エッセイ集

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このエッセイは、音声読み上げソフトの音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源(約6分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-16.mp3


「理性と正義と愛情と・・・2」


以前こんな事がありました。
電車に乗っていた時の事なのですが・・・。
その時は昼間の時間でしたから、それほど混んではいなかったのですが、それでも座席は空いた所がなく、数人が吊り革につかまって立っていました。

何駅か過ぎた時に、ドアが開いて、そこにお婆さんが入って来たのです。
お婆さんは、空いた席がないかと辺りを見回していましたが、その時、近くの席に座っていたお爺さんが、ニコニコした愛想の良い顔で、やさしく「どうぞ」と言って、そのお婆さんに席を譲りました。

電車の中で、お爺さんがお婆さんに席を譲るという、老人同士の微笑ましい光景を初めて見たものですから、私は「今日は面白いものを見たぞ」と思い、愉快な気分になっていました。

それから何駅が過ぎて、そのお婆さんが「どうも」とお爺さんに頭を下げて立ち上がり、ドアから出て行ったのですが、
その時、そのお爺さんが突然立ち上がり、座席に座っている人達みんなを見渡してから、大きな声で、「今の若い連中ときたら、お婆さんに席を譲る事も出来やしねえ」と、怒鳴り散らしたのです。

私はビックリして、先ほどの微笑ましい光景や、愉快な気分が一変に吹き飛んでしまいました。
この時のお爺さんの顔は、人を軽蔑的に見る、非常に醜い顔の表情になっていたのです。



私は考えました。
このお爺さんは、人に対する人情からお婆さんに席を譲ったというよりも、若い人達を軽蔑し、批判する精神から席を譲ったのではないだろうかと。

またこのお爺さんの心の中では、まず老人に席を譲る事は正しい事で良い事である。
そして、それを実行している自分は正しい人で良い人である。
ゆえに席を譲らない若者は正しくない人で、間違った人である。
だから、怒鳴り散らしても間違いではない。
自分のやっている事は正しい事で良い事である。

こういう頭の構造ではないかと思えたのです。
私は、これに似た醜い顔の表情を以前にも見ているのです。



それはある時、駅の改札から出ると、すぐ近くに募金活動をしている人達がいたのです。
何処か外国で災害があり、その為の募金活動をしているようでした。
私がその前を通り過ぎようとすると、一人の若者が私の前をふさいで、募金箱を差し出しました。
「失礼な奴だな」とは思いましたが、私がそれをよけて先に進もうとすると、今度はその若者は私を追いかけて来て前に回り、私の目の前に募金箱を突き出しました。
この時の若者の顔・・・。

この時の若者の顔は、被災者を思う愛情に満ちた顔や、理知的な顔ではありません。
募金活動に協力しない人間を軽蔑的に見る、非常に醜い顔の表情でした。
私は非常に不愉快な思いをしました。

募金活動の常識、礼儀として、通行人の邪魔をしたり、追いかけたり、無理に募金を要求したりという事は、やってはいけない事だと思います。
また募金にも色々とあって、活動している組織や連絡先の分からないもの、というよりも教えようとしない、いい加減なものもあり、これには絶対に協力しません。
私は、募金活動の全てに協力しようとは思っていません。
ですから、一つの募金活動に協力しないからといって、人間として軽蔑されたり、不愉快な思いをさせられたりする事は、どう考えても納得がいかないのです。



私は思うのですが、こういうふうに醜い顔の表情をする人達というのは、自分達のやっている事は正しい事で良い事であり、自分達は正しい人で良い人である、という意識を強く持っている人達ではないかと思うのです。
だから自信満々に行動する事が出来るのではないかと思います。

私は、良い人と、お人好しとを分けて考えています。
私が考える良い人というのは、他人から「あの人は良い人ですよ」という客観的な評価を受けている人の事です。
また、私が考えるお人好しというのは、自分だけの判断で「自分は良い人である」と思い込んでいる人の事です。

