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石川幸夫の教育ブログ
石川教育研究所 代表の独り言

中途半端な学力からは

「学力と知性」

イメージ 1 今月から、小学2年生のA君を個人的に指導している。このブログでも何度か登場している。学力は小学校の学習について行けない状態、正直小学1年生程度の学力も備わっていない。以前も伝えたが発声発音にも問題を抱え、滑舌も悪く、正しい発音が出来ない。授業時間はそれでも1時間半、90分の授業にした。この子から教わることは実に多くある。しかし、あくまでも低いのは学力、この子の能力全体が劣っているのではない。そして、ここに来て気付いたことがある。偏差値70代の中学生の生徒と、このA君に共通点があるのだ。

 小学2年生ともなると、子供同士の比較から、自分が他の子より劣っていることに気付く。それは、3年生頃になると劣等感、劣等意識へと繋がってしまう。2年生頃はその狭間で子供なりに悩む時期でもある。普段、A君はあまり両親とは会話をしないのだろう、初めの頃は何も話さなかった。実は、会話がなかなか成り立たない状態であった。数回の授業で私とも慣れて来ると、次第に話しをするようになって来た。しかし、まるで赤ちゃんのように、何を話しているのか、声も小さく、発音も悪い。それでも懸命に話してくる。私は、笑顔でじっくり最後まで話しを聞く事にしている。彼には表現出来る語彙数が少なかった。語彙数の少なさは、以前もお伝えしたとおり、「言葉を聞いたことがない」「言葉を発したことがない」「会話の回数が少ない」等、劣化した言語環境が考えられる。A君は、自分で自由に言葉を操れない。たぶん、乳幼児の時に沢山の言葉のシャワーを浴びていなかったのかも知れない。それでも話しをしようとする。授業でも落ち着きの無さはあるが、けして多動ではない。そして、驚くのは、絵本の読み聞かせを毎回楽しみにしていることだ。同じ本を何度もリクエストしてくる。

 最近よく聞くパワハラで、子供を押さえつけるような指導が批判を浴びているが、A君には笑顔を絶やさず語り掛けるような授業を心がけている。言葉の学習として行っているフラッシュカードでも、良い声で復唱してくれると、間髪入れず「いいこえ!」「いいねぇ!」など、短い言葉で誉める。最近では、この誉め言葉も「最高!」「グゥー」「OK」「いいよ!」などバリエーションが増えるほどになった。誉めると、より引き締まった顔になり、更に良い声を出してくれる。書写も、一生懸命になぞってくれる。当初は、はみ出したり、速く書こうとする傾向があったが、「ゆっくりでいいよ!」「ただ、丁寧に、はみ出さないように書こうね!」と助言を与えると、素直に聞いてくれる。今では、学習の流れを理解し、プリントを配ると、直ぐに名前を書き、問題文を読み始めるよになってきた。けして嫌がることはなく、むしろ出来る事が嬉しくなってきたようだ。使用プリントは、オリジナルの幼児用「E」教材。文字プリントは、書かれている日記を読み、なぞり、設問に答えるという基礎の文章読解がしばらく続く。

