団塊の世代の虫眼鏡と遠眼鏡

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罰あたり…

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 おいらは筋金入りの葬式仏教徒である。
 父親のおかげでガキの頃から「なんまんだぶ」の世界で生きてきた。祖母が生きているころは、何だかワケも分からぬままに無理矢理、村の「講」に連れて行かれたものである。
 そこでは、おおぜい婆ぁ婆ぁ(ばぁばぁ=親しみを込めたその村での呼び方、ババァではない。)連中が集まっているところへ、寺から院住がいそいそとやってきて、念仏と説教をするのである。

 これが何だか知らねぇがこれでもかってぇくらい長いんだよね。
 ところが婆ぁ婆ぁ連中ときたら、ふだんは体調が悪いだの、足が痛いとか腕が痺れてるとか、ああだ、こうだと、同情をひこうと弱ってるふりしやがってるくせに、その時だけは何んだか知らねぇがひどく元気でいきいきしてるんだね、これが…。
 年よりの元気のもとてぇのは、えてしてこんなことろにあるんだろうね。

 そのうち、誰が指図しているのか頃合いを見計らって、車座になるんだ。音も立てず、するするっと…、移動しちゃうんだ。
 ふだんから体の調子が悪いとか、足腰が痛いとか言ってる婆ぁ婆ぁ連中が豹変しちまうんだ。

 その上、院住のお経がはじまると、これに合わせて脳天に響くような音で鉦(かね)を叩きのめし、ひどく大きな数珠を繰りながら、大声で「なんまんだ〜ぶ なんまんだ〜」と嗄れ声をはりあげてこれをやるんだよ。
 見たことがない連中には、こんなこと絶対信じられねぇよ。ったく。

 これを約2時間たっぷりやって、一通り済むと、お膳にご馳走をこれでもかって盛りつけたやつが、いつの間にかスルスルっと出てきて、婆ぁ婆ぁたちは、いよいよ飲めや歌えの大宴会に突入するんだ。
 最初の内は院住もいるから、猫かぶっていやがるんだが、適当に料理と酒を振る舞うと、院住も心得たもので、寺でのお勤めがあるとか何とか言っちゃって、早々に引き上げることになっているんだ。

 そうするってぇと、その場にいるのは婆ぁ婆ぁだけ。
 おまけに、なぜか男衆はその家の当主も含め一人もいない。雄の犬か猫はいたかも知れないが、とにかく女衆だけの大宴会が始まるのである。
 おいらは男だけれど、ガキだからどうだってかまわなかったのだろう。
 日常生活から開放されたコミュニティー空間で、何の気兼ねもいらない女性のリクリエーションの場というわけだ。

 つくづく思うのだけれど、昔の人は智慧があったんだねぇ。良い仕組みを考え出したものだねぇ。
 もちろん、信心深さもあっってのことだろうけれど、「講」だとか言って、仏様まで自分らの宴会のダシに使っちゃうんだから、ほんとにたいしたもんだ。
 また、これを逆に活用している仏教ってぇのも懐が深いし、これとても、智慧があるんだなぁと思う。

 余談だが…、前段の「脳天に響くような鉦の音」についてだが、これは4,50年前の出来事なのに、いまでもその音が耳に残っていて、たまぁに、朝か晩に「き〜〜ん」とか、「かき〜〜ん」と耳に響くことがある。これがまた実に不快な音で、耳の奥で響くんだ。
 ひょっとしたら脳神経に問題があるかも知れないと心配したこともあって、医者にこの話をしたところ、その藪医者め、「単なる耳鳴りだろう…歳、歳のせいだよっ、心配するほどのことじゃぁない」って抜かしやがった。

 このスットコドッコイ! ものの分からねぇ奴には話したくもねぇ。受診料損しちまったわい。
 その後、このことが原因で医者を替えたのだが、同じことを言われるのが嫌だから、しばらくはこの替えた医者にも話はしないことにしている。
 様子を見てからでも遅くはあるまい。

