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日本の歴史

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村上水軍

先日、尾道を訪れ、「しまなみ海道」を遠望し、この近海を支配していた村上水軍に思いをはせ、ブログに記事を書きました。

今日の読売新聞の文化面に村上水軍に関しての面白い記事が書かれていたので少し紹介したいと思います。

村上水軍とは、戦国時代に瀬戸内海を支配していた海賊で、因島、能島、来島の三島を拠点として略奪行為を行っていたと思われていました。ところが、記事によると「実は村上水軍が、武力による略奪行為よりも、安全な航海を保障し、流通を盛んにすることで繁栄したらしいことが近年、明らかになってきた」らしいのです。

もし、この説が本当だとすれば、僕が持っていた海の荒くれ者としてのイメージは大きく変わりますね。なにせ、船から爆弾をほり投げて敵船を沈めるという豪快な戦法を得意とした村上水軍ですから、当然、略奪なんかお手の物なんだろうなぁと思っていました。

ではなぜ、村上水軍に略奪によって繁栄したとのレッテルがはられてきたのでしょうか。実は、村上水軍が略奪を行ったという記録の多くは、地方の有力者が中央に納めるべき年貢の量をごまかそうとして、海賊に奪われたということにするための虚偽のものであった可能性が高いというのです。もし本当だとすれば、村上水軍は、とんだとばっちりを受けたわけですね。

しかし、当の本人たちは、そんなことは気にも留めていなかったのではないかと思います。案外、自分たちの威を示すための良い宣伝になるとでも思っていたのかもしれませんね。

天下三槍

日本には、誰が決めたのかわかりませんが「天下三槍」というものがあります。
以前にも「人間は上位三つのものを決めたがる」と書いて「三大悪人」について紹介しましたが、今回は、人間ではなくて武具ですね。

槍という武器は、非常に原始的な武器で、構造も簡単なので狩猟にも使用されることもあり、世界では古くから戦争に使用されています。ところが、日本での戦場での槍の使用の歴史は意外に浅く、14世紀ごろに初めて使用されたようです。それ以前の戦では薙刀(なぎなた)が主流だったようですが、室町時代から戦国時代にかけて槍がとってかわるようになりました。

そのためか、「天下三槍」もすべて室町時代から戦国時代にかけて作られたものになります。それぞれの名前をあげますと、蜻蛉切・日本号・御手杵の三つです。

蜻蛉切(とんぼぎり)は、徳川家康の家臣の本多忠勝が愛用していた槍です。本多忠勝は、生涯で四十回以上もの戦に参加しながら、かすり傷ひとつ負わなかったというほどの猛将です。
蜻蛉切の名前の由来として、その穂先にトンボがとまった時に、そのまま真っ二つに割れてしまったという、ちょっと信じられないエピソードがあります。
本多忠勝と蜻蛉切のコンビは、まさに鬼に金棒であったと言えるでしょうね。
蜻蛉切のエピソードとして面白いのは、実は村正の作であったということでしょうね。村正とは、刀鍛冶のことであり、家康が天下統一後、「徳川家に災いをもたらすもの」として、村正作の武具の所有を禁じたと言われています。そのため、「妖刀」と言われるようになりましたが、幕末の頃には、倒幕を図る志士たちによって好んで使用されていたそうです。

日本号(にほんごう)は、別名「呑み取」の槍とも言われています。「さけはのめのめ、のむならば…」の「黒田節」に出てくることでも有名ですね。
元々は、朝廷所有の無名の槍でしたが、豊臣秀吉に下賜された際に「日本号」と名付けられたと言われています。これを小田原の北条攻めで功のあった福島正則が授かりました。福島正則と言えば、秀吉の子飼の猛者で、「賤ヶ岳の七本槍」の一人ですね。
ある時、この福島正則のところに黒田長政の家臣である母里太兵衛という猛者が訪れます。酔って上機嫌だった正則は酒を勧めますが、太兵衛はこれを断りました。「太兵衛は酒が弱い」と勘違いした正則は、「大杯の酒を飲み干せば望みのものを与える」という条件を出し、無理やり酒を飲ませました。ところが、本当は酒の強かった太兵衛は、見事にこれを飲み干し、その褒美に日本号を貰いたいと言い出しました。正則は困りましたが、約束を破るわけにもいかず、泣く泣く日本号を渡したのでした。この話が「黒田節」として現代にも残っているわけですね。
日本号は、その切れ味もさることながら、刃元の豪快な倶利伽羅不動の彫りこみも美しく、見た目も見事な名槍なのだそうです。

