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中国の戦国時代のお話です。 紀元前三世紀ごろ、燕という国に楽毅という将軍がいました。楽毅は、おそらく、中国史の中でも屈指の名将だと思います。元々は、魏という国の生まですが、燕の昭王に招かれて仕えました。 当時、燕と国境を交える斉という国がありました。両国は、積年のライバルで、たびたび、干戈を交えていました。そのような中、楽毅は、燕の攻略を命じられました。 楽毅は、単独で斉を攻略することは困難であると考え、近隣の趙、楚、韓、魏という国々を説き伏せ、大同盟を結びました。そして、瞬く間に、斉の首都を含む七十余の城を占領し、残りは二つの城のみという状態にまで追い込みました。 残った城のうちの一つの即墨という城に、田単という人物がいました。田単は、代々将軍の家系でしたが、若い頃はうだつが上がらなかったようで、市場の役人をしていました。この田単に転機が訪れたのは、楽毅が即墨の攻略に来た時からでした。即墨の住民は、どういうわけか、田単に城の防衛を任せたのでした。 結局、即墨の住民の人選は大成功でした。田単は、城を包囲する燕軍の攻撃を巧みに退け、しぶとく城を守りぬきました。そうしている間に、燕の昭王が死んでしまいました。その後を継いだのは、楽毅と普段から仲の悪かった、恵王という人物でした。そのことを知った田単は、スパイを送り、流言によって楽毅を失脚させることに成功しました。 この絶好の機会に、田単が考え出したのが、有名な「火牛の計」です。すなわち、夜間、点火した松明をつけた牛の群れを敵陣に向けて一斉に放すという作戦ですね。楽毅が去った後、著しく士気を欠いた燕軍は、これに大混乱を起こしました。そこへ、田単の率いる兵が城から出撃し、見事に燕軍を撃退することに成功したのでした。 その後、燕軍の指揮をとった将軍は、楽毅とは比べ物にならない凡将でした。田単は、あっけなく占領された七十余の城を取り返すことができました。たった一度の勝利で、まさに、奇跡の大逆転を呼び込んだわけですね。 まあ、今回、何が言いたかったかと申しますと、「あきらめるな、ジーコ・ジャパン、まだまだ望みはある!」という事ですね(^^) こういう状況下で、中田英寿選手の強気な言葉は、非常に心強いですよね〜
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世界の歴史
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古代、中世、近世の欧州、中国の歴史がメインです。
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紀元前3世紀前半、地中海世界の二大勢力であったローマとカルタゴの間で「第二次ポエニ戦争」という、十数年にも及ぶ長い戦いが起こりました。 カルタゴの武将、ハンニバルは、象37頭を含む総勢5万からなるカルタゴ軍をひきつれ、スペインからアルプス山脈を越え、イタリア半島に攻め込むという前代未聞の侵攻を成し遂げました。そして、「カンネの戦い」において完璧なまでの包囲殲滅戦によって、ローマ軍を完膚なきまでに撃破しました。ハンニバルは、この勝利によって、ローマを敗北まであと一歩というところまで追い詰めます。 この時、再起不能なまでに討ち減らされたローマ軍を再建し、持久戦に持ち込み、ハンニバルを孤立させることに成功したのは、ローマの優秀な将軍たちででした。そして、カルタゴに対して大反撃を加え、ハンニバルを倒すことができたのは、ある一人の若い将軍の功績でした。 プブリウス・コルネリウス・スキピオは、同名の父親もハンニバルと戦ったローマの将軍であり、また、後にカルタゴを陥落させた同名の甥もいるため、区別をつける意味でも「大スキピオ」、または「アフリカを征した者」という意味を持つ「アフリカヌス」という尊称をつけて呼ばれることが多いです。スキピオは、イタリア半島の南端に追い詰められたハンニバルをカルタゴ本国に追い返し、さらにアフリカに遠征し、カルタゴの本拠地にまで攻め込みました。そして、そこで「第二次ポエニ戦争」での決戦となった「ザマの戦い」が起こりました。 この時、カルタゴ軍の指揮を任されたのは、ハンニバルであり、それを迎え撃つローマ軍の指揮官は、当然、スキピオでした。ここで史上屈指の戦術家同士の戦いが開始されました。戦いの経過は、まさに「カンネの戦い」の再現でした。ただし、包囲殲滅されたのは、今回はカルタゴ軍のほうでした。スキピオは、ハンニバルの得意とする包囲殲滅作戦に独自の改良を加えた戦術を駆使し、大勝利を得ることができたのです。この敗戦によって、手持ちの軍隊が完全に壊滅したカルタゴは、ローマに講和を申し入れました。