・ 大住郡秦野町は1896(明治29)年3月26日に淘綾郡と合併して、中郡秦野町となりました。 ・ 中郡秦野町は1955(昭和30)年1月1日に廃止され、秦野市が誕生しました。
1897(明治20)年3月に神奈川県に「飲料水改良に関する工事設計」を出願し、曽屋区水道布設が決定されました。 水道工事委員が1898(明治21)年3月に神奈川県へ「水道布設」を出願と工事設計・監督を依頼しました。 これを受けて、神奈川県は土木技師2名を秦野町へ派遣し、設計・指導、監督下で、1888(明治21)年11月に起工、1890(明治23)年3月15日に曽屋区水道を竣功し、配水を開始しました。 この曽屋区水道は、神奈川県知事の判断で英国から輸入する高価な鉄管を用いず安価な常滑産陶管を利用した全国初の簡易陶管水道です。 この曽屋区水道の水源は曽屋用水を使用し、曽屋配水場(現曽屋公園)に沈殿池、ろ過地、配水池を設け、ここで浄化し水道水としました。 曽屋区水道は、長さ約5キロメートルで浄水設備を備えた近代水道としては横浜、函館に次いで全国3番目でした。 ※ ここでいう横浜とは横浜市が竣工したものではなく、神奈川県が横浜に整備した近代水道を指します。 1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災で曽屋区陶管水道が大破しました。翌1924(大正13)年に区会で鉄管幹水道施設を議決しました。 1925(大正14)年12月に曽屋区水道復興工事が完成しました。 1945(昭和20)年10月1日に曽屋区水道事業の秦野町移管を区会で決定しました。 翌11月2日に曽屋区を廃し、水道経営のために特別会計を秦野町に設置しました。
この木造建築の軒で初めて見つけました。 この秦野町水道プレートをご覧ください。 この大きな白いプレートは真ん中に水色の水を、その周りが秦野町水道章でした。 このプレートの紋章は、最初に見つけた秦野町水道量水器の紋章↓と同じで、”水”を中央に、その周りを二重に囲うデザインでした。 外周の上部は”ハ”を、下部が”タ”を表し、その内側は”ノ”をデザインしたものです。 この3文字を読むと”ハタノ”になり、「ハ」がタの濁点(゛)をも兼ねれば、タはダとなり、「ハダノ」と読めます。 この秦野町水道プレートには量水器で確認された水の”萌え点”はありませんでした。 この秦野町水道プレートは他の場所でも見かけました。 これらはいずれも木造建築の玄関先に付けられていました。水は空色でなく白字でした。 この水道プレートが外された写真がこちらです。 隣にある東電の電力プレートと比較すると、なお一層プレートの大きさがわかります。 この水道プレートの寸法は約9センチもある大きなプレートでした。
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水道プレート
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