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			<title>三条通日記</title>
			<description>新聞記者による極私的日記、映画評、アルバイトの日本語講座レジュメなど</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>三条通日記</title>
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			<description>新聞記者による極私的日記、映画評、アルバイトの日本語講座レジュメなど</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme</link>
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		<item>
			<title>ボートリヤール死去</title>
			<description>　ジャン・ボードリヤール氏がパリの自宅で亡くなった。「湾岸戦争は起こらなかった」という文章はある種のスキャンダルになったが、パリで、「その戦争をこれで見ていた」というテレビを置いた自宅リビングルームでインタビューした際の、優しく親切な話しぶりを昨日のことのように思い出す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ボードリヤールといえば「商品の記号化」とか、「シミュラークル」といった言葉づかいがすぐ浮かぶが、インタビューしてみて思ったのは、彼も構造主義以降の時代に忠実に生きた反＝歴史主義者ではないのか、ということだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「われわれの現実は生きている今の時間であり、歴史的時間は別次元に存在する。われわれから切り離された歴史的時間を認識する作業には困難が伴う。だから否定論者に道徳的非難を浴びせるだけでは、溝を埋めることはできない」とボードリヤール氏は言った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　またこうも言っている。湾岸戦争のように遠隔地で起きている戦争や、見知らぬ研究室の中で行われているクローン実験なども、同時代の出来事でありながら、われわれから切り離され、実体をつかむことができないバーチャル・リアリティーになってしまった、と。だからそこには道徳的な、あるいは情緒的な言葉が届かない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　こうした異次元世界の「バーチャルなもの」によって、逆にわれわれの現実が動かされているのだ。これは歴史によってはかることのできない“異常事態”だ。人が人に働きかける昔ながらのやり方は廃れ、今やインターネット上の人格や、コンピューターが発する指令が世界を動かそうとしているのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　こうした世界に多くの者は違和感を感じるだろう。そしてその違和感の絶対的表現者として21世紀のテロリストは現れたのではないだろうか。テロリズムとは、歴史を自分たちの側に引き戻そうとする者たちの半ば絶望的な表現－－自爆テロによるなら、行為そのものは残るが、肉体は消え去るしかないのだから－－といえるだろう。最近のボードリヤール氏は、そんなことを考えていたように思うのだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme/29535087.html</link>
			<pubDate>Wed, 07 Mar 2007 08:46:03 +0900</pubDate>
			<category>その他文学</category>
		</item>
		<item>
			<title>映画「バベル」</title>
			<description>　天に届かんばかりのバベルの塔を建てようとした人々が神の怒りに触れ、バラバラの異なる言葉を与えられて世界に散っていった－－。この映画はその末裔たちの物語で、モロッコとアメリカ、メキシコ、日本という四つの場所で展開する。モロッコ編にはアラブ系もベルベル人も登場し、フランス語も使われる。アメリカとメキシコでは英語、スペイン語。四つ以上の言語が飛び交う“混乱”ぶりだ。しかし旧約聖書の物語とは逆に、ここで意思疎通を欠くのは同じ言語を話す人間同士なのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　モロッコ旅行のアメリカ人夫婦（ブラッド・ピットとケイト・ブランシェット）を乗せて砂漠を走るバスが突然、銃撃を受け、窓際に座っていた妻が被弾。出血多量だが周辺に医者がいない。この少し後、夫婦の留守宅で二人の幼い息子と娘の面倒をみているメキシコ人ベビーシッター（アドリアナ・バラーザ）は、息子の結婚式に出席しようとしている。代わりのベビーシッターがみつからないまま、やむえず二人を連れて、甥（ガエル・ガルシア・ベルナル）の運転する車でメキシコへ向かう。場面が東京に切り替わり、東京に住む聾者の女子高生（菊地凛子）はマンションに二人の刑事の訪問を受けていた。モロッコで銃撃に使われたライフルは、父（役所広司）が現地ガイドに譲り渡したものだという。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　時間が少しずつずれながら、話がリンクしていく。人ともの、言葉、情報は世界を行き来するが、気持ちが行き違うのはアメリカ人夫婦の間のことであり、メキシコ人ベビーシッターと周囲のアメリカ社会であり、日本人の父娘である。同じ言葉こそが障害のもとのようにみえるのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　モロッコは大半が砂漠であり、アメリカとメキシコの間も砂漠だ。しかし、砂漠＝荒野に散った人々が必ずしも不幸だというわけではない、と映画は見ている。作中、唯一の都会である東京の、それも超高層マンションの最上階に父娘は暮らしているのだが、その、いわば現代のバベルの塔でこそ、人は言葉を同じくしながら意思が通じないという、まるで神の呪いをかけられたかのような存在として描かれる。なんとも皮肉なまなざしの映画だ。監督はアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　－－４月28日、公開</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme/29510691.html</link>
