|
(3)日本語は特殊な言語か
フランス文学者で、ディドロやヴォルテールが専門の中川久定氏は、言語の問題を通して西田哲学にアプローチする。「デカルトがラテン語とフランス語で、カントがドイツ語で、西田が日本語で書いたということをみんな軽く見ている。彼らは同じことを論じているように思われてきたが、どの言語を使うかは、哲学にとって決定的な違いにつながるのです」
「AはBである」と判断する場合、デカルトなら「私はAはBであると考える」と書くが、西田は「AはBでなければならない」とする。最晩年の論文「場所的論理と宗教的世界観」では、数行の中に何度もこうしたいい方を使う。それはラテン語やフランス語に翻訳できないいい方だ。
ヨーロッパの近代哲学は、デカルトによって「私」が考える(ラテン語でコギト)というところからスタートした。「これはラテン語やフランス語がシステム的に主語を第一とするため、生まれた哲学です」と、中川氏は説明する。
「西田はこれと正反対です。『私』という主語が出発点なのではない。それより先に述語の位置にある『AはBである』という判断の方が、自分に迫ってくるという感覚があった。そして、『私』は後からそれに同意するものだと。述語を優先する日本語のシステムで、そうなったのです」
この判断は、自己を超えた場所でされる。このため、判断の主体は「私」ではなく、場所であり、西田はこれを「なければならない」と表現した。中川氏は「日本語は主語を第一としない非人称的言語であり、自己を超えた場所を中心にする言語なのです。それが西田の場所論につながっていく」と述べた。
自己と他者の関係を第一に考える日本語のシステムから生まれた西田哲学は、西洋流の近代が、他者への無理解から民族紛争などを引き起こしているいま、大きな意味を持っているだろう。 (森 恭彦記者)
甲が乙に丙を紹介した。
甲が→
乙に→紹介した
丙を→
甲乙丙は対等である。
A introduced C to B.
→C
A→introduced
→to B
Aが述語を支配し、その述語を通して目的語を支配している。
オギュスタン・ベルク「空間の日本文化」
主語も目的語もない「好きです」と、“j t'aime.”
「好きです」−−「この愛の告白において、愛するという行為をつなぎとめるものは、なにも存在していない」。「好きです」という情念に突然襲われたのである。この感情は、主語にも目的語にも繋留されることなく、状況の全体に瀰漫し、全体を支配している。「述語」だけの構造。主体(主語)と客体(目的語)は事後的、第二次的に分節化されて出現するのである。
寒い。(場が寒い)
It is cold.(天気などが、寒い=私は一歩退いて私の判断の対象を見ている)/I feel cold.(私は寒い=私が寒さの経験に先行する)
印欧諸語の一人称代名詞ego,I,je,ichは文脈を超えた所で、それ自体として存在し続けている
日本語では話し手は好んで己の社会的役割によって自分自身を指し示す。生徒に向かって教師は我の代わりに「先生」と言い、若い娘は自分の名前で自分自身を指す
日本語の一人称代名詞は代名詞ではなく、名詞や形容詞の比喩的使用に過ぎず、社会内での位相関係の反映、あるいは時代とともに急速に変化する−−僕は「僕(しもべ)」を意味していたが100年ほど前から擬似代名詞として広まった。私は「個人的、内輪の」という以前の意味を保っていて、一人称を指し示すようになったのは15世紀以来のことでしかない。それに通常の会話中では社会的にコード化されている数多くのバリアントの形で用いられる。若い娘は「あたし」、高い地位にある成人は「わし」、庶民的界隈に住む男は「あっし」
フランス語ではどんな状況でも我はjeなのに対し、日本語では一連の社会的役割が我である。つまり第一人称、即ち実存的主体=主語はそれ自体では存在せず、具体的なここの場面にうち立てられるその場限りの関係の要素としてのみ存在するのである。日本語の場合「我」は、話し相手との関係によって(また、その場にいない第三者との関係によって)決定される
だから日本人はまったく見ず知らずの他人と話すことをはなはだしく嫌う
フランス語では主体があらゆる決定に先立つ
人称的、もしくは主体的、自己中心的言語とは別に、非人称的言語が存在する。その中に場所中心的言語を入れることができる。中国語と日本語はその実例である。
場所中心主義−−主体は言葉が述べられる場所に適応する
日本では適応こそが不可避、かつ当然とみなされているのに対し、自己主張にもっぱらアクセントの置かれる西欧社会−−フランス語には日和見的態度を弾劾する表現がいくつもある(retourner sa veste)。日本語は「右にならえ」「長いものには巻かれろ」
土井健郎の『「甘え」の構造』−−主体と客体、自分と他人の未分化状態。「頼む」という表現と、それに対応する行動の頻発。「すまない/すいません」という言葉も同様。事態が未だ終わっていない、ということから「申し訳ない」にも「お願いします」にも「ありがとう」にもなる−−日本語独特の語彙「甘え」。日本語の達者なイギリス人女性が英語で話していたのに、子どもの幼年時代のことに話が及んだとき、日本語で「この子はあまり甘えませんでした」と述べた。なぜかと問うと、それは英語では言えないと答えた。だが韓国語にはもっと細分化された「オリグアン」「ウンソク」という言葉がある
木村敏−−主体と客体の間を分析。この関係の中でしか自分自身になれない。その乱れから来る精神病的症状がある。悪臭妄想は日本人に極めて多い。患者が自己を判断する能力を失い、完全に他人による評価に身を委ねる。自我の独立性の完全喪失
他人に適応する傾向の強い日本的主体のプラス面−−直観能力。他人が何をするか見抜くゲームで日本の子どもは、例えばアメリカの子どもより優れている
中村雄二郎「述語的世界と制度」
述語的世界 特殊(主語)が一般(述語)のうちに包摂される
述語性の持つ顕著な特徴は、述語的同一性を命題化し三段論法化してとらえることによって明らかになる。《りんごは丸い。乳房は丸い。ゆえにりんごは乳房である》。大前提の述語「丸い」と小前提の述語「丸い」の同一性にもとづいて結論が引き出されたように見えるが、これは欲求や願望によるりんごと乳房の結合であり、融合である。このような思考は分裂病患者のうちに見出される。ちがったものでも、なにか共通性、あるいは連想されるものを持っていれば、同一視される。精神の象徴作用や芸術創造のメカニズムのうちにも見られる。シュルレアリストのデペイズマン(イメージのあるべからざる出会い)。科学上の発見の手がかりにもなりうる。隠喩的表現
|