 本題に戻ろう。
 ということで、おいらは葬式の時にくらいしか手を合わせることもなければ、坊んさんに会うこともないし、ましてや、学校でも先生から「少しは先生の話を聞け!」と言われ続けたガキだった。
 だから院住の法話になんか金輪際、耳を傾けるような素直な人間じゃぁないと言うわけだ。
 つまり、おいらは信仰心のかけらも持ち合わせちゃぁいないということを言いたいのである。

 しかし、しかし…、 しかし、である…。
 人間、いやいや、他の人はいざ知らず、おいらみたいに何の努力も精進もしたことがなく、ただただ、時に流され、行き当たりばったりの人生をブラブラしてきただけの、罪悪深重、煩悩熾盛の自堕落人間でさえもも、馬齢を重ね、狭くともそれなりの世間をわたり、その垢にまみれながら、諸行の無常なる相を肉親や身近かの者に見るにつけ、どうやらここらが年貢の収め時とばかり、彌陀本願に救いを求めようという「ズルい」ことを考えつくのである。

 いや、いや、やっとこさ思いついたというほうがあたっている。
 おいらはそろそろ60歳。信仰心とはまったく関係なく、ガキの頃から、毎年、決まって正月にはニワカ信者となって、見さかいもなく、あちこちの神社や寺に出かけ、かたっぱしから、わずかな賽銭や布施をするかわりに、これでもかってぇほど、あれもこれもと欲深い願いゴトをし続けてきた。

 とにかく一方的に「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」「良縁成就」「恋愛成就」「結婚成就」「子授け子宝」「安産祈願」「学業成就」と祈願してきたということである。
 そのあたりのところは、神様も仏様もとうにお見通しのことゆえ、何とか災難からだけはお守り下さったようだが、この歳になるまで、特段良いことなど何もなかった。
 困難や悲惨な不幸ごとには見舞われることなく生かされてきたことだけでも感謝、感謝で謙虚に暮らすべきなのだが、そういうことを平気で言い放つのである。ここが欲深いおいらの真骨頂なのだ。
 
 しかし、近頃、明らかにこれまでとは異なり、ち〜っとばっかり、心の奥底で何か変化が起きているのではないかと思うようになった。

 と…、何か心境に変化が起きていると思っているところへもってきて、ガキの頃から、境内や墓場を遊び場にしていた、文京区にある「護国寺」という寺に、チベットから、ひどく偉い坊さんがやってきて、砂曼荼羅を描くということ、そして、如意輪観音菩薩様も拝めるというニュースを耳にしたのであった。

 そこで、よく調べてみるとこれには目的がいくつかあって、チベットにおける中国との紛争について、ダライ・ラマ率いる亡命政府からのメッセージや、チベットと日本の文化交流だということであった。そして、何より興味がひかれたのが、「チャド・リンポチェ阿闍梨」というその高僧から「潅頂」という儀式をして頂けるということであった。
 そこで、件のごとく罰当たりのおいらは、物見遊山をかねて、この<不動明王の潅頂>とやらを受け、健康で長生きできるようお守り頂こうと企んだのである。

 だって、毎年、近所の神社や寺に行ってるのだから、護国寺さんにだって行ってあげたっていいはずだ。むしろ護国寺さんだって公平にしてあげなくちゃぁ、不公平になる。と、自分に言い聞かせたのであった。

 本心を白状しよう。これからおいらが本格的に迎える老後の不安を、<不動明王の潅頂>を受けて、仏様のご加護を頂き、この際、少しでもこの不安を払拭したいと思ったのである。

 ほかに<薬師如来の潅頂>というのもあるらしいのだが、これは現役の僧侶や信心深い人が受けるものらしくて、これを受けると、あれこれやっちゃぁイカンっていう「戒律」と、これこれをしなくちゃぁならないってぇいう「修行」があって、どうもおいらにとっては、かなり敷居が高そうであった。
 だからこれはおいらには向いていないっ。こんなにハッキリしてることはないっ。
 「戒律」と「修行」なんてぇ言葉を聞いただけでも身体の芯から具合が悪くなってくる。
 ウッ! ただ考えただけなのに…、ひどい悪寒がはしった。これは身体に良くないっ!
 ガキの時分からここらの勘だけは良く働いて、ものを考えない割には災難をまぬがれてきたのであった。身の丈というわけだ。これが原因で病をしょいこんじゃぁ本末転倒と言うことだ。

