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従軍慰安婦問題

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最初から「結論有りき」の「談話作成過程の検証」の問題点


現在、「河野談話作成過程の検証」が安倍政権が選んだ識者によって進行中である。



従軍慰安婦:河野談話の検証チーム 初会合を先週開催

毎日新聞 2014年05月19日 
 政府が、従軍慰安婦への旧日本軍の関与を認めた河野洋平官房長官談話(1993年)の作成過程に関する検証チームの初会合を先週、開いたことが分かった。政府関係者が19日、明らかにした。
 政府は6月22日の今国会会期末までの検証結果の取りまとめを目指しており、国会報告後に結果は公表される見通し。ただ、菅義偉官房長官は「静かな環境で取り組んでもらう」として、検証チームのメンバーや会議の開催状況については明らかにしていない。【木下訓明】
 




新聞も読まないらしいバカウヨ達が、これを「河野談話の検証」と勘違いしているようだが、そうではなく「河野談話作成過程の検証」である。
そして、慰安婦問題の解決を目指す日本の各市民団体、NGO、韓国政府までもがこれに反対している。




当たり前の話しである。

安倍政権には、結論がすでに出ているからだ。

自民党の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が97年に発行した『歴史教科書への疑問』という本がある。この本の中では菅(現官房長官)や衛藤(現内閣総理大臣補佐官)も、歴史教科書から「慰安婦」記述を消すという目的の下、様々な意見を述べている。
この中で、安倍(現首相)はこういう。


「河野官房長長官は、当時つくられた日韓両国の雰囲気の中で、事実よりも外交上の問題を優先し、また証言者16人の聞き取り調査を何の裏付けも取っていないにも関わらず、軍の関与、官憲の関与があったと認め、発表したものである事も判明しました。」
 


この言い回しは西岡力氏や櫻井よしこ氏の論文、あるいは後に産経新聞が書いて来た事とまったく同じである。しかしこうした意見は河野談話を出した河野洋平氏の率直な返答を完全に無視している。

この「若手議員の会」に呼ばれた河野洋平氏は、こう述べたのである。

「アジア外交を進めなければならない時代背景であったから、事実なかったものをあったようにこちらが事実を譲ったという事があったかと言えば、そんな事はありません。」
 

つまり河野洋平氏は政治的な取引により、事実を無視して談話を出したという意見を完全に否定したのだ。

にも関わらず、なぜか安倍氏はそれは無視し、「事実よりも外交上の問題を優先した」と断定、非難している。

これが今から17年も前の話しなのだ。

こうした意見を持つ安倍政権が選ぶ「作成過程に関する検証チーム」が出す結論がいかなるものになるのか?
最初から分かり切っているのである。

「解釈改憲の有識者チーム」が安倍政権の主張に沿うような意見に到達するための人選であるように、この「河野談話作成過程検証チーム」の結論が安倍首相の主張に沿うものになる事は言うまでもない。
「河野談話成立過程検証チーム」の人選は発表されていない。

マスコミや女性と菅は述べたが、櫻井よしこが入っていたり、産経、文芸春秋などから人選されているのだろう。最初から同じ意見を持つ人々が集まるチームが出す結論など最初から分かり切っている。

つまり、彼らはこう言うであろう。

・・・「河野談話は、韓国政府とのすり合わせの結果であり、事実を無視した外交的判断の所産である」・・・・となるだろう。

それが分かり切っているので、我々はこれに反対しているのである。



このような見解は事実を無視している。河野談話は当時としては分かっていた事を、それなりの根拠を持って述べているからである。もちろん韓国とのやり取りはあったに違いないが、だからと言って「事実」を変えてまでなされている談話ではない。
(それは、本ブログの「補助談話案」においても言及している。)





* 「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」から安倍政権には19人の大臣の内9人が、重要ポストを占めている。




転載元転載元: 河野談話を守る会のブログ



今回の国連委員会で日本政府代表部の岡田隆大使が「慰安婦を性的奴隷と呼ぶのは不適切だ」「奴隷制度の定義について、条約上の検討をした上で、この制度は性奴隷制の問題ではない。その定義に当てはまるものとは理解していない。性奴隷制度は不適切な表現である」と反論した・・・・という事を知って以来、怒りがおさまらない。

まだそんな事を言っているのか?

