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世界の歴史

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これまで記述してきた項羽と劉邦の一連の戦いは、「楚漢戦争」とも呼ばれています。この戦いに勝利し、中国統一を果たした漢は、その後、前後400年にわたって中国全土を支配した長期政権になりました。

それでは、個人としての項羽と劉邦は、いったいどんな人物であったのでしょうか?最後に、二人の人物像について迫っていきたいと思います。これまでの物語では、あえて記述しなかったんですが、まず、現代の価値観からして残酷だと思われる二人の行為をあげ、二人の性格について比較してみたいと思います。

まず、項羽なんですが、秦の章邯将軍と戦って勝利し、20万の秦兵を捕虜にしましたが、これを全て「坑」にしたと言われています。「坑」とは、すなわち「穴埋めにして殺す」ことです。項羽は、同じような方法で何度も捕虜を虐殺したため、非常に恐れられました。そして、降伏しても殺されるので、項羽の敵は、死ぬまで抵抗しました。また、これによって大きく人心を失いました。

一方、劉邦は、「彭城の戦い」での敗走の際、自分の子供たちをつれて馬車に乗っていたんですが、追いつかれそうになると、馬車を軽くするために、なんと子供たちを投げ捨ててしまいました。それを見て、御者の夏侯嬰が驚いて引き返して連れに戻るんですが、追いつかれそうになると、また劉邦が投げ捨て、夏侯嬰が拾ってくるということが繰り返されました。劉邦は「せっかく、わしが捨てたのに、なぜ、お前は拾ってくるんだ!」と怒ったそうです。

これは、「劉邦の子供は今後も産まれるだろうが、劉邦は唯一のものであるから、子供を犠牲にしてでも助からねばならない」(子は親を産めない)という、わがままですが、合理的な理由からくる行動でした。たしかに、この時点で劉邦が殺されていれば、漢軍は完全に崩壊していたと思います。そうなれば、子供たちの命もなかったでしょうし、もっと多くの人命が失われていたでしょう。しかし、残酷な行為には違いないですね。これに対して、項羽の虐殺は、規模は大きいですが、その理由は、実に単純です。「自分に逆らったものは殺す」という、ただ一点だけですからね。しかし、項羽は、自分の身内や信服する者は非常に可愛がりました。逆に、劉邦は父親が人質になった際にも、項羽が「煮殺してスープにしてやる」と脅しても「俺にもいっぱい飲ませてくれ」と、うそぶくほどでした。また、天下統一後、それまで何度も劉邦の命を救った韓信、彭越、英布らの功臣を次々と粛清しました。まさに「狡兎死して走狗煮られる」(頭の良い獲物が捕まれば、猟犬は煮て食われる)ですね。しかし、これが漢の中央集権に役立ち、漢の長命につながったとも考えられます。

このように、項羽の価値観や倫理観には、単純明確な部分がありますが、劉邦のそれには、ちょっと底の知れない部分があり、不気味に感じることすらあります。まあ、良い言い方をすれば「老練」、悪く言えば「すれっからし」ということだろうと思います。項羽は、潔癖すぎたんだという気がします。悪く言えば、「子供」なんですね。情緒的に非常に未熟な部分があると思います。「垓下の戦い」で、項羽は自分の負けを認めず、全て運のせいにしました。また、劉邦のように逃げれば再起することもできたはずなのに、それを放棄しました。ここで負けを経験し、自分の行為を反省する機会があればどうだっただろう・・・と思われて仕方がありません。心理学で「モラトリアム」という言葉があって、「大人になるための猶予期間」という感じの意味なんですが、この期間に青年は、社会規範や自己同一性を獲得すると言われています。僕は、項羽の生涯の全てが「モラトリアム」であったのではないかと考えたりしています。つまり、人格の発展途上期だったのではないかと思うんです。そこが、項羽の死が惜しまれて、人気を集める理由の一つではないかとも思います。