人生何十年も生きていますと、自分は正しい人、自分は良い人、自分はやさしい人、などと思い込んでいる人達ほど、他人に対して人が嫌がる事を平気でやっている人達なのだ、という事がだんだん分かってくるのです。

このエッセイは、音声読み上げソフトの音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源(約4分半)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-15.mp3


「理性と正義と愛情と・・・1」


読書というのは面白いものです。
通常ですと、よい話だとか、面白い話だとか、勉強になった、とかいうだけで終わってしまう事が多いのですが、ある場合には、ほんの数行読んだだけで自分の深層心理を発見してしまい、今までの自分自身の考え方が一変してしまうような事もあります。
例えばこんな事がありました・・・。

私は若い頃に、何となく考えていた事があったのですが、それというのは・・・。
もし、私の家族の中の誰かが犯罪を犯した場合には、当然の事ながら、自首する事を勧めるか、もしくは警察に連絡をするだろう、という事です。

私の父親が皇宮警察官という事もあり、私にも多少の正義感がありましたから、この考え方に対して疑いを持つという事は全くありませんでした。
例え家族の事ではあっても、こういう時には理性的に正義感で判断すべきであって、これに間違いはないと思っていたのです。

そんな時です・・・。
何となく論語を読んでいる時に、次のような話が出て来たのです。



ある人物が、その領地を訪れたこうしに向かって、自慢げに言いました。

「私達の村には非常に正直ものの息子がいまして、父親が他人の羊をごまかしたのを、その息子が証人に立って、実の父親を有罪に致しました・・・」

これを聞いたこうしが言いました。

「私の村の正直ものというのは、それとは違います」

「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す」

「父親は子供をかばい、子供は父親をかばいます」

「そして正義は、おのずから、その中に存在します」



もう数十年も前に読んだ話ですので正確さには欠けると思いますが、私はこの話を読んだ時に、私の心臓に飛んで来た矢が、グサッと深く突き刺さったような衝撃を受けました。
私はこの時に、はっきりと目覚めました。

私が考えていた理性と正義感というものは、愛情という一番大切なものを全く欠いている考え方なのだと・・・。
こうしの言葉が正しい考え方なのかどうかは、それぞれに意見があると思いますし、私にもどちらが正しい事なのかは未だによくは分かりません。
決して、こうしの言葉が正しいと思って目が覚めたわけではありません。

ただはっきりと分かった事は、理性的だとばかり思い込んでいた自分の考え方には、親に対する深い愛情が全く欠けていたという事実です。
この時の発見は非常に大きなもので、これ以来私は、愛情が伴わない時の理性や正義というものには、深い疑いを持つようになりました。

また読書についても、正しいお話やよいお話を読むのではなく、自分自身を目覚めさせてくれるような話を読みたいものだ、と考えるようになりました。
極端な事を言えば、間違った話でも非常識な話でも、自分を目覚めさせてくれればよいわけですから、この世の中に悪書という言葉もなくなってしまうかもしれません。



本というのは不思議なものです。
ただ単に物質として見れば、紙の束にインクの文字が並んでいるというだけの物に過ぎません。
ところが、そこに偉大な人物の思想が加わると、二千年以上も前の精神エネルギーがその物質を伝わって、現代の私達の心と共鳴し、衝撃を与えるのです。
そしてそれをまた、後世の人達に伝えようという気持も生じます。

こうしの肉体は滅んでも、こうしの精神は生き続けている事が良く分かります。
そしてそれを伝えるのが、紙の束とインクの文字なのです。

このエッセイは、音声読み上げソフトの音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源(約4分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-9.mp3


「数十秒間のお付合い」


以前こんな事がありました。
十数年前の事ですが、工場で働いている時の通勤時に、急にどしゃぶりの雨が降ってきた事があったのです。
その時には傘はありましたが、傘をさしてもかなり濡れそうな雨の勢いでした。

