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ホメロスの叙事詩で有名な「トロイ戦争」という戦いがあります。ギリシャ軍が巨大な木馬を使ってトロイの町を攻略したという「トロイの木馬」の伝説がありますね。落城したトロイの王族にアエネアスという人物がいました。アエネアスは、遠くイタリアまで落ち延び、その子供の代にアルバロンガという都市が建設されました。 やがて時が経ち、アエネアスの子孫でアルバロンガの王女レア・シルヴィアという人物が現れます。彼女は、王位を簒奪した叔父の王によって子供を産めない身分(巫女)にされてしまいました。ところが、軍神マルスが彼女を見初めて交わったため、双子の男子が産まれました。怒った叔父の王は、双子をテヴェレ川に流しました。 双子は、一匹の牝狼に拾われました。牝狼は、双子に乳を与え、飢えから救いました。その後、ある牧人が双子を発見し、ロムルスとレムスと名付け、育てました。ロムルスとレムスは成長し、次第に頭角を現すようになり、付近の牧人たちの長になりました。ある時、双子は、自分たちの出生の秘密を知ってしまい、復讐を誓いました。そして、配下を率いて、大叔父の王の住む都に攻め込み、王を殺しました。 復讐を遂げた双子は、都にとどまらず、故郷に帰り、テヴェレ川の下流に新しい都を建設しました。はじめは、双子が都を二分して統治していましたが、ある時、弟のレムスが領土侵犯を行いました。それに怒った兄のロムルスがレムスを殺害し、単独の王となりました。 こうして、ロムルスの支配下に新たな都が建設された。都はロムルスの名をとって「ローマ」と名づけられました。 これは、ローマ人の間で口伝されてきたローマ誕生の伝承であり、現在では、ロムルスの実在自体も疑問視する説もあります。僕は、軍神マルスの子供であったというのは、箔をつけるための伝説であったでしょうが、ロムルスという名の初代の王は実在したのではないかと思っています。
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世界の歴史
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古代、中世、近世の欧州、中国の歴史がメインです。
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昔の中国には、「南北朝」と呼ばれる時代がありました。ようするに、天下が南北に二分した時代で、北にあったほうが北朝、南にあったほうが南朝と呼ばれています。日本にも南北朝時代があって、室町時代の初期の頃で、足利尊氏の時代から60年間ほどの分裂でした。しかし、中国の南北朝時代は、5世紀初頭から約150年に渡って続きました。日本場合は、二分した朝廷が最終的には合体して、動乱が治まりますが、中国の場合は、150年の間に北朝も南朝も次々と王朝が興っては滅びていきました。その中の北朝の北斉という国のお話です。 北斉の初代皇帝は、異民族である鮮卑の出身でした。この初代が死んだ後、長男が二代目として即位するんですが、暗殺されてしまうんですね。そこで、弟が三代目として即位します。二代目には子供がいたんですが、まだ幼すぎたんですね。その子供の名は高長恭、封号を「蘭陵王」と言います。 蘭陵王は、成長して非常に優れた武将になりました。この人は、美男子でもあり、声まで美しかったと言われています。北斉には、斛律光という将軍がいて、この人も非常に有能でした。この二人は、まさしく北斉の柱石と呼べる存在でした。この頃、北斉は、同じく鮮卑族から興った北周という国と再三にわたって干戈を交えていました。蘭陵王と斛律光は、共に北周と戦い、何度も北周の軍隊を撃退し、武勲を挙げました。 ある時、北周の軍隊が洛陽を包囲したんですが、蘭陵王がわずか500騎の部下を率いて、二度も敵陣に突入し、洛陽解放を成し遂げました。蘭陵王が洛陽に到着した際、味方の兵は分からなくて城門を開けませんでした。