<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
	<rss version = "2.0"  xmlns:blogChannel="http://backend.userland.com/blogChannelModule">
		<channel>
			<title>道草</title>
			<description>特になし。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
		<image>
			<title>道草</title>
			<url>https://s.yimg.jp/i/jp/blog/iym_img.gif</url>
			<description>特になし。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir</link>
		</image>
		<item>
			<title>ストレスフルな自動車社会</title>
			<description>　バイクで通勤するようになって以来、自動車社会について考えさせられるようになった。なんともまぁ、運転マナーの悪い車の多いことか。猛スピードで横をすり抜けていったり、後ろから車間距離を詰めてきたり、車間をもっと前に詰めろとクラクションを鳴らしてきたり。最悪のケースだと、踏み切りや一旦停止線で停止することに対し、クラクションを鳴らしてくる車まである。こういった現状はいくら取り締りをやっても改善されないだろう。車は人の人格を投影する。人の心が荒んでいる限り、ヒステリックな運転は消えない。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　ＮＹではクラクションが街のいたるところで鳴り響く。ノイズ・ポリューションと言って罰金の対象らしいが、自己中心的なニューヨーカーを象徴している。車は移動する部屋である。その密閉された個室空間が、人を傲慢にさせるのだろうか。目と目を合わせるコミュニケーションを離れ、物質と物質がクラクションでやり取りをするのが自動車社会。目を背ける、舌打ちする、睨む、そういった具体的な動作を伴わなくとも、顔と顔を合わせていれば人間は表情で怒りを表現できる。しかし、これが車の場合はクラクションという無機質な形式に単一化してしまう。クラクションを鳴らされた方はたまったものじゃない。無防備なバイクに乗った僕は、突発的な大きな音にいつも驚かされる。その姿がヒステリックなドライバーを満足させるのか。 &lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　半分の集中力を事故しないことに、もう半分の集中力を事故されないために使う。往復80kmの通勤はくたくたである。こういった自動車社会のストレスが僕を疲弊させる。この現状は、どうにも改善されないだろう。現代人が抱える負の感情が表れている。近代化は人の生活を便利にしたが、その一方で人の心は一段と荒んできているのではないだろうか。日本の社会は慢性的なストレス社会だ。そしてクラクションを鳴らしている人はそのことを知覚できない。もし皆でクラクションを鳴らせばストレス社会を生き抜けるだろうか。ニューヨーカーみたいに。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir/50390187.html</link>
			<pubDate>Sat, 29 Sep 2007 02:35:53 +0900</pubDate>
			<category>事故</category>
		</item>
		<item>
			<title>教育改革というキャンペーン</title>
			<description>　安倍さんの教育改革が進んでいる。郵政の小泉に対し、教育の安倍か。すっかりその姿勢が鮮明となってきた。彼のやり口には憤りを覚える。全くペテン師ではないか。結論から言うと、教育を死なせたのは安倍晋三に他ならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　全くいつの間に教育が死んでしまったのか。学力低下、学級崩壊、いじめ問題などなど、昨今様々な教育問題が噴出してきているかのように取り沙汰されている。しかし実際、これらは古今東西潜在し続けた問題であって、日夜現場の教師が苦悩してきた問題であったのではないか。それらの問題に対して、安倍は集中的な政治的キャンペーンをはった。自身の行動力をアピールする上でも教育問題は格好の題材だったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　では、それらの問題に対する対処方法はどうであろうか。訳の分からないタレント集団からなる教育再生会議という井戸端会議を設けたり、教育基本法や関連三法の改悪など、散々な政治施策であった。どれもこれも現場を無視した素人の発想ばかりだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　もっと、重要な局面で議論されていい問題があると考えている。それは、この国の教育が『講師』というアルバイトの労力に依存し切っているという現状だ。僕の知っている教育管区では先生のうち６人に１人がこの『講師』である。講師というのは教員採用試験に受かってないが、臨時採用で教壇に立っている人のことを言う。僕の知る限り、この講師の先生はどなたも非常に頑張っている。ただ問題は、この若くて、安上がりで、使いやすい『講師』という労力に、日本の教育が中毒となってしまっている点だ。そしてこの現状が、実際のこの国の教育に対する期待と投資の低さを物語っているような気がする。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir/47726406.html</link>