こういう時は少し軒先で雨宿りをしていれば、直に雨は止んでしまうと思っていたのですが、なかなか止みそうにありません。
遅刻をするといけないので、仕方なく歩き出して交差点まで来た時に、高校生くらいの女の子が自転車に乗って交差点で信号待ちをしているのを見かけたのです。

その女の子は傘がないので、強い雨に打たれてずぶ濡れ状態でした。
私は見ていられなくて、その子に傘を差し出しましたが、傘を差し出したところで、それ以前に既にずぶ濡れ状態なのですから、ほとんど何の役にも立たないわけです。
でも強い雨に打たれているのが気の毒に思って傘を差し出したわけですが、そのお陰で私の方が上から下までずぶ濡れ状態になってしまったのです。

これから仕事だというのに、一時はどうしようかと思いました。
数十秒後に青信号になって、その子はこちらを向いて頭をちょこんと下げて走って行きました。

ほんの数十秒間の出来事でしたが、なかなか面白い経験だと思って工場に着いてから、笑い話のつもりで同僚に話したのですが、同僚が言うには、「そうだよ、そのくらい積極的にしなければ、女性を獲得する事は出来ないよ」などと言うのです。

雨に濡れている子に傘を差し出した事は何度かありますが、こういう事はどうしても下心があると思われやすいのです。
(全くないとは言いませんが・・・)
ただ、下心があると思われたり誤解されたりするのが嫌だというので、何もしない人間にはなりたくありません。



私がこういうふうに、誤解されてもよいと思うようになったのにはわけがあるのです。
それは中学生の頃に、やはり通学時に急に雨に降られて困っているところへ、どこかのおばさんが傘を差し出してくれたのです。
そのおばさんとは行く方向が違っていたので、傘に入れてもらったのはほんの数分間の事だったのですが、非常にありがたいと思い、30年以上経った今でも忘れられないのです。

そのおばさんは何処の誰なのかも分かりません。
こんな時、もしそのおばさんの事が分かっていたとしたらどうなのでしょう。
ただ単におばさんに、なんらかのお礼をするというだけなら、借りを返すというだけの、たった二人だけのほんの小さな世界の話になってしまうでしょう。
これでは意味がありません。

大切な事は、おばさんに借りを返すのではなく、別の人達にお返しをする事なのです。
私が女の子に、例え誤解されても傘を差し出したように、その子が将来、男の子に傘を差し出す事が出来るかも知れません。
この為なのです。
これで心の世界が広がりを持ってくるのです。
ですからお互いに、何処の誰かも知らなくて良いのです。

これは人生数十年間の内の、ほんの数十秒間の出来事ではありますが、これも大切な人付き合いの一つなのです。
短い時間ではあってもつまらない付き合いではありませんし、また長い付き合いであっても、つまらない付き合いもあります。
どうせお付き合いをするのなら、お互いに心が豊になるようなお付き合いにしたいものです。

今日はこんな話になってしまいました。
お退屈様・・・。

このエッセイは、音声読み上げソフトの音声でお聴き頂く事が出来ます。
MP3音源(約6分)
http://www.geocities.jp/arata_tokyo_jp2004/essay-113.mp3


「バリアフリーについて・・・」


最近の電車には「優先席」というものが設けられていますが、数十年前にはあの場所は、老人の為の「シルバーシート」というものでした。
お若い人たちはご存知ないかもしれませんが。
今日はこのシルバーシートのお話から始めてみようと思います。



私は、産まれてからずっと東京に住んでいますが、電車に乗っている時に、シルバーシートというものに老人が並んで座っている姿をほとんど見た事がありませんでした。
これは印象としてですが・・・。