 イメージ 2高い学力を持った生徒と、この子の共通点は、学習に取り組む姿勢がとても素直なことだった。プリント学習でも、嫌がることなくこなしてくれる。それに対し、”やらされている”という印象はなく、プリントをこなす事で確かな学力を身につけることが出来る事を理解しているように感じる。これは、私の子供観だが、プリント学習がという事ではなく、子供に取って認めて貰うこと、自分を見ていると意識できること、自分の反応にしっかり応えてくれることなどが子供の精神的にも知性にも、その成長に大きな影響を与えるのではないかと思っている。また、学力の低い子や、幼児教育の基礎で、私は「パターントレーニング」という指導方法を行っている。指導の流れを一部パターン化し、次にどんな学習がくるか理解できる方法だ。子供に取って、次に行う学習を予想できる。現在、フラッシュカードは300枚〜400枚を行っている。これはA君にとってはかなりの量だ。国旗・植物・動物・星座・図形名称・漢字送り仮名・漢字熟語・平仮名種類別・四字熟語・分数・タイル・タイル合成分解・タイル計算・文ちゃんなど、種類は多い。殆どは、正しい発声発音に費やしている。やはり国名に使われる発音は複雑で難しく、長い国名は短期記憶も難しい。保護者からは、何故、難しい内容のカードをするのかを聞かれた。それは、外国語学習に似ている。たとえ母国語であっても聞いたことのない言葉、声に出したことのない言葉は、一度聞いて直ぐに発音できない。だから、乳幼児期は耳を鍛えることが求められる。言葉や会話を何度か聞いて、実際に発声しなければ脳はその言葉をなかなか認識出来ない。フラッシュカードの復唱は、言葉を獲得するために必要な脳の訓練で、特に学力が不足している子には適切な学習法だと思う。短期記憶の訓練にもなるので、言葉の遅い子供の学習には一つの選択肢ではないだろうか。

 まだ、数回の指導だが、この生徒に大きな変化が見られてきた。プリントを一人でこなせるようになって来たのだ。幼児プリントなので、問題もパターン化され少しずつ変化する形式になっている。ここで大切なのは、意外にも「ちえ」プリントで、考える問題が出題されている。言語刺激だけでなく、思考へのアプローチも忘れてはいない。長短比較・軽重比較では、大人でも難しい推理しなければならない要素を含んでいる。すると、言語と比べ、考え込みながら工夫して問題を解き始めた。○を貰う度、笑顔になる回数が増えてきた。「できる」「できた」という達成感は、学習を進める上の原動力になる。昨日など、私自身、次の授業が待ち遠しいと、そんな気持ちになっている自分に気付いた。

 学習に臨む子供達の中には、学ぶ事に否定的でイヤイヤ行う子供達もけして珍しくない。また、毎日の中で、惰性で授業を受ける子もいる。家庭教師や個人指導では、時折、学習するふりをしながら遊びをねだる子供もいる。学習に中途半端に臨む子は、一見学習をしているように見える偽りの環境がある。親からの指示で、勉強をしなければならないという義務感で学習する子は、これまで野知識中心であった教育であればそれなりの成績を収めることが出来た。しかし、思考力重視の教育になり、一夜漬けが出来るテストは次第になくなって来ている。それが、学力の二極化を産んでいるような気がする。これからの学習は、子供の意識が、成績を大きく左右するだろう。A君は「しなければならない《must》」から、「できる!《can》」に変化し、笑顔で授業を受けるようになってきた。本人に聞くと「勉強が出来るようになりたい!」と言い切った。

 子供達に望むのは、「○○をしたい!《will》」だ。中途半端な学習から得られるものは少ない。子供が本来持っている向上心や好奇心等、学習指導の原点を指導する者は大切にしなければならない。課題は、中途半端に学習に臨む子供達への指導だ。中途半端であるから、学習の限界も自分で決めてしまう。子供の精神性、努力の意味も含め、人間性を高める指導が注目されるのはこうした背景があるからだろう。中途半端な言葉の理解、中途半端な知識の理解、学習には、知識の広さも思考の深さも必要になるが、それぞれに大切な語彙数と思考の組み立て、言葉の組み立てが必要になる。語彙数の少ない子は、多くの場面で思考が停止してしまうと言うが、単に語彙数が多いだけでなく、語彙を利用した話しの組み立て、文の組み立てが指導上とても重要になるだろう。算数・数学を指導していると、やはり思考を深める言葉が少ない事が気になる。その為、今、国語指導では音読に力を入れている。先程も述べたが、文字を見て音声に換える音読は、言葉の広がりを得るために必要な学習だと思う。前にも述べたが、教科書の読めない子、問題文を読めない子は多い。