劉邦は、天下統一後、自分の勝因について、次のように語っています。
「謀を帷幕の中にめぐらして、勝ちを千里の外に決することでは、わしは張良に及ばない。国家を鎮めて民を安心させたり、輜重兵站のことでは、わしは蕭何に及ばない。軍を率いて戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取るということでは、わしは韓信に及ばない。彼ら三人はみな傑物だ。わしは彼らをよく用いただけである。ところが項羽には一人の范増がいたが、それをうまく使いこなせかった」
劉邦は、本当によく配下の献策を用いました。ところが、項羽は、もう面白いくらいに范増の言う事をきかなくて、最終的に破滅してしまいますね。范増は、「鴻門の会」の直後、項羽のことを「洟垂れ小僧」と影で罵倒しました。彼の気苦労も分かる気がします。

劉邦の勝利は、「超越した個人に対する組織の団結力の勝利」だと言われています。その通りなんですが、僕が付け加えるとしたら、項羽の敗因は「超人的な自己の実力を過信するあまり、劉邦(陣営)の実力を過小評価しすぎた」ことにあったと思います。それに対して、劉邦の勝因は「自己の弱さをよく知り、項羽を恐れるがゆえに、互いの実力の差を正確に評価できた」ことにあったと思います。まさに、孫子の兵法にいう「彼を知り己を知れば百戦して危うからず」というところではないでしょうか?

(長くなりましたが、みなさん、お付き合いありがとうございました。おかげさまで、ようやく完結させることができました。お礼申し上げます)

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「垓下の戦い」で、劉邦の下に集まった兵は、60万〜100万とも言われる大軍でした。それに対し、項羽の軍は、わずか10万程度になっていたようです。兵力の差は歴然でしたが、それでも最初のうちは、項羽の軍が優勢に戦いを進めていました。劉邦に代わって、韓信が指揮をとりましたが、項羽の軍はなかなか崩れません。しかし、ついに持ちこたえられなくなり、項羽は逃走し、自陣に立て篭もりました。それを劉邦の軍が包囲したわけですね。

ここで、しばらく戦いが膠着します。項羽の存在を恐れて、劉邦側の誰も手出しが出来なかったんですね。しかし、項羽側は、食料も底を尽き、兵数も数えるほどしかいませんでした。そんななか、項羽はある異変に気がつきます。なんと、漢軍の陣のほうから、故郷の楚の歌が聴こえてきたのでした。本当に楚人が歌っていたのか、または、韓信や張良の策略で、漢の兵に歌わせて項羽を騙そうとしたのか、本当のところは分かりません。もしかしたら、風に乗って流れてきた何かの音を、望郷の念にかられた項羽が聴き違えたのかもしれません。いずれにしろ、それを聴いた項羽は、「漢軍に、なんと楚人の多いことだろう・・・」と嘆きました。これが「四面楚歌」の語源ですね。

絶望した項羽は、宴の準備をさせます。それは、別れの宴でした。その席で、項羽は詩をつくり、うたいました。


     力は山を抜き 気は世を蓋う       時に利あらず 騅逝かず

     騅逝かざるを 如何すべき        虞や虞や 汝を如何せん


「愚」とは、項羽の寵姫、愚美人のことで、「騅」とは、項羽の愛馬の名前です。ともに、項羽がこの世で最も愛した存在です。項羽は、この詩を何度か繰り返しうたい、愚美人もそれに唱和しました。この光景を見て、泣かない者はいませんでした。そして、項羽は剣を抜き、自らの手で愚美人を斬り殺しました。

日の出前、項羽は、精鋭8百騎を率い、闇に乗じて漢軍の包囲を突破し、烏江という河岸まで落ち延びました。そこの亭長が船を用意しており、項羽を渡らせようとしました。しかし、項羽はこれを断り、その亭長に愛馬の騅を与え、自らは漢の大軍の中へ切り込んでいきました。そこで、数百人の漢兵を斬り倒した後、力尽きた項羽は、自刎して果てました。享年30歳。「俺が弱いのではない、天が俺を滅ぼすのだ」と思い続け、激闘した末での死でした。