			<pubDate>Mon, 21 May 2007 21:56:14 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>俺は、君のためにこそ死ににいく</title>
			<description>　石原慎太郎と香取慎吾がスマステで対談しているのを見た。話題は石原慎太郎が製作した「俺は、君のためにこそ死ににいく」という映画についてであった。この映画作りに挑んだ石原慎太郎の動機は非情に分かりやすいもので、「特攻隊として勇ましく死んでいった戦時中の若者の生き方に比べ、自分のことしか考えられていない現代の若者はなってない！」というところであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　実際、対談の中で石原は「最近の若者は自分の周り５メートルあたりのことしか考えられていない」と発言していた。僕は呆れてこの番組を視聴していた。相変わらず石原慎太郎の思考は短絡的だ。いつの時代においても、年寄りは若者を怯える。何故なら若者は、自分たちが従ってきた価値観や道徳を覆していくからだ。そして溌剌としている。そこに自分の生き方を否定されるかのような錯覚を感じてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　死が近づき、自分自身の生産能力は低下の一途を辿る。人間としての生理機能も衰えてくる。そのような老人にとって、自分の生き方を否定されることほど恐ろしいことはない。せめて自分の教訓を説教したい。しかし若者は聞く耳を持つどころか、全く異なるスタンスで青春を謳歌している。石原はそれが許せないのだ。「ＮＥＡＴだとフリーターだと、勝手な生き方をするな。国民なら勤労の義務をまっとうせよ。俺たちは国家のためにあんなにも辛い時代を耐えていたんだ！」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　石原は弱い。弱すぎる。石原慎太郎という人物を見つめれば、コンプレックスが噴出してくるに違いない。彼はアイデンティティを完全に国家に投影してしまった。そういう生き方もあっていいだろう。しかし、まずは自分の弱さを自覚しなければならない。自分の弱さ故に、国家なんていう概念を持出す人は、それこそ「自分のまわり５メートルあたりのことしか考えられていない」人ではないか。そして石原のような人こそが、若者をして戦争へと向かわせるのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　まずは、「自分のまわり５メートルあたりのこと」をしっかり考えられることが大事だと僕は思う。美しい国とか、そんなことを考える前に、自分自身をしっかり確立させることの方が大事だ。そしてその先に「国家」なんてものは見えてこないと僕は思う。「俺は、君のような者のために死なされた」そんな映画が必要だ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir/47681654.html</link>
			<pubDate>Sun, 20 May 2007 02:13:11 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>大学生のうちにしてはいけない５つのこと</title>
			<description>大学を卒業した。そこで大学生のうちにしてはいけない５つのことを考えてみた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１．バイトをしてはいけない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　バイトとはあなたの時間を売る行為だ。あなたは『あなた』という会社を運営していると思っていい。しかし『あなた』という会社はいつも暇で景気も悪い。だからあなたは『バイト』という別の会社に、あなたの会社員である“あなた”を派遣してしまうのだ。その前にまず『あなた』という会社の充実に励むべきだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２．ボランティアをしてはいけない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ボランティアほど胡散臭いものはない。ボランティアするくらいならすぐそばにいる身のまわりの人に手を差し伸ばすべきだ。ボランティアという言葉のつく慈善行為は大抵ボランティア(自発的)ではない。ボランティアするほどの慈しみの心があるなら、まず社民党か共産党に投票するべきだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３．人の話を真剣に聞いてはいけない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　政治家であれ、大学教授であれ、有名人であれ、その地位がその人の人格を保証しているということはない。だから真剣に人の話を聞く態度よりも、真剣にその人の話を聞くべきかどうかを見極める能力の方が大切だ。さもなければ一生涯を通してすさまじい時間を浪費することになるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４．愛、優しさ、誠実という言葉を盲信してはいけない。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　愛だとか、優しさだとか、誠実さだとかいう概念に踊らされていてはいけない。こういう言葉は大抵、優しくない、不誠実な人が振りまいている。『美しい国』という言葉なんかが代表的なまやかしであろう。