エッセイ集

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]

このエッセイは、音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源 (約9分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-130.mp3


「虐めは撲滅出来ますか?」・・・その1


最近は インターネットなどで検索してみますと、「虐めの撲滅」などという言葉を多く見かけるようになってきました。
あたかも本当にこの世の中から虐めが撲滅出来るかのように・・・。

このお話は長くなりそうな話題ですので、なるべく短めに2部に分けてお話ししたいと思います。
先ず1部では「この世の中から虐めはなくならないであろう」という事をご説明してから、次に2部では 虐められた時の具体的な方法を提案したいと考えています。



長くなるといけませんから、先ず初めに結論からお話してしまいましょう。
私は以前から感じていたのですが・・・
「大人の世界に虐めが存在する以上、子供の世界の虐めも無くなる事はないであろう」と考えていました。
その例をいくつか挙げてみたいと思います。

先ず現在の世の中は、「悪人が美化される世の中である」という事です。
漫画家の手塚治虫氏も著書の中で、「最近は漫画を書く事も難しくなってきている」
「昔とは違って、正義の主人公よりも悪役の方に人気が出てしまう」というような意味の事を述べていました。

ごく最近のニュースでは「暴走族の高齢化が進んでいる」という事が書かれていました。
昔でしたら、暴走族は十代の頃には夢中になっていても、「二十歳を過ぎれば卒業」という人たちが多かったと思います。
何故ゆえに大人になっても暴走族を続けるようになってしまったのでしょうか。

私は色々な裁判の判決の結果を見ていまして、「日本という国は 犯罪者には甘く、被害者には厳しい世界だ」・・・とよく感じます。



死刑制度 廃止運動のようなものもあり、ますます犯罪者が増える事になるかも知れません。
法務大臣でさえ、自分のサイン一つで死刑が執行される事を嫌がり、自分の任期の間には死刑を執行しないような人も多いようです。
つまり死刑執行は「次期の法務大臣に任せてしまおう」というわけです。
それで「日本の犯罪者の死刑執行が何年も遅れるのだ」と批判を言う人もいるくらいです。

確かに極悪な犯罪者といえども「自分のサイン一つで1人の人間が死ぬ」というのは嫌な事ではありましょう。
それは人情としては分かりますが、日本の犯罪を減らすのが目的ですから、つまり被害者を減らすのが目的ですから、勇気を持って責務を遂行して頂きたいと思います。

例えば平和な人たちが住む街に、凶暴なクマやライオンのような動物が入り込んで来た時の事を考えてみて下さい。
確かにライオンやクマが人間を襲って殺したとしても、それは本来「悪い動物」というわけではありません。
たまたま人間の社会に迷い込んで来たのが原因であって、動物の自然の本能ですから仕方のない事かもしれません。
ですから「本来悪い動物ではないのに 殺すのは可哀想だ」という気持ちは分かります。
しかし、人間の命を守る為には、止むおえず殺さなければならない事もあるわけです。

また余程の異常者でない限り、どんな犯罪者であっても死刑は怖いのです。
実際に死刑が怖い為に 犯罪を犯さない人たちも多い事と思います。
私が死刑制度 廃止運動に疑問を持つのはこの点なのです。
犯罪者の事よりも被害者の事を優先に考えて頂きたいものだと思います。



私は以前、ライブドア事件の元社長であったH氏の事をエッセイにかいた事がありました。
私は政治や経済に関しては疎い方ですので、本来ならエッセイに書く事はないのですが、H氏の問題には政治や経済以上に大事な問題を含んでいると思ったからなのです。

このH氏は、「人の心は金で買える」、「人の心は金で動かせる」、「法律で禁止されていなければ何をしてもいい」などと豪語していた人です。
現在は保釈金5億円で刑務所から出てきていますが、ここでも金の力を見せ付けているわけです。
ちなみに田中元首相は、3億円で刑務所から出ています。
このH氏についてのお話をして、1部を終了したいと思います。

このH氏という人は、
「最終的には全てインターネットになるわけだから、いかに新聞やテレビを殺していくかが問題」
「その時に自分の傘下においた方が殺しやすい」とインタビューに答えている人です。
その為には先ず、ラジオやテレビを乗っ取ることから始めるわけです。
それで、ニッポン放送を乗っ取る事から始めました。
それに対してソフトバンクの社長は、「敵対的な合併は上手くいかないものです」というような意味の事を言っていたと思います。
アメリカなどでも敵対的な合併は既に古い考え方であると思われていて、日本のマスコミはH氏の事を「新風を吹き込む者」ととらえてもてはやしましたけれども、もう新しい考え方ではないのです。

