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本名はマリ=ジャンヌ・ベキュ、1743819日、フランスのシャンパーニュ地方でアンヌ・ベキュの私生児として生まれた。
 
弟が生まれて間もなく母アンヌ・ベキュは駆け落ちし、デュ・バリー夫人は叔母に引き取られて育つ。
 
 
7歳の時、再婚した母に引き取られてパリで暮らし始めたデュ・バリー夫人は、金融家の継父から大層かわいがられ、教育の機会に恵まれ、15歳で修道院での教育を終える。
 



修道院を出て最初に侍女として働いた家では、素行上の問題から解雇された。
 
 
その後、男性遍歴を繰り返し娼婦同然の生活をしながら、1760年にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始める。
 
 
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若くて美しいデュ・バリー夫人は、やがてデュ・バリー子爵に囲われ、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。

 
もともと娼婦同然の生活で日々を凌いでいたデュ・バリー夫人にとって、家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などを相手にして、それ相応の身なりをして洒落た遊びに触れることは、世界が一変したような感覚となり、事実、その世界は大きく広がっていく。
 
 
 
1769年、ルイ15世に紹介される。

ルイ15世
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ルイ15世は、その5年前に寵愛していた愛人ポンパドゥール夫人を亡くして以来、特別に気に入る女性に恵まれなかった。しかし、ルイ15世はデュ・バリー夫人の虜になって夢中になると愛人にすることを決める。
 
 
デュ・バリー夫人は、デュ・バリー子爵の弟と結婚してマリ・ジャンヌから「デュ・バリー夫人」と名を変えると、形式的な手続きを終えて、正式にルイ15世の公妾になって社交界にデビューした。
 

 
フランス宮廷に入ったデュ・バリー夫人は、その頃オーストリアからフランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16)に嫁いでいたマリー・アントワネットと犬猿の仲となる。
 
マリー・アントワネット
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マリー・アントワネットは娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を強く受け、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続けた。
 

 
加えて、かねてからデュ・バリー夫人と対立関係にあったルイ15世の娘であるアデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女らが、宮廷で最も身分の高い婦人マリー・アントワネットを味方につけようと画策したことが、この対立を一層深める。
 
 
 

1774年、天然痘で倒れたルイ15世の看病に努めていたデュ・バリー夫人だったが、追放同然に宮廷を追われることとなった。
 
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そのため、一時的に不遇な時間を過ごしたが、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官などの人脈を使って、パリ郊外のルーヴシエンヌに起居し、落ち着いた時間を取り戻す。
 
 

その後、ド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になり、再び優雅な日々を送る。
 
 



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1789年、フランス革命が勃発すると、愛人であるド・ブリサック元帥が虐殺されたため、1791年、イギリスへと逃れ、フランスから亡命しようとする同胞を援助した。
 



 
しかし、17933月、デュ・バリー夫人は危険を冒して、革命政府に差し押さえられた自分の財産を回収しにフランスに帰国すると、革命派に捕えられてギロチン台へ送られた。
 
 


死刑執行人のサンソンと知り合いであったデュ・バリー夫人は、泣きわめいて命乞いをする。
同情心に耐えきれなくなったサンソンは、息子に刑の執行を委ね、最終的にはデュ・バリー夫人は処刑された。



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女流画家のルブラン夫人のフランス革命に関する回顧録では、断頭台で多くの貴族女性が命を落とすたびに、歓喜に沸いた民衆が、泣き叫びながら慈悲を乞うデュ・バリー夫人の姿には直視できず、その死は盛り上がりに欠けるものであったという。
 
 
そのためルブラン夫人は「私が確信したのは、もしこの凄まじい時期の犠牲者達があれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろう」と述懐している。
 
 


潔く毅然とした名誉ある死は新たな死を招き続け、情けなく惨めでブザマな死が命の重さを教えた。
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王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりに透き通り、思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった。」と述べていた。



教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない。」と述べていた。
 
 
 
 


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1755112日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と、ハプスブルク家当主オーストリア大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生する。
 

ダンスやハープやクラヴサンなどの演奏が得意で、3歳年上の姉マリア・カロリーナ嫁ぐまでは同じ部屋で養育され非常に仲が良かった。
  
また、グルックらから音楽を教わっており、アントワネットが作曲した歌曲が12曲現存している。
 


シェーンブルン宮殿で、マリア・テレジアへの御前演奏に招かれた6歳のモーツァルトから7歳だったアントワネットがプロポーズされたというエピソードがある。
 
ルイ15世
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当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から長いこと敵対していたフランスとの同盟関係を深めようとしており、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)との政略結婚を画策する。
 




当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが結婚直前に急死し、急遽マリア・カロリーナがナポリ王フェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。
 
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そのため、アントワネットがルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)の相手に繰り上がる。


 
しかし、ルイ・オーギュスト(後のルイ16)の両親が共に結婚に反対であったため交渉は思うように進展しなかった。
1765年にルイ・オーギュスト(後のルイ16)の父が死去すると、ルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られてくる。
 
 


1770516日、アントワネットが14歳の時、ルイ16世との結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行された。
 
このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
 
 
デュ・バリー夫人 
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結婚すると間もなく、アントワネットは、夫の祖父ルイ15世の寵愛を受けていたデュ・バリー夫人と対立する。

 
もともとデュ・バリー夫人と対立していたルイ15世の娘アデライードらに焚きつけられたのと、さらに娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。
 
 

アデイラード王女
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宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている。
 
 




ルイ15世はこの対立に激怒し、アントワネットは仕方なしにデュ・バリー夫人に声をかけることにしたが、アデライード王女に遮られた。
その後、ハッキリとした和解はないものの、表面的な対立が終結すると、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになる。
 