例えば、上海で軍医をしていた麻生徹男によるこうした証言がある。

イメージ 1

一人の慰安婦が脱走したが、軍につかまった。連れ戻すために麻生徹男医師に「引き取り」の命令が降ったという話である。

舞台となる揚家宅慰安所は、軍の直営の慰安所であった。

つまり、慰安婦は嫌がり、逃げようとしたが、軍は逃がさなかったという事である。
まるで牢獄であり、このように隷属・強制させられた女性達はまさに「性奴隷」に他ならない。
 
イメージ 2
麻生徹男『上海より上海へ』より


1926年の奴隷条約の第1条では「奴隷制度」の定義をこう定めている。

「奴隷制度とは、その者に対して所有権を伴う一部、または全部の機能が拘束されて行う個人の捕捉、取得または処分に関係するあらゆる行為、・・・並びに、一般に奴隷を取引しまたは輸送するすべての行為を含む。」

この定義にしたがえば、逃げた女性を軍が拘束し、再び慰安所に連れて行ったことはまさに、この慰安所制度が「強制売春」であり、一種の「奴隷制度」であった事を明確に示している。


そして国際刑事裁判所データベースでは「人を性的奴隷状態におくことは、奴隷化することの一形態であり、本人の自己決定権、移動の自由および本人の性的活動に関する事柄に対する決定権の制限を特徴とする。」と書かれている。

つまり、「性奴隷」とは、上記の「奴隷制度」の定義を踏まえ、簡単に言えば「自由な判断を奪い、人身を拘束しながら性行為を行わせる事」であると言えるだろう。

この定義から考えると日本軍慰安婦どころか日本の伝統であった遊郭制度そのものが、すでに「性奴隷制度」であったといえるのである。

それにしてもこんなに「奴隷制度」に対して無自覚な国では、放置しておけば、再び「奴隷制度」もどきの人権侵害がなされるに違いない!

そこで、日本の奴隷制度について簡単な論文を書いてみた。





       <日本の奴隷の歴史>

   1、我が国の人身売買と奴隷制度の歴史

我が国日本は、古来より奴隷制度を持つ国だった。古代大和朝廷における「夜都古やつこ)」の時代から、律令制における「公奴婢くぬひ)」や「私奴婢しぬひ)」は、小中学校でさえ学ぶのだから知らない人はいないだろう。この時代の農業奴隷は、後の「小作人、水呑百姓」制度へとひきつがれている。

やがて平安時代→鎌倉時代に荘園制度が崩壊する過程で放浪者が続出し、「賎民」が増加し、全人口の4分の1を数えたともいう。貨幣経済が発達する過程で、人身売買も頻繁となる。戦国期には戦乱が続く中で、人身売買が横行し、人買い商人が暗躍する。

『日本奴隷史』(阿部 弘臧)には

「天文・永禄の頃には駿河の富士の麓に富士市と称するいわいる奴隷市場ありて、妙齢の子女を購いきたりてこれを売買し、四方に輸出して遊女とする習俗ありき」

と書かれている。

つまり16世紀には、奴隷市場があったという事である。
やがて好色な秀吉、家康により、遊郭が保護され繁栄する中で日本中に、人買いを生業とする女衒の網が張られるようになる。

江戸時代移住の自由もなく土地にしばりつけられ、領主に隷属させられ、「斬り捨て御免」によって生存権さえ握られていた農民たち。さらにその下層の小作人、水呑百姓たちは、彼ら自身が「奴隷」も同然であった。そうした下層の農民たちは極限まで絞りとられたので、蓄えをする事ができず、いざ飢饉が来ると親を捨て、娘、息子を売るようになる。

最近まで我が国には、2割を超える違法な借金利子が存在していた。わずかな借用金が膨大に膨れ上がるシステムである。それはお江戸以来の「貸した側が金利を決める」という習慣であったからだ。江戸時代、生活に困った百姓が地主から借りる借金には高率の利子がつき、「6か月ころがし」と言って証文は半年ごとに書き変えていたという。

こうした中で娘を売らなければならなくなった農民が続出したので、この娘を買い取る女衒の網が張り巡らされていた。関東と東北はお江戸在住の5人の親分が支配していたという(『毎日新聞』明治33年連載の「社会外社会」より)。売り場はいくらでもあった。日本には至るところに遊郭が存在していたからだ。このシステムが明治以降も存在していた事が西口克己の『廓』に書いてある。農村に飢饉が訪れると彼らは、玉探しに農村に乗り込み、娘をニ足三文に買いたたいたのである。

明治維新後の富国化政策の中で農民としてあぶれた人々は工場労働者として都会に貧民窟を形成して生活するようになったが、そこでも人身売買は横行していた。
キリスト教の賀川豊彦は、神戸の貧民窟の娘売買の様子をこう書いている。

「これら貧民窟の娘らを資本として食うている悪周旋業者と親方は娘を世話するという名目の下にほとんど数限りない、堕落した手段を弄しているのである。娘を連れて行くのも、旅費と支度金にほとんど身売りの半分以上もかかるような計算書を送ってくるのである。」