 小学6年生の文字式の問題で、「文字の式で表しなさい。」という問題がある。今までは、問題から式を立て、計算し、答えを導いていたが、ある生徒は、計算した答えを書いた。と、知り合いの先生から聞いた。答え方に悩む、まさに読み取りが出来ない子供達は、国語だけで躓くのではなく、算数でも簡単な」文章読解が出来ず躓くことになる。知性は高いが学力がない、一見矛盾した表現だが、学力を支える5つの技能の習得は、知性の上に立つ。学ぶ事で、自分に備わっている知性はより高まることになる。学んで生きることが学生なのだから。

 

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大人そして親の存在

「父親の存在感」

 日大アメリカンフットボール部選手の犯した反則行為が、当初の予想を超え社会問題化し始めた。生徒を守る立場の大学と部の部長およびコーチ達は、あくまでも私見だが、生徒や選手より、目に見えない大学という組織もしくは、組織の中心である大人達を選択し保護しているように見える。対して、やはり、親は、我が子を守る為に動き出している。

 いざというとき、やはり親の存在は大きいと言える。今回の件で、親子間の話し合いが目立っている。相談できる大人として親を選び、親が我が子の言葉に耳を傾け、社会人として、大人として、そして親としての見地から判断を下したように感じた。選手と親、その自然の流れは、この一連の不透明な流れの中で、唯一血の通った温かさを感じる。選手達が大人に救いを求めた、その相手が親であったこと、それに、真摯に向き合い、親として直ぐに対応した。そして、選手達も、自発的行動を取り始めている。自然浄化作用は、組織では無く、こうした親子間、選手間という枠組みで沸き起こっている。

 この問題は、まだまだ難問が待ち構えている。果たして、大学として、この一連の不祥事から、宮川選手(あえて実名で書かせて頂いた)の処分を下すことが出来るのだろうか。彼の犯したルール無視の反則行為は許されるべきではない。一部では傷害事件として扱われるとの話しもある。では、彼を退部に加え、退学処分という厳罰を与えるのだろうか。多くの方が、宮川選手もある意味被害者であるとの見方をされている。法的解釈は私の専門外だが、この判断はそう簡単な事ではなさそうだ。ただ、宮川選手には、ずいぶん悩んでおられると思うが、一時の感情と短絡的な判断で身を引くことは避けて欲しい。この問題は、生徒を預かる大学という大人の組織、そして、父親であり母親であるという、もう片方の大人の判断となる。となると、大人としての責任はとても大きなものだ。

 また、指導者の指導責任から被害を受ける部員達の対応も併せて考えなければならない。アメリカンフットボール部が廃部に追い込まれれば、大学は、今の部員をどのように救済するのだろうか。既に試合はボイコットされている。ここでも、「まず生徒を!」という大学の果たさなければならない役割や姿が見えてこない。こうした背景を見てしまうと、部の運営が勝利至上主義とと共に、大学の良き宣伝材料と化し、生徒や選手達を「モノ扱い」しているのではと、勘ぐりたくなる。だから、使い捨て、切り捨てされると見られても仕方が無い。

 普段、煙たい存在の父親だが、今回の問題で、父親の姿を数多く見た。大学より先に宮川君の被害者への謝罪を進めたのも父親であったと伺った。怪我をさせてしまった息子の親として、その対応は大学よりも早かった。社会人として、親としての危機管理能力は大学よりも勝っていた。何よりも親として怪我をした選手の身を案じた事だろう。弁護士を同席させたとはいえ、一人で会見に臨んだ姿は、親としても断腸の思いであったに違いない。親御さんは、会場のどこかにいらしたのだろか。ご本人もそうだが、親も同じ辛さを味わっている。親の出来ることはそれくらいだと思われているかも知れないが、同じ子を持つ親としていたたまれない思いだ。