 
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アントワネットは浪費家で知られ、子どもが生まれるまではギャンブルにも熱狂していたため、母マリア・テレジアは度々手紙を送って戒めていた。



しかし、ほとんど効果は無かった。
 


一方で、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困者のためのカンパを募るといった活動をする面もあった。
 
 
 
 



1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。
 
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王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、ヴェルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。

 
アントワネットは、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、地位によって便器の形が違ったりすることがステイタスであったり、そういったことが非常に下らなく感じていたが、それらは宮廷内の人々にとって無駄だと知りながらも大切にしてきた特権であったため、それらを奪ったことで反感を買うことになる。

 
ルイ16世
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アントワネットは地味な夫ルイ16世を見下していたこともあり、スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの関係が宮廷で噂された。
 
そうした中で、アントワネット派に加われなかった貴族達は、こぞってアントワネット派を非難し、宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まる。
 
ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどく、それが結果的にパリの民衆の憎悪をかき立てることにもつながった。



 
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1785年、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による「首飾り事件」が発生する。



この事件は事実に反しアントワネットの陰謀によるものだという噂になり、アントワネットを嫌う世論が強まった。
 
 
 


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  「フランス革命」
 
1789714日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発した。
 


 
ポリニャック公爵夫人ら、それまでアントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族達が、ためらいもなくアントワネットを見捨ててサッサと亡命する。
 
 




民衆に拘束された国王一家は、ヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されるが、アントワネットは恋仲の噂が立ったスウェーデン貴族フェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。
 
 
1791620日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。


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フェルセンは質素な馬車でルイ16世とアントワネットが別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢なベルリン馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や酒蔵一つ分のワインが積め込んだため、ただでさえ遅い豪奢なベルリン馬車はさらに遅くなり、逃亡計画を大いに狂わせた。


 
一家は、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、625日にパリへ連れ戻される。
 




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1792810日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される。

 
タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。
 
 
ルイ・シャルル
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1793年、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。

 
息子である王位継承者ルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ教育を受けることになる。


温室育ちのルイ・シャルルに世間の厳しさを教えようと張り切るシモンの指導は次第にテンションが上がり、暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力が増していき、ルイ・シャルルはすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去ったという。




アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航するが、最終的には死刑判決を受け、17931016日、コンコルド広場においてギロチン送りに処せられることとなった。
 
 
処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。


「無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」という内容のものであった。


遺書を書き終えたアントワネットは、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。全て終わりました」と述べた。

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処刑日、アントワネットは髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られ、肥料に使う糞尿を運ぶ荷車でギロチンへと引き立てられて行った。

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死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった。」と微笑んだのが最期の言葉とされている。



 
ギロチンが下ろされ処刑された彼女を見た群衆は「共和国万歳!」と歓喜の声を叫び続けた。
 
 
 




遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られたが、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたため、亡骸のごく一部が発見され、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に改葬された。
 
 
 
イメージ 16アントワネットは一部の貴族を偏愛したり、ヴェルサイユの品位の低下を招き、部類の浪費家であったため、多くの反発を生んだ。

 
しかし、現在では、有名な「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」をはじめアントワネットに対する悪評は誇張した中傷やデマであることが判明している。
 

そもそも、アントワネットは飢饉の際に、宮廷の養育費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなどしており、贅沢好きだが貧乏人の命を軽んじていたわけではなかった。
 


また、アントワネットがフランスの財政を空にしたというのも誇張で、過去の王達が愛人を多数囲って使った膨大な金と、戦争による巨額の支出で、フランスの財政は先代ルイ15世の時代に既に傾いていた。
 
 














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 「外交革命」

 
マリア・テレジアはプロイセンのフリードリヒ2世への復讐を目指し、オーストリアの軍制と内政の改革に乗り出す。
 
 



ヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツ
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ハプスブルク家にとってフランスは、イタリア戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争などを通じて抗争を続けてきた宿敵であったが、174937日の御前会議で、宰相カウニッツは同盟国をイギリスからフランスへ変更することを提案する。

 
皇帝フランツ1世や重臣達が呆気に取られる中で、マリア・テレジアはこれを支持する。
 
 

エリザヴェータ・ペトロヴナ
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1756年、マリア・テレジアは、フランス国王ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人を通じてルイ15世を懐柔し、フリードリヒ2世を嫌悪するロマノフ朝ロシアの女帝エリザヴェータとも交渉をまとめ、「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる反プロイセン包囲網を結成し、プロイセンの孤立に成功する。
 
 


ポンパドゥール夫人
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マリア・テレジアはポンパドゥール夫人に深く感謝し、高価な贈り物をし、生後間もないマリー・アントワネットとルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)の政略結婚も内定した。
 
 
 
 


フリードリヒ2世
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  「七年戦争」
 
包囲網の成立を知ったフリードリヒ2世は愕然とし、1756年、包囲網を打破すべくザクセンに侵攻して先制攻撃をしかけ「七年戦争」が始まる。
 
 
オーストリア軍は十分な準備を終え、しかもフランス、ロシアの支援を受け、前回とは異なり優勢に戦争を進めた。
 


イギリスはプロイセンを支援していたが、アメリカ大陸とインドでフランスと激しい植民地の争奪戦争を展開していたので、ヨーロッパ大陸に関与する余裕が無かった。
 
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オーストリアは圧倒的な勢力差からプロイセンを追い詰めていき、フリードリヒ2世は絶体絶命の危機に陥いる。
 

 
しかし、ロシアの女帝エリザヴェータが死去すると、その後を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世びいきだったため、ロシアが対プロイセン戦線から手を引いたことで、戦況は大変化を遂げる。
 
 

