エッセイ集

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このエッセイは、音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源 (約8分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-128.mp3


「初めの一歩」・・・その1


私が今 一番大切にしている言葉は、「初めの一歩」という言葉です。
とにかく仕事でも遊びでも、大きな事でも小さな事でも、何でもいいから新しい事に挑戦してみようという考えです。
まあ、挑戦と言うと大げさになりますから、「ちょっと試しにやってみよう」というのが正直なところではありますが・・・
この「ちょっと試しに・・・」という軽い感じが大切なところでもあります。

現在の位置に立ち止まっているのと、新しい方向へ一歩を踏み出すのとでは、たった一歩の違いではありますが大変な違いになると思います。
ゼロと1の違いですが、ゼロはいつまで経ってもゼロのままですが、1は2に進むだけでなく、10にも100にも進めるかもしれません。



この「新しい事をする」・・・という言葉には、色々な意味があると思います。

一つ。
時代の最先端のことをするという事。
これは科学や医学の最先端ということや、芸術では前衛的な作品などで、多少の不愉快さを感じるものもあります。

二つ。
最先端ではないが、まだ誰もやっていないことをする事。
これはギネスブックに載るような、一見ユーモラスなものもあります。

三つ。
新しい美意識を表現する事。
これは前衛とまでは行きませんが、心地良い美しさがあるタイプのものです。

四つ。
古い物を現代の人の感覚に合うように作り変える事。
これは論語の中の言葉で「温故知新」、「ふるきを温めてあたらしきを知る」のようなものです。

五つ。
世の中に既にあるものを組み合わせて作ってみる事。
これはジャズとサンバが結び付いてボサノバが生まれたようなものです。

六つ。
自分にとって新しいことをするという事。
これは他の人が既にやっている事であっても、自分がまだやっていないことをするという意味です。
そのほかにもまだまだあるかも知れませんが、今思い付くのはこのくらいです。



まあ、私が実際に出来る事といったら、自分にとって新しいことをする事くらいでしょうけれども、この「新しい事をする」ということには、どんな意味や効果があるのでしょうか。
現時点で新しい事をすることによって、最終的にどんな結果が起きるかは、全く分からないわけです。
良い結果が出れば良いのですが・・・
一見自分自身が本来のやるべき事から離れて行ってしまうのではないかと、不安になることもあります。

しかし、確実に分かっている事が二つあります。
それは・・・
先ず、新しい人との出会いが必ずある事です。
これは新しい共感者が出現する事で、場合によっては人生が変わってしまう可能性もあります。

次に、自分にとって今までにない、予想もしなかったような新しいアイデアが出る事です。
これは新しい事をすれば、当然それに伴って必ず新しい問題点が出てきて、それを新しい発想で解決しようとするからではないかと思います。
こういう時には一種の興奮状態で、そこには快感が伴います。
内容によっては自己発見や人生観が変わることもあります。
この二つのことは、経験的に分かっている事ですが、これは新しいことをする事の大きな長所です。



不安に感じるのは最終的な結果の事ですが・・・
一つだけ私の例を挙げて終わりにしたいと思います。

私にとって去年の7月7日が、無料サービスの簡単ホームページを始めてから 丁度2周年の日でしたので、その記念に新しいサイト作りを始めました。
それが「視覚障害者のかたたちも楽しめる バリアフリーサイトを目指して・・・」というコンセプトのサイトなのですが、
これは、私のちょっとしたアイデアで気楽に始めた遊びだったのですが、ある程度出来上がった頃に、実際に視覚障害者のかたたちの意見を聞いてみますと、私が全くの勘違いをしている事が分かってきたのです。

視覚障害者のかたで、インターネットを楽しんでいるかたたちというのは意外と多く、また全盲のかたは、音声読み上げソフトを使っていることも知りました。
これはネット上の文章は男性の声で、リンクは女性の声で読み上げるそうです。
こういうソフトは キーボードだけを使用しマウスは使いません。
これらの事は、私にとっては全く予想外の事でした。