こうした女衒のやり方は、宮尾登美子の小説『寒椿』にも書かれている。

日本の遊郭はそれ自体が、人身売買を伴い、人の自由を奪いとった「奴隷制度」の一種に他ならない。廊清会が内相あての陳述書に書いたようにまさに「前借金の名の下に人身売買、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題」に他ならないのである。

ここで我々は、元日本軍慰安婦である宋神道さんの事例で似たやり方を発見できるだろう。宋さんは、前借金なく連れて行かれたが、朝鮮から武昌までの汽車賃や着ものの代金を借金として負わされ、それを返すのに数年かかっている。こうしたやり口は金儲け主義であった江戸時代以来の女衒のやり方であったと言えるであろう。



            2、人身売買を禁じる法律

明治政府には、江戸時代を通して培われた慣習をそのまま続けようとする力と新たに開国によって取得した価値観に従おうとする力がせめぎあっていた。明治政府は、人身売買を犯罪とみなし厳罰をもって臨む姿勢を「新律綱領」に示していた。

新律綱領・賊盗律:略売人==「凡人を略売して娼妓としたる者は成否を論ぜず、皆流2等。妻妾・奴婢とする者は、徒2年半」
石井紫郎・水林彪『日本近代思想体系』7巻「法と秩序」より)

さらに1872年、マリア・ルーズ号事件でペルー側に「日本の娼妓も奴隷ではないか」と指摘されたのをきっかけに「娼妓・芸妓等年季奉公人一切解放」をするために「借金は全て帳消し」とする〈芸娼妓解放令〉が出された。
『法令全書』明治5年ノ1p200,201

しかし、解放の歴史もここまでと言えるだろう。

びかつての慣習に戻ろうとする反動の力が働き始める。

北海道開拓使により、翌1873年には「貸座敷制度」が実施され始め、やがて全国でこの「貸座敷制度」が踏襲されるようになる。所定の手続きをすれば「座敷を借りる」という形式を保って遊郭は存続し、〈芸娼妓解放令〉は有名無実のものとされてしまった。芸者、遊郭遊び好きの政府の要人たちが主導権を握る中、1880年7月17日に公布された刑法(旧刑法)では、人身売買に関する法的規制は大きく後退し、成人に対する人身売買を罰する条文が存在しなかった。石井紫郎・水林彪『日本近代思想体系』7巻「法と秩序」より

この刑法(旧刑法)では、他人を売るよりも我が子孫を売る方がはるかに罪が軽くなっている牧英正『近代日本の人身売買の系譜』P378〜P381)。牧英正によれば、「現今では、往古のような単純な人身売買という形式をとる事は稀であり、いわいる前借金というような形式をとり、これにより相手の身柄に甚だしい拘束を加えるような場合を一般に人身売買という」と書いている。牧英正『近代日本の人身売買の系譜』P5

1990年に山県有朋内閣が提出した「新刑法案」にも人身売買を明確に処罰する規定がなく(『第一回帝国議会衆議院議事速記録』51号P813)、それゆえに紡績工場などの女性労働者もまた、前借金の名の下で人身売買的習慣が続いていた(横山源之助『日本之下層社会』1899、この著作は『横山源之助全集』一巻に所集されている。P101〜103


1900年、無類の女好き、遊郭・芸者遊びが大好きだった伊藤博文が政権を握り(第4次)、「娼妓取締規則」が公布され、全国一律18歳以上の女性を娼妓とすることが合法化する。これで近代公娼制度の完成である。1901年、伊藤内閣は第15回帝国議会に刑法改正案を提出し、父母の承諾があれば未成年の拐取を許し、人身売買を許容している。この刑法では「人を拐取する罪」として「父母または其他の監督者の承諾なくして未成年を拐取したる者は5年以下の懲役に処す・・・」(第263条)と言う。つまり、親が子供を売る事が合法化されたのである。こうして女衒たちは、証書をきちんと造り、親権者の印鑑を押させる事にやっきになる。しかしこれは、証文が物を言った江戸時代とそれほど変わった訳ではないだろう。さらには実親から子供を買い取り、養子・養女にして親権を得てそれから、遊郭に売り飛ばすという行動がなされるようになる。

ここで押さえておきたいのは、この我が子の人身売買を合法化した刑法においても、第263条で「偽計または威力を用い父母またはその他の監督者の承諾を得て拐取したるもの同じ(5年以下の刑)」としており、また第267条では、「国外に移送する目的をもって人を売買すること」を禁止している事である。
『刑法改正案』(「明治三四年 公文雑纂」巻一、国立公文書館)
いわいる「国外移送罪」であり、後の慰安婦の徴集が「偽計または威力を用いる罪」や「国外移送罪」に違反している事は明らかである。

