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残雪の森をスノーシューハイキングは、春の雪が降りましたが、16名もの参加をいただき無事終了しました。小さなお子様も最後まで歩いてくれました。
森野小中学校の山、母衣山と開拓時の道路や畑、民家の跡と思われる場所の一部をスノーシューでミニハイキングを体験していただきました。
北海道の野生でないクリの木やスモモの木、防風や家や納屋を建てるために植えたと思われる、トドマツの屋敷林、エゾシカの角擦り痕・ササを食べた痕、食べ物(多分ネズミ)を探してうろつくキタキツネの足跡、ネズミが樹皮を食べたため死んだカラマツにあったキツツキの食痕、エゾリスの足跡、ウダイカンバやトドマツの凍裂の痕、いろいろな蔓植物、今年は少ないキタコブシの花芽、etc.
樹液採取体験は、イタヤカエデが少し採れましたが、日照が無く気温も低く、ヤマモミジ、シラカバは採れませんでした。下見の時にセットし採取を続け朝回収した、イタヤカエデとヤマモミジ合計4Lほどを皆さんで試飲していただきました。ヤマモミジはほんのり甘く、イタヤカエデはかなり甘く美味しくいただきました。正に自然の恵みです。白老にももうすぐ春が訪れます。
自然を大切に楽しみながら歩き、健康で豊かな生活。
写真で上手に書いてくれています。
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森野(ふるさと体験館森野など)
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森野の歴史
1地名の由来
ホロケナシ アイヌ語の「大きな林」「大きい川端の木原」の意味。昭和14年の字名改正により、ホロケナシ・白老原野・白老(の1部)を合わせて森野となった。
2森野のはじまり
北海道開拓(明治2年頃始まる)当時、白老岳とホロホロ山の間を越えて白老に入る往来(荷物を運ぶ馬や人)の通過点で、多くの山師が鉱山を探して入った。明治の中ごろ岩手の人、村和某が渡島、後志を転々としたあとこの地に落ち着き農業を営んだのが最初といわれる。
明治37年頃、室蘭線工事のための木材(枕木)が、御料地から払い下げられた。
明治42年頃、岐阜の人々造林を行う。 〃43年香川の人が来住、農業・地竹採取をしながら探鉱。
45年先に入植した、村和の招きで岩手の人が妻子を伴い移住、御料地10ha(2戸分)の払い下げを受け開墾にあたる。又、この頃現在の学校の西側に銅山が開発されつつあつた。大正4年銅山閉山。
※今もその痕跡が残っています。
高知・香川・徳島・兵庫などから移住する人々もあったが、いずれも間もなく引き上げて定住する人は無かった。大正初期の定住者(わかっている人)は、5名。
大正8年鉄山が大々的に開発されたが、翌年価格暴落のため休止。鉱山が在ったごく短期間ではあるが、多くの人が鉱山で働き、売店・郵便取扱所・警察官派出所・私設保育所もあったといわれる。
大正10年 王子製紙が送電線管理する人のためのホロケナシ散宿所を設け4戸が住む。
大正中期以降入植者は、7名の名が残っているが、殆どが短期間で離村した。
※御料林:旧憲法下で、皇室所有の森林。宮内省の御料局(のちの帝室林野局)が管理し、その収入は皇室の主要財源となった。戦後、国有財産に移管。
3.ホロケナシ(森野)の寺子屋
明治の末期から大正初期にかけ、白老村ホロケナシに寺子屋があった。金川橋近く、元の作並宅のすぐ
下で、吉田某が妻女(妻と娘又は妻)とともに居住し農業兼郵便配達の請負業していた。
その場所で、7−8人の子供達を集めて寺子屋を開いていたと言われ、これが森野の教育の始まりである。
しかし同人は大正初年、息子の元に帰るために離村していった。 吉田某の後を受けて、大正2年(1913)
銅山関係の人で遠藤某が長屋付近で寺子屋を始め、及川長介(明治37年3月6日生)も習いに行った一人である。大正3年、遠藤某は50歳で病死、その後昭和8年のホロケナシ小学校開校まで、この地に教育の場は無かった。
4 森野駅逓(旧ホロケナシ駅逓) 大正13年−昭和19年)
大正3年(1914)両村念願の白老−徳舜瞥間の連絡道路が開通し、互いの往来が便利になったことから、大正13年4月、白老市街から徳舜瞥(現大滝村)に向かう約14kmの道路側に曽根一が駅逓所を開設し宿泊、休憩施設したが郵便業務も行った。
さらに地域農民の集会所として大いに利用されたが、次第に利用者が減少、昭和19年(1944)10月廃止され、旧舎は無いが、跡地には地元の人が建てた標柱が立っている。
(ホロケナシ駐車場公園 北海道室蘭土木現業所の案内板)
北海道の駅逓は、宿泊施設を備え馬を飼育して、移住民や開拓地を旅する人々の便宜を図る一方、物資の運搬、郵便業務も取り扱うなど本道の開拓に大きな役割を果たしました。
明治22年に駅逓制度が始まり昭和22年3月の同制度廃止までの80年間に、全道に660ヶ所設置され、そのうち白老には白老駅逓とホロケナシ駅逓(後に森野駅逓と改称)が置かれていました。