			<pubDate>Tue, 06 Mar 2007 19:55:57 +0900</pubDate>
			<category>その他芸術、アート</category>
		</item>
		<item>
			<title>映画「子宮の記憶 ここにあなたがいる」</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-8c-ce/anonyme/folder/970491/36/29372036/img_0?1172925049&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　原作は藤田宜永の同名小説（元は「キッドナップ」だったが、映画に合わせ改題＝写真）。小説の原題が示す通り、これは元々ネタバレなのだが、これは主人公の男女が幼児誘拐によって知り合ってから18年後の物語で、再会した男女の限りなく母子相姦に近い関係を描く。ファンタジーのオブラートに包む、その手際がなかなかいい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　東京の、かなり裕福に見える家庭で暮らす高校３年生の真人（柄本佑）がある日突然、母親を床に突き転がし、母親が一番大事にしていた熱帯魚の水槽を金属バットでたたき割って、バイクにまたがり家出する。列島を南へ走り、フェリーに乗って着いた先は沖縄だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　と、ここまでの出来事がいちいち性的な隠喩に、いや、時に直接的な行為で満ちていて、真人は床に倒した母親の乳房をわしづかみにする。金属バットとバイクは勃起した男根を、露骨なまでに示している。割られた水槽は母親の性的な表現だろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて沖縄に降り立った真人は、生後３日の自分を産院から誘拐し、逮捕されるまで45日間、育児をしていた愛子（松雪泰子）が営む海辺の食堂を訪れ、正体を隠したまま住み込みのアルバイトとして一緒に生活を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　若松節朗監督は東京と沖縄の、光の固さと柔らかさ、時間の流れの早さと緩やかさ、コンクリートの乾燥と海辺の湿り気といった対比をくどいまでに重ね、母子関係をリアルからファンタジーへと転換してみせる。東京がリアルならば、どうしても沖縄はファンタジーと受け止めざるをえないよう、観客を誘導するのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　したがって柄本と松雪がうらぶれた食堂の奥の畳の部屋で添い寝し、さらには抱き合うことがあっても、それは男女の関係にならない。男が女を「心の母」に擬している、という観客は了解済みの背景があるのだが、やはりそれはファンタジーだからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これがファンタジーである以上、真人の正体がばれた時、物語は終わりを告げ、真人は元いた場所、東京に帰らざるをえない。帰ってみたら本当の母親が死んでいた、というオチは「浅茅が宿」など日本や、その元となった中国のファンタジーの締めくくり方を連想させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さらに数年後、真人は思い立って沖縄に愛子を訪ねるのだが、お決まりの通り、食堂は廃屋となっている。沖縄の青い海にあおむけに浮かぶ愛子のショットが入るが、これは真人の幻想だろう。愛子の服は数年前、真人と別れた時と同じものだから。海は記憶のゆりかごであり、直截な比喩としては子宮ということになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　－－東京は公開終了。大阪など巡回中</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme/29372036.html</link>
			<pubDate>Sat, 03 Mar 2007 21:30:49 +0900</pubDate>
			<category>その他芸術、アート</category>
		</item>
		<item>
			<title>日本語講座９回目</title>
			<description>（２）評論、論説&lt;br /&gt;
　配布資料　読売新聞「解説のページ　ゲイツ氏の精神」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　起承転結の転とは－－ずらすこと&lt;br /&gt;
　ずれ、差異－－構造主義的考え方（世界について、文章について）、他との違いを出すのが評論&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　プラトン、キリスト教世界観では絶対の真実、神の言葉のコピーとしての文章&lt;br /&gt;
　　　　　　　　19世紀ロマン主義では「私」の真実の表現、内面の吐露としての文章</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme/27232986.html</link>
			<pubDate>Fri, 19 Jan 2007 00:49:02 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		<item>
