命をおえました。 「俺には俺の信じるもの(ルソー)があり、俺は西郷は好かないが、やはり政府は斃さねばならないと思う。その為に西郷を援ける。この場において俺はもはや死ぬと決めた。≪辺見君、その指揮旗を私に貸せ。≫俺が君の身代わりになろう。君はいましばらく生きて君の信ずる西郷の元へゆけ。」 俺は俺の生をせいいっぱい生きて愉快だし、俺の死は人から見れば犬死であろうが、やはり俺が決めたことだからこれは致し方あるまい。 「男児よろしく硝煙弾雨の中に死すべし。」 これは彼が彼自身において定めた生き方であり死に方でありました。いわば彼の憲法です。 彼はこの法をほかの誰にも適用せず、ただ彼自身に於いてのみ強いました。 死が八郎を捉えたのは、萩原堤においてであります。それは弾丸というかたちをとって現れ彼を鋭く貫きました。 遺骸の検分人曰く、彼の下帯は真新しくそのなかに彼の筆写した「民約論」が仕舞われていたそうです。 明治10年4月6日。宮崎八郎没。享年26歳。 西郷を愛したものも、西郷を愛さなかったものも、自分にとって一番大切な何か、というものをしっかり持っておりました。そのようにしてかれらはその生を閉じました。 西郷をめぐる、たくさんの思惑が駆け、翔び、旋回し、そして忽然と消えてゆきました。 西郷とは何者だったのでしょうか? 人をかわいそうがり、人からかわいそうがられ、遥か大陸への進出を夢み、日本の南の果てで命を終えた瞳のやさしい泣き虫の大男でありました。 それ以外のことは、あまりよくわかりません。 ひとりの孤独な男の死が「明治」という時代に必要だったのだ、ということだけが明らかでありました。 ・・・・・・ 翌年、もうひとりの孤独な男が紀尾井坂においてその命を終えたことを補足として書いておきます。 ひとりの孤独な男は、その死の当日、もう一人の孤独な男からの手紙を手挟んでいたということです。 ☆☆☆ 司馬遼太郎 『翔ぶが如く』 全十巻 (文春文庫) ようやく、書き終えましたー。お手上げですー。西郷さん…わかりません。あなたが…。 最後はほぼうわごとになりました。 最後まで読んで下さった方がいらっしゃったら、本当に本当にありがとうございました。
がっかりなオチで申し訳ありませんでした(;;) |