そこで、蘭陵王が兜を脱いだところ、その美貌を見た兵士たちが蘭陵王だと認めて城門を開けたとうエピソードがあります。兵士たちは、蘭陵王の勇猛ぶりを「蘭陵王入陣楽」という歌にして称えました。この曲は、日本に伝えられ、雅楽の「陵王」という演目になったという説があります。 蘭陵王の不幸は、仕えていた主君がとんでもない愚か者であったということでした。蘭陵王が仕えていたのは、北斉の五代目にして最後の皇帝、後主・高緯という人物でした。この人は、奸臣を重用し、讒言を信じて、功臣や有力者を次々と粛清しました。また、贅沢好きで拷問好きという、暗君を絵に描いたような人物です。この後主が蘭陵王と斛律光を妬んで、無実の罪をかぶせて二人を殺してしまうんですね。特に、蘭陵王は、本来は嫡流であり、功績も大きかったので、危険視されていました。それにしても、この後主の行為は、二本もあった家の大黒柱を自らハンマーで叩き折ったに等しい愚行でした。実際、二人が死んですぐに北斉は北周に滅ぼされてしまいます。北周の皇帝は、二人の死を惜しんで、「二人が生きていたら北斉を滅ぼすことは出来なかった」と言ったそうです。 蘭陵王には、その美貌を隠すために、仮面をかぶって戦いに出ていたという伝説があります。敵の目から自分を隠すためだとか、恐ろしい仮面で敵を恐れさせるため、あるいは、味方の士気を削がないためとも言われていますが、いずれにしても、仮面をかぶっていたというのは虚構である可能性が高いようです。美貌の皇族であり、百戦錬磨の将軍ともなれば、物語の主人公としては申し分ない人物ですね。
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昨日、テレビ朝日系列の「ザ・ファースト・エンペラー 始皇帝の真実」というスペシャル番組を見ました。 前半は、兵馬俑についての話題がほとんどでしたが、とても興味深い内容でしたね。後半は、始皇帝の生涯について、ドラマ仕立てで描かれていました。ドラマは、中国の役者さんが演じておられたので、演技がかなりオーバーでしたが、それなりに雰囲気があって楽しめるものでした。ここでは、宦官の趙高がかなりクローズアップされていたように思います。司会の加藤晴彦さんが趙高を「すごく嫌な奴」と罵っていたのに対して、陳舜臣さんも「大嫌いです」と言っておられたのは少し笑ってしまいました(^^)「史記」を書いた司馬遷も、趙高に対しては悪評しか書いていません。たしかに、弁護しようのないほどの大悪人なんですね。ドラマでは、趙高が始皇帝を暗殺(毒殺)したとの仮説をとっていましたが、その可能性は高いと思います。 番組では、始皇帝が常に暗殺の危険にさらされていたとして、荊軻という人物が起こした暗殺未遂事件について紹介していました。しかし、事件の具体的な内容については、あまり触れていませんでした。そこで、今回はその詳細を書いていきたいと思います。 荊軻は、衛の出身で、剣術の達人でした。諸国を放浪していた際に、燕の田光という人物と知り合い、賓客として扱われました。ある時、秦の人質になっていた燕の太子・丹が逃げ帰ってきました。丹は、秦が燕に侵攻してくるのではないかと危惧し、秦王・政(後の始皇帝)に対して刺客を送ることを考え、田光に相談しました。その結果、田光は刺客として荊軻を推挙しました。 荊軻は、秦王に謁見するため、その信用を得る手段として手土産を用意することを考えました。その一つは、燕で最も肥沃な土地の地図を献上することでした。これは、その土地の領土割譲を意味しました。もう一つは、元は秦の将軍で、燕に亡命中であった樊於期の首を差し出すことでした。秦王に家族を殺され、秦王を深く恨んでいた樊於期は、復讐のために喜んで自分の首を差し出しました。 かくして荊軻は、巻物になっていた地図の中に「徐夫人の匕首」という名剣を仕込み、樊於期の首を持って、秦王の元へと出発しました。樊於期の首を見て、秦王はすっかり荊軻を信用してしまい、贈られた地図を開きました。地図が開き終わると、そこには匕首が巻き込んでありました。