ホロケナシ駅逓は、大正3年に白老と徳舜瞥(現大滝村)を結ぶ道路が開通したのを機に、同13年4月現在地から150m北(標柱を設置)に開設され、昭和19年10月までの21年間にわたり業務が行われていました。
5.沖野地区の温泉(昭和3年頃)
昭和3年頃、沖野岩吉は立派な宿舎を建て、沖野温泉として宣伝したが、湯温が低い・交通不便で客が入らず成功せず淋しく離村したという。※確かな痕跡は見られなかった。
6 .明治中期から昭和初期にかけての入植者は農業だけでは生活できず、坑木用の木をきったり、鉱山で働いたり川魚や竹を採って売るなどの副業でなんとか生活していた有様で、ほとんどの人が離村したのはやむをえなかった。
7.本格的開拓(昭和6年頃から)
第一次世界大戦(1914−1918)後の不況から一向に抜け出せず、失業などの対策として、政府は北海道への集団移住による開拓を奨励した。
昭和6−7年にかけ、福島・新潟・岩手・宮城・大分・島根などの各県から、20数世帯の人々が入植した。
当時この辺一帯は、ハン・アカダモ(ハルニレ 英語エルム)・シラカバの林、見上げるばかりのナラがあちこちにそびえ、クマザサが密生。
今の学田から森野までは民家もなく、雨がふると道路はぬかるみ、今では想像できない状態であった。
道庁による、農業技術指導、農機具の援助などもあったが、入植後2−3年は自家用野菜や飼料作物栽培がせいぜい。開墾が進むと、ソバ・大豆・小豆・馬鈴薯などを収穫し、販売もできるようになったが、それだけでは生活できず、地元業者の冬季の木の切り出し・馬での運搬、竹の採取・販売、御料林の植林・伐採・下刈り等の日雇い仕事でたものである。当時の日当 男:80−85銭、女:40銭くらい。冷害が続いたこともあり、昭和9年には、11戸もの離脱者がでた。
昭和11年 道の補助と技術指導で10頭の乳牛を導入、バターを生産する人もいたが、白老までの牛乳の運搬などの問題で、画期的な経営転換も3−4年で消滅した。
8.ホロケナシ神社(森野八幡神社)昭和12年
そのような状態で、移住民が対立することもあり、一致協力する気風・連帯意識高揚のため、道庁のてこ入れで、昭和12年、森野小学校前、母衣山中腹にホロケナシ八幡神社として新築。
15年森野八幡神社と改称。例祭:9月4−5日 町内会総出で行っている。
もともとは、明治37年(1904)現在地より約2km上(通称七曲通り)の丘の上に、天照大神(あまてらす・おおみかみ)を祭神(まつりがみ?)としてホロケナシ神社を創建されたものといわれる。
9.森野小学校(昭和8年)と森野中学校(昭和25年)
入植者子弟の教育の場が必要となり、役場、胆振支庁、道庁への陳情が実を結び、昭和8年許可されるや準備にはいり、6月29日校舎建設着工、住民が交代で工事を手伝い8月15日完成した。
待望のホロケナシ尋常小学校が誕生、昭和8年9月13日開校式となった。この時の在籍児童は24名であった。(昭和8年24名、28年36名 47年14名)総工費1,330円で校舎の新築をみたのである。
昭和10年10月に、木造平屋建柾葺き8坪(約26㎡)増築。
※柾葺き:杉・椹(さわら)・檜(ひのき)などの薄い削り板で葺いた屋根
14年4月、森野尋常小学校、昭和16年4月に国民小学校と改称。
昭和18年9月に開校10周年記念式典が挙行されたが、その模様が「郷土副読本」に記されているので紹介する。
……昭和18年、10周年記念式典が行われました。しかし戦争最中であったため、記念式典や祝賀会は盛大にはできませんでした。式のかかるお金は、国を守るお金として国に納めなければなりませんでした。又、式のお金は、部落の人達総出で、御料林の下刈りを2日間行って得たお金と、寄付で合計144円だったようです。そのうち100円を国に納め残りの44円が式に使われました。……
昭和22年森野小学校と改称。
森野中学校
昭和25年4月、地域住民から中学校設置の要望が強く上がり、中学校併置されたが、この時校舎は
無く、白老中学校で入学式をして、2部授業を行う。
(当時の中学生は、10−13kmの距離を、徒歩または自転車で白老中学校へ通学していた。)
25年10月、白老営林署森野事業所作業員合宿所を借用して、仮校舎で授業。
27年、教室と廊下などを小学校に併設。(25年3名 35年14名 47年12名)
昭和35年12月、学校に電気設備ができ、幻灯機・スライド・テープレコダー・プレーヤー・暗幕など
の寄付を受ける。「郷土副読本」にその時のよろこびが記されている。
……どれほど待ちこがれていたことでしょう。この日、新しい文化の灯が森野にともされました。
人々はその明るさに喜びの声をあげました。今までのランプの暗い生活と今日でお別れです。……
昭和38年、森野地区開基30周年・森野小学校創立30周年・森野中学校創立10周年記念行事が行われ、
参列者に より、校庭にシラカバ100本の記念植樹。