プロイセン王国
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オーストリアがまたもや資金難に陥ったところで、プロイセンは息を吹き返し、またもやオーストリアは敗戦し、悲願であったシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなった。
 

1763年、フベルトゥスブルク条約で、シュレージエンのプロイセンによる領有が固定化する。
 
 
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1765818日、夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世が死去する。
 


マリア・テレジアは以後、それまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与え、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた。
 




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マリア・テレジアは、多忙な政務をこなしながら、フランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供を産み、精力的に子ども達による婚姻政策を推し進めたが、最も可愛がった四女マリア・クリスティーナだけは相愛のポーランド王アウグスト3世の息子アルベルト・カジミールとの恋愛結婚を許可した。
 
一方、身体障害者で病弱であった次女マリア・アンナに対しては生涯を通じて酷薄であった。
 
 



1773年、イエズス会(フランシスコ・ザビエルらによって創設さたカトリック教会)を禁止し、それによって職を失った下位聖職者達を教員として採用し、他国に先駆けて小学校の義務教育化を確立させ、国民の知的水準が大きく上昇した。


ハプスブルク=ロートリンゲン家
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息子ヨーゼフ2世は混乱もなく神聖ローマ皇帝に就くが、マリア・テレジアとは政治的な意見が合わないことが度々あった。
 

オーストリア系ハプスブルク家の男系最後の君主となったマリア・テレジアと、その夫の家名ロートリンゲンを合わせたハプスブルク=ロートリンゲン家はヨーゼフ2世の代から名乗られるようになった。


 

17801129日、ヨーゼフ2世、四女マリア・クリスティーナ夫妻、独身の娘たちに囲まれながら、2週間前に散歩の後に発した高熱がもとで死去した。
 
遺体は最愛の夫フランツ1世と共に、ハプスブルク家の墓所カプツィーナー納骨堂に埋葬されている。
 
 
死の直前まで、フランス王妃になった遊び好きな末娘マリー・アントワネットの身を案じ、フランス革命の発生を警告する手紙を送ってもいる。
 
 
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           「正確には女帝ではない」
 
マリア・テレジアは、一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであったが、実際には皇帝に即位したことはない。
 
ハプスブルク家の領国と家督、オーストリア大公の位を相続したマリア・テレジアの肖像画には神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時も「女帝」視されていた。
 
 
神聖ローマ皇帝を継いだ夫フランツ1世が、小国ロレーヌ公国出身の養子的存在であり、さらに、国家連合議長のようなものである神聖ローマ皇帝位よりも、オーストリア大公位はハプスブルク家の当主であることが明確であるため、マリア・テレジアの方が政治的権限が強かった。












 
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1717年、オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生する。
 


母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
 
 




ハプスブルク家
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(補足) ハプスブルク家は現在のスイス領内に発祥したドイツ系貴族の家系で、古代ラテン人ユリウス一門の末裔を自称し、政略結婚により広大な領土を獲得、中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇った。



本流のオーストリア系の当主は、オーストリア大公国の大公位および1273年から神聖ローマ帝国の皇帝位を継承してきた。

神聖ローマ帝国
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神聖ローマ帝国は、ドイツ地方の都市国家の集合体をさし、それぞれの都市国家は独立した力を持っている。
 
 
 



さて、それまでハプスブルク家は男系相続を定めていたが、カール6世の子どもで成人したのはマリア・テレジアと妹マリア・アンナだけであったことから後継者問題が表面化してくる。
 
 
マリア・テレジアの結婚相手としてプロイセン王太子フリードリヒ2世との縁組も上がるが、フリードリヒ2世がカトリックに改宗する意思がないことから縁談はまとまらなかった。
最終的に、神聖ローマ皇帝レオポルト1世に仕え、軍司令官として活躍したシャルル5世を父に持つロートリンゲン公( フランスのロレーヌ地方に存在したロートリンゲン公国の君主)レオポルトの息子との縁組が決定される。
 
 ロートリンゲン公国
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レオポルトの3人の息子は、1723年からハプスブルク家のウィーン宮廷へ留学し、長男クレメンスが婚約者候補となるが、同年に病没する。
そこで次男フランツ1世が婚約者候補となり、またカール6世もフランツ1世のことを大変気に入り、好待遇を受けるようになった。
 




フランツ1世
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マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツ1世と出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、その様子は「夜は彼のことを夢見、昼は女官達に彼のことを話している。」と伝えられている。
 

結婚の4日前にマリア・テレジアがフランツ1世にしたためた手紙が現在も残り、未来の夫への情熱的な想いが書かれており、1736年、当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚で結ばれた。
 
 

 
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父カール6世は、マリア・テレジアが相続権を失い、他のハプスブルク家人に相続権が移ることを恐れ、ハプスブルク家領の分割の禁止と長子であれば女子にも相続権があるとする長子相続制を認めさせる「プラグマーティシェ・ザンクチオン(皇帝の勅令)」を出し、このハプスブルク家憲を神聖ローマ帝国の制度として、領邦各国に認めさせようとする。
 
 

神聖ローマの帝位は娘婿フランツ1世が継承した。
 


フランツ1世は神聖ローマ皇帝となったことによって、自身が領していたロートリンゲン公国をフランスへ譲り、代わりにトスカーナ大公1(619世紀に現 イタリア・トスカーナ州に存在した国家の君主)の地位を得た。
 
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17391月、マリア・テレジアとフランツ1世はトスカーナを訪問し、同地の財政を立て直して、以後、オーストリアの財政基盤となる。
 


 
このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ1世の夫婦仲はすこぶる円満で、結婚後4年のうちに連続して3人の大公女が誕生した。
 
 

