アート サモトラケのニケ

9月3日から8日まで、春日部中央公民館で絵画展中。

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 とりあえず、書いてみなければわからない。確か、渡辺昇一も、「知的生活の方法」か何かに、論文などは、考えるよりもまず書きはじめる事が大事だと書いていた。ワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」が完成したとき、すごいものが出来たと、本人がいちばん驚いていた。頭の中で完全に作品が完成していて、書くのが作業だったのは、モーツァルトぐらいしか考えられない。


 小林秀雄講演集「宣長の学問」のテープを聴いていたら、画に関係のあることを言っていた。だいたいこの人は、講演というものが嫌いだと、何度か講演の枕にしゃべっている。
以下、適当に要約して書いておきたい。こっちも書いてみなければわからない。


 戦争中に文士は政治講演をやらされて、マイクなんてないから、喉がかれるような大声を出してしゃべらされた。聴衆は黙って聞いているわけではなくて、さんざん野次られた。その頃から、講演ていうものは嫌いでした。いま講演するのは、義理人情ですよ。誰々さんにはお世話になりましたからね。誰々くんに熱心に頼まれたとか、個人的理由でこういうところに来ているんです。けっして、みなさんに聴いてもらいたい内容が、わたしの方にあるわけじゃないんです。「本居宣長」について啓発してやろうとか、そんな欲望はないんです。雑談みたいな事で勘弁してほしいんです。

 今日は「本居宣長」について、話をしろと言われたんですが、「本居宣長」は、いま書いているんです。書いていると言うことは、まだよくわからんということなんです。文学者の仕事というのはそういうことなんです。書いてみなければわからないことをやっているんです。

 絵描きだってそうでしょ。描いてみなければ何が描けるかわからない仕事をやってます。小説家もそうです。わたし、昔伊豆で、梅原龍三郎さんと同じ宿に、ずいぶん長くいたことがあるんです。富士山を描いているんですが、4月頃から、毎日毎日描いているんです。出来上がるのは秋なんです。秋なんですが、初めに描いた富士山と、終いに出来上がった富士山とはまるで違ったものなんです。

 それはどういうふうに違ってくるかというと、描いているうちに違ってくるんです。富士山の雪が消えてくると、画の方も雪が消えてくるんですね。 だんだん景色が変わってきます。 どんどん画も変わってくるんです。なるほど絵描きってのはこういうものかと、つくづく思いました。

 富士山は見ているんですが、やっぱり、出来上がっている自分の画を見ているんですね。何ができるっていうことは、富士山の方からは来ないですね。 自分描いている画の方から、いろんな事がやってくるんです。こういう事が私、たいへんよく分かりました。

 そういうことは、僕らが書くものでも言えるんです。ぼくら、こういう風なものが書きたいと思って書いたことは一辺だってないです。小説家でもそうでしょう。こういうものが書きたいと思って、そのとおりのものが書けることはまずないですね。書いているうちに、いろいろ人物が動いてきたり、考えが変わってきたりして、書き終わるんじゃないかと思います。そんなふうに僕らは仕事をしているんです。 

だから「本居宣長」のことを書こうと思ったのはずいぶん前からのことなんですが、これ、書かないと、書かないんですね。書かないと、書かないってことは、つまりね。頭の中でこういうようなものを書こうという観念が出来上がってから書こう、なんて思ってたら、一生書かないんです。 だから、とにかく書いてみるんです。書いてみると、書いた自分の文章から、何かが出てくるんです。

 というようなわけだから、とにかく書いてみようと、書きだしたわけです。だからこれ、どうなるかわからないんです。だから「本居宣長」の話をしてくれと言われても、たいへん困るんですね。本居宣長っていう人は、こういう事を考えていると、はっきり言えればね、私はもう書きやしないし。 わかっちゃうって事は、だいたい面白くないんです。これはこうだ、と思ってしまえば、面白くもないんで。

 なんだかよく分からないところがあるから、これを文章の上で整理してみたい、ハッキリさせてみたいと、思うから書くんです。そういうところ、素人といっちゃあ失礼だが、素人の方は間違えるんですね。

 だから自分の書いたものに、偉い芸術家というものは、驚いているに違いないんです。初めから思っていたように書けたということは、計画通りに進んだということで、文学とか芸術といったものではないんです。図面通りビルが建ったとか、こういうのは理論とテクニックの問題でね。

 芸術家はみんな、やってみなければわからないものをやるんです。

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obidos2005

 本物を見る目を養う、違いがわかる感性を鍛える方法の第一は、
「いいものだけを見る」ということに徹底して、それを一定期間持続することです。

 「いいもの」とは、本物の絵を見たり、音楽を聴いたりということです。
家庭で画集を見たり、音楽を聴いたりするのは、これにあたりません。
それと同時に、「一流ではない、つまらないものを目に入れない、聴かない」ということを持続しないといけません。

 小林秀雄の文章の中に、若い文学を目指す人に勧めることが書いてあります。
半年かけて「トルストイ全集」を読め、その間、他の人の文章は読んではいけない。

 そして、出来るだけ、その作品が生まれた場所へ行くこと。
上野で法隆寺展を見るよりも、実際に奈良・斑鳩の法隆寺へ行ってみる。パリのルーブル美術館やオペラ座に行ってみる。ギリシャ・アクロポリスの丘に行ってみる。そういう場数を踏む事も大切です。