私のサイトが、「実際は視覚障害者のかたたちが楽しめるサイトではない」・・・という事になりますとさあ大変です。
偽善者扱いされてしまうかも知れません。
それで、大急ぎで修正を始めました。
最初は単なる遊びだった筈でしたが、その後は仕事以上に真剣になって制作していたかも知れません。
その結果、今までの私のサイト以上に新しいアイデアが出て、音楽を100曲以上も試聴出来るようになりましたし、音声のみの「聴くエッセイ集」なども出来ました。
とにかく、あまり他の人がやっていないようなサイトになったのでは ないかと思います。
バリアフリーサイトとしては まだ完成はしていませんが・・・



ある時、何故自分がこのようにバリアフリーや視覚障害などにこだわったのだろうかと考えていた時に、「ふと」思い出したことがありました。
それは、私が十代の頃に初めて影響を受けたミュージシャンが、盲目の天才ギタリスト&歌手としてデビューした、長谷川きよしさんだったのです。
最初に出した2枚のLPレコードを録音したテープは、今でも大切にして繰り返し聴いています。
これは単に過去を懐かしんで聴いているのとは全く違います。
30年以上経った今でも、身震いをするような感動的で色あせない歌が何曲もあるのです。

この事を思い出した時に、視覚障害に関する事というのは、自分自身の道から外れていないのではないかと思ったのです。
なにか運命的なものを感じました。
30年を隔てたこの共通点が 単なる偶然なのかどうかは、今後少しずつ分かって来るのではないかと思います。
それが不安でもあり、また楽しみでもあります。

立春の日に卵が立つ?

このエッセイは、音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源 (約3分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-24.mp3


「立春の日に卵が立つ?」


以前 人から聞いた話ですが・・・
確か太平洋戦争の終戦の前のとしに、中国で非常に秘密めいた古い文献が見つかり、その中に「一年間の内でたった一日だけ、立春の日には卵が立つ」という事が書かれてあり、当時の新聞に実際に卵を立てた写真も掲載されて話題になったそうです。

その後、一年経って戦争が終り、またその事が話題になって、「立春の日に本当に卵が立つのかどうか実験をしてみよう」という話が持ち上がり、日本の天文台に科学者たちが何人も集まって実験をしたそうです。
なぜ天文台で実験をしなければならないのかはよく分かりませんが・・・

そしてその実験の結果、実際に卵を立ててしまったそうです。
これが写真入で当時の新聞に載り、日本じゅうが大騒ぎになったというのです。

なぜ立春の日にだけ卵が立つのか!
それに対して科学者たちの色々な意見が出たそうです。
詳しい事は忘れてしまいましたが・・・
寒い季節ですと卵の中身が動きにくくなり、重心が安定しやすくなるのではないか。
また新鮮な卵の場合には、表面に小さな粒粒が沢山あるので、それで立ちやすくなるのではないか、というような話が出たのではないかと思います。

しかし結局、「卵は立春の日でなくても、いつでも立つのではないか・・・」という結論に落ちついたようです。
コロンブスのようにわざわざ卵を割って立てなくても、ゆで卵にして回転させて立てなくても、ゆっくり慎重にやれば誰でも卵を立てる事が出来る、という事が分かったわけです。



この話で面白いと思った事は・・・
中国の秘密めいた古い文献や、一見権威のあるものに書かれてある事だと信じると、不可能を可能にしてしまうくらい人間の隠れた能力が出るという事。

また、立春の日は年に一度しかありませんから、その日を逃したらまた一年待たなければならないので、今がチャンスだという気持。
「今しかない」という気持になると人間は大きな力が出せるという事。

それから、不可能にみえる事であっても、写真などを見せられて他人には出来たという前例を見せつけられると、自分にも出来るという気持が働いて大きな力が出せるという事。

つまり、「信じる事」、「今しかないという事」、「前例があるという事」などが不可能と思われていた事を可能にするほど、自分の隠れた能力を引き出すのに役に立つという事です。
あなたも試しに、卵を立ててみる気にはなりませんか?