伊藤内閣が提出したこの新刑法は、数回の審議を経て「国外移送罪」のみを強調しながら、1908年10月1日より施行された。

牧英正によれば「芸娼妓のみならず、製糸・紡績工場の女性労働者、あるいは農漁村の労働者として、前借金の下に、「人身売買的慣行は枚挙のいとまがないほど続けられた」のである牧英正『近代日本の人身売買の系譜』P382藤野豊『戦後日本の人身売買』P21

こうして振り返って見れば分かるように、明治維新直後の「文明開化の音がした」時期に、「人身売買を伴う事実上の奴隷制度」を一時的に撤廃する意向を明治政府は見せていたが、結局は大きく後退し、人身売買を撤廃する事が無かったのである。こうした風土が後の慰安婦の土壌となったのであった。






   3、慰安婦は「籠の鳥」であった

http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63581579.html

実際に歩哨が立っていた慰安所もあり、ほとんどの慰安所では、慰安婦の外出は、決められた範囲内以外は禁止されていた。フィリピンのイロイロ市の慰安所では、慰安婦の散歩は朝の8時から10時までと決められており、それ以外の時間の外出は厳禁されていた。さらに逃亡防止のために散歩地域も狭い「公園内」と指定されていた。


江戸時代の公娼制度下の吉原遊郭では、出入り口は厳重に閉じられ、役人、やくざものや用心棒がその門を守っていた。万一逃亡すると厳罰が待っていた。罰したのは幕府であった。

やがて江戸時代が終ったが、明治以降の公娼制度の下で、業者は売春婦の外出を制限し、逃亡防止のために用心棒を雇っていた。こうして奴隷状態にしていたのである。

それと同じように軍慰安婦においても、大きな慰安所町では、憲兵たちが巡回に来て、逃亡を防いでいたのである。元慰安婦の洪愛珍さんは、逃亡したが、憲兵隊につかまってしまい連れ戻されたという。(
『中国に連行された朝鮮人慰安婦』P54より)

騙されて慰安婦にさせられた元慰安婦の宋神道さんも、何度も逃亡を試みているが、所持金はなく、中国語もわからず、逃亡を諦めた・・・と言うが、その小さな身体には、慰安を拒否したという理由で、軍人につけられた傷が無数に刻まれている。また、畳に軍刀を突きつけ
、思い通りにさせようとした軍人もいたことが多くの証言からもわかる。(『従軍慰安婦をめぐる30のうそと真実』P33より)

こうして、日本軍慰安婦の「奴隷制」はあきらかに認められるのである。
 
 


 
*【資料】「内地の遊郭では、この種の乱暴者や女の逃亡者を制裁する用心棒を雇っていたが、戦地では憲兵がその役割を果たした」と秦郁彦も書いている。(『慰安婦と戦場の性』P394




転載元転載元: 河野談話を守る会のブログ

 
 
 高畠喜次 『ブーゲンビル戦記』 1978
 
1942、1月
ニューブリテン島ラバウル
 
「頭は手ぬぐいで姉さんかぶり、戦地に似合わない派手な色彩に添えて、大掃除よろしく、5,6人の女たちが立ち働いているのでおかしいとは思ったが、特用倉庫員だと聞かされた。占領と同時にサイパンからやってきたという。」
 
*特用倉庫員=海軍では慰安婦をそう呼んだ。
 
「出入り口のところに海軍特用倉庫の看板があり、高札が掲げられている。
  海軍特用倉庫 
  1、下士官兵の使用時間は午前9時より、午後4時までとす
  1、一回の使用料、1金壱円弐拾銭
などと書いてあった」
 
「・・・見張り員が変な声を発した。貨物船に大勢の女群を発見したのである。これはトラック島に集結していた特用倉庫員の緊急輸送でラバウル占領以来、あの地には日本の女性はひとりもいないのであってラバウルへ女と油、作戦に重要な贈り物であった。」
 

アンボン島で
こんな小さな島にも4軒の慰安所を造り、泣き叫ぶ現地女性を入れたという話である。
どこにでも慰安所だけは欠かせない皇軍
 
 
禾晴道 『海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記』 1975
アンボン
1944、45
海軍特別警察隊(憲兵に相当)の禾(のぎ)晴道中尉の手記
 
禾中尉が自ら「慰安婦狩り」と題する項目には、海軍司令部が慰安婦を強制的に徴集することを容認した命令を出し、政務隊(民政警察)が住民の強い抵抗の中で女性たちを強引に連行した。

慰安婦狩り

アンボン島のような小さなケシ粒のような小さな島にも、中国大陸の戦線と同じように、男性の生理的欲求を処理するための「慰安所」が設置されていた。

日本国内にもあった「赤線地区」であり、昔は「女郎屋」と呼ばれていた売春宿であり、軍隊がつくっていた公認のものであった。

そこには日本女性も動員されていたし、もちろん現地人女性が多く集められて運営されていた。彼女たちは、軍人を慰める目的であることから「慰安婦」と呼ばれていた。国家権力による強姦強要である。