御手杵(おてぎね)は、島田鍛冶の作と言われています。
蜻蛉切・日本号に比べて、名前はあまり知られていませんが、特に面白いエピソードがあるわけではないからだろうと思います。それでも、天下三槍に入るくらいなのだから、相当な名槍であったと想像できますね。
三本の中では最大の長さで、全長が2メートル以上、刃の長さが1メートル以上もあったそうです。
ちょっと変わった名前ですが、その由来は、刃の部分を覆う鞘が「手杵」という道具に似ていたからだと言われています。
松平大和守家が所有していたそうですが、残念ながら、太平洋戦争の時に焼失してしまったようです。

人に歴史があるように、人とともに歩んできた道具にも、それなりの歴史があるわけですね。

(この記事は、まるこさんのリクエストをきっかけに書かせていただきました。まるこさん、ありがとうございます)

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伏見城に散った忠臣

徳川家康の家臣の中で、特に功績のあった16人を「徳川十六将」と呼ぶことがあります。その中の一人で、鳥居元忠という人物がいます。徳川家臣団のなかで、僕が一番好きな人物です。

鳥居元忠は、家康がまだ松平姓を名乗っており、今川家の人質にされていた頃からの家臣でした。その頃は、主従という間柄でしたが、二人ともまだ幼少で、遊び友達という関係だったのではないかと思います。

桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にすると、家康は徳川姓を名乗り、三河で独立しました。元忠もそれに従い、遠江の今川氏真攻め、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで武勲をあげました。しかし、元忠は、家康が感状を送ろうとしても受け取ろうとはしませんでした。感状は、武功を称える書状で、武士が他家に仕官する際に有利になる物でした。それを受け取らないということは、元忠の「徳川家以外に仕える気はない」という意思の表れだったそうです。

元忠は、その後も徳川家の関わる各地の戦い従軍し、勲功を重ねました。豊臣秀吉がその功績を認め、官位を与えようとしましたが、元忠は辞退しました。家康以外の人物から叙勲される気はなかったんだと思います。もしかしたら、家康が官位を与えようとしても固辞していたかもしれませんね。

元忠の最も華々しい、そして、最後の戦いとなったのが関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の篭城戦です。豊臣秀吉死後、五大老となっていた家康は、同じく五大老の上杉景勝討伐のため、自ら兵を率いて東進しました。その時、京都における家康の拠点の伏見城の守将に任じられたのが元忠でした。それを知った五奉行の石田三成は、大阪城に赴き、豊臣秀頼に決起を促し、挙兵しました。そして、それに呼応し、西国の諸大名も挙兵し、西軍十万余の軍勢が組織されました。西軍の最初の攻撃目標となったのは、当然、伏見城でした。

東進中の家康の元に「三成挙兵、伏見城を包囲」との知らせが入りました。家康は、軍勢を二つに分け、上杉討伐は配下に任せ、自らは伏見城の援軍に向かいました。しかし、到底間に合う距離ではありませんでした。

西軍十万余に対し、伏見城の守備にあたっていたのは、千八百ほどであったそうです。西軍の諸将は、伏見城に対して降伏勧告を行いますが、元忠は、使者の首をはねて断固拒否しました。そして、伏見城への総攻撃が開始されました。元忠は、奮戦して西軍の攻撃を何度もはね返し、伏見城を堅守しました。思わぬ苦戦に、三成はあせりました。このまま、家康の援軍が到着すると、非常にまずいことになるのは言うまでもありません。

包囲から十日後、西軍は忍びの者に命じ、城内に火をつけさせました。火計は成功し、伏見城の二つの城門が開きました。西軍は城内に乱入し、さらに火を放ち、本丸まで炎に包まれました。それでも、元忠は、槍を手に手勢とともに最後まで戦いましたが、ついに力尽きて敵の目の前で自害しました。

家康は、三成の挙兵を予測しており、元忠も死は覚悟の上であったと思います。それでも、家康は、元忠の死を非常に悲しみました。その後の関ヶ原の戦いは、家康の率いる東軍の大勝利に終わったことは周知の事実ですよね。家康は、元忠の敵をとったことになります。しかし、元忠は、家康の天下を見る直前でこの世を去ったわけですね。享年62歳でした。

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武士にとっての「死」

武士にとって「忠義」とは、主君に対して誠意を尽くして仕えることであり、主君のために死ぬことは、まさしく「忠義」の最たるものであると考えられていました。

しかし、僕は「忠義」という言葉だけで、いわゆる「一番槍」などの決死の任務をこなしていたのかが疑問でした。しかも、「一番槍」は人気があって、みんなで争ってとろうとしていたというので、驚きでした。武士たちは、本当にただ主君への忠誠心だけで、好んで死地に臨んでいたのでしょうか?