「追記」 2007/2/6
この話は「卵を立てる」という事の為に、真剣になって日本の科学者たちが天文台で実験をしたというのがちょっと笑えるところです。
しかし、この話を知ってから、私も試しに何度も実験をしてみましたが、卵は全く立ちませんでした。
これを立ててしまう力、というのはスゴイと思い、エッセイを書く気になったのを思い出します。
これは3年ほど前に書いた、私にとっては初期のエッセイです。

このエッセイは、音声読み上げソフトの音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源 (約12分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-121.mp3


「機能美の話」 トイレの水が流せないよーの巻


きょうは、機能的な美しさや実用的な美しさのデザインについてのお話しをしたいと思います。
たまに外出をしたり町中を歩いている時に感じる事ですが、建築デザインや工業デザインなどを制作している人たちというのは、機能性や実用性のある美しさを考えてくれているのだろうかと、疑問を感じる事が時々あります。

例えば必要性のない駅前の大きなモニュメントや、バス停のベンチや地下鉄のホームのベンチなどのデザインです。
昔は、ベンチといえば木製でしたが、それが雨に濡れても腐らない強化プラスチックのような物になり、今ではアルミのような金属になって一見進歩しているかのようにみえます。

ところが、デザインは確かに格好は良いのですが、お尻はヒンヤリと冷たいし、何故か非常に座り心地が悪いのです。
金属ですから、ほどよい弾力もありません。
それに背もたれの部分は、背骨にゴツゴツと当たって痛いのです。
全く「人間工学」というものを無視してデザインをしているかのような作りなのです。
建築デザインや工業デザインというのは個性美を尊重する芸術ではないのですから、「ただ見た目がよい」というだけでなく、使い易さと美しさの両方を兼ね備えたものを作って頂きたいものだと思います。



以前こんな事がありました。
病院のトイレの鏡の前でお爺さんが困った様子をしていましたので、近づいてみますと、
「この水道はどうやったら水が出るのですか?」と聞かれたのです。
これはセンサーの働きで手を差し出せば自動的に水が出て、手を引っ込めれば水が止まるというものでしたから、そう説明しました。

このトイレの水道はセンサーのガラスの部分に水滴が当たり、それが乾いてよごれとなってセンサーが働かず水が出ない事が度々ありましたし、このお爺さんは少し視力も弱っているかたでしたから、全く分らなかったわけです。
それでこの汚れたセンサーの部分を洗ってみますと、すぐに直りましたから、これはセンサーの取り付け位置が悪いデザインなのだと思いました。



まだこの程度の話なら我慢も出来るのですが、本当に困ってしまう事があるのです。
以前家族で横浜まで遊びに行った時の事です。
その日は石川町駅から元町商店街、港の見える丘公園、山下公園、中華街などの「お決まりのコース」を見て歩きましたが、
私は何故か遊覧船や水上ボートなどに乗る事が好きですので、この時の一つの目的は、港内を2時間くらいで一周する遊覧船に乗る事でした。
以前は「赤いくつ号」という可愛い赤い色の遊覧船が周航していたのですが、それが新品の豪華な水上ボートに変わった事を知りましたので、是非これに家族と一緒に乗りたいと計画したわけです。

その船内に入りますと、思っていた以上に綺麗で、近代的なデザインを感じて楽しんでいたのですが、その内に母親が「トイレに行きたい」と言い出してその場を立ちました。
ところが、母親がトイレに入ってからしばらく経ってもなかなか出て来ません。
「どうしたのかな」と思っていましたが、その内になにか不審げな顔をしながら母親が戻って来たのです。
そして、「用を足したあとのトイレの水が流せない」と言うのです。

私は「まさかー」と言って笑いましたが、母親が真剣な顔をしているので、
「水を流すレバーかボタンが必ずある筈だから、もう一度戻ってよく探して見て」と言っておきました。
ところがしばらくすると、また不審そうな顔をして母親が出てくるのです。
「レバーもボタンも何処にも無い」と言うのです。
こんな事を何回か繰り返していましたが、結局この時は諦めて、水を流さずにそのままにしてしまいました。

