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大津事件は、明治時代、来日中であったロシア皇太子ニコライが大津において警察官である津田三蔵に襲撃された事件です。
後にロシア革命でレーニンによって処刑され、ロマノフ朝ロシア最後の皇帝となったニコライ2世ですが、当時は皇太子であり、甥であるギリシャ王子ゲオルギウスとともにアジア各地を歴訪中でした。ニコライ一行は、軍艦でまず長崎に上陸し、神戸、京都などを観光した後に琵琶湖遊覧のため、事件のあった大津に訪れました。
遊覧を終え、宿泊地である京都への帰路でした。大津市内京町通の一角において、ニコライの乗る人力車が通過するやいなや、その場の警護にあたっていた津田三蔵が突然サーベルを抜き放ち、ニコライの頭部に二太刀斬りつけました。
津田は、直後にゲオルギウス、人力車夫らの活躍によって他の警護の警察官に取り押さえられたため、ニコライは軽症ですみましたが、事件は日本全国民を巻き込む大騒動となりました。なにしろ、大国ロシアの皇太子に怪我を負わせたわけですから、ただですむはずはない、下手をうてば戦争になると誰もが思いました。
当時の政府は事件に大きな衝撃を受け、明治天皇はすぐさま御前会議を開き、事件翌日には京都へ行幸し、ニコライを見舞いました。
閣僚たちは、ロシアからの報復を恐れ、皇族に対する罪(大逆罪)を適用し、津田を死刑にするように裁判所に圧力をかけました。伊藤博文や後藤象二郎らも津田死刑を主張しました。これに対し、当時の大審院院長、児島惟謙は、「大逆罪は外国の皇族には適用されない」と主張しました。
この結果、大津地裁で開かれた大審院法廷では、津田に対して、一般人に対する謀殺未遂罪として無期徒刑の判決が下されました。
現在、この判決は、三権分立、司法権の独立を守った画期的なものであったと評価されていますが、直接裁判に関係のない児島惟謙自身が裁判に干渉することで裁判官の独立を侵害したこと、通常の手続きに基づかないで大津地裁で行われるべき裁判を大審院に持ち込んだことは問題があったとされています。
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日本の歴史
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中世、近世の日本の歴史がメインです。
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宝蔵院流槍術は、奈良の興福寺の僧、宝蔵院胤栄を流祖とする槍の流派です。独特の十文字鎌槍を使用するのが特徴です。二代目の胤舜は、宮本武蔵と手合わせをしたと言われています。宮本武蔵を主人公にした多くの映画や小説等の作品で二人の決闘が描かれていますね。 昨日、奈良の興福寺へ行き、宝蔵院流槍術の奉納演武会を見てきました。正式には、宝蔵院流槍術高田派と言うようであり、胤栄の弟子である高田又兵衛によって現代まで受け継がれてきた分派のようです。本家の宝蔵院流は、現代には残らなかったようです。 槍合せの型、表14本、裏14本、新仕掛7本、全ての型を見学させていただきました。気迫漂う、迫力のある演武でした。
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剣豪・宮本武蔵が最後に決闘した佐々木小次郎という剣士がいますよね。 佐々木小次郎は、非常に謎の多い人物で、「巌流」という流派の剣術の流祖だと言われていますが、その剣術も詳細はまったく分かりません。ちなみに、決闘の舞台となった「巌流島」は、この巌流からとってつけられたようですが、敗者側の流派の名前をつけるというのは、どういうことなんでしょうね? 小説や漫画では、佐々木小次郎の姿は美男子の青年剣士として描かれていることが多いですが、一説によると、武蔵と決闘した時期の佐々木小次郎はかなりの高齢で、武蔵は多くの弟子を連れていて、老人一人を倒したそうです。しかも、怒った小次郎側の弟子が武蔵に仕返ししようとすると、武蔵は尻尾を巻いて逃げ出したというのです。 この説が正しいのかどうかはわかりませんが、もし、武蔵が正々堂々と決闘していたのならば、武蔵の流派である二天一流や円明流から島の名前がつけられても良いと思うんですよね。そもそも、通説でも武蔵はあまり正々堂々と戦ったとは言いがたいですからね。 さて、先ほども書いたように巌流について、ほとんど分かっていないんですが、小次郎は「燕返し」という技を使っていたと言われています。燕返しについても詳細は分からないのですが、技自体は単純なもので、まず左袈裟がけに斬り、その後、剣先を返して右水平斬りを繰り出すというもののようです。 僕が習っている居合道の流派でも、この技で試し斬りをされる先生方が何人かおられます。最初の一太刀の後、すぐさま水平に返して斬るのに技術がいるようですが、できない技ではないです。ただし、小次郎は「物干し竿」と呼ばれる三尺三寸(1m以上)の刀を使用していたそうなので、この刀で燕返しを繰り出していたとするならば、やはり相当な使い手であったと思います。
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みなさんは、昔の日本人がどんな歩き方をしていたか知っていますか? 実は、今のように手と足を逆に出して歩く歩き方は、明治以降になって日本に浸透していった歩き方なんですよ。 明治の初めの頃、ほとんどの一般人は、まともに走ることができなかったようです。なぜなら、農民は走る必要がなかったからなんですね。明治政府が徴兵を行った際、これではいけないということで、西洋式の調練を取り入れ、走ることを教えたそうです。それが学校の教育にも導入され、今日に至るようです。つまり、今の日本人の歩き方は、西洋人の歩き方を真似たものなんですね。 では、それ以前の日本人がどんな歩き方をしていたかと言うと、正確には分かっていません。ひとつの答えとして、「ナンバ歩き」という歩き方をしていたのではないかということが言われています。 ナンバ歩きとは、歩く時にほとんど手を動かさずに歩く歩き方です。「能」の歩き方を想像してもらえば分かりやすいと思います。 また、ナンバ歩きでは、手を動かすとしても足と同じ側の手を出して歩きます。この動きは、武道(例えば柔道の動き)や盆踊り等の日本の伝統文化にも残されていますね。本当は、身体をひねることが無いので、無駄の少ない合理的な歩き方のようです。 結婚式なんかで緊張してガチガチになって同じほうの手と足を出して歩く人がいますが、古来からの日本人の血がそうさせるのかもしれませんね(^^)
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僕が今住んでいる土地の名前は、「祝園」(ほうその)と言います。 京都府の南部で、奈良に程近い位置にあります。 はじめにここに住もうと思った理由は、「祝う園」なんて縁起の良い名前だなぁなんて思ったからなんです。しかし、後になって分かったことなんですが、この名前にはちょっといわくがあったようです。 その昔(と言っても紀元前の話ですが)、ある人物が朝廷に対して反旗を翻し、京都の南部のあたりで大きな戦があったようです。で、結局、反乱は鎮圧され、首謀者は討ち取られ、多くの人が戦死しました。そして、その戦死者の遺体が集められて埋葬され、その土地の名前が「ほふりその」と呼ばれるようになりました。つまり、「ほふりその」=「屠り園」ということでしょうね。 もうお分かりですね?「ほふりその」→「ほうその」となったわけですね。「祝園」という漢字は、たぶん当て字でしょうね。 ちなみに、現在の「祝園」はと言いますと、名前どおり、静かな住宅街とのどかな田園地帯が広がる住みやすい良い地域になっています。イチゴ狩りでも有名です(^^) 上の写真は、昨日散歩に行って偶然みつけた石碑です。反乱を起こした武埴安彦(たけはやにやすひこ)という人物が刑死した場所ではないかと思います。
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