荊軻は、匕首をつかみ、秦王の袖を取って刺そうとしました。しかし、秦王の袖がちぎれ、間一髪のところで取り逃がしてしまいました。秦王は、反撃しようと剣を抜こうとしますが、鞘に引っかかって抜くことが出来ませんでした。群臣たちは、殿中で武器を持つことは禁じられており、手も足も出せませんでした。荊軻は、さらに秦王に襲い掛かりました。匕首の刃には猛毒を塗られていたので、かすり傷ひとつでも秦王を殺すことができました。しかし、とっさに侍医の夏無且が薬嚢を投げつけました。荊軻がひるんだ隙に、秦王は剣を背中へ回し、背負うようにして剣を抜きました。長剣と匕首では全く勝負になりませんでした。最後に、荊軻は匕首を投げつけましたが、ねらいがはずれて、ついに秦王に切り殺されてしまいました。 激怒した秦王は、ただちに将軍の王翦に燕討伐を命じ、たちまち燕を滅ぼしてしまいました。その五年後、秦王は、最後に残った斉を滅ぼして中国を統一し、自らを皇帝と称しました。始皇帝の誕生ですね。 「HERO」という映画がありますね。あれは、この暗殺未遂事件を元に作られたものではないかと思います。かなりの脚色が加えられてはいますが・・・
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前漢の時代、淮南王・劉安という皇族がいました。漢高祖・劉邦の孫にあたる人物です。この人は、学者を集めて「淮南子」という書物を編纂させました。まあ、雑学書のようなものでしょうか。この「淮南子」に「人間訓」という巻があります。この「人間」とは、個人としての人間ではなく、人間社会全体を指し、「世の中のおしえ」と言う感じの意味ですね。この中に、「塞翁が馬」という故事がみられます。 「塞翁」とは、ある人物のことですが、名前ではありません。「塞」とは国境の塞(とりで)のことで、「翁」とは老人のことですので、すなわち「塞翁」とは「国境の塞の近くに住む老人」という意味ですね。つまり、この故事のタイトルは、「国境の塞の近くに住む老人が飼っていた馬」ということになります。実際のお話の内容は、次の通りです。 胡(北の異民族)との国境の塞の近くに、占術の上手い老人がいました。 ある時、その老人の馬が、どうしたことか胡へと逃げ出してしまいました。近所のみんなが慰めると、老人は「これがなぜ幸いとならないと言えるだろうか」と言いました。 数ヶ月たった頃、なんと、その馬が胡から駿馬を連れて帰って来ました。近所のみんなが祝うと、その老人は「これがなぜ不幸をもたらさないと言えるだろうか」と言いました。 やがて、老人の家には、良馬が増えました。老人の息子は、乗馬を楽しむようになりましたが、馬から落ちて太腿の骨を折ってしまいました。近所のみんながお見舞いにくると、老人は「これがなぜ幸いとならないと言えるだろうか」と言いました。 それから一年が過ぎ、胡の軍勢が国境の塞に攻め込みました。付近の若者は、みな戦いに駆り出され、ほとんどの者が戦死してしまいました。老人の息子は、足が不自由だったので、戦いに駆り出されずにすみ、親子ともに生きながらえる事ができました。 このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は複雑であり、それは予測しがたいことなのです。 この故事が実話かどうかは、よく分かりません。例え話のための創作であるような気もします。「胡」は、北方の異民族全体に対する蔑称ですが、この時代だと「匈奴」のことではないかと思います。 それぞれの人生、幸も不幸もあって、人によってそのバランスもまちまちでしょう。しかし、それは、客観的な評価であって、自己の満足度とは別物ですね。どんな時であれ、「与えられ状況を楽しむ」ことの出来る人は、きっと幸せな人生を送っている人なのだと思います。まさに「人生の達人」ですね。 (この記事は、Keiさんよりリクエストを頂いて書くにいたりました。Keiさん、ありがとうございました)