			<title>日本語講座８回目</title>
			<description>２　新聞記事を読む／書く&lt;br /&gt;
（１）ストレートニュース&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ストレートニュース「ヨン様主演～」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　配布資料　「藤山寛美名作ＤＶＤ」&lt;br /&gt;
　　　　　　「ベトナム首相あす訪米」&lt;br /&gt;
　　　　　　「ネット情報有害性判断　第三者機関」&lt;br /&gt;
　　　　　　「バス乗客車庫に一夜放置」&lt;br /&gt;
　　　　　　「対北朝鮮外交ゲーム理論で」（森恭彦）－－ゲーム理論とは&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　配布資料　「ペ・ヨンジュン公式サイト」&lt;br /&gt;
　口語、饒舌、テレビ的はダメ。主観的、宣伝部っぽいのもダメ。客観的に、無愛想なくらいでいい。短文で、でも箇条書きにならないようにしてつなぐ&lt;br /&gt;
　「～の」の連続はせいぜい３回まで&lt;br /&gt;
　言わずもがな　（こらえ切れない）男女の心の揺れ、（美しく切ない）ラブストーリー、（ついに）完成&lt;br /&gt;
　基本情報　韓国の俳優、だれが演出したか&lt;br /&gt;
　できればメイキングの説明&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今秋公開される韓国の人気俳優、ペ・ヨンジュン主演映画「四月の雪」のメーキングＤＶＤが９月７日、発売される。&lt;br /&gt;
　「ドキュメンタリー四月の雪～ペ・ヨンジュンに魅せられて」（ユニバーサル・ピクチゃーズ・ジャパン）で、撮影の舞台裏や、素顔に戻ったペ・ヨンジュンをとらえている。&lt;br /&gt;
　映画「四月の雪」は恋愛映画の名手、ホ・ジノ監督作品。ダブル不倫の男女のラブストーリーだ。映画公開に先立ちＤＶＤが発売される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ストレートニュース「文化庁は～」&lt;br /&gt;
　配布資料　「文化庁ＨＰ　わたしの旅～日本の歴史と文化をたずねて～募集」&lt;br /&gt;
　６月24日　平成～はいらない。25日の記事には日付も不要&lt;br /&gt;
　「記載必須事項」は必須&lt;br /&gt;
　応募先、問合せ先&lt;br /&gt;
　プランを集めてどうするか&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　丁寧語、謙譲語は使わない　記事は中立、第三者&lt;br /&gt;
　「あなた」は文化庁から見た国民&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　文化庁は「わたしの旅～日本の歴史と文化をたずねて」と題する旅のプランを募っている。各地の歴史や文化を再発見してもらい、訪日外国人にも日本を知ってもらうため企画した。&lt;br /&gt;
　［更圓離董璽洵⇔更圓垢訖諭奮姐饋佑任發まわない）時期（季節）及びその時期を選んだ理由て堯米△蠅ら２週間まで。複数回でもかまわない）イ海離廛薀鵑量ノ呂籠耽А⇔垢砲泙弔錣觧廚そ个篳語などΓ影瓦箸領皇碧問先ごとに特色と選定理由）、交通手段П膽圓了疚勝⊇蚕蝓電話番号など連絡先－－を書いて〒１００－８９５９文化庁朝刊官房政策課内「わたしの旅～日本の歴史と文化をたずねて」募集担当へ郵送する。&lt;br /&gt;
　河合隼雄長官らが10月ごろまでに100のプランを選定し公表。うち10程度のプランに特別賞を贈る。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme/27016274.html</link>
			<pubDate>Sun, 14 Jan 2007 23:18:32 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		<item>
			<title>日本語講座７回目</title>
			<description>膠着語&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「言語は、孤立語→膠着語→屈折語の順に発達する。そして屈折語によってのみ、精神の真の表象が行われる」？　（19世紀欧米の言語学者）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　孤立語&lt;br /&gt;
　孤立語に分類される言語は、単語に接頭辞や接尾辞のような形態素を付着（膠着）させたり、語頭や語尾などの形を変化（屈折）させたりすることがない。文法的関係は語順などによって示される特徴をもつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　中国語、チベット語、ビルマ語などは孤立語に分類される。ベトナム語、ラオス語、クメール語、英語、サモア語、タイ語などもこの種に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　膠着語&lt;br /&gt;
　膠着語に分類される言語は、ある単語に接頭辞や接尾辞のような形態素を付着させることで、その単語の文の中での文法関係を示す特徴を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　膠着語に分類される言語は、日本語、朝鮮語、満州語、モンゴル語、トルコ語、フィンランド語、ハンガリー語などで、スワヒリ語やドイツ語、エスペラントなども膠着語的性質を持つとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　屈折語&lt;br /&gt;
