「依存社会の中の新たな依存『学習依存』」 先日書き上げた原稿の中に、「自ら学んで得た学習の質と重み、そこから得られる充実感は、教え込まれた学習とは比べものにならない程大きい。」と、書いた。教育格差が叫ばれて久しいが、自ら学ぶ姿勢を示す生徒と、指示や命令に従っている生徒の差は歴然としている。実は、意識を持って学習に臨むことはさほど難しくない。自ら学ぶ姿勢を示す生徒は、ごく自然に学習状態に入る。短いながらも、その生徒の人生が、意識を持って臨むことを体感し、それによって得られる達成感を感じているのかもしれない。楽することを幼い頃から覚えてしまった子は、概ね努力には背を向ける。最早、能力とは関係なく、楽という無自覚な生活からは怠惰という言葉しか思い浮かばない。よく、大人は子供の頃の遊びは大切だと言う。しかし、その遊びにも「質」がある。今の遊びを想像すると、それが大切だとはなかなか胸を張って言えないところがある。
何故、多くの人達がゲームにはまるのか、それは、ゲームの構造が人の心理を巧みに突いているからだ。それを「ツァイガルニック効果」と呼ばれている。つまり、未完のタスクに人ははまりやすいのだ。ゲームにきりがないのはこのためだ。だから、完了してしまうと,そのゲームへの興味は直ぐに薄らぎ,次へと意識が向いていく。そして、長時間のゲームとなり,気がつくとゲーム依存という病的疾患に陥っている。
モノに頼る、人に頼るなど、何かに頼ることが多くなってきた。最近ではアルコール依存、薬物依存など、人々の心の成長が気になる。実際、私達は何かに頼り切っている。それは、災害が起こると実感できる。停電などすると、電気に頼っていることを実感し、断水になると、水に頼っていることを実感する。便利な世の中だから、つい”楽”をしてしまっている。教育の現場を見てみると、幼稚園や保育園では、箸の持ち方から、トイレトレーニングまで先生に頼っている。何度、このブログでも話しをさせて貰ったが、学習においても、自ら学ぶ生徒と、先生などの指導に頼る生徒に二分される。この両者に入らない生徒は、初めから学ぶ事を拒否している。学習依存と呼ばれ、誰かの指導に頼る生徒は、せっかく指導しても、それを記憶せず、記憶できず、また聞けば良いと安易な考え方を持つ。だから、一向に成績が上がっていかない。誰かがまた教えてくれるからだ。自ら学ぶ生徒は、この部分が大きく違っている。自律学習のできる生徒は「わからない」という結論を出すまでの道のりで大きな違いを見せる。そこには、様々な思考を巡らせ、幾つもの考え方で問題に切り込んでいく葛藤がある。だから、その生徒から質問が来たとき、私自身、身構えて聞く事にしている。直ぐにヒントを出すような、解答を導くようなことはけしてしない。それは、生徒に失礼だからだ。まずは、問題文を何度か読んで貰い、どのような考え方をしたのか尋ねる事にしている。その際にも、生徒は思考を重ねている。だから、聞き方が違う。こうして、問題についてやりとりをしているとき、自らヒントを導き出し、自力で解いていく。ここで、この生徒はまた大きくステップアップしていく。
学習依存の子は、直ぐに「わかりません」という禁断の言葉を口にする。塾の先生など、指導しても「わかりません」という言葉を聞くと直ぐに反応する先生が多い。問題文を読みもせず,問題の内容を考えもせず、”見た”だけで、直ぐに「わかりません」という子は、学習依存に近づいている。「教えない指導」難しいが、それが理想だろう。人の持つ「志」という言葉が眩しく見える。
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