 「オーストリア継承戦争」
神聖ローマ帝国支配地域
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 1740年にカール6世が死去すると、マリア・テレジアの家督継承に、領邦国バイエルンが異議を申し立て、ドイツ地域で勢力を増していたプロイセンがバイエルン側から介入し領土に侵攻してきた。これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。
 
 
ブルボン家
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この機会にオーストリア・ハプスブルク家の弱体化をねらうブルボン家のフランス王ルイ15世は、同じくブルボン家のスペインと共にプロイセン・バイエルンなどを支援した。
 
一方、植民地争いでフランス・スペインと対立していたイギリスはオーストリアを支援した。
 

こうして「オーストリア継承戦争」はヨーロッパ各国が関わる戦争となる。
 

ハンガリー王国
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オーストリアの戦況は不利で、戦費も底をつき、窮地に追い込まれたマリア・テレジアは、ハンガリーに救いを求める。
 

ハンガリー貴族はこの状況を、オーストリアの支配から脱する好機と考えて反オーストリア蜂起を企てるのではないかと危惧されていた。
 



そのハンガリーにマリア・テレジアは3歳の娘マリア・アンナを連れ、捨て身の演説をする。美しく若い女王の訴えが、ハンガリー貴族と議会を動かし、6万の出兵その他の支援を取り付ける。
 
 
 

17427月、イギリスの仲介でオーストリアとプロイセンが一時的に休戦する。
 
オーストリアはシュレージエン( ポーランド南西部からチェコ北東部に属する地域)の割譲を容認せざるを得なかったが、これをもってフランス・バイエルン連合軍がプラハから撤退する。
 
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こうした国家の緊急事態に際し、若いマリア・テレジアが諸国の侵攻に屈しなかったことは、その評価を大きく高めた。
 
 


1744年、プロイセンが再び侵攻してくるが、フリードリヒ2世の野心があからさまだったため、休戦前とは逆にプロイセンに同調する国はなかったものの、軍事の天才フリードリヒ2世のプロイセンにオーストリアは敗れる。
 

 
1748年、アーヘンの和約をもって「オーストリア継承戦争」が終わる。
 
マリア・テレジアのハプスブルク家相続と夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位が承認されるが、プロイセン王国が占領していたシュレージエンの割譲が決定的になった。


パルマ公国
イメージ 12また、パルマ公国(1545年から1860年のイタリア統一まで存続したイタリア北部にあった国)はブルボン家に渡ることとなった。
 
 
 













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157726日、ベアトリーチェ・チェンチは16世紀のローマで、名門貴族家に名を連ねていたチェンチ家のフランチェスコ・チェンチの娘として生まれた。
 

家族は他に、兄ジャコモ、父親の2番目の妻ルクレツィアとその息子でまだ幼いベルナルドがいる。
 

 
チェンチ家はローマのレゴラ区のユダヤ人居住区(ゲットー)の端にある中世の要塞跡に建てられたチェンチ宮で暮らしていた。
 
 

ベアトリーチェは7歳の時に、生母エルシリアが亡くなると、修道院の寄宿学校に入り、8年間、穏やかな生活を過ごす。
 

 
父フランチェスコは暴力的気性の持ち主で、金と権力を盾に面と向かって逆らいずらい人々に躊躇なく暴力を振るい、その行動は不道徳きわまりないもので、裁判沙汰になることも度々あり、貴族でなければ何度も牢獄に入れられ、場合によっては死刑になっていた可能性もあるような人物で、その悪名はローマ市中に知れ渡っていた。

 
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ベアトリーチェが15歳前後で家へ戻ってくると、すぐにフランチェスコに処女を奪われる。
 
その頃、フランチェスコの気性の荒さは一層激しくなっていて、それ以来、毎日のようにフランチェスコはベアトリーチェを求め、ベアトリーチェが抵抗すると、全身血だらけになるまで鞭で打たれた。
 
 
フランチェスコの暴力は、妻ルクレツィアや息子達にも向けられていたが、権力欲と支配欲が性衝動とリンクしているがゆえに、ベアトリーチェに対する暴力は特にひどいものとなる。
 



フランチェスコは、絶世の美女ともいえるほどの美少女に成長した娘ベアトリーチェの心身を痛めつけ、支配し、独占することに喜びを感じていた。
 
 
ある時、フランチェスコが別の罪で投獄されるが、貴族であったことから恩赦を受け、すぐに釈放されるが、その時、ベアトリーチェは頻繁に受ける虐待を警察当局に訴えたが、何の手も打ってもらえず終わる。

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警察当局もローマ市民も、フランチェスコがそのような非道な人物である事を知りながらも、チェンチ家の者が虐待対象で在り続ける事を、治安上、望んでいたのかもしれない。
 
 


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フランチェスコは娘が自分を告発したことに気付き、ベアトリーチェと家族をローマから追い出し、所有するローマ郊外リエーティ近郊の田舎村に「ペトレッラ・デル・サルト要塞」という名前の城に住まわせた。
 


フランチェスコは告訴された逆恨みで、快楽のための暴力に憎悪も混じるようになり、身の危険を感じたベアトリーチェ達は、もはや父親を殺すしかないと決心し、その計画を練る。
 
 
1598年、フランチェスコが城に滞在中、ベアトリーチェ達は2人の使用人の助けを借り、父親に毒を盛ったが、フランチェスコはすぐには死なずに反撃してきた。
 
ベアトリーチェ達は錯乱状態になって、フランチェスコを棍棒や金槌などで袋叩きにして撲殺すると、酔って誤って落下した事故死に見せ掛けるために父親の死体をバルコニーから突き落とす。
  
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警察当局はバルコニーから転落して死亡したには傷が不自然なため、一家が事故を主張するフランチェスコの死をすぐに疑う。
遺体の埋葬を急ぐ一家に対し、周囲も疑惑を感じ、殺害されたのではないかという噂が広がる。
 