 「嘘で丸める」そんな光景は今や政治の世界だけで無くなってきた。真実は至ってシンプルだ。嘘をつくには多くの言葉を使わなければならない。しかし、たとえ”
丁寧”な言葉で言い繕っても真実の前では色あせる。大人の行動や言動は全て子供達の”手本”となることを忘れないで欲しい。今回、父親の危機管理能力が子供達を救っているように見えた。

 

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聞く力と語彙力

「日大アメリカンフットボール部謝罪会見について」
【言葉】
 昨日の日大アメリカンフットボール部監督とコーチの”謝罪会見”は、日大広報部の方も加え、実にお粗末な会見となった。一瞬、今政界を混乱させている森友問題、加計問題の政府側の国会答弁を聞いているような錯覚を覚えた。前日の加害者と言える学生の会見と一番違う点は、真実を述べる者の言葉と、真実を語れず誤魔化す者の、言葉の違いだった。明瞭で明確な説明と、言い逃れをし真実を隠そうとする”ことば”にこれほどの違いがあるのかと、思わず納得してしまった。真実を語る者の言葉は、短く明瞭、対する言い逃れと思われる者の言葉は、長く意味不明だ。まさに「言い訳をするな!」とは、最近では大人に向けた言葉になっている。最高学府としての責任は大きく、こうした体質の機関に税金を使う意味も問われてしまう。

「聞く耳を語彙数を増やし、語彙力が聞く力を……」

 子供の知的成長は語彙数に比例すると言われている。それは、理解力、集中力、思考力、判断力、表現力等々、全てに「ことば」を必要とするからだ。言葉には、普通名詞・固有名詞・数詞・動詞・形容詞・形容動詞・副詞等々があり、更に加えて、数字もその仲間になる。


 昨日の日大アメリカンフットボール部部長とコーチに対する質問の回答が意味不明な部分が多々見られた。それは、普段使うことのない「弁明」に対する語彙を持ち合わせていないことがあるからではないだろうか。それだけ真実を語ることの方がシンプルな言葉で十分表現できるのだろう。語彙数、私たちの持つ言葉の数は、年齢や経験・体験、そして、読書や学習によって増加する。また、言葉の引用は読書だけで無く、会話からでも養うことが出来、会話は、生きた言葉の学習になるだろう。

 学習遅滞に悩む子供の多くは、先生の説明する言葉を理解できない場合が多い。それは、言葉を聞き取れないという状況を生み出す。幼児教育がそうであるように、聴覚を鍛えると同時に、視覚的指導が多いのも、語彙数という指導の壁があるからだ。だから、学力に劣る子供の指導において、言葉中心の指導は子供に苦痛を与えることになる。今、小学2年生で、学力に悩む生徒を指導している。やはり、語彙数が少なく、言葉もはっきりしない。そこで、五十音表の単音からはっきり発音するよう指導を行っている。”声を出す指導はとても大切”なので、五十音表・フラッシュカード・素読は欠かせない。

 言葉を覚えると、その言葉に関連する言葉も自然に使うようになる。言葉が言葉を呼ぶ。授業に必要な集中力も、先生の言葉を理解できなければ、じっとしているだけでも苦痛になる。だから聞く耳を育てることが大切になるのだが、それは、幼児期の子育ての中にある。けして教育機関で養われるのではない。先日ある先生から、「音読や素読はどのような効果があるのか?」と質問された。歌を歌うとき、自分の声を確かめる為、耳に手をあてることがある。他の音を遮断し、自分の声を確かめるのだが、音読は、人の声では無く、自分の声を聞くことになる。目にしている言葉と、読んだ言葉がシンクロされる。それは、文字と音声に変えられた言葉が一致することを意味している。また、素読は、漢詩なので、先生の声をしっかり聞かなければ復唱できない。これは、フラッシュカードの文章版とも言える。聞くことを中心にした学習になる。言葉は耳で覚え、後に文字として視覚で覚えていく。聞く姿勢を育てるには、「聞く」環境を整えなければならない。

