久しぶりに書きます。
偏った私見。独り言。
子どもの勉強に対してのモチベーションに、親が頭を抱える。
朝のラジオなんかを聞いてると、よくあることみたいで。
テレビゲームだったり、携帯だったり、いろいろと魅力的な誘惑が多い中で、なんで勉強するのか。
結局のところ、親自身があんまわかってないから勉強しなさいってとりあえず言う。勉強することが仕事とか、勉強しないと遊ばせないよって言う。
順位が出たり、褒められたり、結果を得ることで、ひょんなきっかけからのモチベーションをゲットできることはあるんだろうけど。
自分も親になりました。
なんで勉強ってやるんだろう。
やらされたら負けだ。 (あひるの空より)
正直、自分は勉強やった側。
やったら褒められる、目立つ。どっかでこれはわかってた。
その他にもいろいろと褒美が前に吊るされてて、それに向かって走ってた。そして何より勉強は楽しかった。
褒められる、目立つ、褒美を得るのは嬉しかったし、知らないことを知るのは楽しかった。
でも、なんでこれを覚えるんだろうってのは常に考えてた。
ただ走ってはなかった。
数学だけは、先に進むたびにそれがちょっともやがかかっていって意欲がそがれていったけど、それでもモノゴトの考え方や合理化の手段や方法に柔軟な考えを、紐解く快感を与えてくれるはずのものだったんだなってのは今なら思う。間違ってるかもだけど。
とにかくこの社会では勉強をやっておけば、将来の選択肢が増えるってことは理解してて、それをより多く、有利に得るがために、勉強があった。
どうしてもつけなければならない人間の優劣に、便宜上、勉強が使われているんだな、と。
やった方が得じゃん。そんでもって楽しいんだし。
だから勉強が大事って結論ではなくて、逆で、すべてではないってこと。やりたいことがあれば、古文はいらないかもしれないし、数学は必要ないってこともあるかもしれない。なにをやるにせよ、平安時代の人の考え方に救われることもあるかもしれないし、連立方程式の考え方が役に立つこともあるかもしれない。
xとyがわからないときに式が二つ作れれば解がでるっていう。
りんご2個を5人でわけたら、とりあえず小さく切って、それぞれが2,3切れづつ食べるとか、現実はそんなとこだろうけど、5分の2ずつに食べるとみんなが公平に食べることができる方法があるってこと。
高卒で働きだした子に、「いいね、まだお気楽大学生で遊んでいれて」って皮肉を言われたこともあったけど。そのセリフで、その子はそれを選択したんじゃなくて、それしか選択肢がなかった。その時に実感した。けどこっちはそこもふまえて、そうならないように、逆にみんながお気楽な頃に、なんで勉強するかには向き合ってた。
何をするにも考えるべき。せっかく脳みそがあるんだから。
考えた末の答えが合ってるにせよ、間違ってるにせよ、その過程は無駄じゃない。
結論。勉強をしない子には、なんで勉強するのかを教えれたら、もしくは考えさせれたらいいんではないでしょうか。できれば自分で。勉強することの楽しさまで付いてきたら最高で、やらさなくてもやれる子になれるはず。
思うんですが、勉強は楽しいんですよ。学問には、どの分野にも専門家の学者さんがいるけど、専門家がいるってことは何かしらそこには魅力的な何かがあって、そこに憑りつかれたから極めようと思ったわけで。だから、たとえ一人だとしても、その人を虜にした楽しさの一端にでも触れることができれば、人生のほんの数年間数十時間、その教科書と向き合って何かを覚えることぐらい、苦行であるはずもなく。少なくともクソゲーよりは絶対に楽しい。
昔、学校の先生と話したことだけど、中学生ぐらいまでの普通の勉強は、向き合いさえすればリタイヤしなければならないような問題はないって。リタイヤした人のことは想像するしかないからアレだけど。
子どもが自発的にそこと向き合ってくれた親はラッキーだな。
まとまったか、まとまってないかはさておき、長くなりました。
こーゆーのはいっぱい書きたい事あるんだけどついつい遠慮しちゃう。大した人数も見てないだろうからいっちゃおうwww。
生意気すいません。見てくれた方ありがとうございます。
更新どーーーん