　屈折語とは、文法的機能を表す形態素を語の中に伴い、各形態素を構成する要素が分割することのできない言語のことをいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　屈折語に分類される主な言語は、ラテン語・ギリシア語・アラビア語などであるが、ヨーロッパ言語の多くが主にこれに分類される。ただし、英語などのように、多くの言語が膠着語・孤立語などの特徴を併せ持っていると、現在では考えられている。また現代のヨーロッパ言語では、では、屈折的特徴が失われてきている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　j&amp;#39;aime　　　現在　　　　現在形　I love　　　我愛イ尓&lt;br /&gt;
　j&amp;#39;aimais　　半過去&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　過去形　I loved 　　昨日......&lt;br /&gt;
　j&amp;#39;aimai 　　単純過去&lt;br /&gt;
　j&amp;#39;aimerai 　単純未来&lt;br /&gt;
　j&amp;#39;aimerais　条件法現在&lt;br /&gt;
　j&amp;#39;aime　　　接続法現在&lt;br /&gt;
　j&amp;#39;aimasse 　接続法半過去&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　孤立語→膠着語&lt;br /&gt;
　屈折語→膠着語のように発達し、変化しながら分析性を獲得していく&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その語がなんだろうと、主格の場合は「は」、目的格の場合は「を」、所有格の場合は「の」を添えて関係をはっきりさせるわけで、じつに規則的である。英語でたとえばhisという。日本語では「彼｣に所有格の「の」をつける。hisはこれ以上、分析できないが、日本語では「彼」「の」とさらに二つの部分に分析できるわけで、これはずいぶん論理的なことなのである。（井上ひさし「自家製　文章読本」）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　中国語でも、「－－的」（所有格）や「－－把」（目的格）などの言い方、つまり膠着語風な助辞を発達させてきている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　多くの屈折語では時代が下だるとともに屈折的特徴が失われる。屈折の消失が進んでいる例として現代英語が挙げられる。英語ではインドヨーロッパ語の特徴である動詞の屈折語尾はほとんど失われ、直説法能動態現在単数三人称に‐sがつくのみである。また名詞では格の区別が語の上から失われ、代名詞の主語および目的語の形と所有を表す &amp;#39;s を伴う形の二つに収斂している。このような語形変化の消失には大きく二つの原因が挙げられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ひとつは他言語との接触による簡略化である。他言語話者との接触が進み、他言語話者が多くその言語を使うようになると、一般に複雑な変化が失われる傾向にある。英語の場合はヴァイキングの侵略による北欧語との接触とノルマン・コンクェストによるノルマン・フランス語との接触が消失を促進したといえる。別の原因は音韻の変化による語形の消失である。母音の融合や子音の脱落などにより、もとあった差異が失われ語形が減少する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　このような屈折性の減少を補うため、多くの言語では語順を固定したり補助動詞を使うことにより文法的機能を表す分析的要素が持ち込まれている。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme/26442266.html</link>
			<pubDate>Thu, 04 Jan 2007 09:06:37 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		<item>
			<title>日本語講座６回目</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-8c-ce/anonyme/folder/970502/48/26419648/img_2?1167823834&quot; width=&quot;240&quot;&gt;&lt;br /&gt;
（３）日本語は特殊な言語か&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　フランス文学者で、ディドロやヴォルテールが専門の中川久定氏は、言語の問題を通して西田哲学にアプローチする。「デカルトがラテン語とフランス語で、カントがドイツ語で、西田が日本語で書いたということをみんな軽く見ている。彼らは同じことを論じているように思われてきたが、どの言語を使うかは、哲学にとって決定的な違いにつながるのです」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「ＡはＢである」と判断する場合、デカルトなら「私はＡはＢであると考える」と書くが、西田は「ＡはＢでなければならない」とする。最晩年の論文「場所的論理と宗教的世界観」では、数行の中に何度もこうしたいい方を使う。それはラテン語やフランス語に翻訳できないいい方だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ヨーロッパの近代哲学は、デカルトによって「私」が考える（ラテン語でコギト）というところからスタートした。「これはラテン語やフランス語がシステム的に主語を第一とするため、生まれた哲学です」と、中川氏は説明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「西田はこれと正反対です。『私』という主語が出発点なのではない。それより先に述語の位置にある『ＡはＢである』という判断の方が、自分に迫ってくるという感覚があった。