こうして、天下は劉邦の手に帰しました。始皇帝が没して8年後のことです。


その6(おそらく完結編)に、つづく・・・
「彭城の戦い」の後、劉邦は、逃げて逃げて逃げまくるのですが、とうとう滎陽という場所に追い詰められてしまいます。劉邦は、逃亡の間にも謀略を用いて、主従の離間を謀ったり、項羽の配下の英布(黥布)などを味方に引き入れたり、韓信や盗賊出身の彭越に命じて項羽の後背を脅かしたりしました。また、劉邦は、長期の包囲によって食糧不足が深刻になると、項羽に和睦を申し入れました。これに対し、ここでも范増が徹底的に和睦に反対しました。ところが、謀略家の陳平の離間の計が成功し、范増は項羽の下を離れることになりました。范増は、憤激のあまり、その後すぐに病死してしまいます。項羽の陣営の中で、唯一のブレーンが、ここで消えたことになります。しかし、劉邦の窮状に変化はなく、またもや劉邦は決死の脱出を試み、何とか逃げ延びて、関中までたどり着くことが出来ました。

この頃、彭越は、ゲリラ戦法で項羽の後方を撹乱し、何度も劉邦の軍を助けました。また、韓信は、各地を次々と征服し、領土を拡大させていました。ところが、劉邦は、関中で丞相の蕭何が集めた兵を率いて戦っては惨敗し、韓信から奪った兵を率いて戦っては惨敗するという有様で、一度も項羽に勝つことが出来ませんでした。しかも、実の父親が人質にとられて殺されそうになったり、劉邦自身も胸に矢を受けて重傷を負うのですが、それでも屈することはありませんでした。項羽の天下は目前なんですが、劉邦がなかなかしぶといので、項羽はもどかしくて仕方がありません。しかし、韓信や彭越が邪魔をするので補給が滞り、だんだん兵達にも疲れが見えてきました。項羽は、不本意ながら劉邦と和睦し、いったん本拠地に引き返すことにしました。

ここで、劉邦も兵を引こうとしますが、張良と陳平がそれを制止しました。項羽の兵は、疲れきっていているので、襲うなら今がチャンスだと言うわけです。この先、項羽に力を取り戻されようものなら、もう劉邦の勝ち目は絶無でした。劉邦は、和約を破り、帰還しようとする項羽の軍を後ろから襲撃しました。しかし、それでも項羽に勝つことはできませんでした。そこで、今度は、韓信や彭越らの諸侯に領地を与える約束をし、その援軍を受け、ようやく項羽を垓下という場所に包囲することが出来ました。

これが後々まで項羽のかたりぐさとなる「垓下の戦い」ですね。


その5へ、つづく・・・
「鴻門の会」は、学校の漢文の授業で習うくらい、あまりにも有名なエピソードですね。

この時、劉邦は死を覚悟していたと思います。しかし、項羽は、劉邦が命乞いに訪れた時点で、そのしおらしい態度から、もう半ば許してしまっていたようです。劉邦が咸陽を荒さなったことは、ここでも有利に働いたと思います。項羽の軍師である范増は、劉邦との和解に反対しますが、項羽に受け入れられませんでした。そこで、劉邦を危険視していた范増は、劉邦の暗殺を謀ります。しかし、その計画は、項羽の伯父の項伯によって、事前に劉邦側に知らされていました。范増は、項羽の従弟の項荘に、酒宴の席で剣舞に見せかけ、劉邦を刺し殺すように命じました。ところが、その意図を察知した項伯に阻まれて失敗しました。それを聞いた劉邦の親衛隊長の樊噲は、決死の突入を敢行し、項羽の前に立ちはだかって注目を集め、その間に劉邦を脱出させました。その後は、劉邦の軍師の張良が機転をきかせて、項羽の追及をかわし、劉邦は無事に帰還することができました。

その後、項羽は咸陽に入り、そこで乱暴狼藉を働きました。項羽が宮殿に火を放ったため、咸陽は三ヶ月もの間、燃えつづけたそうです。さらに、降伏してきた子嬰を殺したため、秦は名実ともに滅びました。そして、項羽は自らを「西楚の覇王」と名乗りました。項羽は、劉邦を許しましたが、その怒りの矛先は、勝手な約束をした楚王に向けられたようです。項羽は、邪魔になった楚王をあっさりと殺してしまいました。その後、論功行賞が行われましたが、非常に不公平なもので、諸将の反感を買いました。劉邦には約束の「関中」ではなく、はるかに規模の小さい「漢中」が与えられ、その地の王に封じられました(これが後の国名の「漢」の由来となります)。しかし、このような項羽の行いは、人心を失い、後に配下の離反につながるという、致命的な結果を招きました。