昭和41年、新しい校舎が建設される。
昭和53年、心身障害児訓練施設「こだま園」開園。これは、白老町肢体不自由児父母の会が町内に訓練
施設をつくる運動を進め、念願かない開園となり、学習と訓練が平行してできる体制になったものである。
昭和58年、森野地区開基50周年・森野小学校創立50周年・森野中学校創立30周年記念として記念誌
「母衣山」, 郷土副読本「もりの」を発行、和太鼓・紅白幕・アスレチック等の整備。
昭和60年、校舎増築、3教室完成、61年校舎改修工事。
当時の森野小中学校は町内のどこに住んでいても入学できる、今流行りの「フリースクール」であった。
10. 森野馬頭観音(昭和14年)
昭和14年(1939)9月、白老川上流から形の良い自然石をみつけ、森野小学校初代校長富樫二郎が
揮毫(きごう)し、部落民総出で、小学校に建立。森野八幡神社祭典時に慰霊祭を行っている。
※揮毫(きごう):筆を揮(ふる)う意〕文字や書画を書くこと。
※馬頭観音(ばとうかんのん)
六観音・八大明王の一。人身馬頭、または宝冠に馬頭をいただき、憤怒の相をした観世音菩薩。
江戸時代、馬の守護神として民間に広く信仰された。馬頭大士。馬頭明王。
11.森野苗畑(昭和14年〜平成2年)
白老地域(一部苫小牧)の人工造林のため、昭和14年森野造林事業所として面積1000㎡で開設される。
戦後昭和24年、白老営林署の造林事業所が拡張される。建物:事務所・寄宿舎等
昭和37年「ポロト苗畑」を集約し森野苗畑事業所に昇格。面積:14ha 従業員30−40名。
平成2年3月廃止
※現在この場所は、アイヌ民族の文化伝承のための素材を育てる施設となっています。
12. 昭和32年 バライト(重晶石)鉱山開鉱
このバライト鉱山と森野苗畑が、地元民の大きな働き口として森野を支えたといっても過言ではない。
13 昭和35年電灯が灯る 9.森野小学校参照
14. 昭和36年10月6日 森野史上最大の集中豪雨 道路3箇所で決壊、橋3本流失、電話不通、停電
部落孤立 児童生徒19が自宅に帰れず、いかだを組み対岸へ送り届ける。
3日目に、ヘリコプターで食料などが届けられ危機を脱する。
15. 白老牛や養鶏など白老農業の基幹的地域となっている。
「新白老町史」(平成4年発行)から抜粋要約
森野小学校(昭和8年頃)
森野八幡神社
森野馬頭観音
銅鉱山跡
鉄鉱山跡
硫黄鉱山跡
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残雪の森をスノーシューハイキング 参加者募集
早春の森野をスノーシューで自然観察をしながらミニハイキングを体験します。
気候が良ければ、ヤマモミジシやラカバが芽吹きの準備をするので
樹液採取体験や試飲も予定しています。異例の寒さと雪の今年は??
尚、樹液の採取はふるさと体験館「森野」の敷地内の林で行います。
他人の土地で無断で行わないでください!
■日 時 3月24日(土)9時〜12時(予定)
■集合場所 白老町コミュニティーセンター前駐車場(8時45分までに集合)
バスでふるさと体験館「森野」へ移動
■実施場所 ふるさと体験館「森野」周辺
■対 象 一般 中学生以上(小さい靴用のスノーシューはありません)
小学生は、締め具が小さい靴まで対応できる
プラスチックカンジキ あゆむくんを用意していますが
靴のサイズによっては対応できない可能性もあります。
■定 員 限定20名(先着順)
■持 物 スノーシュー・ストック(あれば)お持ちでない方には主催者で用意します。
飲み物など。
■参加費 高校生以上500円 中生250円
■申込方法 3月23日(金)午後4時までに電話で
■申込・問い合わせ先
(財)白老町体育協会 担当:青山
電話 0144−82−6041
ポロトの森ネイチャーガイド「めむの会」担当:有田
電話 090−8938−1511
■このイベントは
(財)白老町体育協会とポロトの森ネイチャーガイドめむの会の共催で開催します。
めむの会は、都合により3月末で活動を停止することになりました!
最後のイベントです!
自然の素晴らしさを体験し大切に!
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幼児の皆さんも含め、17名参加いただきました。
予想以上参加していただき大忙しでしたが、何とか終了できました。
参加していただいた皆様に感謝いたします。
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今日、試作品を作ってみました。
他にも、押し葉を使ったハガキなどのプログラムも用意しています。
ツル性樹木の蔓・小枝・樹木の輪切り・松の枝・マツボックリ・チシナザサ・
押し葉・押花・ラミネーター・ピタガン・etc.
参加者の皆さんのアイデア次第です。
お願い!!
参加していただける方が予想以上です。
剪定バサミ・植木ハサミ・生け花用鋏などがありましたら、ぜひご持参ください。 |