わたしがアンボンに着任した1944年3月ごろはまだ慰安所があったが、日本人女性はすでに後方に送られ、ほとんど現地人女性だった。

それは44年8月の大空襲まで続けられたが、この大空襲を境に日本人料理屋も後方に送られ、現地人女性もいっさい解散させられてしまった。

(中略)

そして再び現地人の女性を集めて、慰安所をつくろうという動きが海軍指令部からだされていた。

それまでも毎月一回司令部の庭で政務会議が開かれていた。政務会議というのは、島の防衛を中心とした警備隊の任務本来の会議とはちがって、島の民政に関する会議だった。この島の警備に民政関係の方針をどうするとか、民政関係からみて警備隊はこの点にとくに注意してもらいたいとか、本質的に対立する戦争目的の警備隊と民政部の矛盾をできるだけ解決していこうとする会議だった。

出席者は各警備隊の司令・副長、民政部は当時政務隊となって成良司政官が政務隊長として出席し、民政警察の木村司政官も顔をだしていた。セラム新聞社から青木さん、インドネシア語新聞は木元記者、宗教関係からはキリスト教牧師の花房氏か若い加藤牧師だった。特警隊からは、わたし、司令部からは、参謀長・先任参謀・副官であった。陸軍側からはアンボン地区の憲兵分隊長、陸軍少佐沼田氏も出席していた。

情報の交換とアンボン島の民政に関する諸問題が討議されていた。

その日の政務会議は少し変わっていた。議題はどうやって至急に元のような慰安所をつくるために慰安婦を多く集めるかということだった。そのために、慰安婦を集めることと治安上起きるかもしれない民衆の反感について討議されることになった。

四南遣艦隊司令部の先任参謀が中心で開かれ運営されていたが、実際は副官の大島主計大尉が一人でガアガアしゃべって会議は進行していた。

(中略)

つぎは、いったいだれがそれをやるかということになった。

出席者がわたしの顔を見た。恐れられている特警隊の力をもってやれば簡単だし、当然そうだろうという空気があった。

特警隊なら通訳もいるし、おどしもきくからどうか」。副官がそう発言したので、わたしは立ちあがった。

「もちろん、副官のいわれるようにわたしの隊で集めれば、早くやれるでしょう。それは慰安所の設置ということが、もっとも大切なことだということでしたらうなずけますが、特警隊は島の治安関係の任務が、もっとも大切な第一任務です。女性集めを表面にたってやれば、住民の反感は直接目に見えない発案者にではなく、直接住民に接する行為者にむけられるでしょう。それが人情ではないでしょうか。そうなれば治安維持を任務としている特警隊の信頼はまったくなくなると思います。特警隊は協力することはできます。女性のリストをつくり現地人の警察官とか、住民の中のボスを利用して、反感が直接日本軍にくることを防ぐ方法があります」。

わたしは、もっともらしくそういった。めんどうなことから、なるべく逃げようという下心があった。そうするには、やはり大義名分が必要だった。

副官の大島主計大尉は、なにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に表して、「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのためには宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まってくる女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。その間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにしていきたい。そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています」。

そこまで準備が考えられて、承諾書までとる話にはわたしも驚いた。副官は法科でもでているのか、と思われた。

こんな小さな島に、これだけの銃を持った日本軍が陣地をつくっているのだから、日本軍の要求することを自由意志で拒否もでき、承諾もするという対等な自由が、本当に存在すると思っている考え方もじつに自分勝手であっただろうが、そんなことに気づいていなかった。

(中略)

結局女集めは民政関係の現地人警察を指導している政務隊(民政警察)におしつけられ、副官が中心になり、特警隊は協力し、各警備隊・派遣隊もできるだけ候補者のリストをだして協力することになった。

民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。

「あの慰安婦集めには、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞくと港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!娘を返せ!と叫んだ声が耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。

わたしは、そこまで強制されたとは知らなかった。特警隊からも売春容疑者を捕らえて、収容所に送って協力いていた。それは犯罪容疑者として捕らえていた。

 
アンボン島の主計将校の眼から見ると
 海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会企画編集『滄溟』 1983
所収312Pー[坂部康正氏の手記]
 