「一番槍」は、敵に真っ先に攻撃を仕掛けるわけですから、狙われやすく、戦死する可能性が大きい反面、その活躍が一番目立つわけですね。そのため、後で他人に手柄を奪われる心配もなく、死んだとしても手柄は残るわけですね。「死んでしまっては、手柄を立てても意味がない」と思われるかもしれませんが、その恩賞は、死んだ者の肉親が受けとることが出来ました。また、たとえ主家が滅んだとしても、「勇敢な者の子供は勇敢に違いない」と言う理由で、その子供が他家に仕官できることもありました。

つまり、武士は、いかに自分が活躍したかをということを証明しなければならず、そのために華々しく、目立つような戦い方をしていたようです。また、自分の存在を認識させるために、目立つ鎧をつけたり、旗指物を背負ったりするなどのアイデアが生まれました。一騎討ちの際に、「やあやあ我こそは〜」と名乗りをあげるのもそのためですね。

このように、武士は、主君のためのみではなく、自分の妻や子、家族のためにも命を捨てて戦っていたのですね。現代の考え方からすると、たとえ身内のためとはいえ、進んで死ぬという感覚は、ナンセンスでしょうね。しかし、武士のいた時代は、まさしく乱世だったのです。そうでもしなければ、一族が生き残っていくことは出来なかったのでしょう。

自分の子孫の繁栄のため、自らは戦場で華々しく散り、短い生涯を終えていく。まるで、夏の夜の二週間という短い寿命を光の乱舞で全うする、蛍のような人生ですね。

ゲンジボタル… 

ヘイケボタル…

昔の人は、この小さな生き物たちの儚い生に、武士の生き様をみたのかもしれません。

倒幕に傾いた公卿

幕末の頃、尊皇攘夷を掲げ、倒幕運動を行った人物とい言えば、ほとんどの人が武士階級の人物を思い浮かべると思います。しかし、中には農民や商人など、そうでない人物もいました。また、天皇を補佐する公家の中にも倒幕思想を持った人物がいました。今回は、岩倉具視という人物について書いてみたいと思います。

岩倉具視は、公家の堀川家の次男として生まれ、同じく公家の岩倉家に養子に出されました。堀川家は名門でしたが、岩倉家は、はるかに家格の劣る貧乏公家だったようです。宮廷内での地位は高くはなかったのですが、能力はあり、関白の知遇もあって、頭角をあらわし、孝明天皇の侍従となりました。

はじめ、尊皇攘夷論に傾倒し、幕府が日米修好通商条約の勅許を求めると、反対派の宮廷の有力者を集めて勅許に反対し、座り込みを行ってこれを阻止しました。この行動で、幕府の大老の井伊直弼によって、反対派の多くが処罰を受けました。

その後、岩倉具視は、薩摩藩と手を組み、公武合体論に転向しました。そして、和宮降嫁に尽力しました。しかし、長州藩を中心とする尊皇攘夷派の宮廷支配が強まると、その行動を弾劾され、京都郊外の岩倉村に蟄居させられました。

蟄居中も薩摩藩や宮廷内の同志と連絡を取り合い、薩摩藩が倒幕に傾くと自分もそれに合わせて倒幕へと意志を固め、尊皇攘夷派にも接近しました。この間、孝明天皇が崩御しますが、岩倉具視による毒殺説も流れました。真偽のほどは分かりませんが、倒幕派にとって、親幕派の孝明天皇が邪魔になっていたのは間違いないでしょう。

その後、大赦により入洛、宮廷に復帰し、ふたたび権力の座につきます。そして、西郷隆盛大久保利通らと画策し、王政復古の大号令を実現させました。はじめは強硬論で幕府解体を狙い、戊辰戦争へと導きましたが、江戸開城後は、新政府内で薩長が膨張することを恐れ、一変して寛大な処置をとることにつとめました。

維新後は、新政府の重鎮として議定・大納言・右大臣を歴任しました。権謀術策を駆使し、薩長の政治家たちと緊密に連携し、藩閥間の対立を利用しつつ天皇親政の実をあげることに成功しました。一方で、条約改正などの外交上の問題を解決するために岩倉使節団を組織し、諸外国を歴訪しました。交渉は成功しませんでしたが、列国の信望をつなぎとめる役割を果たしました。帰国後は、征韓論に反対し、内政の充実をはかりました。しかし、これにより西郷隆盛が下野し、西南戦争の原因の一端となりました。また、自由民権運動に対しては、もっとも強硬な弾圧を行いましたが、運動が拡大していくと方針を変え、大日本帝国憲法の制定に力を尽くしました。

このように、岩倉具視の人生を振り返ると、その思想や行動に節操のなさが目立つように思われます。しかし、それも彼一流の処世術であったと思います。それが己の保身からくるものなら全く評価できませんが、岩倉具視の人生の全ては、皇室と朝廷の保護にありました。そして、その結果として明治維新や立憲君主国家成立の功となったといえると思います。僕の評価としては、微妙なところなんですが、孝明天皇の謀殺が事実か否かによって大きく変化すると思います。やっぱり、毒殺をするような卑劣な人物にお札の肖像になってもらいたくはないですよねぇ・・・

(この記事は、Takajoさんのご提案により、書くにいたりました。Takajoさん、ありがとうございました)

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