 
フランチェスコの遺体は掘りおこされ、検死にかけられ、自白を強要する警察からベアトリーチェ、ルクレツィア、ジャコモ、2人の使用人が拷問にかけられた。拷問は厳しいもので、使用人の一人はその拷問で死んでしまう。
 
 
検死と拷問の結果、状況証拠も自白も取れ、ベアトリーチェ達は逮捕され、死刑を宣告される。
 
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ローマ市民が、殺人の動機を知って裁判所の決定に抗議したため、処刑は延期されたが、チェンチ家の財産没収を目論むローマ教皇クレメンス8世は、相続人を滅殺するため一家全員の死刑宣告を覆すことはなかった。
 
 
 



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1599911日、ベアトリーチェ達はサンタンジェロ城橋に移送され、そこに処刑台の足場が組まれた。
兄ジャコモは手足を木槌で4隅に打たれ、四つ裂の刑に処される。
 
続いて義母ルクレツィアが斬首された。


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そして、二人の最期を見て、22歳のベアトリーチェが公衆の面前で裸同然の格好にされ、斬首される。
 
 まだ幼い弟のベルナルドは、処刑台で家族の処刑をしっかりと見せつけられ、財産の相続権を没収された上で、死刑は免れ刑務所に戻された。
 
 
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グイード・ルーニが処刑を控えたベアトリーチェを描いた「ベアトリーチェの肖像画」で、頭にターバンを巻いているのは、斬首の際に、髪の毛で斧が滑らないようにである。

 
 
ベアトリーチェの遺体はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬された。
 

その後、ベアトリーチェの無念を想うローマ市民の間で、毎年、彼女が処刑された日の前夜、ベアトリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持ってサンタンジェロ城橋に戻ってくるという伝説が伝えられるようになる。












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*本文中では、スルタン(オスマン帝国の皇帝や皇后に使われる称号)を皇帝と表現しています。

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1560年頃、ヒュッレム・ハセキ・スルタンは、ロシア南部のウクライナ・ルテニア地方ロハティンで生まれ、父親はギリシア正教会の司教をしていた。
 
ヒュッレムはスラヴ系で、本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカであったとされている。生地ルテニアの人々は、細々と農業を行ない、その生活は貧しいものだった。
 

1520年頃、ルテニア地方を略奪しに来たクリミア・タタール人に捕えられて、ヒュッレムは奴隷としてイスタンブールへ連れていかれる。
 

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奴隷市場では、売りに出された女が裸にされてセリにかけられ、客たちは裸体をチェックして値踏みをした。
 



様々な地域から連れてこられた女が売買されていたが、その中で、美しいヒュッレムはひと際目立つ存在で高値がつく。
 




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買い取ったのはオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャであった。買い取ったのが、ただの金持ちではなく、帝国NO.2格の男であったことが、後にヒュッレムを歴史の表舞台に立たせることになる。
 
 

ヒュッレムはイブラヒムの屋敷で暮らすようになり、宮廷のハレム(日本の大奥のようなもの)で生きるための教育を受けた。
 




イブラヒム・パシャ
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イブラヒム邸での生活は贅沢なもので、生まれてから貧しい生活しか知らなかったヒュッレムは、その快適な生活を知ったことで上昇志向が芽生えていく。
 
ヒュッレムは美しい声をしていて、その声は自然と相手を明るく気持ちにする力があったことから「陽気」を意味する「ヒュッレム」という名が、この期間に与えられた。
 
 



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ヒュッレムはすぐに皇帝スレイマン1世の寵愛を受け、男児も出産し、ライバル達の嫉妬を一身に浴びながら瞬く間に第2夫人となった。
 

この時点で、ヒュッレムには確かな野心があった。

 
つまり、自分の子どもをスレイマン1世の後継者にすることである。
 
 


しかし、その障害である第1皇子ムスタファは後継者として盤石の状態にあった。
 
ヒュッレムを奴隷市場で買い取った大宰相イブラヒムはムスタファへの支持を固めており、ムスタファの母である第1夫人マヒデヴランはスレイマン1世の母である皇太后ハフサ・ハトゥンの寵愛を受けていた。
 
 
しかし、1534年に、皇太后ハフサが死去すると大きく展開が動く。

 スレイマン1世 
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後ろ盾を失った第1夫人マヒデヴランがスレイマン1世の機嫌を損ねて宮殿を追われる。
 

さらにスレイマン1世の信頼厚く、オスマン帝国の真の力と内外に称され、そのあまりの有能さがゆえに、大宰相にしてもマレな権限と影響力を誇ったイブラヒムが、過信と増長から自身をスルタン(皇帝・皇后を意味する)と表現したため、スレイマン1世はそれを見過ごすわけにもいかず、イブラヒムは処刑された。

 


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事実は謎のままであるが、このヒュッレムにとってラッキー過ぎる一連の流れは、裏でヒュッレムが画策した結果だという説が根強く存在する。
 


それを物語るように、ヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、ヒュッレムを「性質のよくない、いわばずる賢い女性である」と述べている。
 
 





ヒュッレムはスレイマン1世との間に5人の息子を産むが、実は、オスマン帝国の慣習では一人の女性が皇帝との間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性は皇帝と夜を共にしなかった。
 
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しかし、スレイマン1世はヒュッレムが男子を出産した後もそばに置き続け、果ては正式な妻とするのだが、オスマン帝国では基本的に皇帝が妻を迎えることはなく、これもまた慣習にならわない異例の寵愛である。
 

 
スレイマン1世のこのヒュッレムへの寵愛の大きさに対して、イスタンブールの市民は、スレイマン1世は魔法にかかったと噂した。
 
 
 