そういう言葉にすがるのも悪くないが、一度は懐疑的になる経験も大切だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５．テレビを見てはいけない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　テレビほど大量の無価値な情報を放出しているメディアはない。そこで得られる知識はほとんど欺瞞だ。芸能ニュースや日々の事件。毎日を快適に過ごすためのちょっとしたうんちく。そんなことを知ってもあなたの人間としての深みを何も増さない。更にいうと、テレビは国民を洗脳する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　とまぁ、久しぶりに生意気に書いてみたのだが、「このブログに書かれている内容を鵜呑みにしてはいけない」ということも最後に付け加えておくべきだろう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir/46738603.html</link>
			<pubDate>Thu, 12 Apr 2007 20:01:02 +0900</pubDate>
			<category>大学</category>
		</item>
		<item>
			<title>いじめる人の弱さとアメリカの弱さ</title>
			<description>いじめはどの時代にも、どこの国にもあるものだと思うし、「いじめはいけない！」と訴える一方で、格好のネタとして食い物にするメディアや、教育再生会議のような素人の集まりがどうのこうの言って解決する問題じゃない。今悲惨なのは、教育再生を政治改革の中心に据えた安倍政権の格好のパフォーマンス材料として、『いじめ問題』が利用されている事だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『いじめ問題』に関して一つ気になったのは、いじめに関する生徒の感想文として、「いじめで自殺する人は心の弱い人。そんな人は社会に出ても無理」みたいなの文が紹介されてことだ。よくありそうなひねくれた意見だけれど、こういった意見に対しては「いじめを苦に自殺する人以上に弱いのはいじめをする人ではないのか？」という懐疑を差し挟む必要があるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いじめは世界情勢の中にもある。アメリカという強者が、経済・政治・軍事の力を持ってしてアフガニスタンやイラク、そして北朝鮮といった国を、イギリスや日本と一緒になっていじめているのが今の世界の現状だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では何故こんなにまでアメリカはいじめという行為に取りつかれているのかというと、他サイトからの引用で申し訳ないのだけれど、以下の文章を引用したい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＊ハンチントンは、現在の世界をヨーロッパ、中国、日本、イスラム、ヒンドゥ、スラブ（東方正教会）、ラテンアメリカ、アフリカの８つの文明圏に分けている。（中略）エルマンジュラ流にいえば、この８つの文明圏には著しい集合的記憶の伝統があるということになる。&lt;br /&gt;
しかし、この予想は「世界新秩序」の盟主を謳いたいアメリカの矜持からすると、まったく気にくわない。だいたいアメリカは８つの文明には入ってはいない。アメリカは自分の力で集合的記憶をつくる以外になくなっている。アメリカの記憶だけならなんとかなろう。しかし、そうではなくてそれを「文明の記憶」にするには、アメリカが盟主となった新たな文明集合的記憶をつくる必要がある。これがレーガン、父ブッシュ、クリントンの「新世界秩序」というものだ。（引用終わり）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、集合的記憶を持たないアメリカが、新世界秩序という名のもとに、アメリカが中心となった新しい集合的記憶を作り出そうと苦悩しているのが、今のアメリカの姿であり、アメリカの弱さだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その点文化や歴史を持っている国は強い。例えばフランスのように(もちろんフランスは先進国でありＧＤＰは世界第5位だが)、今日においてもやはり高い芸術性が世界の尊敬の的となっている国がある。その点日本は、誇れるべき文化をアメリカナイズする一方で、自国の価値を経済成長という物差しでしか測っていないのではないだろうか。&lt;br /&gt;
随分強引に話を進めてきたけれど、要するにいじめに加担する自分の弱さを自覚できなければ、出席停止にしようが何しようが、根本的な更生とはならないのではないだろうか。更生なくしては、アメリカのようにテロという形でしっぺ返しを喰らうことになるだろう。誰かをいじめた感触というのは、後々気持ちよくないだろうし、それは一生残る感触なのではないだろうか。実はその行為が自分の弱さを象徴しているのだから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
引用サイト：松岡正剛の千夜千冊（&lt;a HREF=&quot;http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0720.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0720.html&lt;/a&gt;）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir/43509960.html</link>
