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世界の歴史

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とてもうれしいことに、このブログを作って、はじめて記事のリクエストを頂きました。(Keiさん、ありがとうございます)というわけで、今回は、項羽と劉邦について書いていきたいと思います。一度に書くと、読むほうも疲れそう
(^^;)なので、何回かに分けて、書いていきますね。

この二人が活躍する時代は、まだ紀元前で、秦の始皇帝がはじめて中国全土を統一した時期になります。始皇帝という人物は、苛烈な法家思想の持ち主で、重税や苦役によって民衆を苦しめました。それらから逃れようとすると厳罰をうけるので、人々は戦戦恐恐としていました。そんな状況でしたので、始皇帝が没すると、各地で反乱が起こるんですが、最初に反乱を起こしたのは、陳勝と呉広という農民出身の二人の人物でした。有名な「陳勝呉広の乱」ですね。二人は、ある地方に軍兵を送るという仕事を任されていましたが、災害によって期日に間に合わず、このまま到着しても罰を受けるのは明らかだったので、それならばいっそのこと・・・という理由で暴発的に反乱を起こしました。最初のうち、反乱はうまくいき、反乱軍の規模も膨れ上がり、各地でもそれに呼応するかのごとく反乱が起きました。項羽や劉邦も、はじめは、この反乱軍の一勢力にすぎませんでした。

項羽は、楚の名将、項燕の孫です。若い頃、叔父の項梁から剣術や学問を学びましたが、何一つまじめに取り組まず、身につきませんでした。しかし、唯一、兵法だけには興味を示したと言われています。その後、項梁に従い、秦によって滅ぼされた楚の王の末裔を探し出し、楚王として担いで挙兵しました。

劉邦は、沛県の亭長(町内会長のような仕事)をしていました。もともと、やくざ者で、亭長の仕事もろくにせず、酒好き女好きという、どうしようもない人だったんですが、なぜか人気はありました。ある時、劉邦も人員を送る仕事を任されたのですが、達成できず、罰を恐れて逃げ出してしまいます。そして、逃亡中に「陳勝呉広の乱」が起こり、劉邦も仲間に担ぎ出されるという形で挙兵しました。

反乱によって崩壊寸前の秦でしたが、官軍に章邯という有能な将軍が現れ、次々に反乱を鎮圧していきました。そんな中で、陳勝と呉広が相次いで死にました。その後、項梁が反乱軍の中心人物になりましたが、彼もまた、章邯との戦いに敗れて戦死しました。そして、項梁の勢力を継いで楚軍を率いたのが項羽でした。


その2へ、つづく・・・

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三国志に関する記事も今回で四度目となりますが、今回もまたまた諸葛孔明死後に活躍する人物について書いて行きたいと思います。

結構知らない人が多いかもしれませんが、三国の中で一番最初に滅亡するのは蜀なんですが、その次に滅亡するのは、実は三国の中で一番優勢だと思われていた魏なんですね。魏は、司馬懿の孫の司馬炎によって簒奪され、司馬炎は晋を建国します。つまり、最後に残ったのは呉ということになります。

司馬炎によって晋が建国された時、呉の皇帝は孫権の六男の孫休でした。孫休は、晋を非常に警戒するのですが、心配しすぎて病死してしまいます。孫休が死ぬ間際、自分の息子を後継者にしようとしましたが、幼すぎると言う理由で、孫権の三男の子の孫皓が後継者に立てられました。この孫皓が呉の最後の皇帝であり、呉を滅亡に追い込んだ人物であると言われています。

蜀の最後の皇帝は、劉備の子の劉禅ですが、この人の幼名である「阿斗」は、現代でも中国では馬鹿の代名詞として使われており、それほどの暗君であったと評価されています。劉禅は、ただの馬鹿殿様でしたが、孫皓に至っては、暴君を通り越して、もはや狂人と言えるほどの人物でした。孫皓は、決して暗愚ではなく、むしろ英明な君主として期待されていましたが、問題は残虐で驕奢な性格にありました。無実の臣下を何人も処刑し、無駄な土木工事を行って民に苦役や重税を課しました。また、人間の皮をはぐという残酷な処刑方法を考えだしたと言われ、正史でも演義でも最低の評価を受けている人物ですね。