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今回は、またまた記事のリクエストを頂き、はじめてロシア史に足を踏み入れていきたいと思います。(まるこさん、ありがとうございます)今回、紹介したい人物は、ミハイル・ロマノフという人物です。 ロシア帝国(帝政ロシア)の成立には、少し面白い経緯があります。帝国の前身は、モスクワ大公国であり、15世紀後半に出たリューリク朝の大公イヴァン3世のもとで、モンゴル人国家が駆逐され、国内はほぼ統一されました。同じ頃、ビザンツ帝国(東ローマ)がオスマン帝国(オスマン・トルコ)によって滅ぼされていました。ビザンツ帝国滅亡の報を受けたイヴァン3世は、その皇族の女性を探し出し、妻として迎え入れました。そして、自らをローマ帝国の後継者であると宣言し、皇帝(ツァーリ)という称号を使いはじめました。このように、はじめは、ローマ帝国を名乗ったわけで、ロシア帝国という呼称を使用しはじめるのは、まだまだ先の時代になりますね。この時、イヴァン3世は、東ローマの国教だったギリシャ正教に改宗しています。つまり、11世紀に東西に分裂したギリシャ正教会(もう一方は、ローマ・カトリック教会)は、東ローマ滅亡後も北へ渡り、現在まで命脈を保っているわけですね。 帝国は、16世紀に出たイヴァン4世の時代に、強大な国家として台頭しはじめます。イヴァン4世は、「雷帝」とも呼ばれ、貴族を抑えこみ、専制を強め、近隣諸国にも進出し、頻繁に戦争を起こしました。イヴァン4世の治世、ロシアは大きく発展しますが、度重なる戦争によって国力は疲弊しました。この人は、非常に苛烈な性格で、反抗した息子を殴り殺したこともあります。そのため、暴君として評価されることが多いです。イヴァン4世の死後、その後継者は病弱で、跡継ぎを残すことなく死んでしまい、リューリク朝は断絶しました。その結果、国内で内紛が続き、諸外国勢力が国内に侵入するという大混乱期(スムータ)を迎えます。 混乱は、大貴族を中心とする国民軍の活躍で外国勢力が駆逐され、収束しました。その後、ツァーリ選出会議が開かれました。そこで、何人かの大貴族が候補が上がりましたが、いずれもリューリク朝の血を引かない人物であり、決め手に欠けました。そこで、注目を集めたのがイヴァン4世の妃の血筋にあたるミハイル・ロマノフでした。イヴァン4世の妃のアナスタシアは、夫と違い、やさしい人で人気があったので、国民もミハイル・ロマノフの即位を歓迎していました。そして、様々な思惑の中、ミハイル・ロマノフの選出が決定されました。 その時、ミハイル・ロマノフは、母親と共に混乱を避け、モスクワから避難していました。そこで、使節団が派遣され、会議の結果が母子に伝えられました。二人は非常に驚き、かつ狼狽しました。母子には、その意思はなく、逆に迷惑な話であったので、拒否しようとします。困った使節団は、この選出は神の意思であるという話をでっち上げ、信心深い母子をだまし、しぶしぶ承諾させました。このようにして、いやいや即位させられるという、非常に珍しい皇帝が誕生しました。17世紀初頭のことであり、ミハイル・ロマノフ、若干16歳での戴冠でした。 その治世の前半は、母親が代理人となり、政務を行っていました。その後、捕虜になっていた父親のフィラレートが帰還すると、モスクワ総主教の地位に就き、院政を行いました。フィラレート死後は、ミハイル・ロマノフのいとこらが実権を握りました。結局、ミハイル・ロマノフ自身は、ほとんど政務をとることはありませんでした。しかし、不満はなかったでしょう。元々、身体は病弱なうえ、性格は惰弱で、大叔父にあたる「雷帝」と呼ばれたイヴァン4世とは雲泥の差でした。しかし、彼を始祖とするロマノフ朝ロシア帝国は、最後の皇帝、ニコライ2世が処刑されて幕を閉じるまでの約300年間にわたり、極寒のシベリア大陸に君臨します。大帝国の創始者としては、ある意味、特異な人物であったと思います。
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