この時は、母親の心境としては非常に困っていたと思うのですが、私にはそれが分からず、「母親も歳を取ったものだなあ」と内心笑っていたのです。



それからしばらく経った時の事です。
私の音楽の仲間から連絡があって、「ライブをやるから、暇だったらこないか?」と誘いを受けたのです。
私はそういう時には喜んでいくたちですので、この時もいってみたのですが、
いってみますと、そのお店というのは、ライブハウスというよりも「開店したばかりのレストラン」というような雰囲気の綺麗な内装のお店でした。

お店の雰囲気も良いし、音楽も良いしと楽しんでいましたが、その内にトイレに行きたくなって席を立ちました。
そして用を足して、水を流そうと思った時です。
おやっ?
水を流すレバーが無い!
この時、脳裏をよぎったのは、あの水上ボートのトイレの母親の表情です。

まさか、この私がトイレの水を流すレバーやボタンを見つけ出せない筈はありません。
私はまだ若い!
そう思って必死になって探しました。
しかし、その小さな個室の中を、前後左右、上下360度全てを見回してみましたが、いくら探しても見付からないのです。
センサーらしき物もありません。
若い人たちでしたら、新しい物に対して順応性がありますから、直ぐに見つける事が出来るデザインになっていると思うのですが。

「これでは母親を笑う事が出来なくなってしまうぞ」と思いながら何度も探してみましたけれども、結局諦めてしまいました。
そしてこのトイレは、センサーの働きで人が用を足したあと、「ドアから出ていくと自動的に水が流れる仕組みになっているのだ」と無理やり自分に言い聞かせて、トイレから出て自分の席に戻ってしまいました。

それから演奏が休憩時間になって、バンドのメンバーたちが私のいるテーブルに集まって来ましたので、早速そのトイレの話をしてみました。
友人の話では、やはり私と同じように、トイレで水を流さない人たちがいるという事でした。

今から考えますと、トイレの中にはレバーやボタンなどの出っ張りが全く無く、平面的でしたから、多分センサーの黒いガラス状の物が何処かにあって、それに手を近づけると水が流れる仕組みになっていたのではないかと思いますが、暗い個室の中では見付ける事が出来なかったのではないかと思います。

このように目の見える一般人でさえ困ってしまうような建築デザインというのは、いかがなものでしょうか。
もし、ご老人や視覚障害者のかたたちだったら、全く使用出来ない物もあるのではないかと察せられます。



私はバリアフリーという考え方が好きです。
世の中には、ごく一部の障害者だけにしか使用出来ないようなデザインの建造物も見受けられますが、こういう物は企業などが景気の良い時には余裕があって造ってしまっても、不景気になれば利用頻度の少ない物は取り壊したり、無くしてしまおうとします。
あるホテルでそんな問題が起きて、ニュースになった事もありましたが、元々無理があるような気が致します。

バリアフリーという考え方は最近の考え方ではなく、もう数十年も前からある考え方だと思います。
私が30年以上も前に使っていたラジカセなどは、テープの再生、停止、巻き戻しなどの押しボタンの上部に小さな溝か出っ張りがあって、指の感触でもそれが分かるようになっていましたから、視覚障害者のかたでも点字のような感覚で、使用出来るようなデザインにしたのではないでしょうか。
こういう発想の製品ですと、障害者のかたたちだけでなく、一般の人にとってもより使い易いデザインになっているわけです。

また最近では、駅の構内案内の表示も日本語と英語だけでなく、中国語や韓国語の表示も増えてきました。
オリンピックや万博などのように世界中の沢山の国の人たちが集まるような場所では、文字に頼らず誰でもが理解出来るようなデザインが当然必要ですが、
日本も外国の人たちが沢山来るようになってきている現在では、駅の表示などの公共のデザインも、考え直す時期がきているのではないかと思います。
子供やご老人にも分かるような表示であれば、多分ある程度は外国の人たちにも伝わるのではないかと思うのですが。



話は変わりますが、茶道の方で有名な「織部の茶碗」というのがあります。
織部という人の美意識で作られた、非常に珍しい形の茶碗の事です。
これは普通の湯飲み茶碗のようにスッキリした形ではなくて、極端にデコボコがあってひん曲がっているのです。
昔の書院風の茶道ではなくて、わび茶の世界です。
私の想像ではありますが、これは多分、ごく少数の人にしか分からない美意識を鑑賞して楽しんでいたのではないでしょうか。