坂部康正氏は、海軍第25特別根拠地隊司令部付きの主計将校
1945
 
 命の心配がなく、食事も充分と言う事となると夜考えるのは女の事、なんで日本女性を泡を食って帰したか、今更くやんでも始まらない。我々ガンルームは始めから現地女性とうまくやっていたから不自由はなかったが、収まらないのは偉いさん達、特にM参謀はこの件についてご熱心で、転勤前に山形長官からお許しを得ているからという事で、アンボンに東西南北の四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とはマレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、きめられた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。
日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと強制収用された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらせられるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシアの若い女性の声を私も何度も聞いて暗い気持ちになったものだ。
果たして敗戦後、この事がオランダ軍にばれて、現住民裁判が行われたが、この計画者は既にアンボンに居らず、それらの女性をひっぱった現地住民の警官達がやり玉に上って処罰された程度で終ってしまった。彼女達が知っているのはひっぱった警官だけで、この事件の真相は闇に沈んだ。
 
平原一男『山砲の?江作戦』
45年6月
独立山砲兵第二連隊の平原一男第一大隊長(戦後、自衛隊陸将補)
湖北省洪橋付近に集結、部下の意見具申を受け
軍慰安所の開設
経理室が6名の中国人慰安婦を集めた

 慰安所の開設に当たって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。そこで大隊本部の経理室で慰安婦たちが稼いだ軍票に相当する生活物資を彼女たちに与えるという制度にした。経理室が彼女たちに与える生活物資の主力は、現地で徴発した食糧・布類であったと記憶している。兵の中には徴発に出かけた際、個人的に中国の金品や紙幣を略奪し、自分が遊んだ慰安婦に与える可能性もあると思われたので、経理室の供給する物資は思い切って潤沢にするよう指示した。

竹井慶有 『南の島に下駄はいて』 1992
水上偵察機隊
ニューブリテン島ラバウル
1944 
 
建物の出入り口はなく、代わりに、荒むしろが一枚垂れ下がっているだけの間取りで、この荒むしろが内部と外部の境界を形つくっている。
 
「何事ですか?」と、並んでいる兵隊にたずねたら、「ここはラバウルの慰安所だ。毎日こんなに繁盛してますよ」と教えてくれた。

武昌に関してだが軍医 麻生徹男は 『上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法』の中で武昌憲兵隊が拷問を行っていた様子を書いている。
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武昌憲兵隊
 昭和16年3月中旬、私は武漢の地を去る事となった。写真中真ん中の建物は、武昌憲兵隊、その後ろ小道を隔て私の勤務の場所、兵站病院レントゲン室があった。嫌でも聞こえる訊問の大声、悲鳴、水攻め。死者を甦らせよ、もう一事聞きたい事ありと私に命じる憲兵殿の語気、それは今でも悪夢である。この建物にはYMの三角マークと武昌基督教青年会と書いてある。
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憲兵隊の拷問のすざましさがよくわかる。

佐々木元勝 『野戦郵便旗』1973
 
1938年、2月2日
中国○県(三ずいに除)
 
廃屋に慰安所が開業している。
 
南京から○県にいくと、この辺鄙な廃墟の街にも慰安所が2つあり、大阪あたりから日本の女が来ていた。軍隊が進むところ、彼女らもまた従う。
 
上海揚樹浦通り大連○頭近くの野戦郵便局近く
1937,11
「上海寮、皇軍将兵慰安所」「ビール、サイダー、美人多数」・・・真昼女の金属性の声が聞こえる。ここは半島人で営業しているとかであった。
 
『続戦郵便旗』1973
九江、武昌、漢口のいたるところに慰安所が設けられた。
1938、3
蘇州から上海、上海から抗州にいくとき
「兵隊のいっぱい乗った貨車で出かける。兵隊の中に『慰安婦も同席していた」
 
38年5月
徐州戦の前進基地で
「街の中も空家ばかりである。乞食と・・・難民ばかりうろうろしている。こんな汚い雑○(水に日)に慰安所が14もある。半島人の女たちが布団をまとめ、引越しする姿が見受けられた。」
 
1938,9,16 九江
「彼女らの外出は厳禁」
 
1938、12 丘州
慰安所もできている。
 
1938年12 武昌
裏通りに半島人の慰安所がある。その少し先に大阪の金星楼という日本人慰安所も。
 
39、1,18
武昌の南東80キロ下陸という部落
「この付近にたいした家屋はない。はるか無効の田園のなかの家屋は慰安所になっている。」
 
39,2,26 漢口の中山路
裏通りの道に将校倶楽部(慰安所)がところどころある。
浜崎富蔵『どろんこの兵』1970
 
1937年7月から3年間戦場にいた手記を元にした実録
中国、寧国は南京の西
1938,6、20
 
寧国へ先発隊員として来た兵たちは、何をさておいて、ピ買い(売春婦求め)にいく。宿舎について、門前でこの奥地では初めての内地婦人を見る。
 
1938年12月25日 武昌
慰安所の見物を弓指君の案内をする。二三軒まわったが、大入り満員の状態で物ほしそうな兵らが並び、順番の顔がにっこり笑った。
 

第三師団衛生隊回顧録編集委員会編『第三師団衛生隊回顧録1979
「杉野茂氏の手記」(p102)