こんなとんでもない皇帝が出たのですから、呉を滅ぼすのなら今がチャンスだと言うことで、司馬炎は都督である羊祜に呉征伐の詔を下します。そして、その防衛にあたったのが陸抗でした。陸抗は、劉備が関羽のあだ討ちで呉に出兵した時、これを返り討ちにした陸遜の次男ですね。何人もの重臣を粛清してきた孫皓も、功臣の息子であり、また呉随一の名将でもある陸抗には、さすがに手を出すことは出来なかったようです。

羊祜もまた優れた武将でした。羊祜は、長江の沿岸に布陣し、決して渡河しようとはしませんでした。呉には強力な水軍があるうえに、気候の差によって軍中に疫病が流行しやすく、赤壁の戦い以来、呉侵攻はたびたび失敗に終わりました。羊祜は、そのことを熟知しており、また、名将陸抗が守備している以上、正面からから戦いを挑んでも絶対に勝つことは出来ないと考えていました。そこで、呉の自壊を待つことにしました。陸抗は、羊祜の考えが分かっていましたが、決して攻め込もうとはしませんでした。陸抗もまた、磐石の布陣をしている羊祜に勝つことは出来ないと考えたからです。このようにして、歴史上まれに見ぬ、戦場とは思えないような少し緊張感の欠ける両軍の対峙が行われました。

両軍は、食糧補給と訓練をかねて狩りを行っていたんですが、ある時、呉の領地から傷を負った獲物が晋の領地に逃げ込んできました。羊祜はそれを呉軍に送り届け、陸抗はお礼に自分の作った酒を羊祜に送りました。「毒が入っているのではないか」と部下が疑うのを聞かず、羊祜は酒を一気に飲み干し、お礼の使者まで出しました。それから両将の間で安否を伺う使者が行き来するようになり、陸抗が風邪を引いたと知った羊祜は、自分のために調合させた薬を送りました。「良い薬ではない」と部下が飲むのを制止するのも構わず、陸抗は薬を飲み、その後、すぐに風邪は治りました。

このような戦場にありながら平穏な日々は、長続きはしませんでした。陸抗が孫皓に諫言して不興を買い、左遷されてしまったのです。はたして、羊祜の予想が的中してしまったわけで、羊祜は司馬炎に「今こそ兵を進めるべきだ」と進言しました。しかし、他の重臣の反対にあって許可されず、羊祜は失意のあまり、病気になって引退してしまいます。そして、臨終に際して司馬炎に「孫皓によって呉は必ず自壊するが、孫皓が死んで、次に名君が出るようなことがあれば、呉を攻めるのは困難になる」と早期決戦を促して、自分の後継者に杜預を推薦し、まもなく息を引き取りました。この時、羊祜に指名された杜預こそが後に呉を滅ぼし、天下を統一させるという大功をたてた人物です。

戦争だからと言って、尊敬しあう者同士が殺しあうなんて、とても辛いことだろうし、敵だからと言う理由だけで憎みあうことって、本当は不自然なことなんですよね。僕は、羊祜と陸抗が戦うことにならなくて本当に良かったと思います。しかし、残念なことに、二人ともこの後すぐに病死しています。それに対して、孫皓は呉の滅亡後にも生き残り(しかも、晋から爵位まで与えられて)、何の苦労もなく寿命を全うするんですよね。本当に理不尽な話だと思います。美談の影にも、そういう釈然としない後日談があるわけですね。

悲劇の少年皇帝

日本史で「壇ノ浦の戦い」という合戦がありますね。いわゆる「源平合戦」の最後の戦いであり、この敗戦により平家は滅亡します。NHK大河ドラマの「義経」でも描かれていましたね。

この戦い中で、平家の敗北が確定的になり、猛将として知られる平教経は、命運尽きたと悟って海に身を投げて果てます。その後、八歳の幼帝、安徳天皇と母の建礼門院、祖母の二位ノ尼も相次いで入水し、それを見とどけた平家の人々は、涙ながらに次々と入水していきました。「平家物語」のクライマックスであり、最も悲劇的な場面ですよね。

これより少し後の時代、これと似たことが大陸でも起こりました。11世紀のことで、「壇ノ浦の戦い」より約100年後の話になります。中国では、モンゴル帝国のチンギス・ハンの孫の一人であるフビライが女真族の金を滅ぼし、元の皇帝として即位します。しかし、中国の南方では、まだ宋(南宋)という国が残っており、抵抗を続けていました。しかし、強大な元の軍事力の前では、まさに風前の灯であり、だんだん追い詰められていきます。