			<pubDate>Sat, 23 Dec 2006 01:49:57 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>「小学校に英語がやってくる」</title>
			<description>ＮＨＫで「小学校に英語がやってくる」という特集番組が放送されていた。このブログでもたびたび小学校への英語導入を検討する記事を書いてきた。この小学校への英語科導入を推し進める勢力としては、グローバル化を推し進めたい経団連、そして小学校という未開の市場を開拓したい英会話産業の思惑が強いと思うのだけれど、今日の番組ではそこらへんにもスポットが当てられていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校英語推進派の持ち出す、国際交流だとか、異文化理解だとかいう言葉が本当にうさんくさい。こういう人に限って、それらの事をじっくり考えていないに違いない。国際交流＝アメリカ人としゃべること、異文化理解＝英語圏の生活習慣に親しむこと、という公式しか頭にない。そもそも国際社会の舞台で「自己主張できる」ことが大切かのように言われているけれど、そのような態度が本当に大切なのかは疑問だ。それはアングロサクソン的な性格に過ぎないのではないのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言語のコミュニケーション・スキルが伸びるのは、その必要性があるときだと考える。学校で週数時間英語に触れたところで、大して効果は出ないだろう。「話す」とか「聞く」といった能力は、学校でわざわざ習わなくても、英語が必要とされる環境にあれば自然と習得できると思う。でも、その環境が日本にはない。それはそれだけ英会話が日常生活で逼迫した必要な能力とはなっていないからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
将来海外で活躍したいという人は、大学なんかの高等教育を通して英語を学んで、そういったスキルを身につければいい。僕は日本の全国民が英語を話せるようになる必要はないと考えている。もし日本人誰しもがペラペラ喋るような日が来るとしたなら、それは取りも直さず日本語や日本文化が、大いに英語圏のそれに侵食される時だろう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir/41959132.html</link>
			<pubDate>Mon, 06 Nov 2006 02:02:11 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>米国人教師と語った</title>
			<description>今日は「米国人教師と語ろう」なるイベントに参加してきた。２０人くらいの教師がアメリカから来日していて、その教師相手に大学生が話をするというものだ。僕のテーブルには４人の米国人教師がついて、教授が一人と、インドからの留学生が一人、僕を含めた日本人学生が４人。小学校の先生が一人といった顔合わせ。なかなかいい感じのトークが出来たと思うんだけれど、このインドからの留学生が僕的には少し厄介だった。英語が堪能なものだから、一人で日本の教育のことを喋っていた。もちろん日本のことをよく知っているという部分もあったけれど、例えば、日本の小学校の先生はみんなジャージを着ているだとか、日本の大学生はとても規律の厳しい軍隊のようなサークルや部活動に明け暮れていて、それが趣味になっている、とかいう発言を聞いたときは「おい、ちょっと待てよ！」とつっこみたくなった。僕たちは異文化に接した時、知らず知らずに批判的な眼で、自分の中にあるステレオタイプをそのまんま当てはめてしまいがちなのかもしれない。インドからの留学生もその傾向があるようだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今日の会話はアメリカの教育システムが地方分権化されているのに対し、日本のは中央集権的だ、という話題に始まり、それに関係した話題と、移民国家アメリカの教育現場における言語の問題。それから、アメリカの小学校はハイテク化されていて、生徒が皆ノートパソコンや携帯電話を持っているということ。高い離婚率に伴って、親が子どもを放ったらかしにしていること。女子中学生の過激な服装。日本料理への賞賛。あと科学技術国家日本へのお世辞。アメリカの大学は公立でも授業料が年間２００万円もかかるといったことなど。インドからの留学生が「アメリカの伝統料理は何？マクドナルド！？」と尋ねたときは少し焦った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは、文化という点でアイデンティティの非常に弱い国だ。だからこそ軍事や経済の力で世界にアメリカ主導の世界新秩序をもたらそうと悶えた訳だが、集合的記憶の欠如がこの国の欠点だと、マフディ・エルマンジュラの言葉を松岡正剛が説明していた。伝統とか習慣とか歴史だとか、そういったものでは自己主張できない国なのではないだろうか。「伝統料理は何？」との質問に、「伝統料理はないけれど、世界中の料理を楽しめるわ。」との回答が心苦しかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
United States of America、今やイスラム諸国を中心に世界中がこの国を嫌っている訳だけれど、今日目の前にしたアメリカ人達は、やはりカナダ人と同様見かけのよさそうな人達だった。世界中にコーラやマクドナルドをばら撒き、ハリウッド映画という安っぽい娯楽を提供しているこの国の正体は、一体何なのだろう？この人達もいざ政治の話題になれば、「イラク戦争はイラクに民主化をもたらしたのよ。素晴らしいことだわ。」なんて台詞を口に出すのだろうか。そしてそんなアメリカに追随する日本は更に不可解だ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir/41032626.html</link>