項羽は、せっかく得た関中にとどまらず、故郷に凱旋しようとします。しかし、各地で反乱が起こり、その対応に追われました。その間に劉邦は、まだ無名でしたが、後に「国士無双」と評された名将、韓信を配下に加え、その活躍により、関中の併合に成功します。ここで勢いづいた劉邦は、他の諸侯と連合し、項羽の留守を狙って本拠地の彭城を陥落させました。ところが、すぐさま引き返してきた項羽の軍にこっぴどく打ち負かされ、大敗北の末、劉邦自身もほうほうの体で逃げ出してしまいました。この戦いは、「彭城の戦い」と呼ばれています。この時、漢軍の十余万もの兵が睢水という川に追い落とされ、死体の山で川の流れがせき止められたと言われています。

これ以後しばらく、劉邦の敗走生活が続きます。


その4へ、つづく・・・

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項梁が戦死した際、項羽は別働隊を率い、劉邦と足並みを揃えて秦軍と戦っていたため、難を逃れることができました。項羽の軍は、とても強く、破竹の勢いで進軍していましたが、残虐な行為が目立ち、評判が良くありませんでした。

項梁戦死の報が届き、反乱軍の緒将は会議を開きました。その席で、項羽は楚軍の本隊を率いて、章邯と戦うことになりました。そして、劉邦は別働隊を率いて、陽動を行うことになりました。その時、突然、楚王が「最初に関中に入った者を関中王にする」と宣言しました。楚王は、粗暴な項羽にこれ以上、権力を与えたくないと思ったのかもしれません。いずれにしろ、関中へ進軍するうえで、一番有利なコースを通るのは、劉邦の部隊だったようです。

項羽は、不満でしたでしょうが、軍を率いて、章邯との戦いに出発しました。両軍は、黄河をはさんで対峙していました。この時、秦軍の兵力が20万であったのに対し、項羽の軍の兵力は、7万程度でしたので、常識では項羽に勝ち目はありません。そこで項羽は、全軍に渡河を命じ、渡河完了後、船を全て破壊させるという、とんでもないことを行いました。そして、全軍に「生きて黄河を渡ろうと思うな!」と言い渡しました。まさに「背水の陣」ですね。楚軍は、死に物狂いで戦い、結果として大勝利を得ることが出来ました。この戦いで多くの秦兵が捕虜となり、章邯も降伏しました。

同じ頃、劉邦は、関中へ向けて進軍中でしたが、決して楽な道程ではありませんでした。しかし、悪戦苦闘しながらも、着実に関中へと近づいていきました。そんな中、章邯敗戦の報がもたらされ、朝廷は混乱し、内部分裂が起こりました。その結果、始皇帝の孫の子嬰は、組紐を首にかけ、白馬に乗った姿(罪人の格好)で劉邦に降伏してきました。こうして、劉邦が関中に一番乗りし、当時の秦の都の咸陽は無血開城しました。劉邦は、後宮の美女たちと秦の財宝に目がくらみましたが、側近たちの諫止を受けて、官庫を封印し、美女たちにも手を触れず、軍を引き返しました。そして、苛烈な秦の法律を全て廃し、「法三章」を宣言し、住民を安心させました。咸陽を荒らさなかったことも影響し、関中での劉邦の人気は、うなぎのぼりでした。

この時、劉邦はすでに関中王になったつもりでいました。しかし、劉邦の関中入りを聞いた項羽は、激怒しました。「誰のおかげだ!」と思ったに違いありません。項羽は、すぐさま関中を攻撃しようとしました。項羽の軍は、40万に膨れ上がっていましたが、それに対して、劉邦の軍は10万でしたので、とても勝ち目はありません。劉邦は、震え上がりました。そして、命乞いのため、項羽の陣に訪れます。項羽の陣は、鴻門という場所にありました。この時の両者の会談の様子は、「鴻門の会」として現代に伝わっていますね。


その3へ、つづく・・・

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