 また話が脱線してしまった。本題に戻ろう。
 念のためだが「潅頂」は厳かに行われ、場違いなおいらも信心深い衆生に紛れ、善良な仏教徒を装い神妙に頭(こうべ)を垂れた。それでも瞑目はせず、そっと堂内を観察しながら手を合わせていた。

 しかし、ここで起きたこと、耳目に触れたことは、ここに書かない。何が何でもここに書くわけにはいかない。だって、不動明王さまとおいらとの対話であるからして、心の深〜いところにしまっておくことにした。究極の個人情報ということである。
 どうやら、この<不動明王の潅頂>ってぇのは今のおいらの心境にぴったりはまったことだけは確かである。

 また、遠い国チベットとそこに生きる人々の喜びや苦しみ、とくに、亡命している人々の願いを身近に感じることのできた一日であった。
 と同時に、無辜の民衆の側に立って、政治や宗教がどのようにその力を発揮しているかを問われていることを、しみじみ考えさせられたのである。ましてや為政者とその国家権力のありかたで国民が苦しめられていることには憤りを禁じ得なかった。

 世界中、上から下まで…、そう、町の世話役のような、およそ権力とは言い難いものまで、それなりの力(発言力)を持ったとたんに、偉そうな口をきいたり、傲慢な態度で指図し、人をアゴで使い回したがるんだ。
 相手がいうこと聞かないとなると、主義も主張も違うのに、簡単に徒党を組むんだ。こういうのを「野合」というんだ。(この言葉も下品だねぇ。)
 そうやって、あれこれ悪事を画策してでも自分を通そうとするんだ。わがままのし放題てぇところか。
 その原因になっていると思われるのが、ねじれた名誉欲だったり、自分でもどうしようもない意固地な心だったり、一口で言えば「我が、我こそが」という自己主張・自己顕示欲なのであろう。

 この時代、自己主張できることは人として、市民として、国民として、まぁ、いろいろとこれは大切なことなのだが、どうも、その作法まで身に付けるところまで至っておらず、何を言っても構いやぁしないと思いこんでいるようだ。つまり、放言ってぇことになる。

 もともとそういった輩の自己主張はご都合主義だから、自分の都合に合っているか、いないか程度のところを基準にしているから、その視点で見聞きしていればすぐ化けの皮を剥ぐことができる。

 ホントに嫌な生き物だねぇ…、人間てぇのは。
 でも、それが人間の人間たる所以(ゆえん)なのかも知れないなぁ…。
 哀れだなぁ…。

 誰でも母親の腹から裸でコロリと生まれてきたわけだ…、何〜も持たず、何〜も知らず、親や世間に世話になりながら…、迷惑をかけながら育まれてきたはずなんだ。
 でも、そんなことすっかり忘れてしまって…、偉そうに……。

 そんな奴(誰…?)でも、どうか罰が当たりませんように…、とお願いしておいた。 

 おいらは煩悩具足の凡夫 「頑固オヤジ」だってぇの! わかったかぁ!

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輪廻という気が抜けるような長い見方からいえば、一生に積み重ねた傾向と、一秒でも発心して修行することの重さにそう違いはないのだとか、私も半信半疑ながらやってます。

2007/5/9(水) 午前 1:26 [ 破顔 ]

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破顔さま メッセージを有難うございました。よく分からないんだけど、広大無辺、時空を超えて、一木一草、路傍の石ころ、土塊にもこの世の、この時に「在る」ことに何か意味があってほしい。まして生き物としての人間は…。と考えながらも、おいらは現世利益街道まっしぐら! 堪忍。

2007/5/9(水) 午前 11:29 appleys


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