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鹿児島マラソンを申し込むと、仙厳園の無料チケットが付いてきます。恥ずかしながら、チケットをもらうまで、この庭園の存在を知りませんでした。仙厳園は「せんがんえん」と読み、1658年に島津家19代の島津光久が作らせた、桜島を借景とした庭園です。
〇反射炉跡嘉永4年(1851年)に薩摩藩主となった第28代島津斉彬は、西欧列強による植民地化を危惧して西欧の科学技術を導入して近代化を進める「集成館事業」を推進しました。その中核が日本初の洋式工場群「集成館」で、最初に築かれたのが大砲鋳造に必要な反射炉でした。
当時の日本は鎖国状態であり、鉄を溶かす技術が無かったため、オランダの文献等を頼りに、在来の石工技術で切石を組み、薩摩焼の技術で耐火レンガを焼き、反射炉を作り上げました。一号炉は耐火レンガが崩れる等で失敗に終わりましたが、二号炉は成功し、大砲を製造しました。反射炉は薩英戦争や西南戦争で焼失してしまったので、現在は二号炉の基礎部分が残っています。
〇庭園の散策園内散策のおすすめコースに従って進んでいきますと、島津家の家紋が大きく掘られた碑が現れました。これは、島津家水天渕発電所記念碑。
(左)獅子乗大石灯籠は、第29代島津忠義が明治17年(1884年)に作らせた園内最大の石灯籠で、灯籠の上部には飛獅子が乗っています。笠石はかつて海岸にあったもので、8畳ほどの大きさがあります。このバランス感覚がたまりません。 御殿は、江戸時代においては別邸として、明治時代においては一時本邸として使われました。現存する建物は明治17年(1884年)に改築されたもの主体となっています。藩主の部屋はすべて節なしの屋久杉で作られているそうです。 御殿後方の山肌の岩に、千尋厳(せんじんがん)と彫られているのが確認できます。文化11年(1814年)、第27代島津斉興が延べ3,900人余の人員を動員し、約3か月をかけて刻ませたものです。3文字合わせて約11mの大きさがあり、胡粉という顔料で塗られています。胡粉は「ごふん」と読み、貝を焼く、又は天日に長期間晒して風化させる、といた方法で粉状にして作られた顔料です。景勝地の岩に文字を彫るのは中国の影響と思われます。
迫ン太郎(さこんたろう)は、水の流れを利用した米つき機です。かつては玄米を精米するために使われていたといいます。約1分に1回で動きますから、一日では約1,440回、一年では50万回余り動くことになります。働き者です。
園内の片隅に設置され、パンフレットでも大きくは取り上げられていないものですが、このような自然の力を巧みに利用した農耕器具を見ると、何だかホッとさせられます。
江南竹林は、江南竹と呼ばれる孟宗竹の竹林です。第21代島津吉貴の時代に、孟宗竹2株を琉球から取り寄せ、この地に植えて繁茂させたといいます。当時の日本には孟宗竹は無かったようなので、珍しいものだったのでしょう。 両棒餅は、みたらしと味噌味があり、素朴な味で大変美味でした。この他にも鹿児島では名物をたくさんいただいたので、明日のブログで特集する予定です。 |
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2月下旬、ちょっとした仕事の関係で大分県方面に行く機会がありました。仕事の時間帯によっては熊本から日帰りも可能な距離ですが、今回は夜間に及ぶ業務があったため、由布院温泉に一泊することになりました。
〇由布院と湯布院、どちらが正しいか答えは、両方とも正しいということになります。由来は以下のとおりですので、TPOをわきまえて使用する必要があります。
総括すると、由布市の中に湯布院町があり、湯布院町の中に由布院温泉がある、ということです。
〇由布院グルメ身体の芯まで温まった後は、同僚らと宿の近傍のお店に出向きました。大分名物の鶏肉の焼肉と、もつ鍋でした。焼肉をたらふく食べた後に大鍋が出てきたので、一同たまげました。ビールや焼酎が大いに進みました。
〇街ラン 〜宇奈岐日女(うなぎひめ)神社〜飲んだ後のことはあまり覚えていませんが、翌朝は早く起きて街ランを敢行しました。荷物が増えることを厭わずにシューズ等を持ってきたのですから、二日酔いなどと生ぬるいことは言っていられません。二日酔いは走って治すのです。
宇奈岐日女(うなぎひめ)神社に到着しました。延喜式にも記載された、大変な歴史のある神社です。
〇街ラン 〜金鱗湖〜宇奈岐日女神社から由布岳ふもと通りを走っていくと金鱗湖が見えてきました。金鱗湖はやや長方形で、長辺約100m、短辺約70m、最深部は約2mの「湖」というよりも、むしろ「水たまり」といった趣の池です。
金鱗湖は、もともとは由布岳の下にある池という意味から「岳ん下ん池(たけんしたんいけ)」と称されていましたが、明治17年、大分の儒学者・毛利空桑(もうりくうそう)が池のそばの露天風呂「下ん湯(したんゆ)」から池を眺めていると魚が飛び跳ね、うろこが夕日に照らされて金色に輝いたことから「金鱗湖」と名付けたものです。
不思議なことに、中国人観光客にとってはよほど珍しいのか、ガイドブックに掲載されているのか、早朝から大勢の中国人観光客が湖畔に詰めかけていました。 |
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1月27日の天草マラソンに出場した後、美しい海辺の風景を眺めながら帰路につきました。夕暮れ時の有明海と、ノリ養殖のいかだ、遠くにかすむ雲仙の山並み。嗚呼、こんなに美しい風景はないでしょう。
〇三角西港の石積埠頭【参考】
三角線に乗った https://blogs.yahoo.co.jp/anmako1976/16022520.html 三角駅周辺を散策 https://blogs.yahoo.co.jp/anmako1976/16022545.html 三角西港は、明治20年(1887年)に開港されました。明治以降の近代港湾の歴史上、重要な位置を占める港湾です。国費を投じて築港された港としては、宮城県の野蒜港、福井県の三国港と並び、当時の国家的事業として建設されました。ここ、三角西港は当時の施設が現在も残っている唯一の港です。 簡単に三角西港の歴史を振り返ると…
三角駅近くの物産館で買った「ムルドル通り」という銘菓は、オランダ人のムルドルさんから取った名前なのですね!