軍律厳しきなかにも粋な計らいと言いましょうか、慰安所が開設されることになりました。我が隊からは私が開設委員として派遣されることになりました。 

    〔中略〕

その日から自治委員会の人と一緒にクーニャン探しに歩き回りました。四十七士になぞらえて、四十七人を求めることにしました。委員会の人はどこにどんな娘が居るかよく知っていました。顔にススを塗って天井裏から降りて来る娘もおりました。昔から美人と言えば、小野の小町か照る手の姫か支那の楊貴妃かと言われたその楊貴妃の生れ故郷の揚州ですから、美麗な子が多かった。 
 
 

新京陸軍経理学校第五期生記念文集編集委員会事務局編『追憶』上、1985
「宮谷重雄氏の手記」(p146〜147) 

 やがて洛陽作戦が始まった。月余で洛陽が陥落してホッとしていると、数日後、師団の後方参謀が直接呼びに来たので、何事ならんと出頭すると、
 「宮谷少尉は、至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めて来い」
という命令である。もうこれは、メチャクチャである。大学を出て、なんの因果でピー屋造りをさせられるのか、その上女衒まがいの女集めまでさせられたのである。何とも情けない思いであったが、命令である。同行していた大工上がりの軍属に慰安所造りの指示を与え、塩を二、三俵トラックに積んで、洛陽市内に女狩りに赴いたのである。どうもこの作命は、後で聞いたところによると、包頭での慰安所造りの成功が効いていたそうである。 
 ともかく、洛陽をトラックでグルグル回り、私のカンも良かったのか、二、三軒で十数人の女集めに成功して、部隊に連れてくることができたのである。「あいつは物集めがウマイ」という評判が立って、その後、随分とこきつかわれるキッカケとなってしまった。どうも人間、何が不幸の種になるか分からないものである。 

     〔中略〕

 兵団は武漢、長沙を経て衡陽から桂林に向かうことになった。ちょうど、桂林の中間地点の村落で、作戦準備のため長期駐屯することが決まり、旅団は分散して宿営することになった。数日たつと、また作戦参謀が私を呼び出した。そしてまたまた、慰安所を作れ、衡陽で女を集めてこいという命令である。私もつくずくいやになったが、作命には背けない。
 

 

 
 
水野靖夫 『日本軍戦った日本兵』 1974
憲兵志願兵
青島
1939
 
「青島の慰安所はれっきとした日本海軍直営の店だったのである。」
 
「若い女性をとらえると、日本の兵隊たちはまず両手を開かせて、手の平を調べた。農民や労働者の手であれば、その場でおもちゃにしたり、県城につれていって慰安婦や金持ちの妾や小間使いにうりとばした。白い手の女は、八路軍の手先の疑いありとして、憲兵の手にわたされ、拷問のあげくに虐待されることが多かった。」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

転載元転載元: 河野談話を守る会のブログ

      統計的には無意味な数値、「実人数」と「延人数」を混同


「慰安婦の人数」についての秦論説に対する永井和氏の批判を私なりに解説してみよう。

京都大学教授の永井和氏は統計的には無意味な数値を使ったものであるうえ、「実人数」と「延人数」を混同する誤りをおかしており、まったく用をなさない」とその間違いを厳しく指摘している。

まず、秦郁彦氏の99年『慰安婦と戦場の性』の記述を再度確認してみよう。
「平時の公娼統計(3000万の遊客に三業の婦女約20万で150人対1)を参考にしつつ計算すると、250万人÷150人=1・6万人となる。BCDEの係数も似たりよったりなので、慰安婦の交代(満州中国では1・5交代、南方は交代なしと想定)を考慮に入れても、狭義の慰安婦は多めに見ても2万人前後であろう。広義をとっても2万数千人というところか。
(1999年6月30日「慰安婦と戦場の性」p.406)
*三業とは「娼妓」「芸妓」「酌婦」とのこと。



この秦氏の計算の問題点は以下のようなものだ。

統計的には無意味な数値を使っている」

秦氏は、昭和国勢総覧』第3巻の388、389頁にある二つの表警察締営業の状況(2)」大正13年〜昭和16年)と「興業と遊郭(2大正15年〜昭和16年)を使って慰安婦と戦場の性』のP30に掲載されている表戦前期の内地公娼関係統計を造っている。
しかし、「興業と遊郭(2)」には「娼妓」と「遊客」の人数が記載されているが、警察締営業の状況(2)」の中には、芸妓」「酌婦」「女給」の人数の記載はあっても「遊客」の数が記載されていない。そのため、この2つを一つにしている秦氏の表は芸妓酌婦、女給」遊客の数」がスッポリ抜け落ちてしまっている。
従って、秦氏の計算の源となる数値は最初から統計的には無意味な数値であると言えるのである。