この時、最後まで抵抗活動を続けていた三人の優秀な人物がいました。「南宋の三大忠臣」と呼ばれるようになった文天祥張世傑陸秀夫の三人です。この中の陸秀夫は、張世傑と共に船団を率いて、幼い皇帝をつれ、崖山と言うところまで落ち延びますが、そこで元の水軍に包囲されてしまいます。陸秀夫は、幼帝にもう最後であることを告げ、紐で自分の体と幼帝の体を結び、海に身を投げました。張世傑は、その後も船団を率いて戦い続けようとしますが、程なく暴風雨にあい、船が転覆して死んでします。文天祥は、元の捕虜となりますが、最後まで臣従を拒み、処刑されてしまいました。こうして、宋は滅亡しました。

宋の最後の皇帝は、衛王・趙ヘイと言います。普通、中国の皇帝には、「〜帝」と諡(おくりな)があり、その皇帝の評価とも言えるものなんですが、幼くして死んだ衛王にはそれすらありません。陸秀夫に死を告げられたとき、素直にそれに従ったと言われています。衛王は、一羽の雉のような白い鳥を飼っていて、可愛がっていたのですが、衛王が入水した後、その後を追うように鳥籠ごと海に落ちて入ったそうです。幼い皇帝の死を鳥も哀れんでのことでしょうか・・・偶然の一致か、この時の衛王の年齢は、安徳天皇と同じく八歳でした。国の滅亡に際して、何の責任もあろうはずのないこの少年皇帝の死は、可哀想と言う言葉で片付けられるほど単純ではない、あまりにも悲惨な歴史的事実ですね。

神の鞭

4世紀後半、ヨーロッパでは、ローマ帝国の発展が終わりをみせようとしていました。帝国がその統一を守りきれず、東西に分裂したうえに、ゲルマン民族が領内に侵入してきたのです。いわゆる「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれる事件ですね。ゲルマン人たちは、何も好き好んで移動したわけではなく、移動せざるを得ない理由がありました。その理由とは、黒海の北から突如現れた遊牧民のフン族の西進でした。つまり、ゲルマン人たちは、フン族に押し出される形でローマ帝国に侵入したということになります。

はじめ、ローマ帝国とフン族との関係は良好でした。お互いゲルマン民族という共通の敵がいましたし、「敵の敵は味方」ということで、ローマ帝国はフン族を頼りになる同盟者と思っていました。しかし、その同盟も対等なものではなく、ローマ側はフン族に対して多額の安全保証金のようなものを支払っていました。特に西ローマ帝国は、領内をゲルマン民族に蹂躙され、まさに瀕死の状態でしたので、フン族との同盟によって首の皮一枚でつながっていたとも言えるでしょう。ところが、フン族は突然、ローマに牙をむくようになりました。

遊牧民によくあることですが、一人の強力な指導者が現れて国内が統一されると、恐ろしく精強な軍隊が組織され、他国を荒らしまわるということがあります。五世紀前半、フン族には、「神の鞭」ことアッティラという類まれな指導者が生まれました。アッティラは、伯父であったフン族の王ルアの死後、弟のブレダとともにフン族の指導者的立場となりました。この頃、東西ローマ帝国は、フン族への保証金を出し渋るようになりました。アッティラは激怒し、まず、東ローマのバルカン半島方面を攻撃します。その後、弟のブレダを殺害し、単独の指導者となったアッティラは、なぜかその矛先を西ローマ帝国にむけ、破壊と略奪を繰り返しました。

西暦451年、アッティラに率いられたフン族は、ライン川を渡り、ロワール川中流のオルレアンに現れます。そして、オルレアンの救援にきた西ローマの頼みの綱、アエティウス将軍率いるローマ軍(と言っても、ゲルマン人傭兵の混成部隊と、ゲルマン民族の西ゴート王国軍との同盟軍でした)とカタラウヌムの野で激しく激突します。ローマ側は、西ゴート王テオドリック1世が戦死するというほど激しい損害を被りますが、はじめてフン族に勝利することができました。世に言う「カタラウヌムの戦い」ですね。