詳しい事は分かりませんが、茶道は「五感を楽しむ総合芸術」であったと思います。
味覚、聴覚、視覚、臭覚、触覚の全てを楽しむ芸術だと、人から聞いた事があります。
つまり、お茶の味や香りを楽しむだけでなく、お湯の沸く茶釜の音や庭の獅子脅しの音を楽しんだり、美しい花や花瓶を見たり、茶碗に触れて手の感触を楽しんだりするという事です。
(余談になりますが、世の中には視覚や聴覚を楽しませる芸術は沢山あるのですが、未だに手や皮膚の感触を楽しむ「触角芸術」というのが一般化されていないのは不思議な事です)

ですから、そういう限られた場所では、極端にひん曲がった茶碗を楽しむ事もよいのですが、日常的に使う物や公共のデザインなどは、個人的な美を尊重する芸術ではないのですから、機能的で実用的で、人間工学を考えたデザインをもっと発展させて欲しいものだと思います。
使い易さと美しさの両方を兼ね備えた、近代的なデザインという事です。

しかし、誰もが使いやすく、誰もが美しく感じるデザインというのは、想像以上に難しい事なのでしょうか。
とりあえず、最先端のトイレにはお気をつけ下さい。
先ずセンサーの位置を確かめて、水が出る事を確認してから、用を足されるとよろしいかと思います。
今日はこんなお話になってしまいました。
お退屈さま。

このショートストーリーは、音声読み上げソフトの音声でお聴き頂く事が出来ます。
この音源について・・・
視覚障害者のかたたちが使用している「音声読み上げソフト」では、「朗読は絶対に出来ないだろう」と先入観を持っていたのですが、でも試しに実験をしてみたくなったのです。
普段は読み上げ速度とピッチを、両方とも10段階の「5」に設定してあるのですが、このままでは全く朗読には聴こえませんから、
試しに読み上げ速度を「2」まで落として、ピッチを「4」に落として設定してみました。
MP3音源(約2)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-126.mp3



「ある情景」



血で血を洗う戦国時代の或る静かな夜。

敵の城を取り囲んだ多くの武士たちは、明日の総攻撃にそなえて、草むらの中でひと時の眠りに就いていました。

敵の水路は既に絶たれ、城内では武器も食料も底を突いているようです。

最早、形勢は既に明らか。

夜明け前には近隣からも援軍が加勢し、総勢数万の武士たちが一気に城を攻め落とそうという勢いです。

数ヶ月に及ぶ戦いの末、皆疲れ果てて、死んだように眠っている者たちもいます。

近くの湖には、妖艶な三日月が浮かび、辺りの森は「しーん」と静まり返っています。



その時!



敵の城内から幽かな笛の音が・・・

それは、死を覚悟した娘たちの、音曲と舞が始まったのです。
 
その幽かな音色は、夜の闇に広がり、眠っている強者たちの耳元にまでも届きました。

ある者は目を覚まし、ある者は夢の中で、その幽玄な美しい幻想に酔いしれています。

ある者には純潔な娘たちの姿が・・・

ある者には妖艶な女たちの姿が目に浮かびます。

夜が明けるとともに、殺伐とした血生臭い世界が繰り広げられる、その束の間の出来事。

敵と味方を忘れさせる、不思議なひと時・・・

このエッセイは、音声読み上げソフトの音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源(約7分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-12.mp3


「美しいこととキレイなことについて」


私は若い頃に、岡本太郎の芸術論を沢山読みましたが、その中に、
芸術は、「キレイであってはならない」、「上手くあってはならない」、「心地よくあってはならない」という言葉がありました。

芸術は、美しいものであって、キレイなものではない。
私にはこの言葉の意味が良く分かりませんでした。
美しい作品とキレイな作品、美しい人とキレイな人とは、どう違うのでしょう。



