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昨日の6月11日は大震災から3カ月という節目の日でもありました。
私は被災地からたった100㌔ほどしか離れていない地域に住んでいますが、今では何の不自由なく生活を続けられています。
これまでに数回仙台の中心部には足を運んでいますが、未だに津波の被害を受けた被災地には行ってはいませんでした。
というより、行けませんでした・・・・・
毎日見る報道の写真でしか被災地を知る事はありませんでしたが、同じ時代を生きた人間として、どれだけの大災害が実際に間近で起こったか知っておくべきだと塩釜に住む従姉妹から言われていました。
確かにそうだよな・・・・・とは思っていましたが、どんな思いで行っていいものか、決して中途半端な気持ちでは行ってはいけないと思っていたのでなかなか決心がつかずにいたのです。
ボランティアツアーなるものが最近はここらでもあり、申込すれば個人でも被災地へ行き、ボランティアとして支援出来ます。
が、これもなかなか一人で参加する機会ももてず、どうしたものか・・・と思っていましたが、この度主人の休日を利用し行く決心をしました。
先週の金曜日の事です。
従姉妹の話では高速道路を走るだけでもその様子は目にする事が出来ると言うので、私が一番わかる仙台空港周辺へ行くことにしました。
山形から宮城に行くには山形自動車道から東北自動車道に入ります。
ここからさらに海側に行くには南部自動車道というところを通り、さらに海岸線をずっと走る東部自動車道へと入ります。
この道路は南相馬の方へ行く上りと、石巻方面に行く下りになり、仙台空港に行くには南相馬方面へと曲がります。
くるりと車はヘアピンカーブ道路を一回転すると今まで普通に家並が続いていた眼下の風景がいきなり変わりました。
高速道路の右と左で全く風景が違うのです。
そうです、津波が押し寄せてきた海側の風景は瓦礫と押し倒された木、流された車、船が未だにそのまま放置されています。
ところどころに流されず辛うじて立っている家がぽつんぽつんと残っていますが、本来なら今は田植えが終わり青々とした稲が育っているであろう仙台平野の田んぼは津波が運んできた砂のようなもので覆い尽くされておりました・・・・
高速道路が防波堤の役目を果たし、右側の田んぼは田植えが終わっているところもありました・・・・
ショックでした・・・・
こんなに違うなんて・・・
そして仙台空港まで行く道中、私はテレビで知っていたはずなのに、実際に自分の目で見て驚きと悲しみで言葉も出ませんでした・・・
道路から海岸までは数キロあります。
道路から実際に海は見えません。
それだけはなれているのに津波はこの道路まで到達したんです。
沢山のかけがえのないものを一瞬にのみ込みながら・・・・・
高速を降り、仙台空港まで実際に行ってみました。
空港までの道路は使用できますが、途中の信号はまだ機能しておらず、警察官が手信号で交通整理をしてました。
私が通った時は神奈川県警の警察官の担当だったようです。
途中に航空大学校、海上保安庁の施設がありますが、ここも全て津波に会い、建物は残っているものの瓦礫の山が未だに多く残り、痛々しい状態でした。
私の友人の息子さんが今年航空大学校に入学予定でしたが、6月まで入学式が延期になっていると話していたのを思い出し、入学式が無事に行われるのか?と心配になりました。
仙台空港までの道路は普通に通行できますが、その他の道路は通行止めが多く、あたりは津波の爪跡がそのまま残っています。
山のような車のスクラップ。
押し倒された木々、枯れ始めた街路樹・・・・
仙台空港までの風景は全く変わっていました・・・
広大な民間駐車場の流された車は全て撤去され、巨大な空間だけが広がる、何とも異様なスペースになり変わっていました。
空港前の駐車場に車を止め、実際に空港のターミナルまで行ってみましたしたが、中は薄暗くシートで覆い囲われたわずかのスペースでJALとANAの登場手続きが行われていました。
周りの壁には全国から届いた寄せ書きのようなものが沢山張られ、中には千羽鶴もありました。
正直この状態で運行しているのが信じられませんでした。
空港周辺は懸命の復旧作業が行われていました。
でも以前のような仙台空港に戻るにはしばらくかかりそうだと思いました。
仙台空港は本当に海岸からすぐのところにあるので、飛行機や車がまるでおもちゃのように流されている様子は沢山の人が映像で見たと思います。
あたりはターミナルビルだけが残りほとんどが流されているので、異様な風景でした。
写真などとても撮る気になりませんでしたがこの一枚だけ・・・・・
津波にも負けず一生懸命に根を張り、花を咲かせた「タンポポ」
周りの生垣は根っこからなぎ倒され、枯れていましたがタンポポだけは生き残り花を咲かせていたんです。
