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原宿で踊らなくなり、高校生なった私はバイトを始めたものの、ごくごく普通(?)の学生生活を送っていた。 相変わらずバスケを続けていて、部活に青春を燃やしていた。 ヒップホップの文化から離れ、多少のストレスも感じてはいたが、ラジオから流れる音楽がそれを解消してくれていた。 そんなある日、高校で知り合った友人で同じバスケ部のダイゴが私にこう言ってきた。 「ねえ、今度一緒にディスコ行こうぜ!」 諸々の事情があり、一つ年上の彼は新宿のディスコで良く遊んでいたらしい。 原宿時代には縁のなかった大人の世界である。 基本的には今のクラブと同じで未成年の入店は違法だが、ヤンチャな私には色々な意味で興味深い世界であった。 1988年1月、高校1年の冬にそんな流れで友人数名とダイゴの案内で新宿のディスコに行く事になる。 歌舞伎町のド真ん中に位置する東亜会館の3階「ZEBRA」だった。 ディスコ全盛期という訳ではなかったが、まだまだ新宿ディスコ業界が元気な時代。 同じ東亜会館内には、4階「グリース」、6階「センチェリー21」、7階「GB」、 徒歩一分以内の場所にも「ニューヨーク・ニューヨーク」「ゼノン」など、伝説的な店舗が営業していた。 ドキドキしながらフロントを抜け店内に入る。 スゴイ光景が広がっていた! 店内総鏡貼り!無数の照明器具がグルグルと回る。 店内のいたるところにヒカリモノが使用されていて、ホントにピカピカ、キラキラの世界! 流れている曲は当時大ブレイクしていたユーロ・ビートがメイン。 テレビで見たことがある光景が目の前に広がっていた。 夜7時か、8時か忘れたが早い時間に入店するとかなり安い料金だった為、そんな時間から我々は入店。 因みにメンバーズカードなる物もあって、初めて行くとそれを貰える。 以後、入店時に提示すると割引料金になるシステムだった。 そして私は、このディスコデビューの日に様々な経験をし、様々な思いを抱くのであった・・・。 ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
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FMラジオを情報源に少しずつ曲を覚えてきた私は、ストリートで流される曲も、その都度ウザイほどに先輩ダンサー達に曲名、アーティストを聞き、メモってFMでオンエアを待つようになった。 ダンスの練習、曲のチェック、中学でのバスケの部活、忙しい毎日だ。(勉強も少し・・・笑) ある日、ストリートで流される曲にショックを覚えた! 「このテープ、誰の?」仲間のダンサーに聞くと、「WAKAのだよ」と返事。 すぐさまWAKAに質問。「この曲は?」 当時から音楽に早い彼は、私に打って付けの情報源であった。WAKAの返事は、 「19(ナインティーン)だよ!カッコいいでしょ!」 ・・・カッコいいなんてモンじゃないっ!! 只でさえ、曲数を知らない私にとって、この曲は本当にビビッときた! この曲、ポール・ハードキャッスルの「19」! エレクトロミュージックにラップというか、ニュースやナレーションをのせた楽曲。 詩の内容は、ベトナム戦争の悲惨さなどを訴えたものだ。 社会問題を取り上げる曲だが、ポップな楽曲と印象に残るフレーズも多く、口ずさみ易いモノで大ヒットした。 当時、各国でそれぞれの言語に訳されたバージョンも作られて発表された。 勿論、日本語バージョンも製作されており、小林完吾アナウンサーのナレーション(?)「その時、彼らの平均年齢は19歳だった」「じゅ、じゅ、じゅ、じゅ、じゅうきゅう」で話題になった。(笑) (しかし、日本語バージョンの詞を良く聴き、当時中学生ながら戦争の悲惨さや、社会情勢、アメリカへの不信などを色々と考えたものだ。) WAKAはこの「19」を英語、ドイツ語、日本語、それぞれ数バージョンをレコードで所有していた。 「来週、ダビングして来て!」と、ムリヤリ頼んで、46分テープに全曲バージョン違いの「19」を手に入れる! それからというもの、自宅でも、ストリートでも「19、19、ナ、ナ、ナ、19、19」の繰り返し! (知らない人は、聴いてみれば分かります。笑) この曲は、今でも当時を思い出すと必ず頭に浮かぶ、私にとって最も印象深い大切な楽曲である。 Download下記のサイトでPaul Hardcastleバージョンと小林完吾バージョン、試聴出来ます。感想聞かせてください。http://www.toa-kaikan.com/disco_music/ 因みに、このサイトはディスコの名曲の宝庫です。その時代を知らない人は勉強出来ますよ。知ってる人は、ひたすら聴き続けるでしょう!(笑) ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
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