 ある期間、そういうことを続ければ、二流以下の作品を見たときに、理屈ではなく、違いがわかるようになります。

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2005、2 ヴェネチア

 よく神童とか天才ヴァイオリニストなどということがいわれますが、音楽家では、これが当たり前なのであって、音楽家というものは、人に教えられ、だんだん何かがうまくなったから音楽家になったというぐあいにいくのではなくて、最初から音楽が好きで、音楽が好きでたまらないというので、それではピアノを弾いてみろ、ヴァイオリンをやったら、という具合に訓練を受けているあいだに大人になってゆくというにすぎない。

 逆に、だから、ピアノを習ったからとか、音楽学校を卒業したからとかで、音楽家になるというのではないのです。だから、芸術家であるかないか、それは、まず、いくつの時とはっきりいえないような幼いときに、もう決まっているようなものです。ただ、それから、立派な芸術家になるかどうかはまったく別の問題です。


人の生きてあるところに芸術あり
 芸術は、基本において、人間が生活しているところ、あるいは生活を愛し、少しでもそれを居心地の良いものにしようと努力する人間のいるところ、どこにも生まれてくる可能性を持っているといって、過言ではないでしょう。
 逆にいえば、芸術は、人生があって、その他に、どこか別のところから、そこに加えられてくるといったものではない。私たちが生きているという、そのこと自体の中にふくまれている。

 特定の条件のもとで生まれたものでありながら、その条件とはちがう土地、時代の人間に、直に語りかけ、歌いかける力をもっている。

 たとえば、モーツァルト。彼の音楽は最も理想的な高さに到達していた、と万人が万人、考えている。その形式上の完璧さと表現の正しさにおいて、彼の芸術は間然とするところのない「美の規範」を実現したものといってもよろしい。そのうえ、彼の作品は、後鳥羽上皇のいうところの「実ありて、しかも悲しびをそふる」芸術として、今日にいたるまで、聴くものを感動させずにおかない。

 絵であれ、詩であれ、音楽、演劇であれ、つくった人、演じる人たちだけでできているのではない。その人たちから発信される記号をうけとり、それを自分にとって意味のある情報に翻訳しなおす公衆の想像力があってはじめて、完成し、一つの全体になる。

物には決まった良さはなく、
人にはそれぞれ好き嫌い、
お前の舞う姿が良いとのことだが、
わしは好き、お前のじっとしているとき。 (白楽天の詩、孫引き)

「みんな君の立ち姿が、ことのほかあでやかでよろしいという。みんなは、君が舞台で舞っているすがたを見なれているのだから。しかし私は、私のそばにいて君がじっとしてくれているとき、そのときの姿がいちばん好きなんだ・・・・・」こんなふうに読むのもできなくはない。

 白楽天の詩、モーツァルトの音楽が、遠くでつくられたにもかかわらず、私たちにすぐピンとくるのも道理で、そのピンとくるはたらきは、作品から呼びかけの信号を受け取った私たちの心の働きにほかならないのです。


 芸術は人生にどう役立つのか? 
 役立つも役立たないもない。芸術は人間の生きている、その生き方そのものの中に根を張っているもの、生きるということ自体の内容の一部に他ならないのです。だから芸術が人生にどう役立つか? ときくのは、人間の身体をみて、その手や足、あるいは心臓や肺臓について、何の役に立つのか? ときくようなものだと、私は思います。

沈黙のすすめ

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 沈黙というのは、知の根元である。知がよく働くようにするためには受動的でなくてはならない。その受動性を破るものは何かといえば、外から来る騒音である。本当に静かにしていて、しかもじゃまが来ないという保証がほしい。じゃまが来るかもしれないというような、そのような恐れがあること自体が、すでに知の働きを妨げるのである。

 情報を遮断したときに、そして情報から足を引っ張られないときに、われわれは多くの情報に対して正しい判断を与えることが出来る。今ならば、友達から、職場の上司から、時間、空間をこえて、いつ電話が飛んでくるか分からない。しかし、昔の人は退屈なまでに単調な夕べを持ったはずである。

 いい学校なんかに入ったんだけれども、少しも利口にもならなければ、よい人間にもならない。屁理屈がうまくなったかもしれないけれども、基本的なところでどうもおかしい、そういう人たちは、実際たくさんいる。

 読書というものは、きわめて有用なものであると同時に、危険な点も少なくない。絶えず本を読んでいると、考える時間が非常に少なくなるからだ。静かなところで読書するときは、天才の思想に直接触れることであって、非常に知的な価値が大きいのだが、平凡な著者のものを次から次へと読むということは、ただ頭の中をやかましくしているにすぎない。本を読むこと、それが相当立派な本であっても、ある程度以上にたくさんの量を読むのは、知的価値としては散歩に劣るというような感じさえする。

 知の場合はまず、時間的にも空間的にもこもらなければならない。一日のうちに数時間のあいだは、いかなる理由があっても、人に会ってもいけないし、話を聞いてもいけないし、電話に出てもいけない。一年に何度かは相当長い間、何もしゃべらない時間を持ちたいものである。そのような機会をしばしば繰り返すと、人間の知というものは意外に開けるものである。

渡辺昇一の著書より自由に抜粋

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