この戦いで、フン族は本拠地のハンガリー方面に撤退しますが、それほど大損害を受けていなかったと思います。その後も東ローマに侵攻していますし(教皇レオ1世の説得に応じ、撤退していますが)、なによりもアッティラが無傷でした。しかし、この一大国家は、短期間で崩壊していきます。ある時、アッティラは一人の美女を娶ります。その祝いの席の後、部屋で二人きりになった時、アッティラは泥酔して大量の鼻血を流し、その血液によって溺死したと言われています。病死(脳溢血)という解釈になっていますが、暗殺の可能性も高いと思います。いずれにしろ、あまりにもあっけない最後でした。

フン族の起源については、ほとんど明らかにされていません。アジア系の遊牧民族で、おそらくトルコ系であり、中国の北方国境をたびたび脅かした匈奴と同一の部族であるとの説があります。他人種との混血の結果、現在のハンガリー人になったとのことです。その風俗などもあまり分かっておらず、本当に謎の民族ですね。アッティラ自身も「獣のようだ」とか「角が生えている」などの人間離れした噂が残るのみで、全く謎の人物です。しかし、その存在が「神の鞭」のごとく、当時のローマ人たちにとって、天罰とも思えるほど鋭い打撃であったことには違いないでしょう。
鄭成功という人物をご存知ですか?中国の明の時代の末期の武将です。日本では、だいたい江戸時代の初期で、三代将軍家光の時代になりますね。

鄭成功のお父さんは中国人で、鄭芝竜といいます。鄭芝竜は、なかなか豪放な感じの人で、貿易商人なんですが、密輸や海賊行為なども行っていました。この人が日本の平戸に来て、田川氏の娘の松という女性と結婚します。この松さんという人もすごい人で、妊娠中に海で貝拾いをしていたところ、産気づいてそのまま岩にもたれかかって出産したそうです。その時、生まれたのが鄭成功です。つまり、中日のハーフということになりますね。

鄭成功は、7歳まで日本で過ごしますが、その後、父と共に中国大陸に渡り、南京の大学で学びます。この時はまだ明の時代でしたが、李自成という人の反乱が起きて北京が陥落し、皇帝が自殺して明は滅亡してしまいます。その時、鄭芝竜は皇族の一人を助けて、亡命政権を作ります。李自成は、皇帝になりましたが、あっという間に女真族の軍隊に滅ぼされてしまいました。そして、女真族が建国したのが清という国でした。鄭芝竜が助けた皇族は、即位して隆武帝となります。鄭芝竜は、隆武帝を擁立して、清に対して抵抗運動を行い、鄭成功もそれに参加しました。しかし、清の軍隊と戦ってボロ負けになり、隆武帝も殺されてしまいます。

この時、鄭芝竜は、もうダメだと思って清に降伏してしまいますが、鄭成功はそれに逆らいました。そして、明の皇族の末裔が皇帝を自称して各地で転戦していたので合流し、これを奉じて抵抗運動を続けました。この時、日本の徳川幕府にも援軍を求めましたが、家光は拒否したそうです。その後、清との戦いに何度か勝利し、一度などは南京まで攻め上りますが、ここで大敗してしまいました。鄭成功は、軍の立て直しを図るため、台湾へ落ち延びます。当時、台湾はオランダ領で、ゼーランディア城とプロヴィンシア城という二つの拠点がありました。鄭成功は、二つとも陥落させ、台湾全土の占領に成功します。この時、清は鄭芝竜を降伏の使者として送りますが、失敗したため鄭芝竜は処刑されてしまいました。鄭成功は、台湾で抵抗運動を再開させようとしますが、残念なことに若くして病死してしまいます。その後、鄭一族によって抵抗運動は引き継がれますが、結局、清によって滅ぼされてしまいました。

鄭成功は、隆武帝から国姓である朱姓を賜ったことから、「国姓爺」と呼ばれ、台湾では国家的英雄として扱われており、非常に人気があります。また、中国本土でも人気があるようですね。「中国に反抗した人物がなぜ中国で人気があるんだ?」と思われるかもしれませんが、清朝は異民族の女真族が統治していた国家なので、漢民族の国家である明の遺臣として戦った鄭成功は「あっぱれだ」というわけですね。また、明への忠誠や不屈の精神は武士道にも通じるところがあり、いかにも日本人が好みそうな人物で、母親が日本人であるということもあり、やはり日本でも人気がありますよね。

このように、中日混血児の鄭成功は、今でも中日台の三国で愛されているヒーローであると言えますね。

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