「会社 乗っ取り」という言葉も古い言葉ですし、「敵対的な合併」というのも、世の中の何処にでもある事で珍しい事ではないと思いますが、普通なら陰で行われている事であって、一般の人たちは知らない事が多かったのではないかと思います。

ところが、このH氏に対しての日本のマスコミの取り上げようは 一体なんだったのでしょうか。
ほとんどお祭り騒ぎで、毎日のようにテレビに登場させて、ほとんど人気スター扱いでした。

視聴者から見れば、例えばそれが「悪い人」であったとしても、毎日のようにテレビに登場すれば、それは悪い人ではなく「タレントが悪役を演じているのだろう」というような錯覚が起きてしまい、その内にファンが増えて人気が出てスターのようになっていきます。
それがマスコミの非常に怖いところです。

それに輪をかけるように、人気占い師がH氏を褒め讃え、最後にはその人気から選挙にまで立候補をして、落選はしましたけれども、ある程度の票を獲得する事が出来たのです。

つまり現在の世の中は、法律に詳しい人間が、法律に触れるか触れないかのスレスレのところを上手く操って、お金儲けが上手い人間がスターになってしまう世の中なのです。
お金儲けの上手い人間であれば、少しくらい悪い事をしても許される世の中になってしまったのです。
「これが現在の大人の社会である」という事を確認した上で、2部に進みたいと思います。

虐めというものは、大人の社会のいたる所に存在します。
この大人の社会が子供の社会に影響を与えない筈はありません。
2部では、実際に虐められた場合にはどう対処すればよいのかを、私なりに提案を出したいと思います。
お時間のあるかたは、是非引き続きお読み下さい。

うぐいすは何と鳴く?

このエッセイは、音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源 (約5分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-14.mp3


「うぐいすは 何と鳴く?」


今日は個性的な表現と 感受性についてのお話です。
「うぐいすは 何と鳴く?」・・・と聞かれて、
「ホーホケキョーに決まっているじゃないか」・・・と答える人は、ただ日本人の古い習慣に従って、自分独自の感受性に対して無頓着な人ではないかと思います。
一般の人なら それでもかまわないのですが、物を創作している人にとっては ちょっと疑問を感じます。

数年前のある日、 「ホーホケキョーというのは、仏教の経典の法華経から来ているのではないか」と思い付きました。
そういえば小学校の授業で、「ブッポーソーと鳴く鳥がいる」と習った事がありましたが、これは仏のブツ、法典のホー、 僧侶のソウで、仏教の言葉から来ているわけです。
ブッポーソーという名前の鳥もいます。
ふくろうの鳴き声でも同じように、仏教の言葉から来ているものもあります。

これは日本の歴史のある時期に、仏教を広める為なのか ただの遊び心なのかは分かりませんが、鳥の鳴き声に仏教の言葉を当てはめるような事が流行したのかもしれません。
その中で一番上手くはまっているのが、うぐいすの「ホーホケキョー」なのではないでしょうか。



物を創作する時に、個性的な表現をする以前に 個性的な感受性が存在すると思います。
例えば室生犀星の小説の中に、「女はうどんのように笑った」という表現があるそうですが、その独特な表現以前に、室生犀星独自の感受性があるわけです。
ですから「自分独自の感受性を育てる」という事は、個性的な表現をする上で とても大切な事ではないかと思うわけです。



鳴き声の話に戻りますが、日本では犬は「ワンワン」、にわとりは「コケコッコー」、カラスは「カーカー」ですが、どこかの国では、犬は「バウワウ」、にわとりは「カッカ・ドゥードゥルドゥー」、カラスは「アーアー」だそうです。

ですから、うぐいすも 外国人には「ホーホケキョー」とは聞こえない筈です。
あなたの独自の感受性も、実際は「ホーホケキョー」とは受け取っていない筈なのです。



数年前の事ですが・・・
ある朝、何羽かのカラスが鳴いていましたので、良く聞いていると「カーカー」や「アーアー」と鳴くものもいれば、また違った鳴き方をしているものもいました。
その時突然、頭の上の方で大きな声で、「コラー」という声が聞こえたのです。
その声もカラスなのですが、私には何か 悪い事をして 怒られているのではないかと思ったほどビックリしました。
たぶん他の人には「クァー」とか「カー」に聞こえたのだと思いますが・・・
私には確かに「コラー」と 怒っているように聞こえたのです。