そして、『私』は後からそれに同意するものだと。述語を優先する日本語のシステムで、そうなったのです」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この判断は、自己を超えた場所でされる。このため、判断の主体は「私」ではなく、場所であり、西田はこれを「なければならない」と表現した。中川氏は「日本語は主語を第一としない非人称的言語であり、自己を超えた場所を中心にする言語なのです。それが西田の場所論につながっていく」と述べた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　自己と他者の関係を第一に考える日本語のシステムから生まれた西田哲学は、西洋流の近代が、他者への無理解から民族紛争などを引き起こしているいま、大きな意味を持っているだろう。　（森　恭彦記者）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　甲が乙に丙を紹介した。&lt;br /&gt;
　　甲が→&lt;br /&gt;
　　乙に→紹介した&lt;br /&gt;
　　丙を→&lt;br /&gt;
　甲乙丙は対等である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　A introduced C to B.&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　→C&lt;br /&gt;
　　A→introduced&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　→to B&lt;br /&gt;
　Aが述語を支配し、その述語を通して目的語を支配している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　オギュスタン・ベルク「空間の日本文化」&lt;br /&gt;
　主語も目的語もない「好きです」と、“j t&amp;#39;aime.”&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「好きです」－－「この愛の告白において、愛するという行為をつなぎとめるものは、なにも存在していない」。「好きです」という情念に突然襲われたのである。この感情は、主語にも目的語にも繋留されることなく、状況の全体に瀰漫し、全体を支配している。「述語」だけの構造。主体（主語）と客体（目的語）は事後的、第二次的に分節化されて出現するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　寒い。（場が寒い）&lt;br /&gt;
　It is cold.（天気などが、寒い＝私は一歩退いて私の判断の対象を見ている）/I feel cold.（私は寒い＝私が寒さの経験に先行する）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　印欧諸語の一人称代名詞ego,Ｉ,je,ichは文脈を超えた所で、それ自体として存在し続けている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　日本語では話し手は好んで己の社会的役割によって自分自身を指し示す。生徒に向かって教師は我の代わりに「先生」と言い、若い娘は自分の名前で自分自身を指す&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　日本語の一人称代名詞は代名詞ではなく、名詞や形容詞の比喩的使用に過ぎず、社会内での位相関係の反映、あるいは時代とともに急速に変化する－－僕は「僕（しもべ）」を意味していたが100年ほど前から擬似代名詞として広まった。私は「個人的、内輪の」という以前の意味を保っていて、一人称を指し示すようになったのは15世紀以来のことでしかない。それに通常の会話中では社会的にコード化されている数多くのバリアントの形で用いられる。若い娘は「あたし」、高い地位にある成人は「わし」、庶民的界隈に住む男は「あっし」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　フランス語ではどんな状況でも我はjeなのに対し、日本語では一連の社会的役割が我である。つまり第一人称、即ち実存的主体＝主語はそれ自体では存在せず、具体的なここの場面にうち立てられるその場限りの関係の要素としてのみ存在するのである。日本語の場合「我｣は、話し相手との関係によって（また、その場にいない第三者との関係によって）決定される&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　だから日本人はまったく見ず知らずの他人と話すことをはなはだしく嫌う&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　フランス語では主体があらゆる決定に先立つ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　人称的、もしくは主体的、自己中心的言語とは別に、非人称的言語が存在する。その中に場所中心的言語を入れることができる。中国語と日本語はその実例である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　場所中心主義－－主体は言葉が述べられる場所に適応する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　日本では適応こそが不可避、かつ当然とみなされているのに対し、自己主張にもっぱらアクセントの置かれる西欧社会－－フランス語には日和見的態度を弾劾する表現がいくつもある（retourner sa veste）。日本語は「右にならえ」「長いものには巻かれろ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　土井健郎の『｢甘え｣の構造』－－主体と客体、自分と他人の未分化状態。「頼む」という表現と、それに対応する行動の頻発。