			<pubDate>Tue, 10 Oct 2006 23:03:53 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>公権力が生み出した悲劇 職質された二人に襲われ警官発砲</title>
			<description>まず第一に、職務質問というのはこれが導入される時点で議論があった。警察官が不審者とおぼしき者を制止し、個人情報を質問することを許すということは、公権力による市民社会の監視を強める事になるからだ。町中を歩いているだけで、警察官に取り囲まれ、名前や住所、勤務先を聞き出されるというのは誰にとっても気持ちよいものではない。しかし、治安維持のため、日本では職務質問が認められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし今日、悲しいニュースを目にした。職質された二人組みが警察官に殴りかかったため、警察官が発砲したところ、弾が男に命中し死亡したというニュースだ。もう一人は逃走中という。彼らは外国人風だというが、まったくやるせないニュースだ。日本人は、拉致とか、海外のテロに巻き込まれた邦人の安否は、ものすごい同情心を持って気遣うのに、警察官に撃ち殺された外国人の命はどのように受け止めるのだろう。彼らは悪い人だったかもしれない。しかし、かといって警察官に殴りかかろうとしただけで撃ち殺されてしまうというのは酷すぎる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしかしたら、彼の国には職務質問なんて習慣はなかったのかもしれない。日本語が分からず、混乱していたのかもしれない。何れにせよ、彼は殺されてしまった。しかし想像して欲しい。異国の地で、急に警察官に取り囲まれることがどれだけプレッシャーになることか。訳の分からない言葉で強制連行されれば誰しもが混乱する筈だ。この職質を行った警官は、そこまで思いをめぐらせていなかっただろう。ある種の興奮状態の中で銃を握り、正当防衛のもと弾を放ったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このニュースを目にして感じるのは、やはりそれぞれの警察官が職務質問という行為の重みを常に認識して欲しいという事だ。それはかなりコントラバーシャルな行為で、一歩踏み間違えばプライバシーの侵犯、表現の自由への抑圧、市民社会の萎縮、公権力の乱用につながるということを強く意識して欲しい。ある種、警察官とは洗脳された人々だし、素晴らしい正義感のもとそれを行っているのだろうけれど、それは市民にとっては脅威でもあるのだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir/36708007.html</link>
			<pubDate>Sat, 24 Jun 2006 01:07:15 +0900</pubDate>
			<category>その他政界と政治活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>チェコ無念</title>
			<description>このチームのサッカーをもう少し観たかった。それが正直な感想だ。チェコは今日イタリアに０－２で負け、予選リーグ敗退が決まった。一度引退したものの、Ｗカップの予選で苦戦するチェコを救うため代表復帰したネドベド。試合後、そのネドベドに寄り添い最後の別れの挨拶を交わすイタリア選手の姿を見ると、思わず胸にくるものがあった。&lt;br /&gt;
思い返せば、アメリカ戦では最高のサッカーを見せてくれたチェコ。そのスタイルは派手な個人技に頼るというよりも、ボールを持った一人の選手に２人のフォロー選手が入りトライアングルでパスを回す、堅実なパス回しであった。故にチェコとしては、先制点を許してしまったガーナ戦、そしてイタリア戦はとても厳しい試合運びとなったのだ。繋ぐサッカーは余裕のあるときにこそ有効だからだ。そして２０２ｃｍの長身フォワード、ヤンコラーの怪我が２００６年ワールドカップでのチェコの運命を暗示していた。アメリカ戦でよく目にしたように、チェコの攻撃パターンの一つは、ディフェンスからのロングボールをコラーにあて、コラーがネドベド、もしくはロシツキーにポストで落とすという形が多かった。コラーを欠いたチェコはロシツキーがディフェンスからのパスを後ろ向きにもらう場面が多くなった。&lt;br /&gt;
この２戦とも、とても似通った内容であった。前半に先制点を許したあと、退場選手を出してしまう。もうこの時点でチェコのサッカーは崩壊寸前だと言っていいだろう。つなぐサッカーにおいて、一人選手が少ないというのは致命的なハンディだ。ディフェンスを３バックにし、オフサイドトラップをかける守り方はハイリスクだ。しかしどうしても勝たなければならないチェコとしては、守備を薄くしても、攻撃に人数を割かなければならない。そんなブリュックナー監督の判断をよそに、インザーギはすれすれで飛び出し、キーパーを交わしとどめの一発を決めた。チェコのワールドカップは終わった。&lt;br /&gt;
ネドベドのプレイスタイルが好きだった。攻撃ではシンプルにさばき、ディフェンスも堅い。そしてなんといってもボールコントロールが素晴らしい。絶妙の加減で絶妙のスペースにスルーパスを送る彼のプレーは、見ていて感心させられる。そしてその右のディフェンシブハーフの位置に天才ロシツキーがいる。彼がドリブルし出すと誰も止められない。イタリア戦では、この２人が守備に奔走していた。実況はロシツキーの体力のなさを指摘していたけれど、とんでもない。彼がどれだけあのピッチをかけめぐっていたのかちゃんと見ていたのか。日本の代表選手があれだけの距離を走れば、とっくに足をつっていただろう。この２人の素晴らしい中盤が守備に奔走しているのを眺めていると、本当にやるせなくなる。あなたたちはもっと前線で輝けたのに！&lt;br /&gt;
