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みなさんこんにちは!
記録的と言われているこの残暑もちょっと一休みでしょうか。。。(>_<)
みなさん、夏バテしてませんか?
さて、今日は第5回となる歴史ものを。
第一回:http://blogs.yahoo.co.jp/aokiookami2007/9497336.html
第二回:http://blogs.yahoo.co.jp/aokiookami2007/archive/2006/07/03
第三回:http://blogs.yahoo.co.jp/aokiookami2007/14970600.html
第四回:http://blogs.yahoo.co.jp/aokiookami2007/16834397.html
西のホラズムを制したチンギス・ハーンは、
時期をみてゆっくりと西征軍をモンゴルに戻し始めた。
ほぼ2年の歳月をかけて、制圧した地域の政治をみたり、
情報網を整えながら引き上げていったという説もあります。
モンゴルにもどったチンギスは、すぐに
東方のチベット系タングート族の国=西夏へ向かいました。
順調に作戦は進み、西夏はモンゴル領に。
これは南に逃げ込んだ金を完全に制圧するためのルート確保のためとも言われて
おり、
しかしながらその途中、1227年に、軍の拠点をおいていた六盤山で
モンゴル帝国の基礎づくりに身を捧げた、戦いの人生の幕を閉じました。
享年72歳といわれています。
チンギス・ハーンの死後、モンゴルは2年間喪に服します。
その間国全体をみていたのはチンギス・ハーンもその手腕を評価していたという
四男のトルイだったとされていますが、
最終的に後継者となったのは三男のオゴデイでした。
1234年、オゴデイはトルイと共に見事な作戦で金を制圧。
その後再び西に軍を向けます。
このロシア・東ヨーロッパ遠征では、チンギスの長男ジュチの息子、
つまりオゴデイにとって甥であるバトゥが大活躍をみせ、
ハンガリー草原までをも制圧していました。
そんな中、1241年オゴデイが死去。
間もなく盟友でもあった兄のチャガタイも没した。
このあたりの死は謎が残るばかり。。
一方遠征にでていたバトゥは国内の争いを避けるためなのか、
モンゴルには戻らずキプチャク草原に腰を据え、
ジュチ・ウルスとして自分の領土としました。
オゴデイの死後、後継者選びは家同士の争いが絶えず
なかなか決まりませんでした。
オゴデイの息子グユクが選ばれたものの暗殺され、
最終的にはチンギス・ハーンの四男トルイの長男であるモンケが即位。
モンケは内部の不正を次々と一掃し、
揺らいでいた中央権力の威信を回復すべく、
モンゴル国全体の人員・体制を整えました。
そして兄弟を各所の主将に任命し、
あらたな遠征や南にある南宋の制服作戦を発表した。
その南宋攻略を担っていたのが、モンケの弟であるクビライ。
そう、あのクビライ・ハーンなのです。
チンギス・ハーン→オゴデイ→グユク→モンケ。
今回はこのへんで。
次回は第5代目のハーン、クビライからスタート!
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