「すまない／すいません」という言葉も同様。事態が未だ終わっていない、ということから「申し訳ない」にも「お願いします」にも「ありがとう」にもなる－－日本語独特の語彙「甘え」。日本語の達者なイギリス人女性が英語で話していたのに、子どもの幼年時代のことに話が及んだとき、日本語で「この子はあまり甘えませんでした」と述べた。なぜかと問うと、それは英語では言えないと答えた。だが韓国語にはもっと細分化された「オリグアン」「ウンソク」という言葉がある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　木村敏－－主体と客体の間を分析。この関係の中でしか自分自身になれない。その乱れから来る精神病的症状がある。悪臭妄想は日本人に極めて多い。患者が自己を判断する能力を失い、完全に他人による評価に身を委ねる。自我の独立性の完全喪失&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　他人に適応する傾向の強い日本的主体のプラス面－－直観能力。他人が何をするか見抜くゲームで日本の子どもは、例えばアメリカの子どもより優れている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　中村雄二郎「述語的世界と制度」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　述語的世界　特殊（主語）が一般（述語）のうちに包摂される&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　述語性の持つ顕著な特徴は、述語的同一性を命題化し三段論法化してとらえることによって明らかになる。《りんごは丸い。乳房は丸い。ゆえにりんごは乳房である》。大前提の述語「丸い」と小前提の述語「丸い」の同一性にもとづいて結論が引き出されたように見えるが、これは欲求や願望によるりんごと乳房の結合であり、融合である。このような思考は分裂病患者のうちに見出される。ちがったものでも、なにか共通性、あるいは連想されるものを持っていれば、同一視される。精神の象徴作用や芸術創造のメカニズムのうちにも見られる。シュルレアリストのデペイズマン（イメージのあるべからざる出会い）。科学上の発見の手がかりにもなりうる。隠喩的表現&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme/26419648.html</link>
			<pubDate>Wed, 03 Jan 2007 20:30:34 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		<item>
			<title>ジェームス・ブラウン</title>
			<description>　ジェームス・ブラウンが死んだ。明日の朝刊に死亡記事が出て、その後もいくつかの追悼文を読むことができるだろうが、それはその方の専門家に任せるとして、私のささやかな思い出を書いておきたい。４年前、取材で米・シアトルのロック・ミュージアム「Experience Music Project」（&lt;a HREF=&quot;http://www.emplive.org/&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.emplive.org/&lt;/a&gt;）を訪れた。目的は、ビルバオ・グッゲンハイム美術館でも有名なフランク・ゲーリー設計の建物を見ることにあったのだが、それはさておき、館内でバーチャル案内人をしていたのがジェームス・ブラウンだったのだ。展示の主役は地元出身のジミ・ヘンドリックスだったのだが、そこはやはり「帝王」が案内するのが適当ということか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今、翻訳で「ブラック・アトランティック」というポール・ギルロイの本を読んでいるが、ここに「ブラック・ミュージックと真正性の政治学」という章がある。ジミ・ヘンもその真正性を問われ、大いに揺れ、苦悩したという記述があるのだが、「帝王」ジェームス・ブラウンがどうだったのかは分からない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　続きは後ほど</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme/25956682.html</link>
			<pubDate>Mon, 25 Dec 2006 20:55:40 +0900</pubDate>
			<category>その他文学</category>
		</item>
		<item>
			<title>ＹＥＢＩ大王</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-8c-ce/anonyme/folder/970491/38/22008338/img_0?1161241064&quot; width=&quot;304&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　劇団「新宿梁山泊」（&lt;a HREF=&quot;http://www5a.biglobe.ne.jp/~s-ryo/index.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www5a.biglobe.ne.jp/~s-ryo/index.html&lt;/a&gt;）が取り上げた「ＹＥＢＩ大王」は韓国の作家、洪元基(ホン・ウォンギ)の作品で、４年前にソウル芸術祭で戯曲賞と作品賞を受けたという。今回の公演は韓国に引き続き東京、大阪をまわってきた。うたい文句に「アジア版リア王ともいうべき叙事詩」とあるが、いい意味でも悪い意味でも、これは現代劇だと思った。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　古代アジアのある国で、王、エビは世継ぎの男子に恵まれず、娘ばかり７人も産まれたことに腹を立て、最後に産まれた７番目の王女を川に捨ててしまう。