自然の力には人間はかないません・・・・・
でも、自然には生き物を黄泉がえさせる力もあります。
その力を借りて、私たちは再び立ち上がらなければなりません。
そのための支援はまだまだ長期にわたり続けて行かなければならないと強く思いました。
この後塩釜まで車を走らせましたが、風景はずっと残酷なまま続きました・・・・
名取、荒浜、仙台港、塩釜までずっと・・・・・・
塩釜港も津波の被害に会い、廃墟と化した住居は住人の姿ももちろん無く、そのままの状態で残っています。
辛うじて建物が残っていても傾いたり、崩れたりで廃業した店舗も沢山ありました。
従姉妹の家は高台にあったため、津波の被害からは免れましたが、いたるところにひびが入り補修工事をしなくてはいけないと言っていました。
加入していた地震保険は対象とならず使えないとのこと。
まだまだ被災地の人たちには試練の日々がずっと続きます。
私が今回目にした部分は本当にごく一部分です。
でも、テレビで見たものとは全く別の惨状でした。
実際に目で見ると衝撃は何倍にも感じました。
沢山の亡くなった方への供養もしつつ、残された家族への今後の支援はみんなでずっと続けて行かなければいけないと強く思いながら岐路につきました。
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東日本大震災
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もう3ヶ月経ってしまったのですね。
あれからたくさんのことが起こりましたが、忘れてはいけない被災地のことが自分たちの生活がもとに戻ったことばかりが頭の中にあるように感じてしまいます。
被災地に住む人たちにとって、まだまだ元どおりの生活を取り戻すには時間がかかるのですよね。。。。
自分もこの夏に何ができるのかはわかりませんが被災地に足を運べれば・・・と思います。
何ができるのかはまったくわかりませんが。。。。
2011/6/12(日) 午後 10:49
masakiさん
短かったのか、長かったのか・・・・
地震と原発とどちらもまだ集結していない今、まだまだ事態は深刻です。
そしてこれから暑い夏現実問題として電力不足、避難者の生活環境、支援打ち切り、雇用問題、支援金の配分、行方不明者の存在・・・・あげてもあげきれない問題が山積です。
国自体がどうしていいのかバタバタしている現状、情けなくて仕方ありませんが、私達が気をもんでもどう仕様もありません。
私が出来る事は義援金の募金くらいです。
でも、出来る限り続けて行きたいです。
2011/6/13(月) 午前 8:23
こちらからもボランティアのバスが多く出ています。
APOさん同様、行きたい思いはあるのですが、どんな気持ちでいっていいのか正直戸惑ってしまって。
なかなか、決心がつきません。
怖いのかもしれないです。
こちらには、福島から避難してきた方々が多くいます。
その方たちの力になれたらいいなと、思っています。
出来ることをやる!ですよね。
2011/6/13(月) 午後 10:40
俺も一番衝撃的だったのが震災後、2週間くらい経って、初めて東部道路に乗った時の光景でした。ちょうどAPOさんが、衝撃を受けたジャンクションの手前の仙台東ICから空港へ向かう時に何気なく海側を見た時の光景はもう一生忘れることが出来ないくらいショックでした。
と同時にこの道路が多くの命を救い被害を食い止めてくれたのだとも・・・
皆が同じようなことを口にしますね。
テレビの映像と現実の目の前の光景は違うと。
人それぞれこの大震災に対してどう向き合っていくかはさまざまですが、この悲惨な現状が起こってしまった事実はしっかり受け止めて後世に伝えていかなければいけないとも思います。
2011/6/13(月) 午後 11:39
肝っ玉かあさん
難しいですよね・・・宮城ナンバーの車が走っていれば自然ですが、山形ナンバーでモンテのステッカー貼っている車が被災地現場ウロウロしていたら、どんなふうに映るんだろう・・・と。
実際に目で見て、凄かったです。
ショックでした。
だからこそ、まだまだ支援の輪は続けていかなればならないと思いました。
2011/6/14(火) 午後 1:26
KAZUさん
3か月過ぎてもほとんどそのままの状態で驚きました。
でも、あれだけの震災です。
東日本の太平洋側が何百キロと津波でやられてしまいました。
範囲が広すぎますよね・・・
これから暑い夏がきます。
そしてその後は寒い冬・・・
住むところが無くなってしまった被災地の人達は未だに避難所暮らしが続き、衛生面や体力面でもう限界かもしれませんね。
仙台空港周辺、荒浜、そして実際に歩いてみた塩釜の港周辺・・・
悲惨な状態はまだまだ続いていました。
日本国民一丸となって、頑張らなくてはいけませんね。
2011/6/14(火) 午後 1:32