また若い頃に私は、電車の中で座って本を読む事がありましたが、その時に、目の前にお婆さんがつり革につかまって立つ事があり、仕方なく席を譲るという事がよくありました。
初めは何故か分かりませんでしたが、しばらく経ってその理由が分かりました。
私は電車に乗る時には、混んでいてもすぐにそとに出られるようにと、ドアのすぐ横に座るクセがあったのです。

この事に気が付いてからは、電車に乗った時に、試しに座席の中央、つまりドアから離れた所に座るようにしてみました。
そうしたら、案の定その後は、お婆さんが私の目の前に立つような事はほとんどありませんでした。
つまりお婆さんは、「ドアのすぐ横の席に座りたがっているのだな」と感じました。

鉄道会社としては、老人の為を思ってシルバーシートを設置したのだと思います。
これは善意です。
例え「会社のイメージアップ」という狙いがあったとしても・・・。

しかし、老人の為を思うのなら、最初の段階で十分な会話が必要だったのではないでしょうか。
また、設置後もアンケートを取るなどして、本当に喜んでもらえているのかを再調査すべきではないでしょうか。

私はこの事から、シルバーシートなどは取り外して、各ドアの直ぐ両側をシルバーシートにすればよいと考えていたものです。
これならば混雑している時にも、比較的楽にドアのそとに出られますから、老人が安心して座っていられると思うのです。
もちろんこれにも会話が必要ですが。



最近になって思いついた事ですが、シルバーシートなんて必要なくて、ただ車内放送などで、「ドアのすぐ両側の席は、おからだの不自由なかたやお年寄りのかたたちにお譲り下さい」などと乗客に伝えれば良いのではないかと思うようになりました。
これならば無駄な費用もかかりません。
つまり、一般の乗客の意識を変える事が大切で、これには費用はかからないわけです。
多くの費用をかけても役に立たない事が多いですから。



また最近では、駅のトイレに大きなスペースをとって、障害者と一般の人たちが使える個室を設置しているのを見かけるようになりましたが、これもおかしいのです。
小さな文字の説明文を読んでみましたら、「30分で自動的にドアが開いてしまう」と書いてあるのです。
トイレを故意に壊す人間もいるそうですから、セキュリティーなどの為でしょうが。
これは障害者のかたは、「30分以内にトイレから出られる」と決めてかかっているわけです。

私は以前、痔の手術をした事があるのですが、手術前の十数年間というものは、トイレに30分以上入っているという事はザラにあるのです。
長い時には1時間も入っていた事もありますから、30分で出られる事などほとんどなかったのです。

ですから想像するに、当然障害者のかたにしても30分以上入っている人もいると思うのですが、用を足している最中に急にドアが開いてしまったら?
まあ、世の中にはこういう事が実に多いわけです。



話は変わりますが。
人から聞いた話ですので詳しい事は分かりませんが、以前、選挙の時に福祉を強調する候補者がいて、
「もし自分が当選した時には、車椅子の人達の為に、町中の車道と歩道の段差をなくす工事をして、障害者の人達にも住みよい街づくりをする」と公言していたそうです。
そしてその候補者は見事に当選し、公約通り、町中の歩道の段差を削り落とす工事をしたのです。

ところが驚いた事に、多くの費用と手間をかけた筈のその道路を、車椅子の人達は全く利用しなかったのです。
詳しい事は分かりませんが、車椅子というものは後ろの車輪は大きいのですが、前の車輪は(10僉腺横cmくらいか?)かなり小さいのだそうです。
ですからその車輪の半径より高い段差の所では、通れないという事です。

このように障害者の為を思って、喜んでもらえるような事をするのは善意ではありますが、例え善意ではあっても、そこに十分な会話がなければなんにもならないわけです。
世の中には、このように十分な会話がなくて、問題になっている事がたくさんあるのではないでしょうか。

(これは2年前に書いたエッセイ「シルバーシートに老人は座っていますか?」を、修正加筆したものです)



尚、このソフトは「ニュース to Speech」というフリーソフトを使用しています。

桂木 範・オンラインソフト工房
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