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昨日、テレビ朝日系列の「ザ・ファースト・エンペラー 始皇帝の真実」というスペシャル番組を見ました。 前半は、兵馬俑についての話題がほとんどでしたが、とても興味深い内容でしたね。後半は、始皇帝の生涯について、ドラマ仕立てで描かれていました。ドラマは、中国の役者さんが演じておられたので、演技がかなりオーバーでしたが、それなりに雰囲気があって楽しめるものでした。ここでは、宦官の趙高がかなりクローズアップされていたように思います。司会の加藤晴彦さんが趙高を「すごく嫌な奴」と罵っていたのに対して、陳舜臣さんも「大嫌いです」と言っておられたのは少し笑ってしまいました(^^)「史記」を書いた司馬遷も、趙高に対しては悪評しか書いていません。たしかに、弁護しようのないほどの大悪人なんですね。ドラマでは、趙高が始皇帝を暗殺(毒殺)したとの仮説をとっていましたが、その可能性は高いと思います。 番組では、始皇帝が常に暗殺の危険にさらされていたとして、荊軻という人物が起こした暗殺未遂事件について紹介していました。しかし、事件の具体的な内容については、あまり触れていませんでした。そこで、今回はその詳細を書いていきたいと思います。 荊軻は、衛の出身で、剣術の達人でした。諸国を放浪していた際に、燕の田光という人物と知り合い、賓客として扱われました。ある時、秦の人質になっていた燕の太子・丹が逃げ帰ってきました。丹は、秦が燕に侵攻してくるのではないかと危惧し、秦王・政(後の始皇帝)に対して刺客を送ることを考え、田光に相談しました。その結果、田光は刺客として荊軻を推挙しました。 荊軻は、秦王に謁見するため、その信用を得る手段として手土産を用意することを考えました。その一つは、燕で最も肥沃な土地の地図を献上することでした。これは、その土地の領土割譲を意味しました。もう一つは、元は秦の将軍で、燕に亡命中であった樊於期の首を差し出すことでした。秦王に家族を殺され、秦王を深く恨んでいた樊於期は、復讐のために喜んで自分の首を差し出しました。 かくして荊軻は、巻物になっていた地図の中に「徐夫人の匕首」という名剣を仕込み、樊於期の首を持って、秦王の元へと出発しました。樊於期の首を見て、秦王はすっかり荊軻を信用してしまい、贈られた地図を開きました。地図が開き終わると、そこには匕首が巻き込んでありました。荊軻は、匕首をつかみ、秦王の袖を取って刺そうとしました。しかし、秦王の袖がちぎれ、間一髪のところで取り逃がしてしまいました。秦王は、反撃しようと剣を抜こうとしますが、鞘に引っかかって抜くことが出来ませんでした。群臣たちは、殿中で武器を持つことは禁じられており、手も足も出せませんでした。荊軻は、さらに秦王に襲い掛かりました。匕首の刃には猛毒を塗られていたので、かすり傷ひとつでも秦王を殺すことができました。しかし、とっさに侍医の夏無且が薬嚢を投げつけました。荊軻がひるんだ隙に、秦王は剣を背中へ回し、背負うようにして剣を抜きました。長剣と匕首では全く勝負になりませんでした。最後に、荊軻は匕首を投げつけましたが、ねらいがはずれて、ついに秦王に切り殺されてしまいました。 激怒した秦王は、ただちに将軍の王翦に燕討伐を命じ、たちまち燕を滅ぼしてしまいました。その五年後、秦王は、最後に残った斉を滅ぼして中国を統一し、自らを皇帝と称しました。始皇帝の誕生ですね。 「HERO」という映画がありますね。あれは、この暗殺未遂事件を元に作られたものではないかと思います。かなりの脚色が加えられてはいますが・・・
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『国大なりと言えども戦を好まば滅ぶもの也』…秦最後の皇帝子嬰をUPしてみましたw
2005/12/9(金) 午後 3:53
まるこさん、コメント&トラックバックありがとうございます。子嬰は、頭の良い人物で、趙高に殺されそうになりましたが、返り討ちにしていますね。だけど、せっかく劉邦に投降して助けられたのに、項羽にあっさり殺されましたよね。やっぱり、可哀想な人物だと思います。
2005/12/9(金) 午後 11:27 [ ユウ ]
御久しぶりです。再TBです。
それにしても、今から2年も前に、ここに2本TBしてた事を、今まですっかり忘れてました(苦笑)。
その時に貼った『暗渡陳倉』2本が、未だにここでは最新のTBなのですね。それですぐに分かりました。
TB内容は、記事でも紹介されてるような、通説として語り継がれて来た事が、実は虚構だったという趣旨のものですが。
2010/9/27(月) 午後 3:56 [ - ]