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原作は藤田宜永の同名小説(元は「キッドナップ」だったが、映画に合わせ改題=写真)。小説の原題が示す通り、これは元々ネタバレなのだが、これは主人公の男女が幼児誘拐によって知り合ってから18年後の物語で、再会した男女の限りなく母子相姦に近い関係を描く。ファンタジーのオブラートに包む、その手際がなかなかいい。
東京の、かなり裕福に見える家庭で暮らす高校3年生の真人(柄本佑)がある日突然、母親を床に突き転がし、母親が一番大事にしていた熱帯魚の水槽を金属バットでたたき割って、バイクにまたがり家出する。列島を南へ走り、フェリーに乗って着いた先は沖縄だ。
と、ここまでの出来事がいちいち性的な隠喩に、いや、時に直接的な行為で満ちていて、真人は床に倒した母親の乳房をわしづかみにする。金属バットとバイクは勃起した男根を、露骨なまでに示している。割られた水槽は母親の性的な表現だろう。
さて沖縄に降り立った真人は、生後3日の自分を産院から誘拐し、逮捕されるまで45日間、育児をしていた愛子(松雪泰子)が営む海辺の食堂を訪れ、正体を隠したまま住み込みのアルバイトとして一緒に生活を始める。
若松節朗監督は東京と沖縄の、光の固さと柔らかさ、時間の流れの早さと緩やかさ、コンクリートの乾燥と海辺の湿り気といった対比をくどいまでに重ね、母子関係をリアルからファンタジーへと転換してみせる。東京がリアルならば、どうしても沖縄はファンタジーと受け止めざるをえないよう、観客を誘導するのだ。
したがって柄本と松雪がうらぶれた食堂の奥の畳の部屋で添い寝し、さらには抱き合うことがあっても、それは男女の関係にならない。男が女を「心の母」に擬している、という観客は了解済みの背景があるのだが、やはりそれはファンタジーだからだ。
これがファンタジーである以上、真人の正体がばれた時、物語は終わりを告げ、真人は元いた場所、東京に帰らざるをえない。帰ってみたら本当の母親が死んでいた、というオチは「浅茅が宿」など日本や、その元となった中国のファンタジーの締めくくり方を連想させる。
さらに数年後、真人は思い立って沖縄に愛子を訪ねるのだが、お決まりの通り、食堂は廃屋となっている。沖縄の青い海にあおむけに浮かぶ愛子のショットが入るが、これは真人の幻想だろう。愛子の服は数年前、真人と別れた時と同じものだから。海は記憶のゆりかごであり、直截な比喩としては子宮ということになる。
−−東京は公開終了。大阪など巡回中
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