|
今日の報道紙面を見てみると麻生自民党総裁と小沢民主党代表との決戦の記事が興味本位に描かれ、あたかも政権交代の構図として国民を扇動しているのである。
しかしよく考えてみようじゃないか。本当に麻生VS小沢の対決方程式が国民が望む政権交代の本質なのか。 麻生はともかくとして、少なくとも小沢の実像について深く認識している国民は多くないと思う。 ★ 小沢は1969年の衆院選において亡父小沢佐重喜の後を継いで当時の岩手2区から立候補・当選。すぐに佐藤派田中系に所属。以後、田中角栄の秘蔵子として角栄によって英才教育を受け、1972年田中内閣成立から自民党政権の中枢に絶えず位置していく。 選挙に強い小沢のイメージは角栄によって教え込まれた成果に違いない。小沢は角栄よって一貫して党務・閥務畑を歩かされていくのであるが、このときの経験(選挙実務、業者・官僚との付き合い、野党との折衝など)が後の剛腕・小沢を型作っていったと云える。 小沢は目先の利く政治家でもある。中曽根内閣時代、田中の力量低下と子分(金丸・竹下たち)たちの確執と離反過程。実の子のように可愛がってくれた角栄を裏切り、竹下・金丸と行動をともにしていった。竹下派結成において最戦闘にたって多数派工作を行ったのが小沢であった。 その結果、竹下派において小沢は7奉行<小沢・橋本・小渕・羽田・奥田・渡部・梶山>の筆頭の地位を占めるにいたった。 竹下派軍団の結束力の強固さ・資金力・ポスト配分などの腕力は他派を圧倒的にしのいでいた。まさに自民党一派支配と云える凄味である。そしてたえずその軍団の筆頭が小沢であった。 小沢の出世の階段は早かった。 竹下内閣で官房副長官(巷では事実上の官房長官と云われていた)から、宇野内閣で経世会の事務総長を務めたあと、海部内閣の幹事長に抜擢されるが永田町では影の総理と呼ばれていたそうだ。というのも海部首相は経世会が擁立した傀儡首相でしかなく、海部首相には実権はなくすべて自民党本部から小沢幹事長が指示を出していたのである。 小沢の政治思想はこの時期に形成されていく。官房副長官時代アメリカに出向き、対米交渉を通じてアメリカの要人と交流しいく過程において「新自由主義」の虜になっていった。(つづく)
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用





man
2010/6/17(木) 午後 2:59 [ man ]