また、心理学者の森田しょうまの本の中に出ていた話ですが、
精神病院の患者の中に、一人の白痴の女性がいて、この人が非常にキレイな人だったそうです。
ある時、森田しょうまは美術関係の人達を招いて、この女性を見せたそうですが、皆その顔立ちのキレイさに驚いたようです。

森田しょうまは、皆と別れる時に一言、「くれぐれもこのような作品を創らないように」と言ったそうです。
「魂の無い人形のような作品」というような意味だと思います。
この話も若い頃に読んだ話ですので、細かなところは忘れてしまいましたが、だいたいこんな内容だったと思います。

若い頃に知ったこの二つの話、芸術家と心理学者の話が、実は全く同じ内容のものである事を知ったのは、それから数十年もあとになってからの事です。

白痴の女性は、いくら顔立ちがキレイでも、美しい人には絶対になりえないのです。
美しい行為も、美しい心も、美しい言葉も、そこには全くないからです。
そこにはなにかを「育て上げる」という行為がありません。
感動という言葉も全く縁がありません。
「仏作って魂入れず」という言葉がありますが、この言葉も同じ事を言っているのではないかと思います。

この事は、芸術家だけの問題ではありません。
一般の人達も考えなければならない問題を含んでいると思います。

世の中を見渡すと、そこにはキレイなものやキレイな人、キレイな言葉が満ち溢れているようです。
美しいものや美しい人、美しい言葉は僅かです。
人が感動するのは、美しいことに対してであって、キレイなことに対してではありません。



話は変わりますが、特に若い女性は容貌の美醜について悩む事が多いと思いますが、若い頃のキレイな顔立ちやキレイな姿というものは、親が作ったものであって、自分で育てあげたものではありません。
親が作ってくれたものに対しては感謝すべきであって、自信を持つようなものではないと思います。
また、これらの外見的なものは、年を取るに従ってだんだんキタナクなってしまうものです。
これはどうしようもない事実です。
美しさというものは、自分で育てあげるものなのです。

「キレイになりたい」という気持は分かりますが、「美しくなりたい」という気持も、もっと大切にして欲しいと思います。
外見的にはキレイでなくとも、美しい輝くものを持っている人というのは、とても魅力的なものです。
自分の身の回りを見ても、キレイになりたいという人はいますが、美しくなりたいという人は稀です。
若い頃はキレイなものに惑わされてしまうのです。

世の中には、ヤミクモに高級品を買い漁って、ブランドもので身を固めているような人達がいますが、下手をすると、失礼な言い方になってしまうかも知れませんが、先ほどの白痴美女のようになりかねません。
仏作って魂入れずです。
そこには感動させるものは何一つありません。
もちろん芸術家になりたい人達ではないのですから、美しさよりもキレイさにひかれるのは、仕方のない事ではありますが・・・。

本来オシャレというものは、服やバッグや靴の問題ではなく、生き方の問題だと思います。
「生き方がオシャレか」という事が大切な事だと思います。
芸術も同じで、上手い絵を描けば芸術家というわけではなく、「生き方が美しいか」という事が問題なのです。
日本には「心のオシャレ」という言葉がありますが、心と外見を分けて考えるような、日本人のオシャレというのは本来おかしいのです。

フランスでは、一般の人達は、シャネルなどのブランドものは着ないそうです。
シャネルは貴婦人が着るものであって、例えお金は持っていても、自分には相応しくないと考えて買わないそうです。



以前、電車の中で十代の男の子が、上から下までブランドもので身を固めているのを見かけた事があります。
バッグは確かレノマだったような気がします。
如何にもこれから「彼女とデート」という感じでしたが、よく見ると、その子が夢中になって読んでいるのは、少年マガジンだったのです。
レノマと少年マガジン・・・。
正直といえば正直ですし可愛いといえば可愛いのですが、彼女とデートというわけで服やバッグや靴をレベルアップしてオシャレしたのなら、そういう時くらいは読む本も少しはレベルアップしても良いのではないかと思いました。

美しいこととキレイなこととは、芸術家だけの問題ではなく、我々一人一人が一生考えなければならない問題ではないかと思います。

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