プチ歴史読本

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伏見城に散った忠臣

徳川家康の家臣の中で、特に功績のあった16人を「徳川十六将」と呼ぶことがあります。その中の一人で、鳥居元忠という人物がいます。徳川家臣団のなかで、僕が一番好きな人物です。

鳥居元忠は、家康がまだ松平姓を名乗っており、今川家の人質にされていた頃からの家臣でした。その頃は、主従という間柄でしたが、二人ともまだ幼少で、遊び友達という関係だったのではないかと思います。

桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にすると、家康は徳川姓を名乗り、三河で独立しました。元忠もそれに従い、遠江の今川氏真攻め、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで武勲をあげました。しかし、元忠は、家康が感状を送ろうとしても受け取ろうとはしませんでした。感状は、武功を称える書状で、武士が他家に仕官する際に有利になる物でした。それを受け取らないということは、元忠の「徳川家以外に仕える気はない」という意思の表れだったそうです。

元忠は、その後も徳川家の関わる各地の戦い従軍し、勲功を重ねました。豊臣秀吉がその功績を認め、官位を与えようとしましたが、元忠は辞退しました。家康以外の人物から叙勲される気はなかったんだと思います。もしかしたら、家康が官位を与えようとしても固辞していたかもしれませんね。

元忠の最も華々しい、そして、最後の戦いとなったのが関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の篭城戦です。豊臣秀吉死後、五大老となっていた家康は、同じく五大老の上杉景勝討伐のため、自ら兵を率いて東進しました。その時、京都における家康の拠点の伏見城の守将に任じられたのが元忠でした。それを知った五奉行の石田三成は、大阪城に赴き、豊臣秀頼に決起を促し、挙兵しました。そして、それに呼応し、西国の諸大名も挙兵し、西軍十万余の軍勢が組織されました。西軍の最初の攻撃目標となったのは、当然、伏見城でした。

東進中の家康の元に「三成挙兵、伏見城を包囲」との知らせが入りました。家康は、軍勢を二つに分け、上杉討伐は配下に任せ、自らは伏見城の援軍に向かいました。しかし、到底間に合う距離ではありませんでした。

西軍十万余に対し、伏見城の守備にあたっていたのは、千八百ほどであったそうです。西軍の諸将は、伏見城に対して降伏勧告を行いますが、元忠は、使者の首をはねて断固拒否しました。そして、伏見城への総攻撃が開始されました。元忠は、奮戦して西軍の攻撃を何度もはね返し、伏見城を堅守しました。思わぬ苦戦に、三成はあせりました。このまま、家康の援軍が到着すると、非常にまずいことになるのは言うまでもありません。

包囲から十日後、西軍は忍びの者に命じ、城内に火をつけさせました。火計は成功し、伏見城の二つの城門が開きました。西軍は城内に乱入し、さらに火を放ち、本丸まで炎に包まれました。それでも、元忠は、槍を手に手勢とともに最後まで戦いましたが、ついに力尽きて敵の目の前で自害しました。

家康は、三成の挙兵を予測しており、元忠も死は覚悟の上であったと思います。それでも、家康は、元忠の死を非常に悲しみました。その後の関ヶ原の戦いは、家康の率いる東軍の大勝利に終わったことは周知の事実ですよね。家康は、元忠の敵をとったことになります。しかし、元忠は、家康の天下を見る直前でこの世を去ったわけですね。享年62歳でした。

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