② 「3000万の遊客」は「延人数」しかし「日本軍250万人」は「実人数」

「3000万の遊客」は「延人数」・・・というのは、どういう事かと言うと、要するにこの数字は、一人の客が、年間に100回利用しても、それを100人と数えているのである。

一方において、日本軍慰安婦の方は、一人の軍人が100回利用しても一人として数えるという「実人数」で計算している。
これでは、正しい計算にはならない。

もし秦氏の数値の間違いを訂正し、一人の兵士が年間12回慰安所に通うと仮定してこちらも「延べ人数」に揃えるなら、計算上19.2万人になると永井氏は述べている。

自分でも否定してしまっている

秦氏は板倉氏の推計を「妥当なところだろう」と肯定している。
板倉氏は慰安婦は前借を一年から二年で返すためには年2000人、月平均150ないし160人の客が必要」だとしているが、これについて秦氏は「1937年の娼妓4.7万人と遊客3082万人から計算すると、一人が年間に600余人を相手にしたことになるから、「ハイリスク・ハイリターン」の戦地出稼ぎでは年2000人という板倉の計算は妥当なところであろう」慰安婦戦場の性』P402頁)と肯定しているのだ。この引用にある年間600余人とは、「1937年における日本内地公娼1人あたり年間平均接客数(上記の「遊客」数を「娼妓」数で割った数値)」である。いっぽう、「年2000人」のほうは、「軍慰安所での慰安婦1人あたり年間平均接客数」なのだから、ここで秦氏は、「1937年における日本内地公娼1人あたり年間平均接客数(上記の「遊客」数を「娼妓」数で割った数値)と軍慰安所での慰安婦1人あたり年間平均接客数とは等しいはずがない、後者前者の3倍が妥当である」との判断を下していることになる。

板倉氏の推計の肯定によって「内地(国内)の公娼1人あたり年間平均接客数が1944年時点での軍慰安所での慰安婦1人あたり年間平均接客数と同じである」という前提がすでに崩壊している事が分かるであろう。
詳細は各自が読んでいただきたい。https://ianhu.g.hatena.ne.jp/nagaikazu/20080402


             全ての被害者数値を理由なく少なくする秦氏

秦郁彦氏は、満州事変以降の14年間の戦争における各国様々被害を、「より小さな数字」にすることを使命としているようだ。南京虐殺は四万人という最小限の数字にとどまり(『南京事件』、アジア戦争被害者(死者)数については、「200万人」というおそろしく小さな数字を出している歪められる日本現代史』PHP研究所P65』)。この死者数については、例えば『日本史辞典』(1999)では「1900万人以上」となっている(P712)のだから、それがどれほど小さな数字か分かるだろう。ろくな根拠も示さないまま「200万人以下」にしてしまうのは、「そうしたいから」であろう。


『南京事件』において
秦氏が民間人犠牲者数を0.8万〜1.2万人としている根拠は、「スマイス集計(修正)」の値2.3万人で、その2.3万人を3分の1〜2分の1して導出した値を採用している。しかし、3分の1〜2分の1にしている理由については書かれていない。
この理由なき決め付けは秦論説の特徴の一つであると言える。
幕府山事件の犠牲者数に関しても8000人〜15000人と幅があることを知りながら(P142)、計算する際には何の言及もなく下限値を採用している。つまり理由は無いが、最小値にしたいのである。
このやり方が、秦氏が唱えるほとんど全ての犠牲者数に共通しており、『理由は無いが、常に最小値を選ぶ』ということである。
さらに『南京事件』における「約四万人」の犠牲者数を現代史の光と影』P26〜P27)では「 四万〜六万」にしている。こうして時々に変化するのが秦論説のもう一つの特徴である。


慰安婦問題においても、同じやり方を踏襲しており、すでに述べて来たように理由を提示することなく決め付けている部分がある。
慰安婦の数の計算においても、何度も変遷したあげく、「内地(国内)の公娼1人あたり年間平均接客数が1944年時点での軍慰安所での慰安婦1人あたり年間平均接客数と同じである」という前提で計算をしているが、「どうしてそれが妥当性があるのか?」という事を何ら説明していない。さらに内地の公娼制下での接客人数自体が毎年変動しているのに、ある年度の接客数だけが適用できるとなぜ考えたのであろうか?
当然産まれるこうした疑問に対して秦氏はまったく答える努力を怠っており、ゆえに近現代お専門とする歴史学界で秦氏のこうした諸論をそのまま信用している学者はほとんどいない。
さらに使用する統計数字自体が無意味であり、幾重もの間違いを犯しているのである。



転載元転載元: 河野談話を守る会のブログ

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