 中1の数学では、今の時点で正の数・負の数・符号・絶対値・逆数・指数等々の言葉が登場している。中学生になると学校の授業では多くの専門用語が出てくる。理科においても社会においても、漢字表記からカタカナ表記まで、多種多様な言葉が溢れてくる。言葉の解釈、理解、そして、言葉の数は、子供が学習を積み重ねる上で最も重要な位置を占めているのがわかる。授業を聞いているだけでテストでも良い点数をとれる子がいる、授業理解は、解説、説明の理解、そして、それは言葉の理解になる。幼児期、耳を鍛えることで言葉を獲得し、獲得した言葉は、更に次の言葉を引き寄せる。

 今、子供達に求められている思考力は、具体的な学習指導として、言葉を獲得する基礎をどのように育てるかが鍵になる。子供達の持つ言葉の壺を満たし、満たされた言葉は、思考という工程を経て加工され、新たな言葉場の使い方や考え方になる。聞く力と語彙力は密接な関係にある。

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「子供の本音……」親からのストレス!

イメージ 1 親子間でも、夫婦間でも、人と人との間を取り持つのは会話だと思う。会話は、話し手と聞き手が交互に変わり成り立つ。話題や趣味、そして考え方等の理解、共感、反発、受け入れは、親子間の会話から培われ、やがて同じ感覚を持つ同年齢の友人とさらに言葉を交わすことになる。しかし、久しく社会は「個」の時代を継続している。電話も、家族で共有する”家電”から個人の携帯(スマホ)になり、長電話を親から咎められることは無くなった。今では、家族がそれぞれの場所でスマホに向き合っている光景も珍しく無くなく、益々人との関わりを間接的な関わりになりつつある。スマホとのコミュニケーションは上手いが、人と人の直接的関わりは苦手だとする人は思いのほか多い。

 私は、まだ現役で子供達の指導をしている。テレビ関係者から、「先生は、何故未だに生徒指導をされているんですか?」と質問された。少なくとも、教育評論家としてマスコミに登場する以上、今を生きる子供達や子育て真っ最中の保護者と直に関わりを持たなければ生きた評論は出来ない。時には、子供達や保護者の代弁者に鳴る必要がある。私は、算数や数学の授業を行いながら、子供達と沢山の会話を心がけている。知識を伝えるならPCやスマホで事足りる。最近ではYouTubeで学習指導が配信されている。しかし、子供と”向き合い”直接指導することに意味がある。会話が進んで来ると、子供の行動や言動に変化が出てくる。そこには、”信頼”という、書面で交わした約束などで無く、コミュニケーションを通じて得られる安心感が存在する。

 驚くことに、膝の上に乗ってきたり、猫のように体を擦りつけてきたり、スキンシップを求めてくる。それが、低年齢から高学年までで、男女問わずだ。そして、中学生位になると、言葉を交わす事を求めてくる。つまり、会話を求めてくる。中には無口な子もいるのだが、何かに付け話しかけることで、自分を見ていてくれるという安心感を持つようだ。中学3年生くらいになると、”恋愛”問題にも話が及ぶことになる。会話を通し、子供達の成長の変化も敏感に感じ取ることが出来る。私は、教科指導も大切だが、やはり、非認知能力の重要性を重く受け止めている。AI時代の到来で、人に求められるのは、コミュニケーションではないかと思う。AIが進化しても、やはり最終的には人の判断が求められのだろう。

 ”スマホ依存”が広がりを見せている。既に中高生の52万人が”スマホ依存症”であるとの所見がある。医療も”手当”から、検査データの分析に移り、病院でも医師はモニターを見る時間の方が遙かに長い。すると、患者は医師に様々な質問をしたくなる。これは、高齢になるほどその時間は長い。今、最も話をしたい年齢は、子供達と高齢者なのかも知れない。授業の中で子供と会話をしていると、「そうなんだ!」と思わせるほど、子供から心の声、本音が聞こえてくる。親の考え方と大きなギャップを感じることもある。幼い子は「先生、あのね」と切り出してくる。学年が上がるにつれ、悩みも打ち明けてくるようになる。丁度今頃の季節は、子供の本音が数多く聞こえてくる時期だ。

