愛知限定 歴史レポ

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前回の金城学院大学がある金城山に続き今回も金城山
△鬘妝个靴泙后この通称金城山は、前回も書きましたが、

元は八竜山と呼びましたが、また元は大森山とも呼びました。
この「大森」地名ですが、大きな嶺の意で金城山=八竜山を
さします。ここ大森に「大森寺」(だいしんじ)があり、
この寺には、徳川尾張蕃二代藩主 光友の生母 本名お尉
(じょう)のお方=乾(いぬい)のお方
法号歓喜院の墓があります。この乾のお方は、興味深い
エピソードが有ります。

その1 
初代名古屋城主、義直が、狩りで瀬戸水野山に行き帰りに、
大森山を通りかかった時農家の庭先で娘が臼で麦をついてい
たが、藩主一行を見て驚いた娘は、庭で体が不自由な父親が
行水しているのを見て、父をたらいに入れたまま家の中へ
運びました、これを見た義直は、この様な力持ちの娘を妻と
したならば、立派な跡継ぎを生んでくれるであろと思い側室
にしたこの側室が乾のお方。

その2
初代城主義直が守山の守山が原に出向いて狩りをしていた時、
夕立にあい義直は近くの大樹の下に雨宿りをした時、その前に
農家があり、年若な農家の主人が庭にたらいを持ち出し、
行水を始めたところだった、そこににわかの大夕立。
裸の主人は「ワーイ助けて」とおおあわて。

そのすっとんきょうな声を聞いたか、家の奥から若い女が
飛び出してきて、男が入ったまま、たらいを持ち上げ、
頭の上に乗せると目にも留まらぬ速さで、家の中に駆け込んだ。
やがて雨もやみ義直は城に帰ったが、その日から、
寝てもさめても大力女、大力女と恋しつずけ、重臣も
「それほど殿がお目掛けなら」とこの百姓女を城に召し、
義直の側室にしたこの側室が乾のお方。

その3
 義直が守山で狩りをしていたとき、突然小牛ほどもある
大きな猪が飛び出して、義直の前に立ち塞がり、今にも飛び
掛ろうとしたその時、草むらから、一人の少女が走り出て、
猪の前に立ちはだかり,着物の前を静かに捲くりあげた。
すると鋭い牙を突き出していた猪がジリジリ後退り始め、

やがてくるりと向きををかえ逃げ去った。
まさに一瞬の出来事で、猪が少女の気迫に恐れをなしたのか、
目の前に露出された顕な観音様に恐縮したのかどうかは分からないが

義直は事なきを得て命拾いをした。城に帰った義直は、
たくましい少女の勇気に気を引かれたのか、即座に
召抱えるよう命じた。最初の役目は義直の湯殿の女中であった。

そしてこの少女が懐妊した、義直が風呂の中でで手を付けてしまったのだ。
そしてその娘は義直の側室「お尉の方」となり初の男子を産んだ。

生まれた子に将軍家光の一字賜り「尾張二代目藩主光友」となった。
以上が二代目尾張藩主光友の誕生エピソードですが、

これは地元の郷土史家が古書からの言い伝えを記したものが、
現在も伝説としてある話です。

お尉のお方=乾のお方は光友を1625寛永二年七月二十九日生み、
お乾のお方が亡くなったのは1634寛永十一年二月十二日で法号が
歓喜院.光友は亡くなった生母の恩を忘れず、1661寛文元年大森寺を
建立しました。

本堂裏には歓喜院の他に、乾のお方の地元縁戚の都築家や檀家や、
地元名士の陶芸家加藤唐九郎の墓があります。

新池は池の中にに石地蔵があり、地蔵池とも言う、
地元の方の話ではこの池で何人か亡くなり、身投げで亡くなったり、
濃尾地震時にこの池の堤が崩れ雨池に流れ込みこの水が低地に流れ
二名亡くなったとの事です。合掌。この池の先が八竜湿地で、

ここの案内は次回UP予定。この新池の東側山上の造成地よりの
展望を撮影出来ましたのでUPします。

追伸 6枚目の写真の新池、通称地蔵池の中の、竪樋の上に立つ
石地蔵は、戦後間もない頃、この新池に入水自殺する人が3人も
続いたので、その霊を弔う為に、建立されたものらしい。

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乾の方は初代尾張藩主の義直夫人に光友の母ですね。やはり偉大な家族ですね。
写真の方向の細かさすごいですね。


私の歴史水着ブログも良かったらみてください。 削除

2008/5/28(水) 午後 10:09 [ sisi ] 返信する

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sisiさん訪問&コメ有難う御座います。そちらのブログを拝見しました、義直夫人は春姫と有りますね、春姫のビキニ姿イラストや他の奥方も傑作ですね、乾の方は義直が名古屋の大森村で拉致し?、御殿女中にし魔がさし湯殿でお手をつけてしまった女性でした、後に跡継ぎの男子を出産したため側室になり名を残しました。

2008/5/28(水) 午後 11:08 [ エリア行く ] 返信する

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興味深く読ませていただきました、何故かしら、太田道灌の犹蛙疚辞瓩簍邯譴劉猝楾のサンマ瓩鯱∩曚靴討靴泙い泙靴拭2燭譴砲擦茵∪里療騨佑蓮△燭斉擦埜かけただけで、その娘を自由にできたのですね。羨ましいやら、気の毒やら(何でも自由になるぬは必ずしも…イミダス王の話でしょうね)とんだ脱線になってしまいました。

2009/2/27(金) 午前 5:38 [ - ] 返信する

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はんどくさん、リンクお手数かけ申し訳ありませんでした。古くはヨーロッパの王国の領主も領地の処女権は全部領主に有ったと聞いた事があり、家康9男尾張藩初代藩主義直には世継ぎの男子出来ず、お坊ちゃまで堅物な為、重臣が側室を進めても、怒りだすような殿でしたが男子誕生を知らされても、正室に遠慮し最初は農女乾の方の事は否定していたが、世継ぎ誕生で後に認めたよです。ちなみに乾の方は、現世ではお笑いの「南海キャンディのしずちゃん」の様な大柄でがっちりとした愛嬌のある女性と小生は想像します。この側室趣向は秀吉のお姫様を好む趣向とは逆で家康公の庶民的趣向と似ていませんか。

2009/2/27(金) 午前 9:19 [ エリア行く ] 返信する

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