ところで、うぐいすの鳴き声は、私には「ヒイ・ヒ・ヒョー」と聞こえた事があります。
今聞けばまた違って聞こえると思いますが・・・。
あなたには何と聞こえるでしょうか?
一度じっくり聞いてみるのも良いかも知れません。



自分の感受性というものは とてもデリケートなもので、最初は自分でも気が付かないほど小さなもののようです。
日頃何となく自分の感受性で受け取っていると思っている事が、実は「日本人の古くからの習慣にすぎない」という事は、けっこうあるのではないでしょうか。

先入観を捨てて、自分に素直に正直になる事が、独自の感受性を育てる上で大切な事ではないかと思います。
そして、それが個性的な表現へと繋がっていくのではないかと思います。

このエッセイは、音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源 (約5分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-40.mp3


「占い師・・・当たる確率の話」


今日は 占い師の当たる確率と、その狂信的な信者についてのお話です。
占いと言いますと、女性が非常に興味を示すものと思われていますが、実は私も男にしては結構 占いが好きな方だと思っています。
例えば西洋占星術で、自分が水瓶座である事が何故か嬉しいのです。
ですから、13星座占いで調べてみますと、水瓶座ではなくなって、新山羊座になってしまう事が納得出来ず、それゆえ、13星座占いには全く興味がありません。

そんなわけですから、これからお話しする内容の中に、たとえ占いにたいして批判的な目で見ているようなところがあったとしても、「本当は占いが好きな人間が書いたものである」という事を ご理解頂たいと思います。

このお話は、数十年も前に聞いたものですので、誰から聞いた話なのかも 詳しい内容もすっかり忘れてしまいましたが、その基本的な考え方だけは何となく覚えていますのでご紹介したいと思います。
占ってもらう内容は、仕事の悩みでも恋愛の悩みでも何でも良いのです。



さて占い師というものは、その能力によって当たる確率が随分と違うものだと思いますが、100%当たるとは誰しも考えてはいないと思います。
80%くらいの確率で当たればまあ良い方でしょうか。
天気予報で一番当たる確率が高いのは 梅雨の時期だそうですが、それでも確か70%〜80%くらいだったと思います。

ここでは仮に「50%の確率で当たる占い師」という事で考えてみたいと思います。
つまり素人同然の、ほとんど当たらない占い師という意味です。




例えばこの占い師の元へ、100人のお客さんが訪ねて来たとします。
そして自分の将来などを占ってもらいます。
その内の50人は占いが的中し、50人がはずれます。
それは この占い師が50%の確率で当たる占い師だからです。

この1回目の 占いで、あたった50人は「この占い師は結構当たる占い師かも知れないぞ」と考えます。
そして他人にも話したくなります。
一方 占いが当たらなかった50人の方は、自分にとって大事な事柄を、自分で判断せずに占い師に頼った事を恥ずかしく思い、誰にも話したくはありません。
そして再びこの占い師の元にはやってこないでしょう。



占いが的中した50人の方は、またなにかで悩み事が起きた時に、この占い師にもう一度占ってもらおうかと考えてやって来ます。
これが2回目の占いになります。

この時にまた占いが的中する人が25人、はずれる人が25人です。
そして 的中した25人は「この占い師は2回もあたったぞ」と驚いて少しずつ信者になっていきます。
そして他人にも言いふらすようになります。
占いがはずれた25人はそこから離れて行きます。

おなじようにして3回目の 占いで12人が当たります。
4回目の 占いで6人が当たります。
5回目の 占いで3人が当たります。
こうなれば ほとんど狂信的な信者になって来ます。

100人のお客さんの中で、5回占ってもらって常に的中する人が3人は出てくる計算です。
この人たちにとっては、「この占い師は100%の確率で当たる占い師だ」と思い込む事でしょう。
つまり素人同然の ほとんど当たらない占い師であっても、100人のお客さんがくれば、その内の3人は狂信的な信者になるという事になります。
この人たちが他の人たちに言いふらし、占い師の評判が上がってくるのです。