ヒュッレムは、5人の息子のうち一人(アブドゥラー)が早世したので、残りの4人のいずれかをスレイマン1世の後継者にすべく働きかけた。

 
かつての第1夫人マヒデヴランが宮廷を去ったことにより、一時ヒュッレムの長男メフメトが最有力となるが、メフメトが天然痘で病死すると、第1皇子であるムスタファが有力候補に再浮上する。
 
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しかし、1553年、ムスタファはイラン遠征中に突然に処刑される。

 
ムスタファは非常に優秀で、オスマン帝国歩兵団(イェニチェリ)から異常な人気を誇っていたため、ムスタファの処刑に不満を持った兵士達が反乱を起こす寸前の事態となった。
 
 
このムスタファ処刑は、理由という理由が存在しない唐突なものだったので、宮廷内を含む世論は、最も得をするヒュッレムの暗躍を疑う。
 
 


リュステム・パシャ
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スレイマン1世は、ムスタファの子や側近なども処刑してムスタファ派を一掃するが、その行動に不信感を抱く者達を抑えるために、ヒュッレムの娘婿で大宰相のリュステム・パシャを辞職させて、世論に対するバランスを取ろうとする。
 

しかし、リュステムが処刑されそうになると、ヒュッレムは助命に奔走し、その甲斐あってリュステムは大宰相の地位を取り戻した。
 
 
以降、リュステムはヒュッレムの庇護のもとで蓄財に精を出し、財力をもって党派を形成し、政治力を保持した。
 
 
こういったスタイルが以降の政治家のスタンダードとなり、皇太后や第1夫人、宦官やハレムの住人達が、権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)と呼ばれる時代をつくる。
 
 
さらに、ヒュッレムからポーランド国王ジグムント2世へ出した手紙が現存しており、ヒュッレムの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれるなど、ヒュッレムは直接的に外交問題や国政に関与し、皇帝の性を満たして子を産むことだけが役割だったハレムの住人の立場や可能性を大きく変えた。
 

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この頃、ヒュッレムの息子の一人であるジハンギルが死去し、残ったヒュッレムの男子2人がスレイマン1世の後継者候補に絞られる。
 
 



しかし、ヒュッレムはその結果を目にすることなく、1558418日に死去した。
 
 


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ヒュッレムの人生は私利私欲が目立つが、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わり、モスクと2つの学校や噴水と女性用の病院を建築したり、エルサレムに貧窮者の公共給食施設を設けるなどしている。
 

スラヴ系のヒュッレムは「ロシアの女」という意味の「ロクサーネ」という通称でもその存在を知られている。



ヒュッレムの死後、その息子セリム2世とバヤズィトの後継者争いは激しいものとなり、セリム2世は側近の入れ知恵で、スレイマン1世のバヤズィトに対する評価を下げることに成功した。
 
形勢不利を察したバヤズィトは軍事行動を起こしたものの、スレイマン1世の支持を受けたセリム2世に敗れて処刑される。

    セリム2世
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スレイマン1世の死後、皇帝に即位したセリム2世は、国家運営を官僚に任せきりにし、バーブ・ウッサーデ(至福の家)と呼ばれる館で酒と女に浸る幸せな日々を過ごした。
 



これを境に、セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官僚による支配が常態化し、皇帝はほとんどお飾りの存在となっていった。
 
 
 















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  「玄宗皇帝を虜にする」
 

楊貴妃からは龍脳(香料の一種)の香りが遠くまで届き、衣を通してその香りがスカーフに移り、さらに、夏の暑い日に楊貴妃が流した汗はよい香りがするほどだった。
 
 
楊貴妃は容貌が美しく、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかで、あらゆる楽器を自在にこなし、踊りを踊らせれば翔ぶように見事に舞い、その歌声も天下一品であったと伝えられている。
 

玄宗皇帝は作曲もするほどの芸術肌の人間だったので、趣味嗜好を共有できる親友のような存在でもあり、美人は三日であきるという俗言には当てはまらず、唯一無二の存在であった。
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息子の妻ですら奪える絶大な権力を持ち、美女など選びたい放題の立場にありながら、玄宗皇帝は楊貴妃を四六時中そばに置く。
 






 
玄宗皇帝は、楊貴妃が望むことなら何でも叶え、貴重な果物ライチ(茘枝)が大好きだった楊貴妃に、少しでも新鮮なライチを食べさせたいという一心から、玄宗皇帝は何千キロも離れた嶺南から長安(現 西安)まで早馬で運ばせる。
 
人民は、砂煙をあげて走り去る早馬を見て、それがまさか楊貴妃個人の嗜好を満たすためだとは夢にも思わず、急ぎの公用だと思っていた。
 
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愛する楊貴妃のためなら、どれほど公務が妨げられようとも、玄宗皇帝はおかまいなしになっていた。
 
 
          安禄山(あんろくざん)
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  「安史の乱」
 
752年、宰相であった李林甫が死ぬと、ついに楊貴妃の又従兄である楊国忠が宰相に登りつめ、楊一族の私欲に満ちた横暴は目に余る激しいものになる。



楊国忠は軍事政策のミスで6万人ともいわれる死者を出すなど、多くの恨みを買っていた。
 
 




そんな折に、もともと楊貴妃に取り入って出世してきた安禄山(あんろくざん)が楊国忠の地位を脅かす存在になってきたため、楊国忠は安禄山を冷遇する。
 

755年、身の危険を感じた安禄山がついに反乱を起こす。

 
安禄山は長年、北方異民族から首都を防衛するためにつくられた節度使という軍隊の長官で、節度使は唐の全土に10個軍団を展開しており、そのうち笵陽(北京)方面の3軍団を安禄山は自在に操れる立場にあり、そのため、安禄山の起こした反乱は15万人におよび、その大軍が長安(現 西安)を目指した。                  
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         「逃亡」
 