 こうして子供達と接してみて、子供が親に対し気遣い、遠慮している姿を数多く見てきた。見えないところで、子供は親からストレスを受けていると感じる。勿論、子供特有の我が儘もある。自己中心的な幼い考え方もある。それでも、親に気兼ねしている子供の存在がある。子供は、意外にも親を見ている。それは、ストレスになったり、不安になったり、まだまだ理解力に欠ける子供達には負担になることも多い。また、これは、身体が大きくなった中高生でも精神的成長から見るとまだ子供なのだと感じることもある。実際、彼らは未成年と言われるように、未熟な存在なのだ。幼い頃は、親の指示や命令を聞かざるを得ない状況にある。親は命令と思っていなくても、子供の側からすれば命令になる。ここが、親として難しいところだ。よかれと思っていても、それが子供の負担になることがある。

 だから、会話なのだと思う。会話には、双方のコミュニケーションが整わなければ成立しない。聞くことの大切さ、相手に思いを伝える難しさ、幼い頃の親子や、私など大人との会話の時、年長者は、”聞いているよ”と子供の思いを受け止める大きな心が必要だ。言葉では語彙数豊富な大人に負ける。少ない語彙数で語る彼ら子供の言葉に耳を傾けて欲しい。子供達は話したがっている!
 

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「小学1年生から目立つ指を使った計算」

 イメージ 1「教科書が読めない!」という衝撃的な報告は、改めて、国語教育の手前である、幼児期の、言葉の学習に大きな課題を与えた。言葉は子育てという環境の中で自然に習得されていくが、その子育て環境に変化が生じていることの証なのだろうか。

 言語発達の問題提起は、数や算数分野にも及び始めているという。言語環境というものがあれば、数環境というものもある。言語発達と数概念の習得は、具体的な経験や体験が大きな影響を与える。広い、狭い、長い、短い、高い、低い、多い、少ない、分ける、数える、揃える、まとめる、集める、そして、比べる等、ざっとあげても、数・算数に関する刺激は生活のあらゆる場面に存在する。学問として、数や算数を学ぶ前に、生活の一部として数に関する要素を学び取ることは、数・算数への興味や関心を高めてくるれ大切な要因になる。抽象的な学習の第一にあげられる算数の成績格差には、子供達の数に関する生活体験や経験、場合によっては幼児期の数指導などにどこか変化が生じているのかも知れない。
(右図は、タイルで表したn進法、上から2進法・5進法・そして10進法)

イメージ 2 小学1年生の計算指導、子供達は「しってる!しってる!」「できる!できる!」の合唱になる。所が、いざ指導を開始すると、多くの子が指を使い始める。指を使った計算(?)では、多くの特徴が現れる。「2+7・7+2」では、計算にかかる時間に大きな違いを見せる。そして、引き算の学習になると計算のスピードは極端に遅くなる。更に、「0」のつく計算では、引き算の筆算、かけ算、割り算、小数計算で同じミスを繰り返す。「0」の間違った解釈が、その先の学習に影響を与えている。「36×0=36・36÷0=36」、こうしたミスは、「0」は、「何を足しても答えは変わらない」という、後から気付き「0」という数を理解するのと違い、最初から、「0」という数の特徴の一つを印象づけている指導が連想される。概念は、理解する事が大切なのはみなわかっているが、どこかで、機械的な処理を子供達にさせているのではないだろうか。だから、具体物を使っての操作や、その操作などを通じて、気付き、理解することが基礎指導のあり方だと思う。