ＦＩＦＡランキング２位のこんな素晴らしいチームが、決勝トーナメントを前に姿を消していってしまった。ワールドカップ、そこには凄まじい人々の思いが込められている。所詮ワールドカップ限定でしか盛り上がれない日本は、まだまだサッカー後進国だ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir/36664727.html</link>
			<pubDate>Fri, 23 Jun 2006 01:30:22 +0900</pubDate>
			<category>サッカー</category>
		</item>
		<item>
			<title>なぜ勉強するのか？ ニーチェ的回答</title>
			<description>なぜ勉強するのか？といった質問は、素朴なものだけれど、僕が知る限りかつてこの問いに有効な回答を出せたものはいない。「それは人それぞれ答えが違うものだから」だとか、「それは本能的衝動に基づくべきものだから」とかいった、それらしい答えは思い浮かぶが、どれも万人を納得させるには説得力がない。「なぜ勉強するのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」このような問いに、もっともまともな回答を出したのが、ニーチェかもしれないと僕は思っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニーチェはドイツの哲学者だ。そして最終的には狂人と化し、その哲学は現代では死んだといわれている。僕もこの手の専門家ではないので、詳しい事は分からないけれど、彼の哲学というのは、論理的というよりは直感的であり、また哲学者の姿勢を根本から覆すような異質さを秘めている。彼はたくさんの他の哲学者に影響を与えたし、彼の提出した哲学は、ある種の人々を惹きつける魅力を有しているように思う。しかし、それは同時に、あまりにも強力であり、危険だ。それ故素人である僕が彼の言葉を引用してよいものか少し躊躇われるのだが、ここに忠告を添えた上彼の回答を紹介したい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ人を殺してはいけないか。まず、この問いに対する答えはない。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。そしてほんとうの答えは、「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」（だれもこのようなことを公共の場で口にはしない）である。しかしニーチェがすごいのは、「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、そうするべきだ」と答えるからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ勉強しないといけないのか。この問いに対し、「あらゆる可能性をも考慮に入れて、どうしても勉強したくなければ、勉強するべきではない」と答えるのである。というのも、生の悦びを定義する際、そこには相互性の原理を介入すべきではないとニーチェは考えたからだ。しかし、この問題をよく考えてみれば、なるほど、我々はいつも「なぜ人を殺してはいけないのか」といったような、既成の疑問を投げつけられて、それに正しい答えを出す事を求められる。その質問の前提は正しいのかといったことは、あまりにも無視されてきたのではないだろうか。その質問の道徳的に正しいことが明白であったとしても、それが究極的な真理であるかどうかは問われないでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ニーチェは道徳的に正しくある状態自体を問題にする。道徳的な生き方を肯定化するために道徳家や哲学者が積み上げてきた嘘を批判する。我々はいたるところで道徳的であること、道徳的に正しい事、を求める。そしてそのために真理から遠ざかってしまうという場面に遭遇する。例えばいじめが起こった際、「いじめられる子側にも悪いところがある」という的を得た主張は、暗黙の裡に語ることを禁じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん学校の先生が生徒から「なぜ勉強しないといけないのですか」と聞かれて、「どうしても勉強したくなければ、するべきではない。」と答えるようでは先生失格だ。教師は何かしら、生徒を満足させる、若しくは生徒の生意気な哲学的疑問を煙に巻くだけの詭弁を弄さなければならない。ニーチェの哲学とは、至って非実用的であり、また非現実的であるのだ。それ故彼の哲学は死んだとまで言われるのだろう。しかし、そこには究極的な真理が潜んでいるような気がするし、だからこそ今尚彼の名はこれほど知れわたっているのだろう。彼の哲学を現実社会で応用する事は今のところお勧めできないけれど、一つの例として紹介してみた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参考　『これがニーチェだ』　永井均　講談社　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonanonanonsir/36411660.html</link>
			<pubDate>Sat, 17 Jun 2006 03:28:25 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		</channel>
	</rss>