天下り自体は、悪ではないが…
(長めの文章で、恐縮です)
防衛施設庁の官製談合事件で、現職幹部3人が逮捕
既に、報道されていますが、防衛庁の外局(財務省の国税庁、厚生労働省の社会保険庁などと思っていただければ良いです)である防衛施設庁が、自衛隊中央病院の新設建築工事や、浄水施設新設等土木工事などを発注するにあたり、 形式だけ入札を実施しているものの、 特定の業者が、その仕事を受注できるように 裏で、便宜を図っていたものです。
同庁の工事を受注希望する一般の業者は、自由競争であると信じて入札しますが、決して、その仕事を受注出来ない不当な行為です。
建設業界の「談合」は、「必要悪」的な側面もあったことも事実ですが、民間を監督指導する、自ら律するべき立場の官僚が、手を汚していたことは、本末転倒と言わざるを得ません。
自らの退職後の待遇が良いか、悪いかで発注業者を選定
東京地検特捜部は、施設庁OBの天下り実績を基準に工事配分を決めていたとされ、悪質な官製談合とみています。
高ポストや高収入であるほど数値が高くなる「計算式」まで作っていたと言いますから、空いた口が塞がりません。
50歳前後で、追い出される官僚
人生70年80年と言われる今日、 50歳では壮年とさえ言える年齢ではないでしょうか。
年金支給開始年齢が、65歳となり今日の年金問題を考えると、支給年齢の繰り下げは考えられても、繰り上げなんて望むべくもありません。
民間企業もほとんどが、60歳定年を採用していますが、これすら早いのではないかと思うくらいです。
誰しも、中途退職を考える場合、次の仕事が気にかかるのは当然のことです。
多くの金融機関も50歳前後で、お声がかかります。しかし、金融機関もそれらの人を、子会社や取引先などに就職斡旋しています。(再建会社に送り出す場合は、意味合いが異なります)
これは、天下りと同じことです。
従いまして、天下り自体は、決して悪くはないのです。
私が官僚でしたら、天下りを希望しますよ。
そこに、癒着を生じさせることが悪いのです。
お役人や銀行出身者は使いものにならない
(現職の方、OBの方すみません)
これは、 民間企業ではよく言われるものです。
お役人はその体質が抜けきれず、銀行出身者ではその経験を生かせることがほとんどないのです。
何度かご一緒に仕事をさせて頂きましたが、やはりという印象でしかありませんでした。
しかし、柔軟性を持った方もたくさんおられることも付け加えさせて頂きます。
それで、関連業種以外の企業の受け皿が少ないということから、官庁や銀行側が就職斡旋をするものなのです。
官僚は、2年間は天下り禁止
ただし、出身官庁と 癒着が生じやすい企業に限定はされています。
そこで、防衛施設庁のOBは、施設庁所管の公益法人「防衛施設技術協会」などに2年間超在籍し、民間会社に就職しています。
このことを持って、「規制の抜け道」と報道されていますが、これも別におかしいことではありません。
官僚は、エリートも多いわけですが、決して待遇は良いことはありません。中には、濡れ手で泡の人もおられるようではありますが、どうして、2年超の間どこへも就職せずに食べていけるのでしょか?退職金などは、住宅ローンの返済に一部充当して終りでしょう。
これもその後、民間会社に就職し、不正を働くことが問題なのです。
公務員は、公僕であるとの使命感と世論の批判から、若年令で退職し、再就職せずにギリギリの生活をされている方だっているのです。
やはり、改善策として官僚はすべて、60歳以上まで勤めることが出来るようにすること。加えて、高齢化社会ということを考えれば、民間会社も65歳定年制を考えざるを得ないでしょう。
綺麗な身の処し方、佐々淳行さん
危機管理の第一人者で、初代内閣安全保障室長であり 防衛施設庁長官を経験された佐々淳行さんをご紹介させて頂きたいと思います。
防衛庁へ出向
1954年、東大法学部を卒業した、佐々さんは 警察庁に入庁。
1969年の 東大安田講堂事件、1972年の あさま山荘事件などの処理を経て、
1975年三重県警本部長。その後、警察庁に戻り、
1977年、 防衛庁出向を命じられた。
同年に、「成田空港中核派鉄塔倒し警備」の翌日、時の警察庁長官や警備局長が「戦勝ゴルフコンペ」を催そうとした際、佐々さんは、「とんでもない。翌日こそ決戦です。ゴルフを中止して、警備体制を強化するべきです」と強硬に反対したことが、原因の一つだそうです。
(佐々さんの危機予想通り、総反撃により手薄な警備陣は大打撃を受け、死者一名と多数の重軽傷者が出た)
佐々さんは、一時辞職を決意されたようですが、暖かい励ましや負傷警察官たちを慰問訪問したときに、「忍の一字」で防衛庁出向をすることにしたそうです。
1984年防衛施設庁長官就任
この人事は、 警察庁OBたちの話題となったそうです。
佐々さんが、 当然のように防衛庁防衛局長・防衛庁次官のコースを歩むだろうと思われていたからです。
この頃、防衛庁では、大蔵省、警察庁・自治省、防衛庁生え抜きの 防衛次官レースがくりひろげられていました。
このいじましいポスト争いで、佐々さんは、防衛庁次官コースを外され、防衛庁の外局である防衛施設庁の長官に就任しました。
1986年防衛施設庁退職
好き嫌い人事の激しい、K防衛庁長官(愚生注:○○の乱の衆議院議員)の部下、そして、佐々さんを 辞めさせるための防衛庁幹部の秘密会合などあまりに 低劣な権力闘争に嫌気をさして辞任。
「6月10日付」という、退職金が多くならないように計算したとしか考えられない、よこしまな人事だった。
これを聞いた後藤田官房長官(当時)「私怨、私欲、省利・省略の邪悪な人事。公職をあたかも世襲財産のように扱う大蔵省の私利私欲侵略人事」と厳しく批判したそうです。
就職斡旋を断固拒否
「 国家公務員共済組合連合会の理事にという就職斡旋を断固拒否して綺麗サッパリ野に下った」
その同じ年、佐々さんは当時の内閣官房長官である後藤田氏より初代内閣安全保障室長に任命され、1989年退官します。
「佐々さん、なんでも好きな公団名、大企業名、いって。建設省のだろうが運輸省のだろうが、すぐ副総裁のポストとるから。大企業の常任顧問、どこでもいいよ。あなたほど働いた人を就職の世話もしなければ“面倒見の竹下”の名にかかわる」
「中曽根さんが世界平和問題研究所にほしいといっているから、行ったらどうか」
「次の国政選挙で立候補すればどうか?とりあえず自民党顧問は?今はないが作るんだよ」
と様々なご好意があった。
『大浪人』と書け
これまでの私の人生行路に 口出ししたことのなかった妻が、初めて強く反対した。
「本当に来月から、毎月の決まったもの頂けないんですか?」
「浪人だから、ないよ」
「お願いだから公団でも企業でも天下りして下さい。みなさん、そうしてるじゃないですか?自費で退職金の半分使って事務所開くなんて、老後、これからどうなさる気?」
三男もいう
「就職のときの書類に『父親の職業欄』なんて書けばいいの?『無職』なんていやだよ」
私は答えた。
「『大浪人』と書け。」
「そんなあ…」
※佐々淳行著「わが上司 後藤田正晴」文藝春秋より
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