破竹の勢いで進軍してくる反乱軍が、首都長安になだれ込んでくるのは時間の問題であった。                         

 
恐怖におびえた玄宗皇帝は、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らを引き連れて、蜀(四川省)を目指して長安を脱出する。
 
 
しかし、この逃走の原因となる反乱の責任が揚一族にあるのはハッキリしていたことで、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、楊国忠を強く憎んでいた武将の陳玄礼(ちんげんれい)と兵士達は、楊国忠を殺害し、その首は槍で串刺しにされて晒された。

 
楊貴妃の姉達も惨たらしい殺され方をする。
 
 

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そして、楊一族の中で、楊貴妃一人が残された。


陳玄礼らは玄宗皇帝に対して、楊貴妃の殺害を要求する。

玄宗皇帝は高力士の進言により、やむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。
 

楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい。」と言い残し、首吊り死する。
 

この直後、楊貴妃の好きなライチが献上品として届いたので、玄宗皇帝はこれを見て涙が止まらなかった。
 
 
楊貴妃の遺体は、その死を確認した陳玄礼らによって郊外の道ばたに埋めらる。
 
玄宗皇帝は後に楊貴妃の改葬を望んだが、周囲の反対意見によりなかなか叶わなかった。

 
玄宗皇帝が宦官に命じて密かに改葬させると、この時、楊貴妃の死体に残っていた香袋をその宦官が持ち帰り、楊貴妃の香袋は玄宗皇帝に届けられる。
 
 
やがて、玄宗皇帝は幽閉同然の身となり、楊貴妃の唯一の遺品となった香袋を愛おしそうに手にしながら寂しさに耐える毎日を送った。
また、画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。
  

 
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  「現在」
 
現在、西安の西60キロほどの所にある馬塊に楊貴妃の墓がある。



 

楊貴妃にあやかろうとする人々が、碑の一部を削って持ち帰るため、半分ほどになっており、また、その墓の土を化粧の時に混ぜて使えば、楊貴妃のように美しくなれるという伝説があり、土を持ち帰っていく者も多い。










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「楊貴妃を愛した玄宗皇帝」
 
玄宗皇帝は、8世紀初頭の唐(現 中国)の第9代皇帝。
 

玄宗皇帝は、馬術、弓術などの武術に優れ、さらに書道、音楽、占星術などの学問に長け、特に音楽はさまざまな楽器を巧みに弾きこなし、作曲の才能にも恵まれていた。
 
科学技術の発展にも熱心で、水力を利用した正確な時計や、巨大な鉄製のつり橋を広大な黄河に架けるなど、人民の生活向上に尽力する。
 



極めつけは、儒学の影響から進歩的な人権主義者であり、障害者や貧しい者のための病院を建設した。
 
 
当時の中国の君主は、神官としての職務もあったため、ひどい干ばつに襲われた時に、玄宗皇帝は33晩にわたって、飲まず食わずで天からの水を願って祈ったので数日で痩せてしまうが、心配する廷臣に「自分は痩せて良い。万民を太らせねば。」とリーダーとしての姿勢を示す。
 
 
このようにして、玄宗皇帝の治世は、中国史上の政治の安定期として「開元の治」と呼ばれている。
 

中国の歴史上、唐の時代は最も偉大な時代とされ、この世界で唐の皇帝に肩を並べることが出来たのは、ペルシアの大王とローマ帝国の皇帝だけであった。
 
 
ところが、その唐の時代の絶頂期を築いた玄宗皇帝は、晩年になって政治を放棄し、国は大きく乱れ、強大だった唐は滅亡寸前となる。
 
 

 
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  「楊貴妃の登場」
 


楊貴妃は本名を揚玉環(ようぎょくかん)といい、719年、蜀(四川省)の下級官吏の楊玄淡の四女として生まれた。
 


楊貴妃は幼いころに両親を失ったため、叔父の家で育てられる。
 


その類い稀な美しさは、幼少から知られるところとなり、宮女として後宮に入るや、17才にして玄宗皇帝と武恵妃の子である李瑁(りぼう)の妃として迎えられた。
 



後宮には、3千人もの宮女がいたといわれており、並みいる美女の中で楊貴妃に目が止まった事は、楊貴妃の並外れた美しさだけでなく輝くような存在感があったことを物語っている。
 
 




一方、玄宗皇帝が56才の時、武恵妃が40才で病死すると、妻を失った悲しみ、50代で独り身になった寂しさ、玄宗皇帝はそういったものから元気を失ってしまった。
 
 
  
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玄宗皇帝が最も信頼していた部下である宦官の高力士から、絶世の美女として楊貴妃の話をしたのをキッカケに、楊貴妃は玄宗皇帝に見初められる。


楊貴妃22才であった。
 

そして、なんと、玄宗皇帝は息子の李瑁から楊貴妃を召し上げることにする。
 
しかし、そのまま楊貴妃を自分の愛人にしたのでは、いくらなんでも世間体が良くないため、一時的に楊貴妃を坤道(道教の尼)にして太真と名のらせ、息子から妻を奪うという構図にワンクッション入れた。
 
 
 

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「一族の大出世」

 
745年、玄宗皇帝は楊貴妃に、後宮の宮女3千人の中で最高位となる「貴妃」の位を与え、公に後宮に迎い入れる。
 
 
さらに、楊貴妃の一族も一同に大出世していく。
 

叔父の楊玄珪、兄の楊銛は高い官職が与えられ、従兄の楊召聾悉々陳襪琉μ爾任△訛晴攜主と婚姻を結ぶこととなる。
 
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3人の姉も「国夫人」という高い位を授けられ、それぞれ、韓国夫人、かくこく(常用漢字でないため平仮名)夫人、秦国夫人として、毎月高額の化粧代が支給された。