 水道方式による低学年や幼児の数・算数指導が注目を浴びているのは、こうした背景があるからだろう。幼児の数指導は、本格的な算数指導が行われる前段の指導となるので、焦ることはない。時間も十分余裕がある。また、年齢が上がるに従い、数に対する認識度も上がってくるので、ゆっくり、そして、繰り返し、継続的な指導が出来る。水道方式の数指導では、「5」の数がとても大切な位置を占めている。算数の計算が10進数で行われるが、「10進数」は、人の指の数が基になっているという説がある。「1」が10集まると「10」、10が10集まると「100」、とても分かり易い構造だ。指を使って計算をする子供の様子を見ていると、片手の「5」を基準としてしることに気付く。「5」は、指計算でも、大切な役目を担っている。そして、この「5」は、繰り上がりの基礎になる役目もある。

 イメージ 3昨日、「お母さん教室」の依頼があった知人から、正式に「幼児の算数指導 お母さん教室」を頼まれた。お母さん方からの声が多数あり、参加しやすい料金でと頼まれ設定した。指導は、水道方式によるタイルを使った数指導と言う依頼、実は、この依頼の発端はお父さんだった。幼稚園から出されたテキストを、指を使って計算をしていた息子を見て、お父さんがタイルの指導を進めたそうだ。お父さんは、幼児から小学生の頃、タイルで算数指導を受けられていたことを思い出し、我が子にもタイル指導を、と考えられたという。また、来年、入学する子供を持つお母さんは、既に入学した子供達のママ達から多くの情報を集め、今から始めなければと少し焦られたようだ。当研究所で販売している「入学準備テキスト」も検討され、購入され、知人から私の事を聞き、ママ友を集められ「お母さん教室」の開催となった。この教材、以前は期間限定だったが、保護者の方々からのご要望で年間を通して販売するようになっていた。

 タイルは、使い込んでいくと、日本の伝統的な「そろばん」と同じように、タイルが頭の中でイメージ化されてくる。「そろばん」と違った利点は、応用範囲が計算だけでなく、様々な概念形成に映像として表現出来るところにある。20年前、塾の先生方にタイル指導を行い、その指導から、中学生の「式の展開・因数分解」そして関数グラフに応用された先生がいらした。その指導法は、当研究所主催の研修会で披露された。整数だけでなく、小数にも同じタイルが使用できるなど、その指導範囲は広い。

 3・4・5、これは、年齢に則した数の理解を表している。つまり、3歳では3までの数ということになる。こうして、幼児期は年齢と共に数の概念を広げていくので、学習にも無理がない。誰にも言える事だが、「知っている」ことは「理解」とは違う。だから、繰り返し、継続して行うことで、気付きや発見に繋がって行く。この学習会を始めるきっかけとなったお父さんは、これからの時代により必要になって来た思考力・抽象的思考について、水道方式の「考えられる算数」指導に着目されたようだ。今回は、幼児向けの内容になるが、小学生向けの内容も引き続きお願いされた。既に定員一杯になり、知人も驚いている。

 イメージ 4水道方式では、計算指導に入る前、数の概念、記号の意味、数字の導入(具体:数詞:数字)、タイルの導入(具体:数詞:数字の三者関係)数の合成分解、足し算の概念(意味:合併・増加・添加)・計算指導(5・2進法)へと進んでいく。今回の学習会も、これに則して行われる。計算は、タイルを使い、簡単な計算からタイルのイメージも膨らませながら行われる。まずは、足して4までの計算(2+2型)、そして、大切な5になる計算(2+3型)、次に5を基準とした計算(5+2・2+5型)へと分析された基礎計算を学んでいく。「5のタイル」の重要性が次第に理解されてくる筈だ。また、シンプルなタイルだが、だからこそ分かり易いと気付かれることだろう。遊び感覚でタイルを使う、7+7など、「7と7の5と5で10、2と2で4、答えは14」、子供の頭の中でタイルが動き始める。子供達には、速く指にさよならして欲しい。
 



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