こうして、「第二次ポエニ戦争」は、ローマの勝利に終わりました。 「第二次ポエニ戦争」の後もシリアとの戦いに勝利し、輝かしい功績を挙げたスキピオでしたが、その晩年は不幸でした。スキピオの成功を妬む者に「シリアでの戦いの際に使途不明金がある」として、元老院の場で公金横領の罪で告発されたのです。さらに、「第二次ポエニ戦争」の際に、「任地以外の場所を攻撃したのは越権行為である」として、十数年も前の出来事を遡って告発されたのでした。さすがに嫌気が差したスキピオは、ローマを離れて地方で隠棲し、そこで静かに死にました。その後、公金横領に関しては、スキピオはほぼ無実であったことが判明しました。 こうしてスキピオの活躍と凋落を眺めてみると、最近の経済界の相次ぐ事件を思い出しませんか?どの時代にも成功者を妬み、足をすくおうとする者の存在はあるのでしょうね。しかし、スキピオに対しては、非常に同情を禁じえないのですが、逮捕された現代の例の経済人二名に対しては、あまり同情できないのはなぜでしょうか?それは、スキピオが命をかけてローマのために戦った救国の英雄であるのに対し、逮捕された二人は、あまりにも金儲けに執着していたことが大きな理由だと思います。 先日、逮捕された某ファンドの代表は、逮捕前の記者会見の場で謝罪と弁明を行い、集まった記者たちに対して「あなたたちは、おそらく、私がむちゃくちゃ金儲けをしすぎたから嫌いになったんでしょう?」と語りました。 スキピオは、元老院の議場で謝罪も弁明も行いませんでした。そして、元老院議員たちとローマ市民に対して、要約すると次のようなことを語りました。 「今日という日は、ザマの戦いでの勝利から15年目にあたる記念すべき日である。このような日には、神々に感謝を捧げることで人々の心がひとつとなるように提案したい。私はこれから神殿に行き、神々に祖国を救う機会を与えてくれたことを感謝したい。諸君もよければ私と同行し、ともに神々に感謝をしてほしい。なぜなら、諸君こそが私に充分に能力を発揮できる立場を与えてくれた人々であるのだから」この後、議場に集まっていたほぼすべての人々が、スキピオの後について神殿に向かいました。人々がスキピオを見る目は尊敬に満ち溢れていました。 現代の世界で、僕たちが仰ぐべきリーダーに、窮地に立たされた時にこれだけの言葉を言ってのける人物は、はたして存在するのでしょうかねぇ?
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古代オリエントのアケメネス朝ペルシャ(紀元前6世紀〜紀元前4世紀ごろ)では、軍隊の中に王を護衛する王直属の精鋭部隊がありました。その部隊は「不死隊(アタナトイ)」と称されていました。 不死隊には、槍や弓で武装した歩兵、騎兵、ラクダ兵、戦車兵などがいました。また、当時のペルシャ軍には、メディナ人やギリシャ人の傭兵も多くいましたが、不死隊はすべての兵がペルシャ人で構成されていました。 ペルシャ王が出陣した主だった戦いには、当然ながら不死隊も出陣しています。前5世紀にクセルクセス1世がギリシャを蹂躙したペルシャ戦争でも、前4世紀にダレイオス3世がアレクサンドロス大王と直接対決して敗れたイッソスの戦いでも、ペルシャ王の側近くには常に不死隊の姿がありました。そして、王を護衛するために常に命がけで戦ったことでしょう。彼らの活躍のおかげで、最後の王となったダレイオス3世も戦いの中で討死するようなことはありませんでした。 それにしても、「不死隊」(=「死ぬことのない部隊」)という名前は、非常に不気味な呼称ですね。その名前の由来は、定員が1万人を上回ることも下回ることもなく、戦いで欠員が出た場合はすぐさま補充され、常に1万人の屈強なペルシャ人から構成されていたことによるそうです。 不死隊を率いていた歴代の王たちは、彼らに守られていることによって、安心して戦いに専念できたのではないかと思います。
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前回、「王様の耳はロバの耳」と題して、フリュギア王国のミダス王のお話をしました。今回は、同じくフリュギア王国の国王のゴルディオス王についてお話したいと思います。 ミダス王は、フリュギア王国の最盛期の国王であると紹介しましたが、ゴルディオス王はというと創業期の国王になります。そして、ミダス王の父親にあたる人ですね。ミダス王は、ゴルディオス王とキュベレの間に生まれたことになっています。キュベレというのは、人間ではなく、実は女神様なんですね。フリュギア王国のあったアナトリアやローマなどで広く信仰されたされた古代の地母神です。ゴルディオス王は、神様の夫なわけですから、もう半分は神様的な扱いなわけですね。