ムルドルは、延長756mの石積埠頭の建設だけではなく、港全体を一つの町と見立てて、港湾都市づくりを行いました。石積みの水路はその名残です。
ハーフマラソンを走った後でしたので、階段を下りる際には足の踏ん張りが効かず、あわや水中に落下するところでした。 〇西洋風の建築物港の傍らには、西洋風のモダンで美しい建築物が建っています。
(左)は龍驤館(りゅうじょうかん)です。大正7年(1918年)、明治天皇即位50周年記念事業として、当時の宇土郡教育会が頌徳記念館として建てたものです。 【参考】頌徳(しょうとく):偉人や先覚者などの徳をほめたたえること ここで休憩を取った小泉八雲は、美しい女将に心を奪われます。女将は山下芳といい、当時は30歳前後だったといいます。旅館が「浦島屋」ということを知り、八雲自身を浦島太郎、女将を乙姫になぞらえて、短編小説「夏の日の夢」の着想を得ました。
浦島屋は、貴賓客をもてなすための洋風建築となっています。明治38年(1905年)には解体されて中国の大連に運ばれてしまいましたが、平成5年(1995年)に復元されました。現在は、資料館として公開されています。2階からは、美しい入り江の風景を眺めることができます。 〇旧高田回漕店旧高田回漕店は、4隻の汽船を保有し、荷物や乗客を扱っていた回船問屋です。本店は熊本でしたが、三角西港の開港と同時にこちらに進出しました。
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そんな折、1月下旬にちょっとした仕事の調整があって別府に行く機会がありました。熊本から日帰りも可能な距離ですが、悪天候の予報が出ていたので、大事を取って前日入りし、別府に1泊することになりました。 この日のお宿は鉄輪(かんなわ)温泉の「もと湯の宿 黒田や」さん。完全かけ流しの温泉風呂は25時まで営業しているので、遅い時間の到着でも温泉を楽しむことができます。身体の芯まで温まる温泉でした。源泉は90℃を超える高温ですが、季節に応じて適切な温度に調節しているとのことで、ややぬるいかと思わせておいて、じわじわと身体を温め、しかものぼせ上がることのない絶妙な温度に仕立てられていることが分かりました。 この日はあいにくの天気で、朝から雪が降っていました。関東地方に住んでいると九州は気候が温暖なところというイメージが強いのですが、住んでみて分かったのは、温暖であるとのイメージは全くの虚像で、下手をすると関東地方よりも寒いのではないかとすら思われます。このように雪も降るのです。冬場に九州地方に出張にくる人には、九州は寒いところゆえ寒さ対策を万全にして来るよう、啓蒙活動をしています。 今回は時間があまりなかったので温泉で癒されるだけで終わってしまいましたが、地獄めぐり等、次回は時間をたっぷりと確保して別府を観光して回りたいと思います。
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熊本市電の熊本商業高校前電停と八丁馬場電停の間には健軍神社の鳥居があります。ここから健軍神社まで、1230mもの長さの参道が伸びています。
健軍神社の概要は以下のとおり。
西南戦争当時の健軍神社に関する報道もありました。
七五三のころの健軍神社の様子です。交通安全にもご利益があると言われているので、祈願に来たと思われる車も写っています。
今年から朱印帳を新しくしました。3代目となる新しい朱印帳は不二家のペコちゃんをあしらった斬新なもの!これを手に入れたくて、機会があれば銀座の不二家の店舗をのぞいていたのですが、昨秋についに手に入れたのです。
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