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○本など読まん!
この「手話の森を歩く」言語としての手話ーその秘密をさぐるは四部構成になっています。
1、手話はことばなり
2、「日本語・手話辞典」をめぐって
3、手話通訳に関する考察
4、言語の起源について
どれも運動の中心にいた・いる人の話ですから面白く、参考になります(これだけでも
凄く絶賛しています)。しかし、どれもエッセイの域を越えていないから高田氏の内容で
論議するには少し不十分のような気がします。また、本人はそうは思っていないようです
が、いい足りない部分が多々あると思います。
ろう者では本が書ける人が「少ない」だけに手話を学ぶ人の参考になり、手話の本とい
えばベストセラーはほとんどが「手話単語」本になりますから、手話・通訳のあり方をめ
ぐての論議の基礎やきっかけになれば、この本の意味があるなではないかと思います。こ
れは3部までは「スラスラ」と読めるからいい本だろうと思います。
但し、4部の「言語の起源については」はこれは「まったく」バツです。高田氏が多忙
な身でありながらいろんな本を「精読」しているのはわかるし、この「姿勢」は学ぶべき
ものがありますが、内容の結論がもう「マンガ」すぎます。4部が公表されたのは198
5年5月から1986年3月までですが、前説の伊東氏の本の記述から結論まで「季刊誌
ですから長すぎます」。これは最初と最後の「起・結」だけ読めば充分です。「承・転」
の各人の論理・それへの解説・共感・反論は参考文献を読まないと、まったく内容に立ち
入ることが出来ない書き方は、この引用本を読まないと、高田氏の論理が「正しい」のか
どうかは途中経過では判断が出来ないのです。これは記述の問題なのかもしれませんが、
自分の論理の「正しさ」の展開が最後の最後では、展開手法に問題があるのでしょう。
私などは「真面目」だから高田氏の論理の展開にあわせて「追体験」をする為に下記の
本を購入したし、それ以外にも「言語学」に関する一般的な本まで購入したから相当数本
を買いました。そう言う意味では「言語学」の本を読むきっかけを作ってもらったから
「感謝」しなければならないかもしれません。
しかし、私の周りには全通研の会員は多数いたし、全国手話通訳問題研究会の機関誌『手
話通訳問題研究』のあの号を持っていた人は沢山いましたが、一度も高田氏の「論文」が
話題になったことがありませんでした。それは私の周りに「問題」があると謙ってはみて
も、おい!全通研の会員の皆さん!あれを読んだのかよ!と叫びたくなります。
○イリンー本はなかった
○伊東ー「ろうあ社問題とろうあ運動」
−これは聴覚障害者問題を考える上で「古典的」かつ重要なお薦め本ですー
○エンゲルスー「猿が人間になるについての役割」
−この本は唯物史観を解くための本ですから「身振り」記述は引用文のみですー
○田上隆司ーー「手話のすすめ」
−こんな本は現在は読むに値しない
○尾関周二ー「言語と人間」
−平易な書き方で読みやすい教養書ですから「言語学」を「学ぶ」なら薦めません
○渡辺昇一ー「言語と民族の起源について」
−これも読むに値しない日本で起源に関して書いている「稀少」な本ですー
○チャンー本は絶版になっていた。
○マルクスー「ドイツイデオロギー」
ーこれも記述は引用文のみで読まなくても理解できます。しかし、何が書いてあっ
たか忘れましたが、マルクス本の古典としては現在も読まれ続けられていますから、「重要な」本です。
そうそう「言語学」の学会・世界で自然言語の「起源」に関しては「論文」は相当まえ
から採用されないことになっているそうです。それは「ことば」は文章でしか残せないか
ら、文字が出来る前の話しは「検証」ができないからだそうです。人類学で類人猿や原人
の頭の骨格から「ことば」を発する事が出来たかも「しれない」との判断は「可能」かも
しれないが、それだけでは「ことば」に関しては検証できません。「学」は「検証」なし
にはありえないのです。しかし、「にわか言語学研究者」が後を絶たないようで「今で
も」「起源に関して」「論文」を出す「素人」がいるそうです。せっかくだから、高田氏
の「ロマン」の一部を言語学に興味がなくても、私のブログを読んでくれた人に教えまし
ょう。
「手話の森を歩く」167ページより
まとめ
「言語」の最初の形態は身振りである。身振り言語が音声言語に主流を譲った原因はなに
か。それは抽象的な観念が身振りで表現できなかったからではない。こと表現に関する限
りは、具象語であろうが抽象語であろうが、身振りの方が容易なことは、これまで述べて
きたことからも明白だろう。
なぜ身振りが音声に「言語の」主流を譲ったかは、また別な興味ある課題である。とも
あれ、身振りは可能性を秘めたまま、ひっそりと眠りについた。
それはまた、聴覚を失ったろう者を無視することを原因とし、結果ともすることによっ
て、同時に「言語」としての発展することを中止したのである。それはまた、いつか目覚
める眠りでもあった。今やわれわれがそれをゆり起こしつつある。身振りは手話として、
次いで「言語」として必ずめざめるもであろう。
以下省略
この記述に高田氏の「思い」がこめられているだろうが、それは言語学の本をどう読め
ば出るのかわからない。「ことば」を発したのは人類学的にいえばほんの「少し前」で、
ほとんどが「ことば」のない世界であっただろう。しかし、「ことば」以前の「身振り」
と現在ある「身振り(例え、それが健聴者の身振りであっても)」・「手話」とは隔絶の
隔たり・違い、いやまったく違うということを「言語学」の本から学び取っていないとこ
ろに、どこを読めばそのような結論になるのか理解に苦しみます。高田氏の論理からは世
界のどこかに「身振り」で「会話する」「原人」「人種」「部族」が発見されそうであ
る。あの「身振り」は「ゴジラやモスラ」ではないから蘇ったりしないのである。
そもそも「ろう者」が何万年前の原人や類人猿に「同じ」「身振り」言語を話していた
「同祖」として「思いを」はせるのであろうか?そんな奴はいないだろう!
あー!いた!いた!一人だけ!お後が宜しい様で、こんな本など読まん!
こんな本は誰でも持っているわけではないから、借りる事も出来ないし、買って読んで
ネ!
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