このエッセイは、音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源 (約4分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-129.mp3


「初めの一歩」・・・その2


私にとって初めの一歩というのは、ちょっと試しに新しい事に挑戦してみようという考えである、という事を前回お話ししたわけですが、今回はこれを別の表現でお話ししたいと思います。

例えば空間的に考えて見ますと・・・
Aの地点からBの地点に進むという事は、新しい現在のBの地点から見て、Aの地点が過去になったという事です。
現在の新しい自分自身が、新しい過去を持つという事です。
そして、新しい過去を持つという事は、現在の地点までの進む方向性が出来たわけですから、ある程度の未来への指向性が見えてくるわけです。

Aの地点に踏みとどまっていたのでは、新しい過去が作れないわけですから、新しい現在のBの地点も、また未来であるCの地点も見えてこないという事になります。



例えば平面的に見て、Aの地点から東の方向に進んでBの地点に行けば、そのBの地点から、ある程度はそのまま東の方向のCの地点に進む事が予想されますし、
また立体的に見て、Aの地点から上に上昇してBの地点に行けば、そのまま上昇して未来のCの地点に行く事が予想されるわけです。

次に時間的に考えて見ますと・・・
Aの地点から速いスピードでBの地点に行けば、未来のCの地点にも早く進む事が予想されますし、
またAの地点からゆっくりとBの地点に行けば、未来のCの地点にもゆっくり進む事が予想されるわけです。



こんな考え方もあります。
Aの地点には、360度の自由な方向性があります。
しかし、そこを一歩踏み出すことによって、また新しいBの地点からも360度の自由な方向性が生じるわけです。
未来のCの地点に行けば、これがまた繰り返されます。
ある程度の自由な方向性はあっても、何処に転がって行くのかが わからなくなって不安を感じるのも、この事と関係があるのかもしれません。



もう一つの問題は勢い、つまりエネルギーの問題です。
Aの地点に踏みとどまっている状態の現在と、一歩を踏み出したBの地点での現在とでは、同じ現在ではあっても明らかに違いが生じます。

Aの地点に踏みとどまっている現在というものには、360度の自由な方向性はあっても、勢いが無いのです。
しかし、一歩を踏み出したBの地点の現在というものには、未来のCの地点に対する指向性と速度による勢い、つまりエネルギーが生じるわけです。
現在の自分自身に新しいエネルギーが生じるという事。
ここが一番の大きな違いなのです。

さて、今回のお話は少し堅いお話になってしまいましたが、初めの一歩の内容をご説明したものです。
でもこれを簡単に言ってしまえば、軽い気持ちで「ちょっと試しに新しい事に挑戦してみよう」という事になるわけです。

このエッセイは、音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源 (約9分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-36.mp3


「結婚式の若いカップルは幸せですか?」


以前は美しい事とキレイな事についてお話ししましたが、今回はもっと大切なお話。
幸せと楽しさについてです。

世の中には、一般常識とは違う意見を言う人たちがいます。
例えば去年読んだ栄養学の本の中に、「大自然の動物の中で、決まった時間に決まったエサを食べるのは 人間くらいのものだ」と書いてあって、「人間は毎日三度きちんと決められた時間に食事をとるのが健康に良い」という一般常識に対し、「腹が減った時に食べるのが一番自然で、たまには一日二食になっても 四食になっても問題はない」と言うのです。

確かに自然界において、毎日昼の12時や夕方の7時に、ライオンのエサである動物がノコノコと歩いて来てくれる筈はありません。
日によってはエサにありつけない日や、逆にエサがおお過ぎる日もある筈です。
それでも生きられる生命力があるわけです。
この著者は栄養学の世界的な権威です。

また、心理学者で、「人間は毎日八時間の睡眠をとらなければいけない」という一般常識に対し、「好きな仕事をしている人にとっては、四時間の睡眠時間で良い」という人がいるのです。

他人の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分の研究や自分の体験にもとづいた言葉で話をする人というのは、世間の一般常識とは違う意見を言うようになります。

これからお話する事も、私の経験から得た言葉でお話ししますので、一般の常識的な言葉ではありませんから、理解出来ない事もあるでしょうし、またあまり役に立たないお話になるかもしれません。