 


故人である両親にも、父の楊玄淡は「兵部尚書」に、母の李氏は「涼国夫人」の称号が追贈され、楊貴妃は良家の娘と位置付けられる。
 

 
さらに、飲んだくれで風来坊に過ぎなかった又従兄(はとこ)の揚国忠(ようこくちゅう)は、国家NO.2格である「宰相」にまで登りつめ、宮廷全体を牛耳るほど権力を手にするようになっていく。

 
そのため、出世を望む者達が、後から後から揚国忠の元に殺到し、労せずして巨大な賄賂が転がり込むようになった。













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ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス
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「ローマはカエサルの死により長い混迷に突入する。」

 
カエサルを暗殺した一人ブルトゥスらと、カエサルに後継者指名されたオクタヴィアヌスらが対立する。
 
 

クレオパトラ7世は、親ローマこそがエジプトが生き残る道という政治的方針を固めていたが、当のローマの情勢が不安定であったため、難しい選択を迫られる状況にあった。
 
 

クレオパトラ7世はブルトゥスらを支援するが、紀元前42年、「フィリッピの戦い」でオクタヴィアヌスらが勝利すると、オクタヴィアヌス側のアントニウスはクレオパトラ7世に出頭を命じた。
 
 
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クレオパトラ7世はアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくって、アントニウスのもとへ出頭した。
 
そうして、瞬く間にアントニウスを魅惑し、危機を乗り越える。
 
 
 
アントニウスとの関係を築いたクレオパトラ7世は、幽閉されていた妹アルシノエ4世が、後々に自分の立場を脅かす可能性があるため、アントニウスに頼んで殺害させる。
アルシノエ4世の墓はエフェソスに築かれた。

 
 
 マルクス・アントニウス
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紀元前39年、クレオパトラ7世とアントニウスの間に双子の男女が生まれる。
 


男児にはアレクサンドロス・ヘリオス(あのアレクサンドロス大王&ギリシア神話の太陽そのものヘリオス)、女児にはクレオパトラ・セレネ(自身と同じクレオパトラ&ギリシア神話の月そのもの)という大層な名前がつけられる。
 
 


大層な名前ではあるが、プトレマイオス朝エジプトの祖であるプトレマイオス1世が、アレクサンドロス大王の重臣(つまりギリシア人)であるため、クレオパトラ7世もギリシア人としての誇りを持っていたことが、子どもたちの名前からうかがえる。
 
紀元前36年、さらにプトレマイオス・ピラデルポスという男児を産む。
 
 
 
 
クレオパトラ7世と人生を添い遂げる事を望んだアントニウスは、妻であったオクタヴィアヌスの姉オクタウィアと離婚する。
 
アントニウスはアルタクシアス朝アルメニア王国を攻撃して国王アルタウァスデス2世を捕虜とし、その凱旋式をローマではなくエジプトのアレクサンドリアで挙行した。
 
さらに、アントニウスはエジプトでの埋葬を希望するなど、クレオパトラへの傾倒にともなってエジプト色が強くなっていく。
 

 
一方、ローマの覇権争いはアントニウスとオクタヴィアヌスによるものとなり、その争いも最終局面に達していた。
 
このオクタヴィアヌスとアントニウスの対立構造は、次第にローマの両派閥による争いというより「ローマ対エジプト」という構図に矮小視されるようになっていた。
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         緑:オクタヴィアヌスの支配地域  青:アントニウスおよびその同盟勢力の支配地域
 
 
 
 
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           「アクティウムの海戦」
 
紀元前31年、アントニウス派およびプエジプト(クレオパトラ7)の連合軍と、オクタウィアヌス派が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突する。
 
この天下分け目の決戦には、クレオパトラ7世も自ら主力艦に乗り込んだ。
 
 
アントニウス・クレオパトラ連合軍は戦力的には上回っていたものの、両軍が少し交戦したとたんに、クレオパトラの艦隊が戦線を離脱するという珍事が発生した。
 
さらに突然の戦局不利に慌てたアントニウスもクレオパトラ7世を追って撤退する。
 
 
指揮官を失った連合軍は、命令系統を失い、烏合の衆と化し、ただただ逃げ惑いながら殺戮されるだけとなった。


 
 
 
アレクサンドリアに逃げ着いたアントニウスはクレオパトラ7世死去の誤報を聞いて自殺を図る。
 
アントニウス自殺未遂の知らせを聞いたクレオパトラ7世は、瀕死のアントニウスを自分のもとに連れて来させる。
 
アントニウスはクレオパトラ7世の腕の中で息を引き取った。


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 そして、追ってきたオクタヴィアヌスがアレクサンドリアに到着すると、クレオパトラ7世はアントニウスの後を追うように、コブラに胸を噛ませて自殺した。
 
 
オクタヴィアヌスは、クレオパトラ7世の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。


クレオパトラ7世は、祖国エジプトよりも守りたかった我が子カエサリオンの助命は、女王らしく求めなかった。
 
 
オクタヴィアヌスはエジプトを征服し、ローマの英雄として根強い人気があるカエサルの子カエサリオンを無慈悲に殺害した。
 

生かしておけば、いつ誰が「カエサルの後継者」として担ぎ上げ、再びローマに混乱をきたすか分からないため、それは当然すぎる処刑であった。
 

クレオパトラ7世フィロパトル
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 紀元前30年、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、エジプトは皇帝直轄地としてローマに編入された。






















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