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「集団的自衛権」を正当化するために、不良にいじめられているアソー君に加勢するアベ君のような例しか挙げることのできない総理大臣にはあきれるばかりです。しかし、このような稚拙な説明であっても、それを聴いてアソー君が不良にいじめられている場面しか想像できないでいると、「ああそうかな」と丸め込まれてしまうことになります。これには、寺田ともかさんが7月15日、大阪駅前のスピーチで実に的確に反論しています(http://iwj.co.jp/wj/open/archives/253905)。彼女が反論できるのは、彼女が総理大臣よりも遥かに広い視野に立っているからです。 一般に視野が広がるほど、問題の解決法は1つでないことに気づくことができます。教養とはこの視野の広さのことに他なりません。一橋大学の学長であった阿部謹也さんは『大学論』(1999年)の中で、教養とは「社会の中で自分の位置を知ろうとする努力、あるいは知っている状態、あるいは知ろうとする努力の総体」であると述べています。すなわち、教養とは、単にもの知りなのではなく、さらに自分との関連において世界を理解しようとすることなのです。この意味において、寺田ともかさんのスピーチは、彼女のしっかりとした教養を示しています。 大阪大学の前学長であった鷲田清一さんもまた、「社会のいかなる困難な問題も自らの問題として受けとめる視野のなかに自らの専門を置く」ことの重要性を強調しています(2008年大阪大学大学院学位授与式辞)。ここに大学教育の根幹に教養教育が位置付けられ、その中でも平和教育が中核をなすべきである理由が存在します。大阪大学でも、全学の教員有志が協力して、2003年以来、平和講義「平和の探求」が続けられ、私たちは受講生たちの視野を広げることに腐心しています。たくさんの解決策の可能性に気づいたら、殴り合いに加勢するという選択肢は真っ先に消去されます。 教養とは政策についての判断能力であり、単なる雑学でも予備知識でもないので、それを自分の中に構築してゆくためには、時間がかかります。また、それは自らの専門性を確立してゆく過程で磨かれてゆくべきものですから、現在の大学の1,2年次の一般教養教育を受講したら完了ということには、決してなりません。しかし、残念なことに今なお大学は、専門教育中心で、学年進行とともに教養が失われ、その最たるものが専門学部の教員(専門家)たちとなっています。 理学部の専門教育の中で、安保関連法案について述べたりしたら、直ちに余計にことを言う不良教員がいるとクレームをつける学生が現れます。彼は優秀な専門家になりたいので、余計なことを聴きたくないのです。しかし、現在は、軍事と民事の技術的な境界がなくなり、純粋科学の研究成果であっても軍事技術として取り込まれてしまうことが、あらゆる分野で起こりうる時代になっています。7月29日に学内で行われた「安保法案の廃案を求める大阪大学人の会」の集会で、自衛隊が海外に派兵されたときには、彼らがその最新装備を使いこなせるようにするために、たくさんの民間の技術者が同行していると聴き、なるほどと思いました。理系学部の卒業生が、出張命令で出向したら、そこは戦場であったというのは、現実の話なのです。専門性の高い分野に関わっているものほど、教養と平和のための行動が必要なのです。 (長野八久 理学研究科・教員) https://www.youtube.com/watch?v=Gu7zNMKYXts
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