そこへ３人の死神が現れ、「おまえの寿命は尽きた」と告げるのだが、王は「息子が産まれるまで死ねない」と巧みな弁術で死神たちを丸め込む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　子作りに専念し、国政を娘たちに預けるのだが、権力争いの果てに国は分断、民は戦と疫病で死んでいく。一方、捨てられた王女は船頭に救われ、自らの素性を知らずに成長。運命のいたずらで父親であるエビ王と再会する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　娘たちに裏切られてさまようエビ王の姿は確かに「リア王」だ。そして分断国家、朝鮮の現実も映している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　一番気になったのがリズムだ。神話的な物語であるなら、神話のリズムで、と思うのだが、ここにあるのは国家分断の戦争、あるいは権力簒奪の革命物語にふさわしい、きわめて現代的な時間の流れなのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　これを是とするか非とするかで、この公演の評価は大きく変わってくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　－－９月30日、大阪・ウルトラマーケット</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme/22008338.html</link>
			<pubDate>Thu, 19 Oct 2006 15:57:44 +0900</pubDate>
			<category>その他芸術、アート</category>
		</item>
		<item>
			<title>河野美砂子さんのコンサート</title>
			<description>河野美砂子さんからコンサートのお知らせをいただいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『モーツァルトに会いたい』 ― ピアノ曲でたどるモーツァルトの生涯 ―&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
      ＊京都芸術センター共催事業　　　　ピアノ・河野美砂子　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
・2006年11月７日(火)夜７時開演（6時30分開場）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・京都芸術センター　四条烏丸 24番出口から西北へ徒歩５分&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　 （室町通錦上がる東側）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・モーツァルトのもっとも身近な楽器であったクラヴィア（鍵盤楽器）のため&lt;br /&gt;
の作品は、 5歳から、死の年35歳まで、数多く残されています。それらを&lt;br /&gt;
作曲年代順に、隠れた名曲もまじえて演奏します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・今回は、コンサートホールではなく、もと明倫小学校の歴史ある空間を使用、&lt;br /&gt;
約100年前の楽器・ペトロフの響きとともに、新しい音楽会の形をどうぞ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・詳細は、HP「紫野通信」に。→　&lt;a HREF=&quot;http://music.geocities.jp/misakn95/&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://music.geocities.jp/misakn95/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・ブログ「モーツァルト練習日記」（ほぼ毎日更新）　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　&lt;a HREF=&quot;http://d.hatena.ne.jp/nana69/&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://d.hatena.ne.jp/nana69/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・一般2000円　学生1000円（当日各500円増）　　200名限定　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
◆申込・問い合わせ&lt;br /&gt;
　コンサートモーツァルト　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　・電話 090-1208-0484（月～金　10時～5時）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　・メール conmoz69@ybb.ne.jp&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  　・ファクス 050-1359-4384   　  　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/anonyme/22007832.html</link>
			<pubDate>Thu, 19 Oct 2006 15:47:07 +0900</pubDate>
			<category>その他文学</category>
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