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どういう具合だろうか。
あるひとから聞かせてもらうお話には、本当に深い奥行き、その深さ、深い味わいを感じるというのに、
あるひとから聞かせてもらうお話やことばが、とても浅い、軽いものにしか聞こえてこない私がいる。
その深さに感動すら覚え、じっくり味わっていたいお話やことばもあれば、
時には、あるひとのうんちくやお話が「自己顕示」と聞こえてきて、
ちょっと腹が立ったり、恥ずかしくなったり、切なくなったりする。
どうやら「私が」聞いてしまっているようです。
「私を聞いて!私は何でも知っているんだよ。すごいでしょう!ね!」に聞こえてきて、
そんな風にしか自分を表現できないのかなぁ、そんなに誉めてもらいたいのかなぁ、
普通はそんなことしなくても、誉めてもらえるものだけど、
そのひとはそんなふうに表現することでしか、自分を認めてもらえなかったのかなぁ、
とさえ思えてくると、いたたまれなくなってきたりする。
あるいは、「そんな当たり前のことを自慢げにいうなんて!」と、不愉快な気持ちになったり、
上から目線の態度に思え、ばかばかしく思えたり、そういうそのひとのありようを、
恥ずかしく思ったり。
そのひとの発言が、自分の見えようでしか見えていないように聞こえて、ちょっと一言言いたくなったりする。
私がそう聞いているのでしょうけれど、そういう私の中にある、視点はどこにあるだろうか。
愛があるだろうか。深いだろうか。あるいは浅いだろうか。
どんなふうにそのひとが、そのひとのことばが聞こえているだろうか。
聞いているだろうか。聞けているだろうか。
そのひとのありようを見させてもらいながら、私自身の聞こえようを、考えさせられる出来事である。
奥行きのある深さのある聞きよう、語りよう、ありようとは、どこからくるのであろうか。
どういう時に、そうなれ、どういう時に、そうなれないのであろうか。
相手さんに目がいきがちだけれど、これもやはり、こちらのありようで随分違うような気がしている。
「あぁ、誉めてもらえなかったんだねぇ。そうやって、がんばって、こんなこと知っているよ、と言い続けないと、
わかってもらえないいように、思ってしまっているんだろうかねぇ。
なんか、そういうふうに聞かせてもらう私なんだよなぁ。」
「今、伝えたいところ、どういうところから来ているんでしょうねぇ。知っているよ、こうなんだよって、なんか、
気づいたところ、分かちあいたいんでしょうかねぇ。わかちあえてますかねぇ。」
「どうもちょっと、私はもらいにくいんですよねぇ。」
「いろいろ教えてくださってありがとう。」
「あぁ、そうですか。あなたはそういうところにおいでなんですねぇ。」
ひとさまを聞かせていただき、私自身がはっきりになってゆく。
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写真はゆん無料壁紙画像集よりお借りしました
岩下榮次先生に学ばせていただいた、わたくしの「カウンセリング」を憶う時、
まず、一番はじめに浮かんでくるのは、「まかされている」ということである。
すでに、どこまでもわたくしにまかされている、この「わたくし」を尽くさせ
ていただいていくばかりなのだと、わたくしに憶わせてもらえるこの出来事は、
幸福を求めて、迷い、思い悩み、受け入れられずにいた事象さえ、いつしか、
いとおしく、大切なものに憶わせてくださっている。
静かだけれど、厳しく、暖かである。
何があってもいいのだ。
ただ、いま、自分が、どんな気持ちで、どんなありようで、どんなところに
いるのか、ただそのことがわたくしに、しっかりとなぞらせてもらえていたら、
どんな関わりも、どんな味わいも、あるいは、人生のどんな出来事も、
わたくしなりのところでやらせていただけそうな気がしてくる。というか、
それしかないのだ、ということが、わたくしにある意味、覚悟のような、
凛とした気持ちを与えてくれるのだ。
自分以外の方は皆、師である、と考えれば、この世の中には様々な智慧、教え、
学びがあり、わたくしの知らないことは多すぎて、とても学べているとは、
言えないわたくしではあるけれど、
この「自分をなぞらせていただく」という作法、
「ただ聞かせていただくだけである」の姿勢が、
自分自身とむきあうとき、また、自分以外のひとさまにむきあわせていただく
とき、あるいは出来事にむかうわたくしのありように、それまでとは違う光を
与えてくださっているのは確かである。
何があってもいい、どこまでも自分を見させてもらうだけだ、ということが、
いまの私の支えになっていることは、間違いない。
岩下榮次先生は、これをやれば救われるとか、こうしたほうがいいとかそんな
安直なことは、(と、わたくしには憶えている)決して言葉にされなかった。
むしろ、どこまでも、「あなたはいまそこにいらっしゃるのね」と寄り添い続
けてくださった。そのように、ご自身にも添い続けられたようにわたくしには
憶えている。「それぞれにまかされ、まかされつづけているわたくし」として、
ご一緒してくださった。そのことが、どれだけ尊く、わたくしにとっては、
大きな支えであり、力となっていたことを、いま、あらためて、憶わせていた
だいている。
合掌
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立場によってこんなにも違う感じ用を生むことは、さもありなんとは思うものの、その違いは哀しいほどで、私には、一方の気づけなさがその原因のようにも思えて、自分にとってよかれと選択していることのひとつひとつが、相手や周囲にとっては好ましく思えないできごとであるとは、まるで思いもよらないのだろう。 実はかつてそのひとがほかのひとにしていたことが、まさにそのひとにおこっているように私には見えていた。因果応報とはこのことか、不徳の致すところ、とは、自分で言う言葉なのだろうが、私にはひしひしと届けられ、妙に納得になったりする。 私自身、以前、そのひとからもらった言葉にひどく傷ついた経験があった。そのひとは気づかないようであったが、他の人とも度々そういうことはあったようで、そういう体験を語るひとを聞かせてもらうことは少なくはなかった。 そのひとはわかっているつもりのようであったが、実際は違って、裏目に出ていることも気づかないようであった。 もし、そのひとにいくらかの想像力があれば、聞かせていただくの、ねがいが聞かせてもらえていたら、私が、私が、ではなく、私は、が上手に言葉になれていたら、違う結果になっただろうか。 人の姿は見えやすいが、自分のことはなかなかわからない。見つめるべきは相手や出来事ではなく、私のありよう、見えよう、なりようだ。 自分以外は皆先生だ、と、聞いたことがある。気づかないそのひとは別段困ってもいないのかもしれないが、私には何か色々思わせてもらえる人のようである。 自分を尽くすことと、誰かを聞かせてもらうことは、両立すると、信じられるということを、私は身をもって、体現したいのかもしれない。 今日のねがい。 おかげさま、の心を忘れずに、今日という日に自分を尽くし、その選択はまわりの人々もしあわせにし、正しい目と耳と愛をもちます。 感謝。 Copyright (C) 2012babysardine princess All rights reserved.
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「ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです。モモに話を聞いてもらっていると(中略)考えが浮かんできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問した、というわけではないのです。ただじっとすわって、注意深く聞いているだけです。(中略)するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです。(中略)たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗でなんの意味もない、おれはなん千万もの人間のなかのケチなひとりで、しんだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いやおれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。こういうふうにモモは人の話が聞けたのです!(中略)さあ、これでもやっぱり、人に耳をかたむけるなんてたいしたことではないと思う人がいますか?そういう人は、モモのようにできるかどうか、いちどためしてみることですね。」 |
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「私が」聞いて「私が」考える、のはフツーのこと。 |