その間に生まれたミダス王も半神半人の伝説的な人物と言うことになります。現実には、そんなことはありえないので、本当の母親はいると思いますが、古代の王様は出自に箔をつけるために、そういう伝説を創作することがあるんですね。 それでは、ゴルディオス王がどういう人物であったかというと、実はよく分かっていません。しかし、その名を世に知らしめることになった「ゴルディオスの結び目」というお話があります。 マケドニアのアレクサンドロス大王は、東方遠征の途中でフリュギアを征服し、その首都ゴルディオンに入り、潅木の硬い皮で縛った車が祀られているのを目にしました。それは、この地の王であったゴルディオス王が縛ったものであり、王が結んだその結び目は非常に難解で、誰も解くことが出来ませんでした。そして、いつしか「この結び目を解いた者が全世界の王になる運命が定められている」という伝説が生まれました。アレクサンドロス大王は、その伝説の噂を聞き、車の前に行きました。そして、その結び目を一瞥するやいなや、いきなり鞘から剣を抜き放ち、結び目を一刀両断してしまいました。 快刀乱麻という言葉にぴったりな、なんともすっきりとした逸話ですね。しかし、アレクサンドロス大王は、結び目を解こうとし失敗し、怒って結び目をぶった切ったという話もあるようです。いずれにしろ、アレクサンドロス大王の「伝説に頼らなくても自力で世界を征服してみせる」という意気込みを表したものであると思います。実際、アレクサンドロス大王は、ギリシャ、エジプト、ペルシャ、インドにまでまたがる大帝国を建設しましたね。残念ながら、若くして病死し、その事業は頓挫してしまいましたが… それにしても、結び目を切られた当のゴルディオス王は、どういう気持ちだったでしょうね?アレクサンドロス大王のおかげで、今でもその名が語り継がれているとも言えるので、案外、喜んでいるのかもしれませんね。
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「王様の耳はロバの耳」という童話はご存知ですよね。 昔、ある王様が神様と妖精の音楽コンテストで妖精の味方をしたため、怒った神様に耳をロバの耳にされてしまいました。王様は、頭巾を被ってそのことを隠していましたが、床屋に本当のことを知られてしまいます。床屋は秘密にするように約束させられますが、我慢が出来ず、地面に穴を掘って「王様の耳はロバの耳」と叫びました。すると、そこから葦が生え、風が吹くたびにその言葉を繰り返しました。 と、大体このような内容だと思いますが、イソップ童話の中のひとつで、元はギリシャ神話の物語ですね。このお話の中に出てくる神様というのはギリシャ神話の太陽神アポロンで、妖精は半獣人のパンです。そして、王様の名前はミダスと言って、実は実在した人物なんですね。 ミダス王は、紀元前八世紀後半ごろに古代オリエントに栄えたフリュギア王国の伝説的な国王です。フリュギア王国は、現在のトルコのアナトリア平原にあったと言われています。フリュギア人の祖先は、ヨーロッパからの移住民ですが、どのような経緯でアナトリア平原にやってきて、王国を築いたのかは、よく分かっていません。謎の多い民族なんですね。ただ、発掘などによって、音楽、建築、美術の分野で優れていたことが分かっているそうです。また、ギリシャ人にアルファベットを伝えたのはフリュギア人なのだそうです。 ミダス王についても、ギリシャ神話の時代にはすでに伝説の人物であり、現在でもどういう人物であったかは、あまりよく分かっていません。フリュギア王国の最盛期の国王だったようです。ミダス王に関して、もうひとつ「ミダス王と黄金」というタイトルの童話があります。 ミダス王は、酔っ払った妖精シレヌスを助けたので、その弟子の酒神ディオニュソスは、ミダス王に望みの物を授けると言いました。ミダス王は、手に触れる物が全て金になるように望みました。ディオニュソスは、本当に願いをかなえて良いのかと念を押しましたが、ミダス王が了承したので魔法をかけました。次の日、本当に触れたもの全てが金に変わったので、ミダス王はとても喜びました。しかし、朝食を食べようとしたとき、食べ物まで金になってしまいました。困ったミダス王は、ディオニュソスに魔法を解いてもらうように頼み、その忠告に従ってパクトロス川で水浴をし、自らのおろかさを反省しました。すると、魔法が解けて、代わりにそこから砂金が取れるようになりました。 伝説では、ちょっと愛嬌のあるおっちょこちょいな感じの王様ですが、実際のところはどうだったんでしょうねぇ?偉大な王様だったとは思うんですけどね。
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