ここで質問です。

「結婚式の若いカップルは幸せですか?」

今までにこんなバカげた質問をした人は いないでしょうね。
でもここには とても大切な問題が含まれていると思うのです。
あまり長くなるといけませんので結論から言ってしまいましょう。

私は若い時には幸せの意味を理解する経験がなかったので、結婚式のカップルの派手な喜びように、こういうのが幸せなんだろうなあと、何となく思っていたのです。

言葉の遊びになってしまうかも知れませんが、私は経験上から 幸せと楽しさを分けたいと思うようになりました。
そして結婚式の若いカップルは、楽しさ嬉しさの頂点ではありますが、幸せとは違う性質のものであると感じるようになりました。

楽しさというのは、たった一人で遊んでいても楽しいのです。
子供の頃に美味しいお菓子をもらって食べれば楽しいし、玩具を買ってもらえば嬉しい。
たった一人で良いのです。
心が閉鎖的になっていても良いのです。
我が儘な人でも良いのです。
頑固で我が儘な人でも、宝くじが当たれば楽しさの頂点を味わう事が出来るのです。
結婚式の場合は たった二人で良いのです。
心が大きく開かれていなくても楽しさを感じる事が出来るのです。

物質的に豊かなら 楽しいのです。
貧乏よりお金持ちの方が楽しい事が多いのです。
キタナイよりキレイな顔に生まれた方が楽しいのです。
病気よりも健康な方が楽しいのです。
痛いよりも心地よい方が楽しいのです。
楽しさは「数値の多い少ない」で表現する事も出来るのです。
心地よい事が多ければ多いほど楽しさも大きくなってくるのです。

また結婚式の時に幸せそうなカップルが、数ヵ月後に離婚する事があるように、楽しさというものは苦しさに変わってしまう性質のものなのです。



では、幸せとは一体どのようなものなのでしょうか・・・

幸せとは或る意味 発見であって、一度発見して感じてしまうと、その後「不幸になる」という事はありません。
幸福感はより強くなって感謝の心も強くなります。
幸せは心が大きく開かれた状態で、沢山の人たちとの共感が生じ、同時に「自分だけではない」、「孤独ではない」という気持が強くなります。

共感のないところに幸せはありませんから、頑固で身勝手な状態の人には、楽しさの頂点を味わう事はあっても幸せはありません。
貧乏のどん底でも幸せを感じる事が出来ますし、キタナイ 顔でも幸せになります。
病気の時にでも、痛みの頂点の時でさえも幸せを感じる事が出来るのです。

また、楽しさを感じるのには特別な才能はいりませんが、幸せを感じるには「感受性」、ある意味 才能が必要なのです。
ですから例え物質的に恵まれていても、感受性のない人には幸せはありません。
花を見てもひとつも美しいと感じない人に対し、いくらその美しさを分からせようとしても、また努力させてみても無理な話です。
これと同じように、楽しさは努力によって得る事が出来ますが、幸せは努力によって必ずしも得られるものではありません。

また、楽しさには感謝の心が生じない場合がほとんどですが、幸せと感謝の心は、ほとんど同時に発生します。
感謝のないところに幸せ無し。
幸せのないところに感謝無し。
「感謝」「幸せ」「人情」「愛情」「悟り」などは、言葉こそ違いますが、本来一つのものです。

もしあなたが 例え物質的に恵まれていても、感謝の心がない場合には 幸せはありません。
感謝の心は努力によってというよりも、閃きによって得られるものですから、感受性のない状態の人には幸せはありません。
楽しい事をたくさん集めてみても、幸せにはなりません。
「大きく悩めば大きく悟り、小さく悩めば小さく悟る」と言われるように、幸せは、多くは苦しみの中から得られるもののようです。



如何でしたか?

これで幸せと楽しさというものが、かなり性質の違ったものである事が少しは分かって頂けたでしょうか・・・?
これらの事はただの経験談であって、「正しい意見とか 良い話」というようなものではありません。
私が四十数年間生きて来た上での感想ですから、十年後二十年後にはまた多少違った感想を持つようになるかも知れません。

あなたには、幸せな人になってもらいたいのです。
ですからこんなつまらないお話をする事になるのです。
キレイな人というよりも、「美しい人になって欲しい」というのも同じ意味なのです。
何故か私は、「キレイな人は楽しい人」、「美しい人は幸せな人」という気がするのです。

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事